竜は誰のためにも吠えなかった
深森の坑道奥に眠る竜がいた。屋敷を占拠したイタチたちの酒宴が境界を踏み荒らしたとき、竜が牙を剥いたのは誰かを守るためではなく、己の眠りを汚された怒りゆえだった。ケネス・グレーアムを翻案した皮肉な脇役譚。
一 川辺に来た日
春の大掃除の途中で刷毛(はけ)を放り出し、モグラが地上に顔を出したのは、よく晴れた午後のことだった。土くれのにおいの染みついた前脚で目をこすると、まぶしい光の向こうに、見たこともないほど広々とした緑の野と、きらめきながら流れていく川があった。長い冬の間、白壁を塗り直し、床に積もった埃を払い、来る日も来る日も地の底だけを世界だと思い込んでいたモグラは、その眩しさに立ちすくんだまま、しばらく声も出せずにいた。
これまで、モグラにとって「外」とは、掘り出した土を捨てに出る、ほんの数歩の往復に過ぎなかった。しかしこの日ばかりは、刷毛を握る手がどうしても仕事に戻ろうとせず、気づけば野原を突っ切り、丘を越え、するすると川岸まで転がるように出てしまっていた。風にそよぐ葦の葉擦れの音、水面できらめく光の粒、どこかで鳴く鳥の声――そのどれもが、モグラにはこれまで知らなかった世界の豊かさを教えてくれるようだった。
川岸をあてもなく歩いていると、水面にぽつんと小舟を浮かべたカワネズミに出会った。カワネズミは櫂を止め、モグラの土まみれの姿を面白がるでもなく、ただ気さくに「乗っていくかい」と誘ってくれた。その屈託のなさに、モグラはすぐさま心を許した。舟に揺られながら、カワネズミは腰の籠から取り出した昼餉を惜しみなく分けてくれ、パンと冷えた肉と果実だけの簡素な食事が、モグラにはこれまで食べたどんな御馳走よりも豊かに感じられた。
「あんた、これまでどこで暮らしていたんだい」
「地の底です」モグラは正直に答えた。「ずっと、土を掘って、巣穴を整えて。それが当たり前だと思っていました」
「そいつは窮屈だったろう」カワネズミは快活に笑った。「わたしにはとても真似できないな。わたしは川があれば、それで満足なんだ。舟を漕いで、釣りをして、昼寝をして――こんな暮らしの何が不満だっていうんだ」
二人は舟を漕ぎながら、川辺に住む者たちの噂話をぽつぽつと交わした。誰それの巣穴が増水で流されただの、対岸の大きな屋敷の主が近ごろ妙な熱に浮かされているだの、他愛のない話が続いた。モグラは口を挟むこともできぬまま、ただ相槌を打ち、それでも十分に満ち足りた気分でいられた。長年の地下暮らしで固くなっていた肩の力が、川風に吹かれるうちに、少しずつ緩んでいくのがわかった。
「あの森の奥にだけは、あまり近づかないほうがいい」
カワネズミが顎で示した先には、川向こうに黒々と広がる深森(ふかもり)があった。昼間だというのに、その梢の連なりだけは陽が届かないかのように暗く沈んで見えた。木々の影は他のどの木立よりも濃く、風が渡ってもざわめき方がどこか違って聞こえた。
「どうして」とモグラが尋ねると、カワネズミは少し声を落とした。
「昔から、あの森の地の底には得体の知れない何かがいる、と言われている。誰も正体を見た者はいないんだが、時折、地響きのような音が漏れ聞こえることがあるらしくてね。だからこの辺りの誰も、日暮れ以降にあの森へ足を踏み入れようとはしない。まあ、隠者のアナグマ殿だけは、慣れたものだという顔をして棲んでいるがね」
深森の話をするとき、陽気なカワネズミの声にすら、微かな慎重さが滲んだ。モグラはそのとき、遠く地の底の方から、地鳴りとも呼吸ともつかない低い響きが、ほんの一瞬だけ伝わってきたような気がした。空耳だろうかと耳を澄ましたが、川のせせらぎに紛れて、その音はもう聞き取れなくなっていた。念のためもう一度耳を澄ませてみたが、聞こえてくるのは水鳥の羽ばたきと、遠くの牧場からの牛の鳴き声だけだった。
舟が川向こうの岸に近づくにつれ、ひときわ立派な屋敷の屋根が、木立の間から覗くようになった。白い壁には青々とした蔦が這い、広い庭には芝生が丁寧に刈り込まれ、その端に見慣れない鉄の塊が停められている。
「蔦屋敷のヒキガエル殿の家だよ」カワネズミが苦笑した。「金はあるが、飽きっぽくてね。少し前まで駆けっこの馬車に夢中だったと思ったら、その前は手漕ぎ舟、そのまた前は気球にまで手を出そうとしていた。この頃はもっぱらあの鉄の塊――『自動車』とかいう代物に夢中らしい。見ているとこっちが冷や冷やするよ」
蔦屋敷の庭先で、恰幅のいいヒキガエルが、その鉄の塊の傍らに立って、うっとりと目を細めているのが見えた。エンジンの咆哮を真似るように喉を鳴らし、まだ動かぬ座席に何度も跨っては降りるのを繰り返している。庭師らしき使用人が困り顔で見守っているが、ヒキガエルはまるで意に介する様子もない。モグラにはその姿が、なんとも憎めない滑稽さを湛えているように映った。
「一度会ってみるといい」カワネズミは舟の向きを変えながら言った。「悪い奴じゃない。ただ、夢中になると周りが見えなくなる質でね。友人たちはみんな、彼のことを放っておけずにいるんだ」
その日の夕暮れ、モグラはカワネズミの巣穴に泊めてもらい、暖かい暖炉の火を眺めながら、これまでの己の暮らしがいかに狭かったかを、しみじみと噛みしめていた。まだこの時のモグラは、蔦屋敷の主の熱狂が、やがて自分たちの平穏な川辺の日々を大きく揺さぶることになるとは、思いもよらなかった。
二 深森の申し合わせ
それから幾日か経ったある朝、モグラは一人で深森に足を踏み入れてしまった。カワネズミの忠告を忘れたわけではなかったが、木々の奥から漂ってくる不思議な静けさに誘われるように、気づけば入り組んだ木立の中で方向を見失っていた。日は傾き始め、木々のざわめきが急に敵意を帯びたもののように感じられてくる。足元の落ち葉を踏むたび、遠くでかさりと何かが動く気配がした。木の根が絡み合った暗がりの奥から、獣とも判別のつかない目が、こちらを窺っているような錯覚に何度も襲われた。
心細さに立ちすくんでいたところへ、低く落ち着いた声がかかった。
「迷い子か。こんな刻限にこの森をうろつくものではない」
振り返ると、白髪交じりの毛並みをした年老いたアナグマが、灯りを片手に立っていた。隠者と呼ばれるにふさわしい寡黙な佇まいながら、その目には迷惑がる色よりも、むしろ懐かしむような穏やかさが浮かんでいた。アナグマはモグラを己の巣穴へと招き入れ、温かい茶を勧めてくれた。土を掘り固めただけの簡素な住まいは、しかし隅々まで整えられ、モグラは長らく忘れていた地下暮らしの心地よさを、久しぶりに思い出した。
火のそばで人心地ついたモグラが、道々気になっていた地鳴りの噂を口にすると、アナグマはしばらく黙り込み、それから静かに語り始めた。
「わしの一族は、代々この森の奥――旧い坑道の最も深いところに、ある約束を守ってきた」
坑道の最奥には、遥かな昔からひとつの竜が眠っている、とアナグマは言った。誰がいつ、どのようにしてそこに棲みついたのか、今となっては伝わっていない。ただ確かなのは、アナグマの一族が幾世代にもわたり、「決して坑道の奥を騒がせぬこと」というただ一つの申し合わせを、その竜との間に守り続けてきたということだった。
「わしらは竜に何かを願うでもない。竜もわしらに何かを求めるでもない。ただ互いの静けさを、互いに侵さぬというだけの約束だ」
アナグマの声には、恐れよりも敬意に近いものが滲んでいた。モグラは、深森の暗さの正体が、恐ろしい怪物などではなく、ただ静かに眠ることだけを望む一つの命なのだと知って、かえって胸のどこかが安らぐのを感じた。
「その竜殿と、話したことは」
「一度もない」アナグマは短く答えた。「話す必要がないのだよ。守るべき境界さえ守っていれば、それでよい間柄というものもある。わしの父も、その父も、竜の姿を見たことはなかったそうだ。ただ坑道の入り口に立ち、風の匂いだけで、そこに何かが確かに眠っていることを知る。それで十分だったのだよ」
「もし、その申し合わせが破られたら、どうなるのですか」
モグラが尋ねると、アナグマは灯りの炎を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「わからん」ようやくアナグマは口を開いた。「わし自身、それを試したことは一度もない。だが、代々言い伝えられてきた戒めがある。あの方の眠りを騒がせた者は、あの方の怒りを、そのまま受け止めることになるだろう、とな」
その夜、モグラはアナグマに送られて森を出た。別れ際、アナグマは念を押すように言った。
「近ごろ、蔦屋敷の方角が騒がしいと聞く。ヒキガエル殿の身に何かあったのでなければよいが」
その言葉通り、騒ぎはすでに川辺の噂となって広がっていた。自動車に狂ったヒキガエルは、周囲の再三の忠告にも耳を貸さず、とうとう暴走の末に道端の垣根と水路に突っ込む事故を起こし、盗んだ車を乗り回した咎で捕らえられ、遠く離れた町の牢に繋がれてしまったのだという。留守になった蔦屋敷には、日頃から素行の悪さで知られる深森のイタチ、オコジョ、フェレットの一党が、誰に断るでもなく押し入り、そのまま居座ってしまった。
「誰も追い出せずにいるらしい」カワネズミは眉をひそめて言った。「連中は夜な夜な酒盛りをして、屋敷中を我が物顔で暴れ回っているそうだ。屋敷の使用人たちはとうに逃げ出し、今では庭の芝生さえ踏み荒らされ放題だという」
モグラはアナグマの静かな声を思い出しながら、あの深森の奥の約束が、この騒がしさにどこまで巻き込まれずに済むだろうかと、漠然とした不安を覚えずにはいられなかった。川辺の暮らしはまだ平穏そのものだったが、その平穏の底に、モグラは初めて、何か据わりの悪いものが横たわっているのを感じ取っていた。
三 蔦屋敷の乱痴気騒ぎ
牢の中でも、ヒキガエルの図太さは衰えなかった。看守の娘に涙ながらに身の上話を語って同情を引き、洗濯女の古着を借り受けると、まんまと衣装に化けて牢を抜け出した。裾の長い服に身を包み、見よう見まねの猫撫で声で見張りをやり過ごした顛末を、川辺に戻ってきたヒキガエルは、恥じ入る様子もなく得意げに語って聞かせた。みすぼらしい変装のまま、ヒキガエルはまずカワネズミの家の戸を叩いた。
「頼む、匿ってくれ。それに――蔦屋敷を、取り返す手伝いをしてほしいのだ」
戻ってきたヒキガエルを迎えたカワネズミは、呆れながらも旧知の情から放ってはおけず、モグラを伴ってアナグマの元へと相談に向かった。ヒキガエルの語る屋敷の惨状は、噂に聞いていた以上のものだった。祖父の代から伝わる家具は薪代わりに焼かれ、肖像画には落書きがされ、地下の酒蔵はとうに空になり、それでもなお連中の宴は夜ごと勢いを増しているという。
深森の奥、アナグマの巣穴で車座になった四人は、蔦屋敷の現状を持ち寄って話し合った。ヒキガエルは涙ながらに祖父から受け継いだ屋敷への愛着を語り、カワネズミはその大仰さに苦笑しながらも、真剣な面持ちで耳を傾けていた。
「毎晩、酒盛りの騒ぎが屋敷から森の際まで届いている」アナグマが険しい顔で言った。「昨夜などは、酔ったイタチどもが庭の奥、あの古い坑道の入り口の近くまで転がり込んで、松明を振り回しながら大笑いしていたと聞く」
その一言に、アナグマの声がわずかに翳りを帯びた。坑道の入り口は、蔦屋敷の地下深く、深森の根方まで続いている。長年守られてきた境界のすぐ手前まで、酔いどれた狼藉が及びつつあるのだと知り、モグラの背筋にも冷たいものが走った。
「正面から押し入っても、数では敵わない」アナグマは話を戻した。「だが、わしの一族には代々伝わる秘密の通路がある。坑道に沿って蔦屋敷の地下まで続く道だ。連中が酔い潰れる夜更けを狙い、内側から不意を突けば、勝機はある」
「わたしも腕には多少覚えがある」カワネズミが袖をまくって見せた。「杖と石さえあれば、二匹や三匹のイタチくらい相手にとって不足はないさ」
ヒキガエルだけは、己の屋敷を取り戻す算段よりも、脱獄の武勇伝を語ることに夢中で、幾度もアナグマにたしなめられていた。それでも、屋敷への思いだけは本物であるらしく、話が奪還の段取りに及ぶと、その目には珍しく真剣な光が宿った。
計画はまとまった。だが決行の夜が近づくにつれ、蔦屋敷の狼藉は日を追うごとに激しさを増していった。連日の酒盛りの声は深森の奥にまで響き渡り、時折、地の底から低く長い唸りのような音が返ってくることがあった。アナグマはそのたびに顔を曇らせ、「まさかとは思うが」と呟くばかりで、それ以上は口にしなかった。モグラも夜ごと寝つきが悪くなり、地面のわずかな震えにさえ、敏感に目を覚ますようになっていた。
決行の夜、四人は松明を持たず、アナグマの案内で暗い地下通路へと踏み込んだ。ひんやりとした土の匂いの奥、通路が坑道の脇を通り過ぎる場所に差しかかると、空気そのものが張り詰めるように重くなった。誰もが無言で、その一角だけは足音を殺して通り過ぎた。頭上、屋敷の方角からは、なおも浮かれた笑い声と酒瓶の割れる音が絶え間なく響いてきていた。
「あと少しだ」アナグマが低く囁いた。「屋敷の床下に出る階段まで、もうすぐそこにある」
四人が息を潜めて進む間にも、地上では誰にも知られぬまま、長い眠りの淵に、ある小さな亀裂が生まれつつあった。
四 目覚めの夜
四人が階段の手前で身を潜め、突入の頃合いを計っていたその時だった。
頭上どころか、地の底そのものが震えた。
酔ったイタチの一団が、悪ふざけの果てに屋敷の裏手にある古い坑道の蓋を蹴破り、松明を片手にその奥まで転がり込んでいったのだ。歓声と嘲りの笑い声が、長らく誰も踏み入らなかった闇の底にまで届いた瞬間、地響きは怒濤のように膨れ上がった。壁の土がぱらぱらと剥がれ落ち、通路全体が生き物のように脈打つのを、四人は身を寄せ合いながら感じていた。
「目覚めてしまわれた……」アナグマが青ざめた顔で唸るように呟いた。
それは救援を求める合図でも、何かを呼び覚ます企みでもなかった。ただ、幾世代にもわたって守られてきたたった一つの約束――坑道の奥を騒がせぬということ――が、酔いどれた無邪気な悪ふざけによって、いともあっけなく踏み破られてしまっただけのことだった。
「どうすればいい」ヒキガエルの声は震えていた。「これでは計画も何も……」
「動くな」アナグマは短く制した。「今は、ただ息を潜めているしかない」
轟音とともに、坑道の奥の闇から、巨大な影が地上へと躍り出た。鱗は煤けたように黒く、瞳だけが炉の底の残り火のように赤く燃えていた。竜は、屋敷の中で浮かれ騒いでいたイタチたちの真っ只中に躍り込むと、辺りの空気を震わせるほどの咆哮を、ただ一度だけ轟かせた。窓という窓が振動し、壁に掛けられていた燭台が音を立てて床に落ちるほどの咆哮だった。
その咆哮に、助けを求める者への慈悲も、誰かを救おうという意志も、欠片ほども込められてはいなかった。ただ己の長い眠りを、己の縄張りを、土足で汚された者への、純粋で身勝手な怒りだけがそこにあった。竜にとって、酔い潰れて騒いでいるのが誰であるかなど、知ったことではなかったのだ。屋敷の主が誰であろうと、そこに巣食う者が誰であろうと、竜の怒りにとっては等しく無関係だった。
だが、その一声だけで十分だった。浮かれきっていたイタチ、オコジョ、フェレットの一党は、突如として現れた巨躯と紅蓮の瞳に恐慌をきたし、我先にと窓や扉から屋敷の外へと転がり出ていった。手にした酒瓶も松明も放り出され、屋敷中に積み上げられた略奪の品々さえ顧みる余裕はなかった。ある者は蔦を伝って壁を這い下り、ある者は転げるように庭を突っ切り、深森の闇の中へと散り散りに逃げ去っていった。
床下に潜んでいた四人は、頭上の悲鳴と怒号を聞きながら顔を見合わせた。
「今だ」ヒキガエルが震え声で叫んだ。「行くぞ、屋敷は――もう、もらったも同然だ」
四人が階段を駆け上がり広間に躍り出た時には、蔦屋敷はもぬけの殻同然になっていた。逃げ遅れた数匹のイタチをアナグマとカワネズミが難なく取り押さえ、ヒキガエルは涙ながらに自分の家具や肖像画の無事を確かめて回った。あっけないほどの奪還だった。誰も刃を交えることなく、誰も傷つくことのないまま、騒ぎは終わっていた。
「われらの奇襲が、見事に決まったな」ヒキガエルは息を切らしながらも、誇らしげに胸を張った。「まさに電光石火の作戦だった」
カワネズミは何か言いかけて、口をつぐんだ。モグラもまた、頭上に轟いたあの咆哮の意味を、ヒキガエルにどう伝えればよいのか分からず、ただ黙って割れた窓の外を見つめていた。
竜はといえば、屋敷の混乱にはもはや一顧だにしなかった。イタチたちを蹴散らし終えると、踵を返し、割れた坑道の蓋の奥、己の巣へと、来た時と同じ重い足取りで戻っていった。誰かに礼を言われることも、誰かを気にかけることも、その背中にはまるでなかった。
五 沈黙に還るもの
騒ぎが収まったあとの蔦屋敷には、しばらく奇妙な静けさが漂っていた。ヒキガエルは割れた窓や倒れた調度を前に、これまでの自分の身勝手さを振り返り、これまで迷惑をかけてきた川辺の面々のもとを一軒ずつ回っては、深々と頭を下げて詫びと償いをして歩いた。壊した垣根の弁償を申し出、貸したまま返していなかった道具を届け、以前けんもほろろに追い返したことのある隣人にまで、律儀に菓子折りを持って挨拶に出向いた。その律儀さに、モグラはいくらか胸を打たれたが、それでも三日と経たぬうちに、ヒキガエルがまた新しい流行り物の噂に目を輝かせ始めているのを見て、思わず苦笑してしまった。
「お礼を、申し上げねばな」
その夜、ヒキガエルはいそいそと深森の坑道口へと向かおうとしたが、アナグマがそれをそっと押し留めた。
「よしておきなさい。あの方は、あなたのために動いたわけではない」
「しかし、屋敷を取り戻せたのは、間違いなく――」
「ええ。だが、あの方が牙を剥いたのは、ただご自分の眠りと縄張りを汚されたことへの怒りゆえです。誰かを救うためではない。礼を言われても、困らせるだけでしょう」
アナグマの声には、責めるような響きはなく、ただ長年その存在の傍らで生きてきた者だけが持つ、静かな諦念に似た理解があった。坑道の蓋は、あの夜以来、誰の手によってか、元通りに固く閉ざされていた。もう二度と、その奥から地鳴りが響くことはなかった。
ヒキガエルはしばらく納得のいかない顔をしていたが、やがて肩を落とし、代わりに屋敷の庭に、誰へともなく供物のような果実を置くことにした。「せめてもの気持ちだ」と呟くヒキガエルの姿を、モグラは黙って見守った。その果実が翌朝には消えていたのか、それとも野の獣に食べられただけなのか、確かめようとする者は誰もいなかった。
数日後、モグラはひとりで深森の奥、アナグマの巣穴を訪ねた。
「あの方は、もう二度と、姿を見せてはくださらないのでしょうか」
「おそらくは」アナグマは静かに答えた。「あの方にとって、あの夜のことは、ただの一度の腹立ちに過ぎん。誰かの英雄譚に名を連ねる気など、初めからなかったのだよ」
「では、あの方が起こしたことのおかげで、屋敷が戻ったというのは――」
「皮肉なことだ」アナグマは口の端をわずかに緩めた。「己のためだけに振るわれた牙が、思いもよらぬ形で、他の誰かの窮地を救ってしまう。世の中には、そういう巡り合わせもあるということだよ。感謝のしようがない相手に、それでも感謝せずにはいられない――それもまた、悪くない気分ではないか」
その言葉を胸に、モグラは深森を後にした。川辺に戻ると、カワネズミが小舟の準備をして待っていた。夕暮れの川面は、橙色に染まりながら、いつもと変わらぬ穏やかさで流れていた。ヒキガエルの蔦屋敷からは、片付けを終えた明かりが漏れ、遠く笑い声さえ聞こえてくる。深森の奥では、坑道の主が、再び誰にも邪魔されぬ長い沈黙の中へと戻っていったに違いなかった。
モグラは舟の上で、ふと深森の暗い稜線を振り返った。あの一夜、誰のためでもなく振るわれた怒りが、結果として自分たちの平穏を取り戻してくれたのだという事実は、モグラの胸に小さな棘のように残り続けた。感謝の届かない相手に感謝し続けることの据わりの悪さを、モグラはまだうまく言葉にできずにいた。それでも、川面を渡る風は変わらず心地よく、カワネズミの漕ぐ櫂の音は、いつも通りのどかだった。
「何を考え込んでいるんだい」カワネズミが櫂を止めて尋ねた。
「いえ」モグラは首を振り、少し笑った。「ただ、世の中には、理由も知らせずに誰かを助けてしまう者もいるのだな、と思っていただけです」
「それの何が不思議なんだ」カワネズミは事もなげに言った。「川だって、誰かのために流れているわけじゃない。それでもわたしたちは、その流れに助けられて生きている。それでいいんじゃないか」
その言葉に、モグラは深く頷いた。深森の噂は、それからも川辺の語り草として残り続けた。地の底に得体の知れない何かがいる、という言い伝えは、以前にも増して真実味を帯びるようになったが、その正体を確かめようとする者は誰もいなかった。ただアナグマの一族だけが、代々変わらぬ申し合わせを、静かに、そして今度こそ誰にも破らせぬように、守り継いでいくのだろうと、モグラは思った。川辺の日々は、何事もなかったかのように、また穏やかな四季の巡りへと戻っていった。
あとがき
ケネス・グレーアム『たのしい川べ』(The Wind in the Willows)は、モグラ、カワネズミ、アナグマ、ヒキガエルという個性豊かな動物たちの友情と、脱獄と屋敷奪還という軽妙な冒険を描いた、児童文学の古典である。本作では、原作にはない「ワイルド・ウッドの地下に眠る竜」という存在を新たに据え、屋敷奪還という英雄譚の裏側に、まったく別の動機で動く脇役の存在を忍ばせることを試みた。
原作でモグラたちが自らの勇気と機転によって屋敷を取り戻す痛快さは損なわぬまま、その勝利の決め手が、実のところ彼らの与り知らぬところで、ただ己の平穏を汚されたことに怒った一匹の竜の、身勝手な一声にあったという構図を加えることで、「善意なき介入が結果として救いになる」という皮肉な余韻を描こうとした。竜が最後まで誰にも語らず、感謝も受け取らずに沈黙へと還っていく結末は、原作の持つ牧歌的な明るさを保ちながら、その裏側にある「制御できないものへの畏れと共存」というテーマを静かに際立たせるための選択である。
本作はケネス・グレーアム『たのしい川べ』(The Wind in the Willows)を参考にした翻案作品です。