物語雳
← 小説一覧へ
·読了目安 14分その他

竜は不公正を許さなかった

老王が引き延ばす譲位のため、三人の王子に代わる代わる難題を課す。末の王子カイルは霧の奥の白霞城で姿なき手にもてなされ、一頭の白猫と心を通わせていくが、その手の正体は、太古に姫と共に呪われ、無数の手に姿を変えられた一頭の竜だった。

一 予兆の国、末子カイル

リアーヌ王国の老王ヴァレンは、譲位を先延ばしにする名人だった。

三人の王子を持ちながら、誰に王冠を渡すべきか決めかねている、というのが表向きの理由だった。だが宮廷の誰もが、本当の理由を知っていた。王は、玉座を降りることそのものが恐ろしいのだ。譲位の儀を開くたびに、王は何かしら新しい難題を思いつき、「これを最も見事に成し遂げた者に、王冠を授けよう」と告げては、また一年、また一年と、その日を先延ばしにしてきた。宮廷の古参たちは、もう何度目かも数えなくなっていたが、それでも表立って苦言を呈する者はいなかった。王の気まぐれに逆らって得なことなど、この城には何もないと、誰もが骨身に染みて知っていたからだ。

長兄ギデオンは、この引き延ばしを苦々しく思いながらも、次の課題では必ず勝つと信じて疑わなかった。剣の腕でも弁舌でも、二人の弟には決して負けないという自負があり、その自負はときに、傲慢と紙一重の輝きを帯びていた。次兄オーレンは、兄に忠実な顔をしながらも、常に己の利になる方へと静かに舵を切る、抜け目のない性分だった。表では兄を立て、裏では兄の失敗を密かに待っているような、そんな二重の生き方を、誰に咎められることもなく身につけていた。

そして末の王子カイルは、二人の兄のような野心を、生まれてこのかた一度も持ったことがなかった。

カイルは、馬丁や下働きの者たちと分け隔てなく言葉を交わす王子として知られていた。ある冬の朝、厩の裏手で足を折った野良犬を見つけたとき、カイルはためらいもせず自分の外套を裂いて添え木を巻き、三月のあいだ毎朝様子を見に通ったという話は、城の使用人たちのあいだで、今も語り草になっていた。兄たちがそれを「王の器にふさわしくない甘さ」と嗤う一方で、使用人たちは誰もが、いざとなればカイル王子のために働きたいと、口にこそ出さねど胸の内で決めていた。

その年、王が新たに課した試練は「一年のうちに、この世で最も小さく、最も気品ある犬を見つけて参れ」というものだった。謁見の間に集った三人の王子に向かって、王はいつもと変わらぬ静かな声でそう告げた。ギデオンは自信ありげに口の端を上げ、オーレンは兄の顔色をうかがいながら小さく頷いた。カイルはただ、深く一礼するだけだった。

三人の王子はそれぞれの馬に鞍を置き、思い思いの方角へと旅立っていった。ギデオンは南の商都へ、金にものを言わせるつもりで。オーレンは兄の後を追うようにして、東の宮廷へ。カイルは、当てもないまま、まずは北の山あいの村々を巡ってみようと決めた。

出立の朝、幼い頃からカイルの世話をしてきた老いた乳母が、旅装のカイルの襟元を直しながら、ふとこんなことを言った。

「坊ちゃま。もし北の尾根、白霞の谷に迷い込むようなことがあれば、決してそこで嘘をついてはなりません。物を盗んではなりません。あそこの城には、姿を持たぬ手が住んでいるという話です。誰の手だか、誰にも分からない。けれどその手は、清い心にしか、贈り物をくれないのだそうです。わたしの祖母がそのまた祖母から聞いた話ですから、真偽のほどは分かりませんけれど」

カイルは笑って聞き流した。子供の頃から聞かされてきた、数ある土地の言い伝えのひとつに過ぎないと思っていたからだ。だが馬を進め、国境の森を抜けるにつれて、なぜかその言葉だけが、耳の奥に小さな棘のように残り続けた。遠く北の空に、いつもより長く尾を引く霧の帯がたなびいているのを、カイルはこのとき初めて目に留めた。その霧は、風が吹いても一向に流れる気配を見せず、ただじっと、山の稜線に貼りついているように見えた。

二 白霞城、声なき手のもてなし

北の村々を隈なく巡っても、これという犬には出会えぬまま、季節はすでに晩秋に差しかかっていた。行く先々で耳にするのは、猟犬の自慢話か、番犬の吠え声ばかりで、掌に乗るほど小さく、なおかつ気品ある犬になど、誰一人として心当たりがなかった。

焦りと疲れの中で道を誤ったカイルは、いつしか馬もろとも、深い霧に呑まれていた。方角も分からぬまま馬を進めるうち、木々の輪郭さえ霞んで見えなくなり、聞こえるのは自分の吐く息と、馬の蹄の音だけになった。どれほど進んだか分からなくなった頃、ふいに視界が開け、蔦の絡む古い城門の前に立っていた。門は誰の手も借りずに、ひとりでに音もなく開いた。

「どなたか、いらっしゃいますか」

呼びかけても、返る声はない。それでも大広間に足を踏み入れると、暖炉には誰も焚いていないはずの火が静かに燃え、旅の埃を払うように、見えない手が次々とカイルの外套を脱がせ、椅子を引き、湯気の立つ皿を運んでくる。冷え切った体に、温かい湯を張った盥がそっと差し出され、寝所に案内されれば、糊の効いた真新しい寝具が、まるで数刻前から彼を待っていたかのように整えられていた。まるで、この城のすべてが、彼が来ることを何日も前から知っていたかのようだった。

恐ろしいはずなのに、なぜか少しも恐ろしくなかった。むしろ、久しく忘れていた懐かしさに似た温もりを、カイルはその見えない歓待の中に感じていた。旅の垢を落とし、久々に満たされた腹を抱えて広間に戻ると、暖炉のそばの毛氈の上に、一匹の白い猫が丸くなっているのに気がついた。雪よりもなお白い毛並みに、深い緑の瞳をした猫だった。

「よくいらっしゃいました、カイル王子」

猫が、人の言葉で話しかけてきたときも、カイルは驚きはしたが、なぜかそれ以上に、その声の静かさに胸を打たれた。喉の奥から絞り出すような、それでいてどこまでも澄んだ声だった。

「わたくしはセラと申します。この城の主でございます。あなたが何を探していらっしゃるのか、存じております」

セラはそう言うと、小さな前脚で、一つの真っ白などんぐりを転がしてよこした。

「これをお持ちなさいませ。中には、この世で最も小さく、最も気品ある犬が眠っております」

カイルが半信半疑でそのどんぐりを開くと、中から本当に、掌に乗るほど小さな、絹糸のような毛並みの仔犬が現れた。あまりの見事さに、カイルは声も出せなかった。仔犬は不思議そうにカイルの指先の匂いを嗅ぐと、まるで長年の飼い主に対するかのように、その手のひらに頬を寄せてきた。

「なぜ、私に。何もお返しできるものを、私は持っておりません」

「それでよいのです」とセラは言った。「求めて差し上げているのではありません。あなたが、誰にも恥じることなくここまでいらしたから、差し上げているだけのこと」

カイルには、その言葉の意味が半分も分からなかった。だが不思議と、それ以上尋ねてはいけないという気がして、ただ深く頭を下げた。その晩、カイルは城が用意した寝所で、これまでのどんな旅の夜よりも深く眠った。翌朝、名残惜しさを感じながら、カイルは城を辞した。門を出るとき、一度だけ振り返ると、セラが窓辺からじっとこちらを見送っているのが見えた気がしたが、目を凝らすと、そこにはもう誰の姿もなかった。

帰路、街道の茂みに潜んでいたはずの、ギデオンが放った野盗まがいの一団が、なぜか誰一人としてカイルを襲わなかったという噂を、後になって耳にすることになる。彼らは霧の中で不意に道に迷い、気づけば夜通し同じ場所を歩き回っていた、とだけ語ったという。誰もそれを、カイルの持ち帰ったどんぐりの犬と結びつけて考える者はいなかった。謁見の間で袖からどんぐりを取り出し、その中から掌大の仔犬を歩ませて見せたとき、王ヴァレンでさえ、しばし言葉を失った。

三 二度目の来訪、深まる絆

一年後、老王が課した二度目の試練は「針の穴を、たやすく通り抜けるほど繊細な布」を持ち帰れというものだった。カイルは迷わず、北の尾根へと馬を向けた。今度は道に迷うこともなく、まるで招かれるように、霧の帯へと自然に吸い込まれていった。

白霞城の門は、待っていたかのようにすぐに開いた。セラは以前と変わらぬ様子で暖炉のそばにいたが、カイルの姿を見つけると、心なしか、その緑の瞳が和らいだように見えた。

「また、いらしてくださいましたね。この一年、あなたのことを何度も思い出しておりました」

「私もです」とカイルは答えた。「この城のこと、あなたのことを、旅の間じゅう、幾度も思い返していました」

その滞在の間、カイルは寸暇を惜しんでセラと言葉を交わした。政の話、旅先で見た景色の話、他愛のない冗談。夜には城の裏手にある小さな庭に連れ立って出て、名も知らぬ星々を眺めながら、いつまでも語り合った。セラは博識で、人よりもずっと長い時を生きてきたような話しぶりをすることがあったが、自分自身の素性については、多くを語ろうとはしなかった。

「この城には、あなたの他にも誰か住んでいらっしゃるのですか」とカイルが尋ねたことがある。

セラは少し困ったように、暖炉の炎を見つめた。

「わたくしを世話してくれる手が、あるのです。ずっと昔から。誰の手なのか、実を申せば、わたくし自身にもよく分かりません。ただ、その手は決して間違ったことをしない。誰かが不当な仕打ちを受けているのを、決して見過ごさない。それだけは、長く一緒にいて、わたくしにも分かってまいりました」

「不当な仕打ち、ですか」

「ええ。たとえば、わたくしが誰かに騙されそうになったとき。誰かが陰でわたくしを害そうとしたとき。その手は、まるで最初から知っていたかのように、そっとそれを正してしまうのです。わたくし自身、頼んだことは一度もありませんのに」

その言葉を聞きながら、カイルはふと、街道での野盗の噂を思い出した。だが、それをセラの見えない手と結びつけて考えるには、まだ何かが足りないような気がした。

その滞在の終わり、カイルの持ち帰った、蜘蛛の糸と月光だけで織り上げたような一枚の布は、鵞ペンの軸ほどの太さの筒に、幾重にも折りたたんで収められていた。老王の御前で解いて見せると、その布は針の穴どころか、絹の指輪の中さえもすり抜けるほどに繊細だった。宮廷の者たちは、その布が朝日に透けて虹色に光る様を見て、しばらくは誰も言葉を発しなかった。

一方、ギデオンは各地の商人から偽りの証文と共に極上の織物を買い集め、審判役の貴族にひそかに賄賂を渡していたが、審判の日、その懐に忍ばせていたはずの金貨の袋は、なぜか中身がすべて枯れ葉に変わっていたという。理由の分からぬ失態に、ギデオンは屋敷の使用人たちを幾人も打擲し、疑心暗鬼に取り憑かれていった。オーレンもまた、姑息な手を使って審判を丸め込もうとしたが、用意していたはずの証拠の品は当日になって忽然と姿を消し、代わりにその不正の証となる走り書きの覚書だけが、なぜか審判役の卓上に置かれていた。

「あの弟には、何か裏がある」

ギデオンはそう言って、オーレンと額を寄せ合うようになった。二人はそれぞれの失敗を語り合ううち、自分たちの企みが挫かれるのは偶然ではないという確信を、少しずつ強めていった。カイル自身は、そんな兄たちの様子を知る由もなく、ただ半年後にはまたセラに会えるという、その一事だけを胸に、帰路についた。北の空に向かって振り返ったとき、遠く霧の切れ間から、獣の唸り声とも風の音ともつかぬ、低く長い響きが一度だけ聞こえた気がしたが、それが何であったか、カイルには最後まで分からなかった。

四 疑惑の兄、白霞城の危機

三度目にして最後の試練が下された。「この世で最も美しい姫を、妃として連れて参れ」というものだった。

ギデオンとオーレンは、それぞれ隣国の有力な家から強引に姫を連れ出す算段を、すでにつけていた。だがカイルの胸にあったのは、政略とは無縁の、ただ一つの想いだった。白霞城の、あの白い猫のそばにいたい、という想いだった。姫と呼ぶにはあまりに小さな、猫の姿をしたセラを、王の御前にどう連れて行けばよいのか、カイルには見当もつかなかった。それでもなお、他の誰を選ぶという考えは、カイルの中に一度も浮かばなかった。

その頃、ギデオンは自らの不運の理由を突き止めようと、旅の占い師や城の古文書庫を漁っていた。埃をかぶった羊皮紙の束を幾晩も読み解くうち、ある夜、遠い先祖の代の記録の中に、こんな一文を見つけた。

「北の尾根、白霞の地には、かつて妖精の女王モルガーヌによって、人でもなく獣でもない姿に縛られた者たちが眠る。その地に近づく者、心清くば恵みを受け、心汚れなば災いを受くべし」

ギデオンは羊皮紙を握りしめたまま、しばらく身動きが取れなかった。そして、暗い納得と共に呟いた。

「弟の不自然な幸運の裏には、その眠れる何かの力があるのだ。ならば、その力さえ手に入れれば、あるいは断ち切ってしまえば、勝つのは俺だ」

季節が巡り、最後の試練の期限が迫った夜、ギデオンは腕利きの手勢を率い、松明を掲げて白霞城へと向かった。城門の前に立ちはだかったのは、いつもの静かな歓待ではなく、目に見えぬ無数の手が一斉に薙ぎ払う、荒々しい抵抗だった。松明は虚空でへし折られ、剣は誰の手にも届かぬまま弾き飛ばされた。兵たちは見えない何かに突き飛ばされ、次々と地に転がった。それでもなお強引に押し入ったギデオンは、暖炉のそばで身を縮めるセラを見つけると、剣を振り上げた。

「お前がその正体か。だったら、その皮を剥いででも、俺の勝ちを確かなものにしてやる」

その一瞬、城じゅうの空気が凍りついたように静まり返った。そして次の瞬間、それまでどこか穏やかだった無数の手が、初めてその全貌をあらわにするかのように、荒れ狂う嵐となってギデオンとその手勢を城の外へと叩き出した。壁という壁が軋み、燭台が宙を舞い、遠く尾根の彼方まで届くほどの地鳴りが、幾度も幾度も響き渡った。それは、これまでカイルが感じてきた優しい気配とはまるで違う、隠しきれない怒りのようなものを帯びていた。

命からがら逃げ帰ったギデオンの兵たちは、里に降りるなり「白霞の城には恐ろしい魔物が棲んでいる」と触れ回った。その噂はまたたく間に王都にまで届き、王ヴァレンは軍勢を差し向けて、その地の「邪悪な力」を討伐せよと命じかけた。

異変を聞きつけたカイルは、取るものも取りあえず馬を駆り、夜通し白霞城へと向かった。たどり着いた広間で目にしたのは、震えながらも気丈にふるまおうとするセラと、いつになく静まり返った、傷ついたような城の気配だった。倒れた燭台、裂けた帳、床に散らばった煤。それらすべてが、たった一夜のうちに起きた出来事の激しさを物語っていた。

「怖い思いをさせてしまいました。わたくしのせいで、あなたの兄君まで、あんな真似を」

セラの声は、いつになく小さかった。カイルは膝をつき、震えるセラの背にそっと手を置いた。

「試練など、もうどうでもいい。私は王冠のためにここへ来たのではありません。あなたのそばにいたくて、来たのです。たとえ王位を失っても構わない。もし王都から兵が来るというなら、私がこの身を盾にしてでも、あなたと、この城を守ります」

見返りを求めぬその言葉に、セラの緑の瞳が、初めて大きく揺れた。

五 断ち切られた呪い、遠い咆哮

その晩、セラは初めて、自ら望んで、己の身の上を語った。

「遥かな昔、この地はまだ妖精の王国でした。時の女王モルガーヌは、永遠の若さを得るために、麓の村々から命を奪う禁じられた術を企てました。それに一人で抗ったのが、この山に棲んでいた一頭の竜です。竜はわたくしの企てに手を貸してくれました。わたくしもまた、幼い身でありながら、女王の非道を止めようとしたのです。……その報いに、わたくしはこの猫の姿に、竜は無数の声なき手に、それぞれ姿を変えられてしまいました。呪いを解く道はただ一つ。誰にも命じられず、何の見返りも求めず、清らかな心を持つ者が、自らこの首と尾を断ち切ってくれること。それだけが、条件でした」

「今宵まで、わたくしはそれを誰にも頼めませんでした。頼めば、それは求める心になってしまう。求められて断つのでは、呪いは解けない。ですが、あなたは今宵、何一つ求めず、ただわたくしを守ると仰った。だから、初めてお願いできるのです。カイル様、どうか、剣を」

カイルの手は激しく震えた。この一年で幾度となく言葉を交わし、笑い合い、時には黙って夜空を見上げただけの、あの静かな時間の一つ一つが、脳裏を駆け巡った。彼女を傷つけることなど、考えただけで胸が張り裂けそうだった。だがセラの緑の瞳に浮かぶ、揺るぎない信頼を見つめ返すうち、その震えは、いつしか静かな覚悟へと変わっていった。

「分かりました。あなたを、信じます」

剣を振り下ろした瞬間、城じゅうを満たしていた眩いばかりの光と共に、セラの姿は、猫でも姫でもない、本来の一人の女性の姿へと変わった。同時に、城のすみずみで働き続けていた無数の手が、まるで長い眠りから覚めるように、一斉にかき消えていった。扉が音もなく静止し、暖炉の火だけが、変わらぬ調子で静かに揺れていた。

そして遠く、尾根の向こうから、一度だけ、誰にも姿を見られることのない、低く長い咆哮が響き渡った。それは怒りでも、悲しみでもなく、ただひたすらに、解き放たれた者だけが上げられる声のように、カイルの耳には聞こえた。抱き合ったまま、二人は長いこと、その余韻が山々にこだまして消えていくのを、黙って聞いていた。

真相を知った王ヴァレンは、ギデオンとオーレンが重ねてきた不正の数々――今や不思議と燃え残った証文や、乾ききらぬままの偽りの誓約書によって、動かぬ証拠として明らかになっていた――を裁き、ためらうことなくカイルに王冠を託した。カイルとセラの婚礼は、二つの国を静かに一つに結び合わせた。

婚礼の朝、空はどこまでも晴れ渡っていた。だが誰も、あの遠い咆哮の主を、二度と目にすることはなかった。それから幾年もの後、リアーヌの民の間では、なぜか困った者が理由も分からず助けられたり、誰かの企んだ悪事が、なぜか毎回のように未然に挫かれたりする、という不思議な噂が絶えなかった。人々はそれを「白霞の見えざる守り手」と呼んで、いつしか敬うようになっていったが、その正体を、セラとカイル以外の誰一人として、知る者はいなかった。時折、風のない晴れた夜更けに、遠い山並みから微かな咆哮が届くことがあると、老いた村人たちは口を揃えてそう語った。それが本当に竜の声なのか、それともただの山風なのか、確かめる術は、もはや誰の手にも残されていなかった。

あとがき

マダム・ドーノワの『白猫』(La Chatte Blanche)は、譲位を先延ばしにしたい老王が三人の王子に難題を課し、末の王子が「姿なき手」にもてなされる不思議な城で白猫と出会い、幾度も不可能な課題を助けられながら、最後には猫の首と尾を切り落とすことで、猫が呪われた姫本来の姿を取り戻すという、17世紀フランスの妖精物語である。

本作では、城に住まう「姿なき手」の正体を、太古の昔に姫と同じ妖精の呪いによって、無数の手に姿を変えられ働かされ続けている一頭の竜として描き直した。この竜は物語を通して一度も竜としての姿を人前に現さず、王子や姫と直接言葉を交わすこともない。ただ、王位を狙う兄王子たちの不正を陰で挫き続ける「不自然なほどの公正さ」の痕跡としてのみ、その存在が示唆される構成とし、末の王子が誠実な手段のみで最後の課題を成し遂げた瞬間、姫の呪いが解けるのと同時に城中の手が消え去り、遠くの山並みから一度だけ、姿を見せぬ竜の咆哮が響き渡るという原作の眼目を、本作独自の展開の中に落とし込んでいる。

王国名、登場人物の名、妖精モルガーヌによる呪いの経緯、三つの試練の具体的な中身や、危機に至る兄王子ギデオンの企みと白霞城襲撃の顛末は、いずれも独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はマダム・ドーノワ著『白猫』(Andrew Lang訳、The Blue Fairy Book所収、https://www.gutenberg.org/ebooks/503)を参考にした翻案作品です。

本作はMadame d'Aulnoyの『白猫 (La Chatte Blanche, trans. Andrew Lang, The Blue Fairy Book)』を参考にした作品です。原典