物語雳
← 小説一覧へ
·読了目安 14分脇役

竜は青を拒まなかった

海の青をどうしても描けない少年は、同級生ジムの幼竜が落とす鱗の粉だけが持つ「本物の海の青」に憧れ、ある日その小袋を盗んでしまう。露見し竜舎へ連れて行かれた少年を待っていたのは、罰ではなく静かな赦しだった。

一 潮騒の学校、幼竜のものがたり

海の色を、僕はどうしても描けなかった。

あれは、僕がまだ十二になったばかりの頃の話だ。潮見坂の中腹に建つ、異国風の白い壁をした学校に通っていた。窓を開けると、教室のどの席からも湾がまっすぐに見渡せて、天気のいい日には水平線まできらきらと光の粒が敷き詰められているように見えた。休み時間のたびに、僕は窓辺に頬杖をついて、その青をどうやって絵の具で写し取ればいいのか考えていた。

僕の絵の具箱は、決して立派なものではなかった。母が古道具屋で見つけてきた、色のくすんだ十二色の絵の具は、混ぜれば混ぜるほど濁った鼠色に近づいていくばかりで、いくら海の絵を描いても、目の前に広がる本物の海とはまるで似ても似つかない、泥のような水たまりにしかならなかった。それが悔しくて、僕は幾度も絵筆を放り出しては、また拾い上げるということを繰り返していた。

学校の裏手には、渡り廊下を挟んで小さな竜舎があった。海沿いの学校にはめずらしくないことだと聞いていたが、僕らの学校の竜舎には、去年の春に孵ったばかりの幼竜が一頭、大切に飼われていた。名を藍(あい)といった。生まれたときから鱗の色が深い藍色をしていたので、そのまま名付けられたのだという。

竜という生き物を、僕は最初、どこか恐ろしいものだと思い込んでいた。祖母から聞かされた昔話には、村を焼き払う荒々しい竜や、宝を溜め込んで誰にも渡さない強欲な竜ばかりが登場したからだ。けれど、実際に竜舎を覗いてみると、そこにいたのは、まだ人の背丈にも満たない、丸みを帯びた体つきの幼竜だった。藁の上で丸くなって眠っている姿は、むしろ大きな仔犬に近い愛らしさがあった。この竜が、いつか村を焼くほどの大きさに育つとは、当時の僕にはとても信じられなかった。

藍の世話は、代々学校に竜を寄進してきた家の息子であるジムが一手に引き受けていた。餌をやり、寝床の藁を替え、朝夕には海沿いを短く飛ばせてやる。休み時間になると、ジムはいつも真っ先に竜舎に駆けていって、藍の首筋を撫でながら何ごとか話しかけていた。その様子を、僕は窓越しに、いつも少し離れたところから眺めていた。

噂では、藍は脱皮のたびに、深い藍色の鱗を惜しげもなく落とすのだという。しかもその鱗を砕いて粉にすると、海そのものをすくい取ってきたような、誰も見たことのない青の顔料になるのだと聞いた。市場に出回るどんな絵の具にも、あの青だけは出せない。ジムの家がその粉を独り占めしているのは、竜を大切に世話する家の当然の役得だから、と誰も文句を言う者はいなかった。

僕はまだ、その青を近くで見たことがなかった。けれど、いつか自分の手であの青を使って海を描いてみたいという思いだけは、日に日に強くなっていった。それは単なる憧れというより、もっと切実な、喉の奥がひりつくような渇きに近いものだったと、今になって思う。

家に帰れば、母は針仕事の内職に追われていて、絵の具をねだる余地などどこにもなかった。僕の家は、この学校に通う子供たちの中では決して裕福な部類ではなく、月謝を納めるだけで精一杯だった。それでも母は、僕が絵を描くことだけは咎めなかった。「好きなことがあるのは、幸せなことだよ」と、繕い物の手を止めずに言うのが常だった。その言葉に励まされて、僕は幾度も海を描こうと試みたが、出来上がるのはいつも、灰色がかった、生気のない水たまりのような絵ばかりだった。

竜舎の脇を通るたび、藍はこちらに気づくと、太い首を伸ばしてじっと僕を見つめてきた。金色がかった瞳には、人を値踏みするような色はなく、ただ静かにこちらの姿を映しているだけだった。僕はその視線に気づくたびに、なぜか少し落ち着かない気持ちになって、逃げるように足を速めた。あの頃はまだ、それがどういう意味を持つ視線なのか、僕には分かっていなかった。

ある日の夕方、誰もいなくなった校庭の隅で、僕は画板を抱えたまま、いつまでも湾を見つめていた。日が傾くにつれて、水面の色は刻一刻と変わっていった。橙色に染まったかと思えば、次の瞬間には深い紫がかった藍に沈み、やがて夜の帳が降りる寸前の、あの何とも言い難い濃い青へと移ろっていく。僕はその一瞬一瞬を絵筆で捉えようとしたが、絵の具箱の中の色はどれもその変化についていけず、紙の上ではただ濁っていくばかりだった。悔しさのあまり、僕は画板を膝の上に伏せて、しばらく動けなくなった。

二 ジムと竜舎、蒼い鱗の粉

ジムとは、もとはそう仲の悪い間柄ではなかった。入学したばかりの頃は、二人で港に係留された帆船を眺めながら、船の名前を当てっこして遊んだこともある。ジムは異国の血を引く家の子で、僕とは言葉遣いも着ているものも少し違っていたが、絵を描くことが好きだという一点で、僕らは自然と近づいていった。放課後、二人で連れ立って竜舎を覗きに行き、まだ卵の殻を割ったばかりの藍が、覚束ない足取りで藁の上をよちよちと歩き回るのを、飽きもせず眺めていたこともある。あの頃は、ジムが藍を独り占めしているという感覚も、僕がそれを妬ましく思う感覚も、まだどこにもなかった。

けれど、藍が孵り、脱皮のたびに鱗を落とすようになってから、僕らの間には少しずつ、薄い膜のようなものが張られていった。ジムが藍の鱗の粉で絵を描くようになると、その絵はどれも教室の壁に貼り出されるほどの出来栄えになった。特に海を描かせれば、ジムの絵だけが本物の海そのものの色をたたえていた。

「これはね、藍が僕にくれたんだ」

ジムは絵の具皿に残ったわずかな藍色の粉を見せながら、誇らしげにそう言ったことがある。悪意のある言い方ではなかった。ただ純粋に、自分の竜を自慢したいだけだったのだと思う。だが、その言葉を聞くたびに、僕の胸の奥では、名付けようのない黒い感情がじわりと滲んだ。

図画の時間、先生は生徒たちの絵を一枚ずつ手に取っては、丁寧に講評をしてくださった。僕の描いた海の絵の番になったとき、先生は少し困ったように微笑んで、「色の重ね方が、まだ迷っているようね」とだけおっしゃった。優しい言い方だったが、それがかえって僕の胸を刺した。すぐ後に取り上げられたジムの絵には、教室じゅうからため息にも似た感嘆の声が上がった。藍色の海の上を、白い帆船が滑るように進んでいくその絵は、まるで窓の外の本物の湾をそのまま切り取ってきたようだった。

「まるで海そのものだわ。この青は、どうやって作ったの」

先生の問いに、ジムは得意げに答えた。

「藍の鱗の粉です。脱皮のあとに残るやつを、少しだけ砕いて」

教室の後ろの壁に貼り出されたジムの絵は、それから幾日も、生徒たちの憧れの的になった。休み時間のたびに誰かがその前で足を止め、「本物の海みたいだ」「触ったら濡れているんじゃないか」などと囁き合っているのが、僕の席からも聞こえてきた。そのたびに、僕は自分の絵を提出しなかったことを、密かに安堵していた。もし並べて貼り出されていたら、僕の絵の惨めさが、なおのこと際立っていただろうから。

その日の帰り道、僕はひとり、桟橋の突端に座り込んで、ずっと海を睨みつけていた。手元の絵の具箱を開けても、そこにあるのはやはりくすんだ色ばかりで、どう混ぜ合わせても、あの深い藍色には近づきもしなかった。海はすぐそこにあるのに、その色だけがどうしても僕の手からすり抜けていくようだった。日が沈みかけ、辺りが薄闇に包まれていくのも忘れて、僕はいつまでもそこに座り込んでいた。

竜舎に立ち寄ると、藍はちょうど脱皮を終えたばかりらしく、地面に落ちた古い鱗の欠片を、ジムが丁寧に拾い集めているところだった。小さな革の巾着に鱗の欠片を収めながら、ジムは僕に気づくと、屈託なく笑いかけてきた。

「今度の週末、これを砕いて粉にするんだ。今月の絵の題材は『故郷の海』だろう。この粉があれば、きっと一番いい絵が描ける」

ジムの声には、何の悪意もなかった。ただ、自分の幸運を素直に喜んでいるだけだった。それが分かっているからこそ、僕は何も言い返せないまま、曖昧に頷いて竜舎を後にした。巾着の中で乾いた音を立てる鱗の粉の気配が、いつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。

三 盗んだ夜、露見

その日の放課後、教室にはもう誰も残っていなかった。僕は忘れ物を取りに戻ったふりをして、こっそり教室の隅にあるジムの机に近づいた。引き出しの奥に、あの革の巾着があるのは知っていた。廊下の向こうから、掃除当番の生徒たちがバケツを鳴らしながら歩いていく足音が聞こえてくる。その音が遠ざかるのを待つあいだ、僕は自分の心臓の音が耳の中で反響するのを感じていた。今ならまだ引き返せる、と頭の隅で誰かが囁いていたが、その声は、あの深い青への渇望の前では、あまりにも小さすぎた。放課後の掃除当番の順番を数えるふりをしながら、僕は自分でも驚くほど落ち着いた手つきで、その巾着を引き出しから取り出していた。

手の中の巾着は、思っていたよりずっと軽かった。それなのに、指先から伝わってくる重みは、僕の胸の底にまでずしりと沈み込んでいくようだった。窓の外では、いつもと変わらず波の音がしていた。その音に急かされるように、僕は巾着を上着の内側に押し込み、逃げるように校門を飛び出した。

家に帰り着くと、僕は誰にも見られないよう、納屋の隅にこもって巾着の口を開けた。中から現れた粉は、薄暗い納屋の中でさえ、はっとするほど深い青をたたえていた。震える指先でその粉を溶いて絵筆に含ませ、古い画用紙に一筆走らせると、そこには確かに、僕がずっと見ていたあの海の色が現れた。

夢中で筆を動かしているあいだ、僕は自分のしたことをほとんど忘れていた。ただ、目の前に広がっていく本物の海の青に、胸が震えるほどの喜びを覚えていた。けれど、絵が仕上がりに近づくにつれて、その喜びの底から、じわじわと冷たいものがせり上がってきた。これは自分の色ではない。盗んだ色だ。分かっていながら、僕は最後の一筆まで、その青を使い切ってしまった。

描き終えた絵を行灯の明かりに透かしてみると、そこには確かに、僕がずっと追い求めていた海があった。だが、その美しさを見つめれば見つめるほど、胸の底の冷たさは重みを増していった。空になった巾着を布団の下に隠し、僕は目を閉じたが、瞼の裏にはジムの屈託のない笑顔ばかりがちらついて、なかなか寝つけなかった。窓の外で鳴る夜風の音までもが、まるで自分を責め立てているように聞こえた。

翌朝、教室に入るなり、いつもと違う空気が僕を包んだ。ジムが机の引き出しを何度も開け閉めしながら、青ざめた顔で友人たちに何か訴えている。

「ない。巾着がない。昨日、確かにここにしまったのに」

僕は俯いたまま、自分の席に着こうとした。だが、指先に残った青い染みに、ふと自分で気づいてしまった。昨夜、いくら洗っても爪の間から取れなかった、あの藍色の粉の跡だった。

「お前、その指――」

近くにいた誰かが、僕の手を指差して声を上げた。その一言で、教室じゅうの視線が一斉に僕に集まった。ジムがゆっくりとこちらを振り向いた。その顔に浮かんでいたのは、怒りよりも先に、信じられないという表情だった。

「まさか、お前が」

僕は何も言えなかった。言い訳を探そうとした頭の中は真っ白で、ただ心臓だけが早鐘のように打っていた。騒ぎを聞きつけた先生が教室に入ってくると、生徒たちは口々に事の次第を告げた。僕は震える足で、教壇の前に引き出された。

四 竜舎の沈黙、赦しの葡萄

てっきり、厳しく叱られるものと思っていた。あるいは、皆の前で恥をかかされるか。僕は歯を食いしばって、その瞬間を待ち構えていた。教室じゅうの視線が突き刺さるように痛くて、僕はいっそ早く罰を受けてしまいたいとさえ思っていた。

けれど、先生は静かに僕の手を取ると、教室の外へと歩き出した。連れて行かれたのは、校長室でも職員室でもなく、渡り廊下の先にある竜舎だった。僕は戸惑いながらも、逆らう気力もなく、ただ先生の後についていった。渡り廊下を歩くあいだ、先生は一言も僕を責めなかった。その沈黙が、どんな叱責よりも重く僕の胸にのしかかった。

竜舎の扉を開けると、藍がゆっくりと首をもたげてこちらを見た。僕は反射的に身をすくめた。竜は人の心の奥にある嘘や悪意を見抜くのだと、以前ジムから聞いたことがあった。盗みを働いた自分を見れば、きっと威嚇するか、あるいは怯えたように後ずさるだろうと思っていた。

ところが、藍は太い首を静かに垂れると、そのままゆっくりと僕に近づいてきた。そして、驚いている僕の頬に、その鼻先をそっと寄せてきたのだった。ひんやりとした鱗の感触と、思いのほか温かい息が、僕の頬をかすめた。

「怖くない?」

先生の声に、僕は声も出せずに首を横に振った。藍の瞳は、竜舎の外で幾度も見てきたときと、少しも変わらない静かな色をしていた。

「竜は、人の嘘や悪意にはとても敏感なの。誰かを傷つけようとする心や、誤魔化そうとする心には、決して近寄っていかない。以前、この子がまだ卵から孵ったばかりの頃、悪戯で驚かせようとした生徒がいたのだけれど、藍はその子には決して近づこうとしなかった。何日も、何日もよ。竜は、そういうことをちゃんと覚えているの」

先生は僕の頭にそっと手を置きながら、言葉を継いだ。

「けれど、本当に美しいものを求める心までは、拒まないのですって。誰かに教わったわけではないけれど、この子を見ていると、そう思わずにいられない。この子には、あなたが何をしたか分かっているはずよ。それでも、あなたを厭うような素振りは、少しも見せていないでしょう。それはきっと、あなたがあの青を、誰かを傷つけるためではなく、ただ美しいものに手を伸ばしたくて盗んでしまったからだと、私は思うの。もちろん、それでも盗みは盗み。決して許されることではないけれど」

僕は俯いたまま、藍の鼻先が触れている頬のあたりが、じんわりと熱くなっていくのを感じていた。目の奥から、堪えきれないものがこみ上げてきて、僕はとうとうその場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。悪いことをしたという自覚と、それでも拒まれなかったという安堵とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙になって溢れ出た。

先生は何も言わずに、僕の背中をゆっくりとさすってくれた。竜舎の中には、藍の吐く息の温かさと、干し草の匂いと、遠くから届く波の音だけが満ちていて、それが不思議なほど僕の心を落ち着かせていった。しばらくして涙が収まると、先生は竜舎の隅に置いてあった籠から、一房の葡萄を取り出して、僕の手のひらにそっと載せた。

「これを持って、今日は帰りなさい。そして、明日もきちんと学校にいらっしゃい。ジムには、あなた自身の言葉で謝るのよ。逃げてはだめ」

葡萄の粒は、夕暮れの光を受けて、藍の鱗と同じような、深く澄んだ色に光っていた。僕は震える手でそれを受け取り、何度も頷いた。藍は最後にもう一度、名残惜しそうに僕の頬に鼻先を寄せると、静かに首を巡らせて、いつもの寝床の方へと戻っていった。

五 翌日、仲直りの色

その晩、僕はほとんど眠れなかった。枕元に置いた一房の葡萄を、幾度も指先で確かめながら、明日ジムにどう詫びればいいのかを考え続けた。翌朝、いつもより早く目を覚まし、重い足取りで学校へ向かった。校門をくぐるのが、これほど怖いと感じたことはなかった。

教室に入ると、ジムはすでに自分の席に着いていた。僕の姿を見て、一瞬、体をこわばらせたのが分かった。僕は真っ直ぐにジムの前まで歩いていき、昨日盗んだ巾着――中身は使い切ってしまったが、せめてもの詫びにと、自分の絵の具を売って買い戻した鱗の欠片を新たに詰めたもの――を差し出した。

「昨日は、悪かった。お前の巾着を盗んだのは、僕だ。あの青が、どうしても欲しかった」

声は情けないほど震えていた。ジムはしばらく黙って巾着を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

「……最初から、そう言ってくれればよかったのに」

「え?」

「僕だって、お前がずっと海の絵に苦労してたのは知ってた。一言、貸してくれって言われれば、少しくらい分けてやったのに」

その言葉に、僕は何も返せなかった。憧れが強すぎるあまり、僕はいちばん簡単な道――正直に頼むという道を、最初から思いつきもしなかったのだ。

昼休み、僕らはいつものように連れ立って中庭のベンチに座った。以前と同じように、ジムは他愛のない話ばかりしたが、その端々に、僕を気遣うような間があるのを感じた。僕もまた、以前ほど素直に笑えているかどうか、自分でも分からなかった。それでも、こうして隣に座っていられることが、昨日まではとても想像できなかったことだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。

放課後、先生に付き添われて、僕らは連れ立って竜舎に向かった。藍は僕らの気配に気づくと、大きな翼を軽くはためかせて、嬉しそうに喉を鳴らした。ジムが藍の首筋を撫でながら、僕にも同じようにしてみるよう促した。恐る恐る伸ばした僕の手のひらに、藍はその頬をすり寄せてきた。ひんやりとした鱗の下から伝わる体温は、あの日、竜舎で感じたものと同じだった。

「今度の脱皮のときは、僕と一緒に鱗を拾おう。粉にするのも手伝ってくれよ。二人分の絵の具になるくらいは、きっとある」

ジムがそう言って笑った。僕は頷きながら、目頭が熱くなるのを堪えるのに必死だった。

数日後、僕はようやく自分の絵の具箱を開いて、海の絵に向き合った。分けてもらった藍色の粉は、ほんのひとかけらだったけれど、それを大切に使い切るように、僕は何度も筆を運んだ。出来上がった絵は、ジムの絵ほど鮮やかではなかったし、本物の海の青にもまだ及ばなかった。それでも、そこに滲む青は、確かに僕自身の手で掴み取った色だった。

その絵を提出した日、先生は何も特別なことは言わなかった。ただ、いつものように一枚一枚に目を通し、僕の絵の番になると、少しだけ眉を上げて、「前より、ずっと自分の色になってきたわね」とだけ呟いた。教室じゅうに聞こえるほどの声ではなかったけれど、それだけで僕には十分だった。壁に貼り出された自分の絵を、休み時間のたびにこっそり見に行くのが、それからしばらくの間の密かな楽しみになった。

あれから随分と時が経った今でも、僕は時折り、あの日の竜舎の静けさを思い出す。盗みを働いた僕を拒まなかった藍の眼差しと、罰の代わりに差し出された一房の葡萄の、あの深い色を。あの頃はまだ、竜が人の心の何を見抜き、何を見逃してくれるのか、ろくに分かっていなかった。今になってようやく、あれは見逃しではなく、赦しだったのだと思う。人の罪をまっすぐに見抜きながらも、なお美しいものを求める心までは拒まなかったあの竜は、今も港町のどこかの空を、悠々と飛んでいるだろうか。そして、あの日と同じ静かな眼差しで、誰かの過ちと憧れを、じっと見つめているのだろうか。

あとがき

有島武郎の『一房の葡萄』は、横浜山手の異人学校を舞台に、同級生の持つ美しい絵の具――とりわけ海を描くための青――に憧れた少年が、誘惑に負けて絵の具を盗み、発覚したのちに担任の若い女の先生から、叱責ではなく無条件の抱擁と一房の葡萄によって赦される、静かな児童文学の名作である。本作では、この「盗みと赦し」という骨格を保ちながら、少年が憧れる対象を、同級生ジムの世話する幼竜が脱皮のたびに落とす、誰も持たない「本物の海の青」の鱗の粉に置き換えた。

原作最大の眼目である、罪を犯した子供を大人が理屈でなく心で受け止める構図は本作でも核に据えつつ、「言葉を持たぬ竜だけが、人の悪意には敏感でありながら、美しいものを求める心までは拒まない」という新しい軸を加えている。竜舎という舞台、藍という竜の存在、少年とジムの友情の描写、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作は有島武郎著『一房の葡萄』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/card211.html)を参考にした翻案作品です。

本作は有島武郎の『一房の葡萄』を参考にした作品です。原典