竜は縁の深さを選ばなかった
川辺の宿で一夜を共にした無名の画家に、旅の文学青年が語って聞かせたのは、深い縁も言葉も交わさぬまま心に棲みついた名もなき竜たちの手記だった。数ヶ月後、机に向かう彼が末尾に書き加えたのは、宿の土間でうたた寝していた仔竜の名残だった。
一、川音亭の宿
川音亭という宿の名は、決して大げさな謂れがあるわけではない。ただ、宿の裏手を流れる浅い川の瀬音が、夜通し部屋の障子越しに聞こえてくる。それだけの、ささやかな理由でつけられた名だった。
私がその宿の暖簾をくぐったのは、もう十年以上も前の、晩秋のことである。当時の私は、まだ何者でもなかった。文学で身を立てたいという漠とした望みだけを懐に抱いて、あてどなく諸国を歩き回っていた頃だ。学問らしい学問も修めず、故郷の親兄弟には呆れられながら、ただ旅と紙筆だけを頼りに生きていた。旅の道中、目に留まったものを手帖に書きつける癖があり、その手帖には、いつからか「忘れ得ぬ竜たち」という表題がついていた。深い交わりを結んだわけでもなく、ろくに言葉を交わしたことすらないのに、なぜか瞼の裏に焼きついて離れない竜たちの姿を、思い出すたびに書き留めていたのである。人に見せるつもりで書いていたのではない。ただ、書かずにはいられなかっただけだ。
その日は朝から山道を歩き通しで、日が落ちる頃にはもう足も心も萎えきっていた。稜線の向こうに日が沈み、辺りが藍色に染まってゆく頃、麓の集落にぽつりぽつりと灯る家々の明かりを見つけたときの安堵は、今でもよく覚えている。川音亭の軒先に下がった提灯の灯りを認めたときには、思わず声を上げそうになったほどだった。
出迎えてくれた宿の老いた女将は、私の泥だらけの草鞋を見て、何も言わずに温かい足濯ぎの盥を差し出してくれた。その所作の静かさに、旅の疲れがいくらか和らぐのを感じた。
「今夜はもうお一人、お客様がいらっしゃいますよ。絵描きの先生でね、もう三日もこの宿に居着いて、川ばかり描いていらっしゃる。物静かな、けれど良いお方です」
女将はそう言いながら、私を奥の座敷へ案内してくれた。廊下を渡る途中、土間の隅に小さな寝床がしつらえてあるのが目に入った。藁を敷いた上で、赤茶けた鱗をした仔竜が一頭、体を丸めて眠っている。宿で飼われている竜なのだろう。旅籠にはめずらしくない光景で、私もさして気に留めることはなかった。女将に聞けば、名も特につけていないのだと、事もなげに答えた。
「もとは旅の行者様が連れていらしたのを、行き倒れなすった折に、うちで引き取ったものなのですよ。もう五年になりますかね。飛ぶのもあまり得意でないようで、宿の周りをうろうろするばかり。名を付けてやろうにも、これという名も思いつかなくて、そのままになってしまいました」
女将の口ぶりには、憐れみとも愛着ともつかぬ、乾いた優しさがあった。私はその話を聞き流しながら、案内された座敷に落ち着いた。旅装を解き、行灯の灯りの下で肩の荷を下ろすと、ようやく人心地がついた。
座敷に落ち着いてほどなく、その絵描きの先生が挨拶にやってきた。年の頃は私より五つ六つ上だろうか、痩せた体つきに、絵の具の染みついた指をした男だった。名を東雲礼一と名乗った。もの静かな声で名乗る様子には、どこか浮世離れした落ち着きがあった。聞けば、故郷を離れて久しく、あてもなく川筋を辿りながら絵を描いて回っているのだという。
「川という川を、片端から描いてやろうと思い立ちましてね。もう三年になりますか。故郷に妻子を残しておりますので、いずれは戻らねばならぬのですが」
そう言って、東雲は自嘲めいた笑みを浮かべた。互いの旅の身の上を語り合ううち、私たちはどちらからともなく、女将の運んできた酒を酌み交わすようになっていた。膳に並んだ川魚の焼き物や、山菜の煮つけは、決して贅沢なものではなかったが、旅の疲れた身にはこの上なく染み入る味だった。
窓の外では、川音が絶え間なく響いていた。その単調な音が、かえって二人の間の沈黙を心地よいものにしているようだった。杯を重ねるうち、東雲は問わず語りに、自分が描く絵にはいつも何かが足りないのだと、静かな口調でこぼした。
「大きな竜を描こうとすると、どうも絵空事めいてしまう。故郷の絵師仲間には、勇壮な竜を描けばそれだけで評判になると言われるのですが、どうにも筆が乗らない。私が本当に描きたいのは、そういうものではない気がするのですが、それが何なのか、自分でもまだよく分からずにいるのです」
その言葉を聞いたとき、私は懐の手帖のことをふと思い出した。誰かに語ったことなど一度もなかったが、この静かな男になら、あの手帖の中身を話してみてもいいような気がした。川音の中で、行灯の灯りが小さく揺れていた。
二、手記の頁――瀬戸内海と阿蘇の竜
「実は、私にも似たようなものがあるのです」
そう切り出すと、東雲は絵筆を持つ手を止めて、こちらに向き直った。私は懐から古びた手帖を取り出し、その表題を彼に見せた。「忘れ得ぬ竜たち」という、我ながら大仰な文字を、東雲は声には出さずに読んだ。
「深く関わったわけでもない竜のことばかりを、書き留めているのです。名も知らず、言葉を交わしたこともない。それなのに、なぜか片時も忘れることのできない竜たちが、私にはいるのです。おかしな話だと思われるでしょうが」
「いや」と東雲は首を振った。「おかしいとは思いません。むしろ、そういうものにこそ、絵にも文章にもしがたい何かが宿っているのではないかと、私は常々思っているのです。聞かせていただけますか」
促されるまま、私は手帖の頁をめくりながら、記憶を辿り始めた。
最初に思い出すのは、まだ十七、八の頃、瀬戸内海を渡る小さな汽船の上から見た竜のことだ。船は穏やかな海を縫うように進んでいた。潮風は塩辛く、甲板に立つ私の頬を絶えず撫でていた。ふと目をやった舷側の向こうに、名も知れぬ孤島が浮かんでいた。切り立った岩場だけの、松の一本すら生えていない、人の住む気配のない島である。その岩の上に、体長にして人の背丈ほどもない、青みがかった鱗の小さな竜が一頭、じっと蹲っているのが見えた。波打ち際で、器用に前肢を使って魚を狙っているらしかった。夕日を浴びて、その鱗が時折り鈍く光った。
船の汽笛が鳴っても、竜はこちらを一瞥もしなかった。ただ黙々と、自分の営みに没頭しているだけだった。私はその後ろ姿を、船が水平線の彼方へ島影を没するまで、飽きずに眺め続けていた。甲板にいた他の乗客たちは、誰一人としてその竜に気づいた様子もなかった。彼らの目には、ただの岩と波しか映っていなかったのかもしれない。今思えば、あれほど何の変哲もない光景を、なぜあれほど長く見つめていたのか、自分でもよく分からない。ただ、あの孤独な竜の背中の丸みだけは、今でも瞼を閉じれば鮮やかに浮かんでくるのである。
「その竜は、あなたに気づいていたのでしょうか」
東雲が静かに問うた。私は首を振った。
「いいえ、まったく。気づかれることを望んでいたわけでもなかったのでしょう。ただ、私だけが一方的に、あの竜の姿を持ち帰ってしまった。そんな気がするのです。何の関わりも生じなかったからこそ、かえって記憶に残ってしまったのかもしれません」
もうひとつ、忘れられない竜がいる。九州の阿蘇の裾野を、徒歩で越えた時のことだ。ちょうど今日のように、日暮れが近づいた頃合いだった。山道は険しく、両側から迫る山肌には、刈り入れの終わった草原が広がっていた。心細さに足を速めていたとき、頭上でひときわ低い咆哮が響いた。見上げると、まだ角も伸びきらぬ若い竜が一頭、地を這うほどの低さで飛んでいくところだった。その声は、荷を引く馬を励ます馬子唄にどこか似ていて、荒々しさよりも、むしろ物悲しさを帯びて谷間に木霊した。
若竜は私に一瞥もくれることなく、そのまま尾根の向こうへと姿を消してしまった。翼をはためかせるたびに、枯れ草がざわざわと波打つように揺れた。ほんの数瞬の出来事だったが、あの声の余韻は、今でも耳の奥に残っている。あの竜がどこから来て、どこへ向かおうとしていたのか、私には知る術もない。ただ、あの咆哮だけが、道連れもなく歩いていた私の心細さを、束の間だけ和らげてくれたように思えたのだった。
東雲は目を閉じて聞いていたが、やがて呟いた。
「絵描きというのは因果な性分でしてね。今の話を聞いただけで、その光景がまざまざと目に浮かぶのです。私なら、あの若竜の輪郭を、決して太い線では描かないでしょう。むしろ、輪郭などないもののように、淡く滲ませて描くと思います」
その言葉に、私は妙に納得させられるものを感じた。東雲という男は、目に映るものを、そのままの重みで受け止める人間なのだと、この時初めて理解した気がした。杯の酒はすでに底をつきかけていたが、私たちのどちらも、それを注ぎ足すことを忘れているようだった。
三、四国の港と、応える竜
杯の酒が進むにつれて、私はもうひとつの記憶を語り始めた。それは四国のある港町での出来事である。旅の途中、乗り継ぎの船を待つために、私はその港に一晩逗留していた。船を待つ人々でごった返す桟橋の片隅に、老いた竜が一頭、うずくまっていた。荷を運ぶ人足や、土産物を商う女たちの声が絶えず飛び交う中、その竜だけが、まるで別の時間の中にいるかのように、身じろぎひとつせずにいた。
近づいてよく見ると、両の眼が白く濁っているのに気づいた。それが盲いた竜であることを、私はそのとき初めて悟った。誰も気にかける様子はなく、荷を担いだ人足も、物売りの声も、その竜の傍らをただ素通りしていくばかりだった。長年そこにいるのだろう、鱗の色は雨風にさらされて艶を失い、体のあちこちに古い傷の名残が見えた。
ふと見ると、その竜は自らの角を静かに口に含み、低い音色を絶え間なく吹き鳴らしていた。角笛のような、あるいは唸り声のような、どちらともつかない音だった。喧噪の中では、ほとんど誰の耳にも届いていなかっただろう。それでも竜は、誰に聞かせるでもなく、ただ淡々とその音を紡ぎ続けていた。私は乗るべき船の刻限も忘れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。潮の匂いと、竜の吹き鳴らす低い音とが、いつまでも耳と鼻とにまとわりついていた。
「まるで、自分のためだけに歌っているようですね」
東雲がぽつりと言った。私は頷いた。
「そうなのです。あの竜は、誰かに聞かせようとも、誰かに助けを求めようともしていなかった。ただ、そうすることが、その竜にとって当たり前のことだったのでしょう。私はあの時、なぜだか声をかけることもできず、ただ遠くから眺めているだけでした」
語り終えると、私は不思議な軽さを覚えた。長年、誰にも明かさずにいた記憶を、初めて言葉にして誰かに手渡した心地がした。手帖に書きつけた文字を目で追うだけでは味わえなかった、確かな手応えのようなものが、胸の内に残った。東雲はしばらく黙り込んでいたが、やがて筆を置き、窓の障子を静かに開けた。冷えた夜気が座敷に流れ込んでくる。
「少し、外の風に当たりませんか」
私たちは連れ立って、川べりまで下りていった。月のない夜で、川音だけが辺りを満たしていた。星の光だけが、川面にちらちらと揺れて映っている。ふと、遠くの山際から、低く長い咆哮が届いた。今まで語ってきたどの竜とも違う、名も知れぬ竜の声だった。姿は見えず、ただその声だけが、闇の底から響いてくる。東雲は目を細めて、その声の方角をしばらく見つめていた。
「不思議なものです。姿も知らず、二度と会うこともないだろう竜の声だけを聞いて、こうして心を動かされている。人と人との縁とは、また違う何かなのでしょうね」
私はその言葉に深く頷いた。思えば、東雲その人との縁もまた、今夜限りのものかもしれなかった。互いの故郷も、本名の由来も、家族のことも、まだほとんど何も知らないままである。それでも、この一夜の語らいが、私の中に長く残るだろうという予感だけは、なぜかはっきりとあった。川音を聞きながら、私たちはしばらくの間、どちらも口を開かなかった。それは気まずい沈黙ではなく、互いの胸の内にある何かを、そっと確かめ合うような静けさだった。
「そろそろ戻りましょうか。夜も更けてきました」
東雲がそう言ったとき、私は名残惜しさに似た感情を覚えた。だが、それを言葉にすることはせず、ただ頷いて、宿への道を引き返した。
四、名もなき仔竜、そして訣れ
翌朝、私が目を覚ましたときには、東雲はすでに川岸で絵筆を握っていた。障子越しに差し込む朝の光は、昨夜の川音の記憶とは裏腹に、驚くほど穏やかで明るかった。旅支度を整えて土間まで降りると、宿の主人が見送りに出てくれた。無口な人で、これまでほとんど言葉を交わすこともなかったが、深く頭を下げてくれるその仕草に、宿としての矜持のようなものを感じた。
土間の隅では、昨夜と同じ姿勢で、あの名もなき仔竜が丸くなって眠っていた。よく見ると、脇腹のあたりに古い傷跡があり、片方の翼の先が少し歪んでいる。飛ぶことにはあまり向いていないのかもしれなかった。誰に構われるでもなく、ただそこに在るだけの、取るに足らない仔竜だった。女将の話が本当なら、行き倒れた行者の忘れ形見として、この宿の片隅で五年もの歳月を過ごしてきたことになる。旅立つことも許されず、名を呼ばれることもなく、ただ土間の温もりだけを頼りに生きてきたのだろう。
草鞋の紐を結び直していると、ふとその仔竜が薄目を開けて、こちらを見た。ほんの一瞬のことである。金色がかった瞳が、寝ぼけたようにこちらを映し、それからまた、ゆっくりと瞼を閉じていった。ただそれだけの、何の意味もない一瞬だった。私は特に気にも留めず、女将に礼を言って土間を後にした。
川岸に出ると、東雲が絵筆を止めて振り返った。画布には、朝靄に霞む川面が、淡い筆致で描き出されつつあった。昨晩語った阿蘇の若竜の輪郭を、太い線では描かないと言っていた彼の言葉が、ふと思い出された。
「もうお発ちですか」
「ええ。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました」
私たちはしばらく、互いに言葉を探すように黙って立っていた。旅の道連れというのは、こういう別れ方をするものなのだろう。かしこまった挨拶を交わすでもなく、かといって未練を残すでもなく、ただ淡々と、次の道へと歩き出す。それが不人情だとは、私には思えなかった。むしろ、そういう淡さの中にこそ、旅先の縁の本当の姿があるのではないかと、このとき漠然と感じていた。
「またどこかで、お会いできるといいですね」
東雲はそう言って、微笑んだ。私も同じ言葉を返したが、胸の奥では、それがおそらく叶わないだろうという予感があった。旅の途中の縁とは、たいていそういうものだ。深く語り合ったはずの相手のことも、月日が経てば、その声の調子や顔立ちさえ、次第に朧げになっていく。
川音亭を発ち、街道を歩きながら、私は昨夜語った三頭の竜のことを思い返していた。瀬戸内海の孤島の竜、阿蘇の裾野を飛び去った若竜、四国の港で独り角笛を吹いていた老いた竜。どれも、私の人生に能動的に関わってきたわけではない。ただ通り過ぎただけの、一期一会の光景である。それなのに、なぜこれほどまでに、心の奥深くに根を張っているのだろうか。
道はやがて川を離れ、緩やかな峠へと差しかかった。振り返ると、川音亭の屋根がまだ小さく見えた。ふと、あの仔竜の寝ぼけた眼差しが、脳裏をよぎった。取るに足らない、ほんの一瞬の出来事のはずだった。それなのに、街道を歩む足の運びの合間に、幾度もその眼差しが甦ってくるのを、私はどうすることもできなかった。峠を越え、川音亭の屋根がすっかり見えなくなってからも、その感覚だけはいつまでも胸の底に残っていた。
五、幾月ののち
それから数ヶ月が過ぎた。旅から戻った私は、日々の暮らしに追われながらも、机に向かって手帖を開く時間だけは欠かさずにいた。文筆で身を立てるという望みは、相変わらず遠く霞んだままだったが、それでも書くことをやめる気にはなれなかった。「忘れ得ぬ竜たち」と題されたその手帖には、あの夜、東雲に語って聞かせた三頭の竜の記憶が、改めて丁寧な筆致で書き足されていた。
ある晩、行灯の灯りの下で、その手帖を読み返していた。窓の外は初冬の冷たい風が吹き抜けており、火鉢の炭の爆ぜる音だけが、時折り静寂を破っていた。瀬戸内海の竜、阿蘇の若竜、四国の老いた竜――どれも、書きながら自然と筆が滑るほど、鮮やかに思い出すことができた。東雲礼一という画家との一夜のことも、折に触れて思い出していた。あの静かな眼差しと、川べりで交わした言葉の数々は、今も色褪せることなく胸に残っている。だが、彼とはあれきり、二度と巡り合うことはなかった。人づてに、故郷へ戻って絵の師匠として身を立てたらしいという噂を耳にしたこともあったが、確かめる術はなかった。旅先の縁とは、そういうものなのだと、今の私は諦めに似た心持ちで受け止めている。
手帖を閉じようとしたとき、ふいに、あの川音亭の土間の仔竜のことが思い浮かんだ。名も知らず、言葉を交わしたことも、まともに目を合わせたことすらほとんどない。ただ、旅立ちの朝、ほんの一瞬だけ、寝ぼけた眼でこちらを見た。それだけの、何でもない出来事だったはずだ。東雲との語らいや、手帖に綴った三頭の竜たちの姿ほど、印象深い出来事だったとは到底言えない。むしろ、あの仔竜については、名前どころか、その鳴き声すら聞いた覚えがなかった。
それなのに、なぜか筆が止まらなかった。気がつけば私は、手帖の最後の余白に、あの名もなき仔竜のことを書き加えていた。片翼の先が少し歪んでいたこと、脇腹に古い傷跡があったこと、そして、あの一瞬だけ合った金色の眼差しのことを。文字を綴りながら、私は自分でも不思議な心地に包まれていた。まるで、長らく忘れていた借りを、ようやく返しているかのような感覚だった。
書き終えて、私は自分でも可笑しくなった。なぜ、あれほど深く語り合った東雲でもなく、手帖に大切に書き留めてきた三頭の竜たちでもなく、あの取るに足らない仔竜の名残だけを、こうして書き加えずにはいられなかったのか。理由を説明しようとしても、うまい言葉が見つからない。ただ、人の心に刻まれるものというのは、縁の深さや関わりの多さとは、また別の道理で選ばれているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。深い縁を結んだ相手のことは、記憶の中で美しく磨かれ、いつしか物語めいた形に整えられてしまう。だが、あの仔竜の眼差しには、そうした整えようのない、荒削りなままの生々しさが残っていた。おそらくそれこそが、忘れ得ぬということの正体なのだろう。
窓の外では、あの川音亭で聞いたのと同じような、静かな水音が聞こえていた。もっとも、それは近所を流れるどこにでもある溝川の音にすぎない。それでも私は、しばらくの間、行灯の灯りの下で、川音亭の土間に差し込んでいた朝の光と、そこに丸くなっていた仔竜の姿を、ただ黙って思い浮かべていた。手帖を閉じ、机の隅に置いたあとも、その残像だけは、いつまでも消えずに残っていた。
あとがき
国木田独歩の『忘れえぬ人々』は、旅人宿で一夜を共にした無名の画家に、若い文学者が自らの手記――深い縁を結んだわけでもない旅先の人々の記憶――を語って聞かせ、その数ヶ月後、独り机に向かう彼が、手記の末尾に、その夜出会ったばかりの画家でも、手記に綴った人々でもなく、ろくに言葉も交わさなかった宿の主人の名を書き加える、という静かな余韻を持つ短編である。
本作では、旅人宿での一夜の語らいという枠組みと、手記の末尾に名もなき存在を書き加えるという結末の構図を保ちながら、手記の中身を「深い絆を結んだわけでも言葉を交わしたわけでもないのに、脳裏に焼きついて離れない、一期一会の竜たち」の記憶に置き換えた。瀬戸内海の孤島の竜、阿蘇の若竜、四国の港の竜、そして宿の土間で眠っていた名もなき仔竜――いずれの竜も、物語の筋に能動的に関わることは一切なく、ただ通り過ぎるだけの邂逅として描かれる。登場人物の名前、宿の名、竜たちの造形や情景描写、台詞のすべては独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作は国木田独歩著『忘れえぬ人々』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/card1409.html)を参考にした翻案作品です。