物語雳
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竜は誰も恨まなかった

片脚を食いちぎった白竜への復讐に取り憑かれた老船長と、後戻りできぬまま巻き込まれる乗組員たち。竜はただ追われるがゆえに牙を剥くだけだった――妄執が招く破滅を描く海洋悲劇。

一 波止場の誓い

海を見ていないと息が詰まる年頃というものが、人にはあるらしい。私――イシュメールという名で、この物語ではひとまず十分だろう――もその口で、懐が寂しくなるたびに陸を捨て、次の航海を探して波止場をうろつく癖があった。その年の冬、私が流れ着いたのは、竜追いの船が集まることで知られる港町だった。

町の空気からして、ほかの漁師町とは違っていた。軒先に吊るされた干物の間に、竜の鱗を削って作った護符が下がり、酒場の壁には仕留めた竜の爪が戦利品として並んでいる。竜の脂から取れる燐光油は、この国のどんな灯りよりも明るく長く燃えると言われ、竜追いの船団はその油と、装飾品として珍重される鱗を求めて、幾月も陸に戻らぬ航海に出るのだという。埠頭に積まれた油樽の匂いが、潮の匂いに混じって町中に漂い、行き交う男たちの外套には、乾いた鱗の欠片が飾りとして縫いつけられていた。

安宿の一室を、見知らぬ大男と相部屋にする羽目になった晩、私は正直、逃げ出したい気持ちになった。褐色の肌に幾何学の刺青を隙間なく彫り込んだ、遠い南の島の出だという銛打ちだった。名をカナロアといった。戸口に立った瞬間、私は悲鳴を上げそうになったが、宿の主人が「あの男は乱暴者じゃない、腕は確かだ」と請け合ってくれたおかげで、どうにか同室に落ち着くことができた。

だが恐れは長く続かなかった。彼は静かに自分の銛を磨きながら、故郷の海と、そこで竜と共に生きる人々の話を訥々と語ってくれた。指の先で鱗のように滑らかな銛の柄を撫でる仕草には、荒くれ者らしからぬ丁寧さがあった。

「私の島では、竜は敵じゃない。海の主だ。漁をする時は、竜の縄張りに断りを入れる。ちゃんと筋を通せば、竜のほうから場所を譲ってくれることもある」

「では、なぜこの国の竜追いに?」

「銛打ちの腕を、試してみたかった。それだけだ。それに、島の外の世界がどんな理屈で竜と向き合っているのか、この目で確かめておきたかった」

カナロアは笑って言ったが、その目の奥には、島を出た者だけが持つ、もっと重たい何かが沈んでいるように見えた。翌朝には、私たちはすっかり打ち解け、共に船を探す仲間になっていた。宿の食堂で分け合った塩漬け魚の朝食も、いつのまにか気の置けない味に変わっていた。

町で雇い入れの相談をしていた私たちに、ある老人が声をかけてきた。日に焼けた顔に深い皺を刻み、片目に眼帯をした老人は、私たちがピークォド号に乗ると聞くなり、顔色を変えた。骨ばった指で私の袖を摑む力は、意外なほど強かった。

「ピークォド号だと。エイハブ船長の船に乗るつもりか」

「船長を知っているのですか」

「知っているとも。あの船長は、もう十年近く前になるか、深海に棲むという伝説の白竜に、右の脚を膝から食いちぎられている。それからというもの、あの人は変わってしまった。竜追いという生業を、いつのまにか復讐の道具にすり替えてしまったのだ。ピークォド号に乗った者は、竜の油を持ち帰ることより先に、船長の妄執に付き合わされることになる。この町では誰もが知っている話だ。だが乗るなと言っても、金に困った若者はいつも聞かん」

老人はそれだけ言うと、まるで自分の言葉に怯えるように足早に去っていった。カナロアと私は顔を見合わせたが、若さゆえの無謀か、あるいはただの意地か、その忠告を胸にしまったまま、結局はピークォド号への乗船を決めてしまった。船を降りるには、もう懐があまりに軽すぎた。

出航の朝、埠頭に立つエイハブ船長を初めて見た。長身で、鋼のような眼光を持つ老人だった。右脚は、白く硬い竜の骨から削り出した義足に置き換わっている。甲板を踏むたびに、コツ、コツと硬い音が響いた。船長は乗組員一人一人を睥睨するように眺め、誰にも笑顔を向けなかった。彼が最後に義足で踏み鳴らした甲板の音だけが、いつまでも耳に残った。見送りの人々の歓声の中で、その音だけが不吉な拍子を刻んでいるように思えてならなかった。

船倉に荷を運び入れながら、私はこの船の来歴をあれこれと聞き知った。ピークォド号はかつて、この国でも指折りの交易船として名を馳せていたという。竜の鱗を薬種問屋に、燐光油を灯台守りの組合に卸し、船主に莫大な利をもたらしてきた船だった。だが十年前にエイハブが右脚を失って以来、航海の実入りは目に見えて先細っていったらしい。船主が船長の首をすげ替えなかったのは、若い頃のエイハブがそれだけの信望を集めていたからだと、古参の水夫は語った。

「昔のあの人は、竜の縄張りを誰よりも正確に読む男だった。無駄な追跡はせず、必要な分だけを狩り、必ず船を無事に港へ戻した。今の船長からは、もうその面影を探すほうが難しい」

その言葉を胸に留めたまま、私は舫い綱が解かれる音を聞いた。

二 凪の日々と竜影

ピークォド号は帆をいっぱいに広げ、港を後にした。最初の幾週間は、拍子抜けするほど平穏な航海だった。一等航海士のスターバックは実直な男で、無駄のない指図で船を回し、竜を見つければ手際よく小舟を下ろして仕留めさせた。獲物にする竜は、いずれも人里離れた海域に棲む中型の個体で、鋭い牙と爪を持ちながらも、船団が近づくと多くは海中深く逃げ去っていった。追い詰められて反撃してくる個体もいたが、それはあくまで身を守るための最後の手段であるように、私の目には映った。

「竜というのは、思っていたより臆病な生き物ですね」

甲板の手すりにもたれて呟いた私に、スターバックは苦い笑みを浮かべた。

「臆病なのではない。無駄な争いを好まないだけだ。奴らは腹が満ちれば人を襲わんし、縄張りを荒らされなければ船を沈めもしない。厄介なのは――」

そこで彼は言葉を切り、船尾で海図を睨む船長の背中に目をやった。

「厄介なのは、竜を人間と同じ理屈で憎めると思い込む、我々の側の性分のほうだ」

その言葉を裏づけるような出来事が、間もなく起きた。ある夕暮れ、まだ経験の浅い見習い水夫が、逃げ遅れた若い竜の子と鉢合わせした。棒切れ一本しか持たない少年に対し、竜の子は威嚇の唸り声を上げただけで、飛びかかりはせず、翼を広げて仲間の待つ海へと去っていった。少年は青ざめた顔で甲板に転がり込んできたが、体には傷ひとつなかった。カナロアはその話を聞いて頷いた。

「本気で殺すつもりなら、あの子竜はとうにお前の首を折っている。竜は、脅すことと殺すことの区別を、ちゃんとつけているのさ」

夜、船倉でカナロアと交わす会話も、次第にその話題に触れるようになった。カナロアは自分の島の竜と、この船が追い立てる竜とを比べて、複雑な顔をした。

「あちらの竜追いは違う。仕留めるにしても、竜の側に非がある時だけだ。ここの連中は、竜が縄張りを守っただけで『凶暴だ』と呼ぶ。船長はもっとひどい。竜が身を守っただけのことを、一生かけて恨み続けている」

赤道近くの湿った海域に差しかかった頃、カナロアが原因不明の高熱に倒れた。船医は匙を投げ、乗組員たちは口々に彼の死を覚悟した。カナロア自身も己の命運を悟ったらしく、島の習わしに従って、自分の棺を作ってほしいと大工に頼んだ。大工が仕上げた棺の板に、カナロアは熱にうかされながらも、震える手で島の紋様――故郷の海と竜の伝承を象った幾何学の模様――を丹念に彫り込んでいった。

「これは死出の船だ。この模様が、私を故郷の海まで導いてくれる」

そう語る彼の声は弱々しく、私は言葉を失ってただ枕元に付き添うことしかできなかった。ところが幾日か経ったある朝、カナロアは憑き物が落ちたように熱から回復した。本人も拍子抜けした様子で、床から起き上がって笑った。

「まだ迎えは来ないらしい。だが、この棺は無駄にはしない」

彼はその棺を頑丈な木箱として使い、道具や糧食を仕舞う場所に変えてしまった。誰もが胸を撫で下ろしたが、この時はまだ、その棺が後に何を意味することになるか、知る由もなかった。

ある日、遠くの海面が青白く発光するのを見た。海霧の向こうに、優美な弧を描いて跳ねる竜の影があった。その鱗はまるで燐光をまとっているかのように、鈍く輝いていた。誰かが「あれが白竜だ」と叫んだが、スターバックはすぐに双眼鏡を覗き、静かに首を振った。

「違う。あれは若い個体の群れだ。深海の白竜は、あんなふうに戯れて跳ねたりはせん」

それでもその一言は、船内に不穏な緊張をもたらすのに十分だった。翌朝、エイハブ船長は珍しく自ら甲板に出て、乗組員全員を集めた。義足の音が、いつもより重く甲板に響いた。

「聞け。この船が追っているのは、脂と鱗のための、ただの竜ではない。深海に棲むと言い伝えられる、鱗が白く、翼の先だけが黒い、老いた巨躯の竜だ。奴は私からこの脚を奪った。奴を見つけた者には、この金貨をくれてやる」

そう言って、船長は一枚の金貨を取り出し、帆柱に自らの手で打ちつけた。乗組員たちの間に、どよめきとも喝采ともつかぬ声が広がった。金貨の縁が西日を受けて鈍く光る様は、まるで船全体を呪縛する印のようだった。カナロアは目を伏せ、私に囁いた。

「あれは餌だ。船長は、我々を竜追いではなく、復讐の共犯者にしようとしている」

スターバックだけが、ただ一人その場に進み出た。

「船長、我々が乗り込んだのはあくまで交易のための竜追い船です。私憤のために船と乗組員の命を賭けることは、船主に対する裏切りに他なりません」

エイハブの目に、一瞬だけ苦悩の色がよぎった。だがそれはすぐに、燃えるような執念に押し流された。

「裏切りだと。ならば言おう、スターバック。私はあの竜に脚を奪われた日から、もう元のエイハブではない。この船も、この命も、あの白い影を仕留めるためだけに存在している。従いたくない者は、今すぐ小舟を下ろして陸へ戻るがいい」

誰も動かなかった。海のただ中で、陸に戻る術など初めからありはしなかったのだ。

三 白い影の噂

幾つかの寄港地で、私たちは白竜にまつわる噂を耳にするようになった。ある港で出会った別の竜追い船の船長は、右腕の肘から先を失っていた。彼はエイハブと旧知の仲らしく、二人きりで長く話し込んだ後、青ざめた顔で自分の船へ戻っていった。私がそれとなく事情を尋ねると、彼は溜め息交じりに答えてくれた。

「あの白い竜は、深海の奥深くに縄張りを持つ、途方もなく歳を経た個体だ。誰も好んで近づいたりはせん。だが、しつこく銛を打ち込み、逃げ場をなくすまで追い詰めれば、当然、牙を剥く。俺がこの腕を落とされたのも、俺自身が深追いしすぎたからだ。竜を恨んだところで、詮無いことよ」

「エイハブ船長には、そう伝えたのですか」

「伝えたとも。だが、あの人には届かん。奴にとって、あの白竜はもう獣ではないのだ。自分を打ちのめした運命そのものの姿を、あの竜に見ているのだろう。運命を恨んでも仕方あるまいに、恨む相手が牙と鱗を持つ生き物であれば、剣を向けられると思い込んでしまう。哀れなことだ」

その言葉を、私はスターバックにもそのまま伝えた。スターバックは長いこと黙っていたが、やがて低い声で言った。

「わかっている。だが、船を降りることは、もはや誰にもできん。ここまで来た以上、我々にできるのは、あの人が自分自身を滅ぼす前に、正気を取り戻す手立てを探すことだけだ」

その晩、私はスターバックが船長室の扉の前で長いこと立ち尽くしているのを見かけた。手には、船長が寝入る前に置き忘れた拳銃が握られていた。彼がそのまま扉を開けることはなく、やがて銃を元の場所に戻し、静かに立ち去るのを、私は物陰から見届けた。翌日、その夜のことを尋ねると、スターバックは疲れた顔で首を振った。

「私にも、あの人を止める権利まではない。ただの一等航海士が、船長を手にかけて何が変わる。それに、あの人の中にはまだ、正気の欠片が残っている。私はそれに賭けたいのだ」

その夜、私は甲板でエイハブ船長と二人きりになる機会があった。星も見えない曇った夜で、波の音だけが規則正しく船腹を叩いていた。船長は義足の脚を手すりに預け、じっと海を見つめていた。

「船長は、あの竜を憎んでおられるのですか」

問うと、船長はしばらく答えなかった。やがて、絞り出すような声が返ってきた。

「憎むというのとは、少し違うのかもしれん。あの竜は、私に何の恨みもなく、ただ自分の縄張りに踏み込んだ愚かな人間を、当然の理で撃退しただけなのだろう。それはわかっている。わかっていて、なお私はあの白い影を、この世から消し去らねば夜も眠れんのだ。脚を失ったあの日から、私という人間の芯棒そのものが、あの竜の姿を追いかけることでしか、まっすぐに立っていられなくなってしまった」

その告白には、憎悪よりも深い、ある種の哀しみが滲んでいた。私は言葉を継げず、ただ暗い海を見つめる船長の横顔を、いつまでも眺めていた。竜を恨んでいるようでいて、船長が本当に恨んでいるのは、自分から片脚と共に何かを奪い去った、取り返しのつかない時そのものなのかもしれなかった。

四 三日の追跡

赤道近くの、静かすぎるほど凪いだ海域に差しかかったある朝、見張り台から絶叫が響いた。

「白い影! 前方三点方位、白い影が海面に!」

船内は一瞬にして殺気立った。エイハブ船長は義足の音も高らかに甲板を駆け、自ら小舟の指揮を執った。海面のはるか先、巨大な白い背が、緩やかな弧を描いて沈んでいくのが見えた。翼の先だけが黒く、それ以外は雪のように白い鱗が、薄日を弾いて輝いていた。伝説通りの、途方もない巨躯だった。

小舟が次々に下ろされ、銛打ちたちが海へと漕ぎ出していく。私とカナロアも一艘に乗り込んだ。舟べりを叩く波しぶきが、恐ろしいほど冷たかったのを覚えている。近づくにつれ、白竜はゆっくりと鎌首をもたげ、赤い瞳でこちらを一瞥した。攻撃してくる気配はなく、むしろ小舟の群れを避けるように、静かに深みへと潜ろうとしていた。

だがエイハブの小舟だけが、執拗に竜の進路を塞ぐように回り込んだ。船長自ら銛を握り、力の限り投げつける。銛は分厚い鱗に阻まれて浅く突き刺さっただけだったが、竜はその痛みに、初めて低い唸り声を上げた。

「奴は逃げようとしているだけです、船長!」

スターバックが叫んだが、届かなかった。竜は身をよじり、尾の一撃で近くの小舟を跳ね飛ばした。海に投げ出された銛打ちたちの悲鳴が響く。それでもエイハブは怯まず、二の矢、三の矢と銛を打ち込み続けた。竜の白い鱗のあちこちに赤い傷が刻まれ、逃げ場を失った獣の目には、初めて明確な警戒と怒りの色が宿った。

一日目は、辛くも竜が深く潜って逃げたことで終わった。だが夜になっても、船長は狂ったように海図を睨み、竜の潜行方向を計算し続けた。カナロアは自分の銛を整えながら、抑えた声で言った。

「明日はもっとひどくなる。あの竜は、もう我々を敵と認めてしまった。当然のことだ、これだけ痛めつけられれば」

二日目、再び白竜が姿を現すと、船長は自ら舟の舳先に立ち、傷ついた竜へと真っ直ぐに突き進んだ。竜はもはや逃げることを諦めたかのように、鎌首をもたげて向き直った。牙を剥き、咆哮を上げる。それは怒りに満ちた咆哮ではなく、これ以上追われれば命に関わるという、切羽詰まった警告の叫びに、私には聞こえた。

「船長、退いてください! これ以上は、竜ではなく我々が滅びます!」

スターバックの制止も、もはや船長の耳には届かなかった。竜の尾が海面を薙ぎ払い、エイハブの小舟は木端微塵に砕けた。船長は間一髪で本船に救い上げられたが、右腕を骨まで傷め、それでもなお銛を手放そうとしなかった。夜、傷の手当てを受けながらも、船長はうわ言のように呟き続けた。

「あと少しだ。あと一撃で、奴は落ちる。奴が落ちれば、私はようやく人間に戻れる」

その言葉を聞いた誰もが、船長がもはや戻れぬ場所まで踏み込んでしまったことを悟った。カナロアは私にだけ聞こえる声で言った。

「私はもう一度、あの棺に模様を足しておく。今度は誰のためになるか、わからないが」

五 漂う棺

三日目の朝、白竜はついに深追いに耐えかねたように、ピークォド号そのものへと向かってきた。船体に幾筋もの銛縄が絡みつき、逃げようともがくほどに、竜自身も傷を深めていく。船長は最後の一本の銛を、渾身の力で竜の急所近くに打ち込んだ。竜が苦悶の咆哮を上げてのたうった、その一瞬。

暴れる竜の巨体が跳ね上がり、絡みついていた銛縄が鞭のようにしなって、船長の隻脚に絡みついた。

「船長!」

スターバックの叫びも空しく、エイハブは為す術もなく縄に引きずられ、荒れ狂う海面へと引き込まれていった。船体は竜の最後の一撃を受けて大きく傾ぎ、帆柱が轟音と共に折れる。甲板を走っていたカナロアも、崩れ落ちる帆柱の下敷きになりかけた私を突き飛ばして庇い、そのまま海へと呑まれていった。竜自身もまた、幾多の銛を打ち込まれた深手を負ったまま、血に染まった海面へと沈んでいった。それは勝利ではなく、追う者と追われる者が、共に破局へと沈んでいく光景だった。

気がつくと、私は暗い海面を漂っていた。船は跡形もなく、周囲には破片と、力なく浮かぶ幾つかの遺体があるばかりだった。カナロアの姿もスターバックの姿も、もうどこにも見えなかった。生きるために摑まる場所を探して藻掻く私の目に、波間を漂う見覚えのある木箱が映った。カナロアが島の紋様を彫り込んだ、あの棺だった。船が砕けた拍子に括りが外れ、海面へと放り出されたものらしい。頑丈に作られたそれは水を通さず、驚くほどの浮力で私の体を支えてくれた。

夜を徹して漂流する間、私は棺の板に刻まれた紋様を、指先でなぞり続けた。カナロアが「死出の船」と呼んだこの棺が、結局は彼自身ではなく、私を生かす船になった。その巡り合わせの意味を、私はまだうまく言葉にできずにいる。そして繰り返し思い返していた。あの竜の、警告に満ちた咆哮を。逃げ場を失ってもなお、船そのものを積極的に沈めようとはせず、ただ自分を苦しめる縄と銛を振り払おうとしていただけの、あの必死のもがきを。竜は誰も恨んではいなかった。恨みに取り憑かれ、後戻りできぬところまで踏み込んでいったのは、いつだって人間の側だった。

翌日の昼過ぎ、行方知れずの我が子を探して海域をさまよっていたという別の船に、私は奇跡的に拾い上げられた。命を取り留めたのは、この広い海で、私一人だけだった。

港へ戻ってからも、私はしばらくの間、あのカナロアの棺を手放せずにいた。竜追いの町では、ピークォド号の遭難は、また一つの「白竜伝説」として語り継がれるようになった。酒場では、尾ひれのついた噂話が幾通りも生まれた。白竜が船を沈めたのは船員たちの慢心への天罰だという者もいれば、逆にエイハブこそが竜を退治しかけた英雄として語られるべきだという者もいた。私はその度に反論しかけては、言葉を呑み込んだ。真実を語ったところで、誰もそれを聞きたがってはいなかったからだ。

かつて私に忠告をくれた、あの片目の老人にも一度だけ再会した。老人は生き残った私の姿を見て、涙ぐみながら何度も頷いた。

「やはりお前は戻ったか。だが、他の誰も戻らなかったのだろう。船長も、一等航海士も」

私はただ頷くことしかできなかった。老人はそれ以上、何も問おうとはしなかった。竜が悪意を持って人を滅ぼした話ではない。追い詰められた獣が、追い詰めた者ともども、深い海の底へ沈んでいっただけの話だということを。

それから幾年もの後、私は今もこうして、あの日の棺を家の片隅に置いている。憎しみも復讐も、竜の側には初めから存在しなかった。あったのはただ、生きようとする獣の必死さと、それを理解しようとしなかった人間の、あまりに深い妄執だけだった。海は今日も何事もなかったかのように凪いでおり、あの白い竜が今どこの深みを泳いでいるのか、それを知る者はもう誰もいない。

あとがき

ハーマン・メルヴィルの『白鯨』は、片脚を白い巨鯨モービィ・ディックに奪われた老船長エイハブが、本来の捕鯨業務を放棄してまで復讐に取り憑かれ、乗組員をも巻き込んで破滅していく物語である。鯨自体は人間を恨んで襲う存在ではなく、追い詰められた末の自己防衛として描かれている点に、本作は最も強く着想を得た。

本作では、鯨を深海に棲む伝説の白竜に置き換え、捕鯨船を竜追いの交易船に、鯨油を燐光油に、それぞれ翻案した。原作の枠組み(語り手の乗船、盟友との出会い、船長の妄執、三日間の死闘、唯一の生存者としての漂流)は保ちながら、竜の描写については、終始「善悪の意志を持たぬ自然の脅威」であることを一貫させ、船長の妄執がどこまでも人間自身の内側から生まれたものであることを強調するよう努めた。原作でクイークェグが病の際に自らの棺を作らせる挿話を、本作ではカナロアという独自の人物と、その棺が終盤で語り手を救う展開として、独自の脚色を加えている。地名や固有の設定、脇役の細部も独自に創作したものである。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はハーマン・メルヴィル(Herman Melville)著『Moby-Dick; or, The Whale(白鯨)』を参考にした翻案作品です。

本作はハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の『Moby-Dick; or, The Whale(白鯨)』を参考にした作品です。原典