竜は侮られても、謀までは見誤らなかった
嗅ぎ煙草の悪戯でコウノトリに変じたカリフ・シャジットと宰相マンスールは、沼地で「怪物」と恐れられる竜と出会う。求婚を拒んで竜に堕とされた王女ルーザこそが、宮廷を狙う魔術師カシュヌールの陰謀を誰より見抜いていた――間抜けな二羽を導いたのは、怪物と呼ばれた竜の知略だった。
一 行商人の嗅ぎ煙草
バグダッドの宮廷には、退屈という名の病があった。
カリフ・シャジットは、その病にかかった患者の中でも、とりわけ質の悪い一人だった。朝の謁見では欠伸を噛み殺し、昼の裁きでは判決を宰相マンスールに丸投げし、夕刻ともなれば露台に出て、ただ茜色に染まる街並みを眺めるだけの日々を送っていた。噴水の水音も、遠くの市場のざわめきも、耳に届くころにはすっかり色を失い、ただの雑音になって消えていく。戦もなく、飢饉もなく、隣国との盟約も滞りなく結ばれている。国が平穏であることは、為政者として誇るべきことのはずだったが、シャジットにはその平穏さえもが、退屈という重石になって胸にのしかかっていた。
「マンスールよ。何か、面白いことはないか」
露台に控える宰相へ、シャジットは何度目とも知れぬ問いを投げた。マンスールは白髪の交じった顎鬚を撫でながら、困った顔をこしらえる。この主君の「面白いこと」への渇望は、若い頃からの持病のようなものだった。国事にかけては誰よりも冷静な判断を下すこのカリフが、退屈にだけは、いつまでも子どものように弱かった。
「陛下。面白きことをお求めなら、まずは滞った訴状の山からお片づけになるのがよろしいかと。灌漑用水の境界争いが、東の村と西の村の間で三月越しにこじれております」
「それこそ退屈の権化ではないか。境界の石をひとつ動かすだけの話に、なぜ三月もかかる」
シャジットは玉座の肘掛けに頬杖をつき、天井の細密な唐草模様を、もう幾百遍と数えたであろう視線でなぞった。かつては戦の噂ひとつにも胸を高鳴らせた少年だったが、即位して十年、都には諍いひとつ起きぬ日々ばかりが続いている。臣下たちは口を揃えて「陛下の御代は太平にございます」と讃えるが、その太平の中身は、シャジット自身にはただ薄く引き延ばされた同じ一日の繰り返しにしか感じられなかった。
そう吐き捨てたところへ、取り次ぎの小姓が息を切らして駆け込んできた。額に汗を浮かべ、声を弾ませている様子から、余程のことがあったのだと知れた。
「陛下、市の広場に、異国の行商人が珍しい品を並べております。東の山々を越えてきた者だとか。しかも――」
小姓は声をひそめた。
「北の沼地に、近頃また怪物が出るという噂も、その者が運んでまいりました。夜ごと沼のほとりで、燐光のような光を放つ影を見た、と近隣の村人が。羊が一頭消えたのも、その怪物の仕業ではないかと、皆が怯えております」
怪物、という言葉に、シャジットの気だるげな眼に、ひさびさの光が宿った。境界争いの陳情書よりも、よほど心を躍らせる響きだった。マンスールは眉をひそめたが、主君の好奇心に水を差すのは、もはや諦めていた。付き添いの近衛を退け、二人は供も連れず、市井の商人らしい粗末な外套を纏って、忍びの姿で市へと降りていった。
夕暮れの広場は、まだ人の熱気が残っていた。香辛料と焼いた肉の匂い、絨毯商の呼び込み、子どもたちの笑い声。埃をかぶった敷物の上に、しなびた小男が座り込んでいるのが目に留まった。並べられた品はどれも古びた雑貨ばかりだったが、その中に一つだけ、黒漆塗りの小箱があった。灯りに照らされたその漆の面には、見慣れぬ紋様が金泥で描かれている。
「これは何だ」
シャジットが指さすと、行商人セレムと名乗る男は、にんまりと笑って蓋を開けた。中には、灰色の粉が詰まっていた。
「これは万物変化の粉にございます。ひとつまみ嗅ぎ、望む獣の名を唱えて『ムタボール』と一言。たちまち、その獣の姿になれましょう。人に戻りたくなれば、東に向いて三度頭を垂れ、再び『ムタボール』と唱えるだけ。ただし」
セレムはそこで声を落とした。周囲の喧騒がふっと遠のいたような気がした。
「変化の最中に、決して笑ってはなりませぬ。笑えば呪文をお忘れになり、獣の姿のまま、生涯を終えることになりましょう」
マンスールは眉根を寄せて、そのような胡乱な話を信じる愚を諫めようとしたが、シャジットはすでに小箱を懐に収め、セレムの言い値のままに銀貨を数枚投げていた。退屈を吹き飛ばす玩具を見つけた子どものような顔で、彼は足早に宮殿への道を戻り始めていた。振り返ったマンスールの目に、雑踏の陰から自分たちを見つめる、瘦せた長身の男の姿が一瞬だけ映った気がしたが、人波に紛れてすぐに見えなくなった。気のせいだろうと、宰相はそのときはまだ思っていた。
二 鸛になった二人
その夜、露台に二人きりになると、シャジットは待ちきれぬ様子で小箱を取り出した。月は薄く欠け、庭園の糸杉の梢を、青白い光がふちどっていた。
「マンスールよ、試してみようではないか。何になろうか」
「陛下、お戯れが過ぎます。もし本当に人ならざる姿のまま戻れなくなったら――」
「臆病風に吹かれたか。ならば余ひとりでやってみせよう」
そう言われては、宰相としての矜持が黙っていなかった。マンスールは渋々ながら、主君の隣に膝をついた。露台の欄干越しに見下ろす庭園の池には、この時季になると必ず数羽の鸛が舞い降りる。あの飄々とした足取りと、優雅に空を渡る翼が、二人には気楽そうに映ったのである。
「あの鸟の真似事など、造作もあるまい。羽ばたいて、池のほとりを気取って歩けばよいだけのことだ」
粉をひとつまみ、鼻先に寄せる。刺すような、それでいてどこか甘い香りが鼻腔を突いた。
「コウノトリ、ムタボール」
声を揃えて唱えた瞬間、二人の体は羽毛に包まれ、みるみるうちに縮んでいった。骨が軋み、視界がぐるりと回転し、気づけば嘴が伸び、足は赤く細長く変じ、露台の石畳が、はるか高い場所に見えるほどの視点になっていた。手だったものは白い翼になり、羽ばたくたびに夜風が心地よく肌――いや、羽毛の下の皮膚を撫でていく。
「おお、これは、これは……!」
シャジットは自分の声が奇妙な鳴き声に変わっていることに気づき、その響きの滑稽さに、思わず腹の底から笑い出してしまった。長い嘴をかちかちと打ち鳴らしながら大仰に胸を反らす様は、確かに滑稽極まりなかった。慌ててマンスールが「陛下、笑ってはならぬと――」と嘴を動かしかけたが、その姿もまた間の抜けたものだったから、時すでに遅かった。二人はどちらからともなく、互いの珍妙な姿を見て笑い転げ、そのまま呪文の言葉を、脳裏からすっかり洗い流してしまった。
翼を広げてどうにか宮殿の露台から飛び立ったものの、着地する術も分からず、二羽の鸛は不格好に羽ばたきながら、そのまま夜風に流されるように、北の空へと運ばれていった。眼下には、灯りの消えかけた街並みが、小さな箱庭のように遠ざかっていく。行き着いた先は、皮肉にも、あの怪物の噂で持ちきりの沼地だった。
葦の茂る水辺に転がり落ちた二羽は、しばらく身を寄せ合って震えていた。羽の隙間に、冷たい夜露が染み込んでくる。
「マンスールよ、呪文は、呪文は何だったか」
「陛下がお笑いにならねば、私とて憶えていたものを……!」
言い合ったところで、忘れたものは戻らない。夜の帳が下りた沼地は、風が葦を揺らすたびに、ぞっとするような音を立てた。遠くで水鳥の声がし、時折、水面のどこかで何か大きなものが身じろぎするような、鈍い水音が響いた。二羽の鸛は身を縮めて、暗闇の奥をじっと見つめた。宮殿からわずか一時ほどしか経っていないというのに、あの温かな灯りも、絨毯の柔らかさも、途方もなく遠い場所のことのように思われた。
「陛下、これも何かの罰でありましょうか。私は幾度もお諫めしたはずです」
「今それを言うてどうなる。今は、この場をどう凌ぐかだけを考えよ」
そうは言ったものの、シャジット自身、胸の内では冷や汗をかいていた。人の姿であれば取り繕えた威厳も、鸛の姿では葦の一本ほどの役にも立たない。二人はただ、互いの温もりだけを頼りに、夜露に濡れた葦の陰でじっと身を寄せ合っていた。
三 沼の主
不意に、水面が大きくうねった。
葦の間から現れたのは、燐光を帯びた鱗を持つ、巨大な影だった。三日月の淡い光を弾いて、緑がかった鱗がぬめるように輝いている。長い首をもたげ、爛々とした瞳がこちらへ向けられた瞬間、二羽の鸛は羽をばたつかせて逃げようとしたが、恐怖で足がすくみ、その場から一歩も動けなかった。全身の羽毛が、寒さとは違う震えで逆立っていた。
「――待って」
低く、しかし紛れもなく人の言葉が、竜の口から発された。二人は凍りついたまま、竜の姿をまじまじと見つめた。声には、獣の唸りとはまるで違う、澄んだ響きがあった。
「わたしは、あなたたちを傷つけるつもりはありません。ただ、こんな夜更けに人の気配がしたので、様子を見に来ただけです」
竜は緑の瞳を伏せ、静かに水辺に身を沈めた。その仕草には、獰猛さよりも、むしろどこか諦観に似た疲れが滲んでいた。おそるおそる、マンスールが震える声で問うた。
「そなた、口をきけるのか。まさか、噂に聞く沼の怪物とは、そなたのことか」
「怪物、と皆はそう呼ぶようです。羊を喰らったとも、村人を沼に引きずり込んだとも、聞いております。……そのいずれも、身に覚えのないことですが、弁明する相手もおりませんでした。もう慣れました」
自嘲するような響きに、シャジットの胸がわずかにざわめいた。竜は促されるでもなく、ぽつりぽつりと身の上を語り始めた。長い首を葦の上にゆるく横たえ、遠い記憶をたどるように、瞳を月へ向けながら。
「わたしは元は、隣国の王女です。名をルーザと申します。父の宮廷に出入りしていた魔術師カシュヌールに、求婚されたことがありました。あの男の目に宿る欲は、恋のそれとは似ても似つかぬものでした。父の信頼厚い賓客として振る舞いながら、その実、宮廷の書庫にある禁書に幾度も忍び込んでいたことを、わたしは知っていました。断りましたところ、彼は秘術をもってわたしをこの姿に変え、沼地へと追い落としたのです。以来、誰にも正体を明かせぬまま、幾年もここで独り、息をひそめて生きてまいりました」
「そのカシュヌールという名、聞き覚えがある」
シャジットが思わず口を挟んだ。行商人セレムから小箱を買った折、隣にいた別の男が、確かカシュヌールと呼ばれていたのを思い出したのだ。あの男は自分たちの後をつけ、シャジットが小箱を懐にしまうところを、じっと見ていたような気がする。市の雑踏の陰から視線を投げていた瘦せた長身の影が、脳裏でにわかに輪郭を結んだ。
ルーザの瞳に、鋭い光がよぎった。長い首がわずかに持ち上がり、月明かりの中で鱗が音もなく光を弾いた。
「カシュヌールがバグダッドに現れたと仰るのですか。……ならば得心がいきます。あの男が本当に狙っていたのは、我が国の玉座などではない。もっと大きな獲物――バグダッドの宮廷そのものでしょう」
「なぜ、そう言い切れる」
「わたしは沼に堕とされてより、この地に流れ着く旅人や隊商の噂話を、幾度となく聞いてきました。彼らは沼の畔で焚き火を囲みながら、わたしの気配など知りもせず、諸国の噂を語り合っていくのです。カシュヌールが方々の国で、王侯貴族に取り入っては、その座を奪う真似を繰り返していることも、その噂の中で耳にしました。彼の手口はいつも同じです。まず信頼を得るための贈り物を差し出し、その裏で相手の弱みを探り、最後に相手自身の口から、破滅の呪文を引き出させる」
シャジットとマンスールは、思わず顔を見合わせた。粉の入った小箱――それこそが、贈り物という名の罠だったのではないか。夜風が葦原を渡り、遠くの水面をさざめかせた。
四 宮殿の影
「あなた方も、笑って呪文を忘れたのでしょう」
ルーザの声には、咎める色よりも、むしろ見透かすような静けさがあった。
「それこそが、カシュヌールの狙いです。あの粉には、笑いを誘う仕掛けが仕込まれています。獣の姿のまま呪文を失わせ、玉座を空けさせる。カリフが忽然と姿を消せば、宮廷は乱れ、次に誰が実権を握るか――余所者でありながら、あの男はすでに数多の重臣に取り入っているはずです。物腰穏やかな賓客の顔の下で、じわりじわりと根を張っていく。わたしの父の宮廷も、そうやって蝕まれかけたのです」
「では、どうすればよい。余たちは、この不格好な姿のまま、飛び去ることしかできぬのだぞ」
シャジットの声には、初めて聞くような焦りが滲んでいた。ルーザはしばし瞳を閉じ、それから静かに言った。
「呪文の言葉は、カシュヌール自身が独り言のうちに漏らす癖があります。以前、彼がわたしに秘術を仕掛けた折にも、勝ち誇るあまり、独りごちるように呪文を口にしていました。あの男は、己の智謀に酔う質なのです。今宵、宮殿に忍び込めば、あるいはまだ、その独り言を拾えるやもしれません」
「そなたが、案内してくれるというのか」
「わたしはこの姿でも、夜目が利き、飛ぶこともできます。人の目を欺いて宮殿の高楼まで至る道も、幾度となく思い描いてまいりました。……そのときが来るとは、思いませんでしたが」
ルーザの声には、かすかな笑みが混じっていた。恐れられ、孤独に耐えてきた歳月の底に、まだ諦めきれない何かが残っていたのだろう。マンスールはその横顔を見つめながら、市中で「怪物」と呼び囃されるこの竜が、自分たちよりもよほど沈着に、事の全貌を見通していることに、内心舌を巻いていた。
三者は夜霧に紛れて宮殿へと向かった。竜の背には二羽の鸛が身を寄せ合い、月明かりの届かぬ裏路地の上空を、音もなく滑るように進んでいく。眼下を流れる街の灯りが、ルーザの鱗にちらちらと映り込んでは消えていった。宮殿の奥、カシュヌールに与えられた客間の窓辺に、ルーザはそっと舞い降りた。羽ばたきの音すら、彼女は完全に殺していた。
窓の隙間から覗き込むと、燭台の灯りの下、カシュヌールが一人、酒杯を傾けながら、上機嫌に独りごちていた。整った顔立ちに浮かぶ笑みが、灯りの陰影のせいか、ひどく歪んで見えた。
「愚かなカリフよ。今頃はどこぞの沼地で、鸛のまま無様に足掻いておろうな。あと三日もすれば、カリフ不在を理由に摂政の座を要求してくれよう。宰相の座に据えた腹心はもう手なずけてある。誰も気づくまいよ、あの粉に仕込んだ呪文が『ムタボール』の音を歪める仕掛けだったなどとは……あの女もそうだ。ルーザとかいう小娘も、竜の姿で朽ち果てるまで、誰にも真実を語れまい」
その名を耳にした瞬間、窓辺のルーザの瞳が、燭台の灯りよりも鋭く光った。だがそこまで聞いた刹那、廊下に足音が響いた。夜回りの近衛兵が、窓辺の異様な影に気づいたのだ。
「何者だ、そこにいるのは!」
誰何の声とともに、松明の炎が走り寄ってくる。ルーザは咄嗟に翼を広げ、あえて廊下側へと身をさらけ出した。二羽の鸛を、自らの体で窓の陰にかばうようにして。
「わたしを追いなさい。あなた方は、今のうちに」
囁くと同時に、竜は大きく咆哮を上げ、庭の方角へと飛び去っていく。近衛兵たちの松明が、一斉にその影を追って走り出した。窓辺に残された二羽の鸛は、震えながらも、今このときのために、聞き取ったばかりの言葉を互いに確かめ合った。
「ムタボール、だな」
「間違いない。だが――ルーザは」
窓の外、庭の木立の向こうから、剣戟に似た音と、竜の低い唸り声が響いてくる。囮となったルーザが、追い詰められているのだ。シャジットの胸に、これまで感じたことのない焦燥が突き上げた。この沼の主が、自分たちを助けるために、再び傷つこうとしている。誰よりも聡明に立ち回ってみせたこの竜を、ここで見捨てるわけにはいかない。その思いだけが、羽根の隅々にまで満ちていくのを、シャジットは感じていた。
五 三つの影、月にかえる
シャジットとマンスールは、窓枠を蹴って庭へと飛び出した。カシュヌールもまた異変に気づき、寝間着のまま廊下を駆けてきたところだった。
木立の陰、槍を構えた近衛兵たちに囲まれ、ルーザは逃げ場を失いつつあった。長い尾で地面を打ち、威嚇するように咆哮を上げてはいるが、その動きには、深追いを避け、時を稼ごうとする冷静さが見て取れた。瞳に絶望の色はなかった。囮としての役目を、最後まで果たし切る覚悟だけがあった。
シャジットは羽ばたきながら、月に向かって声を張り上げた。ことの真偽を確かめる暇も、悠長な作法も、もはや必要なかった。
「人間、ムタボール!」
続けてマンスールも唱えた。二人の姿は瞬く間に元の人の姿へと戻り、寝間着のままの二人を目にした近衛兵たちが、驚愕に槍を取り落とした。
「陛下……!? しかし、その、鸛が――」
「その鸛が余だ。詳しい仔細は後で語ろう。今はまず、そこな竜を傷つけることまかりならぬ!」
カリフ自らの一声に、近衛兵たちは槍を引いた。カシュヌールの顔から、みるみる血の気が引いていく。震える指先が、寝間着の襟をきつく握りしめていた。
「馬鹿な……なぜ、姿が戻って……粉の仕掛けは、決して解けぬはずだ」
「そなたの独り言のおかげだ、カシュヌール」
シャジットは静かに歩み寄った。もはや退屈を持て余していた男の声ではなかった。
「そなたが方々の国で繰り返してきた企みも、この竜――隣国の王女ルーザ殿から、すべて聞かせてもらった。誰よりもそなたの正体を見抜いていたのは、そなたが怪物と呼び、沼地に追いやった当の相手だったというわけだ。そなたは相手を侮ることに慣れすぎて、自分の獲物が、自分を丸ごと見透かしていることに、最後まで気づかなかった」
カシュヌールは踵を返して逃げようとしたが、事情を悟った近衛兵たちに、あっという間に取り押さえられた。連行されていくその背に、もはや先ほどまでの傲慢な独り言はなかった。ただ、信じられぬものを見るような目で、ルーザの方を一度だけ振り返った。その視線を、ルーザは静かに、しかしまっすぐに受け止めていた。
騒ぎが収まった庭に、静かな夜気が戻ってくる。ルーザは深手こそ負っていなかったが、鱗のあちこちに擦り傷が残っていた。シャジットは自ら彼女の前に膝をついた。
「ルーザ殿。そなたを長らく怪物と呼び、恐れてきた人々に代わり、詫びを言わせてほしい」
「詫びなど、要りません」
ルーザは、初めて見せる穏やかな声で答えた。長い首をわずかに傾げ、傷ついた前肢をそっと折りたたむ。
「わたしはただ、誰かに――怪物ではなく、ひとりの者として、扱われたかっただけなのです。沼地でこの姿のまま朽ちていくのだと、幾度も思いました。誰も本当のわたしを見てはくれない。そう諦めかけていたところに、あなた方が笑いながら落ちてきた」
その言葉に、シャジットは思わず苦笑した。あの間抜けな笑いが、巡り巡って今宵の顛末を招いたのだと思うと、可笑しさと申し訳なさとが同時にこみ上げてくる。
「ならばこれより、そなたを我が友として、また隣国の王女として遇したい。呪いを解く術があるかは、まだ分からぬが、余の宮廷に伝わる書庫を、存分に使うがいい。カシュヌールの秘術の記録もそこにはあるはずだ」
翌朝、宮殿の書庫には、灯りが夜通し消えなかった。カリフ自ら埃をかぶった古書をめくり、宰相マンスールが竜の言葉を書き留め、ルーザがかつて学んだ秘術の知識を惜しみなく差し出す。三者三様の影が、燭台の光に照らされながら、一つの卓を囲んでいた。窓の外が白み始めても、誰も席を立とうとはしなかった。
数日後、ようやく見つかった古い呪文書の一節により、ルーザの鱗は少しずつ人の姿を取り戻していった。完全に戻るまでにはなお時を要するというが、その顔にはもう、沼地でひとり息をひそめていた頃の翳りはなかった。宮廷の女官たちは、はじめこそ竜の姿に怯えていたが、ルーザが静かに礼を尽くして接するうち、いつしか自らその部屋へ茶を運ぶようになっていた。
バグダッドの都には、以来こんな話が伝わっている。もっとも賢く、もっとも国を救ったのは、カリフでも宰相でもなく、かつて怪物と呼ばれ恐れられていた、あの沼の竜であった、と。人々は誰かを恐ろしいと言い立てる前に、その姿の奥にあるものを、まず見定めねばならぬのだと。
シャジットは、その後もときおり退屈を持て余すことがあったが、以前のような虚しさは、もう感じなくなっていた。露台に立ち、北の空を見上げるとき、そこにはいつも、かつて沼地の孤独を照らしていたのと同じ月が、静かに浮かんでいたからである。そしてその月の下、書庫の灯りは、今宵もまだ消えていない。
やがて月日が流れ、ルーザが完全に人の姿を取り戻す日が訪れた。隣国からの使者が正式に彼女を迎えに訪れたとき、宮廷の者たちは誰ひとりとして、この麗しい王女がかつて沼地で怪物と呼ばれていたことを、疑いすら抱かなかった。ただシャジットとマンスールだけが、彼女の背筋の伸ばし方や、遠くを見るときの瞳の色に、あの夜の竜の面影を見出しては、密かに微笑むのだった。ルーザは二国を行き来する客として、その後も幾度となくバグダッドを訪れ、退屈を持て余すカリフに、思いがけない知恵を授けていったという。