竜は百年の刻を忘れなかった
旅の薬師が遺した「百年待ってほしい」という言葉を信じ、陶工の男は塚のそばで老いを止めたまま待ち続けた。嘲笑と裏切りの果て、卵から生まれた竜の瞳に、男は再会の喜びと拭えぬ違和感を同時に見る。夏目漱石『夢十夜』第一夜を翻案した幻想の純愛譚。
一 星影の里、灯る夜
山ふところに抱かれた星影(ほしかげ)の里では、秋の初め、決まって夜空に細かな光の粒が幾筋も流れる晩があった。里の者たちはそれを「星の欠片(かけら)が竜の寝床に還る夜」と呼び習わし、その晩だけは戸口に粟粒(あわつぶ)ほどの陶(すえ)の器を灯明代わりに並べる風習があった。陶工の直弥(なおや)は、幼い頃から祖父の窯を継ぐべく土を捏ね続けてきた男で、その器を焼くのも彼の仕事のひとつだった。
直弥の窯は里外れの斜面にあり、そこからは星影の里全体と、その向こうに連なる山々の稜線までが見渡せた。轆轤(ろくろ)を回す合間、直弥はよく空を見上げては、祖父が語った「竜は本当にこの山のどこかで眠っているのだろうか」という子供じみた問いを、いい歳をしてなお胸の内で繰り返していた。里の古老たちは、遥か昔、山の奥に竜の墓所があり、そこに星の欠片が降り注ぐたび、竜の魂が新しい卵に宿るのだと語った。誰もその墓所を実際に見た者はいない。ただの言い伝えだと、直弥自身も半分は思っていた。
里の暮らしは、代々変わらぬ営みの繰り返しだった。春には田を起こし、夏には畑を守り、秋には実りを蔵に納め、冬には雪に閉ざされて炉端で藁を編む。直弥の窯だけが、その四季の巡りから少し外れた場所にあるようだった。土をこね、乾かし、焼き締めるまでには幾日もの時がかかり、その間、直弥は他の誰よりも「待つこと」に慣れた暮らしを送っていた。だからこそ、環という女の訪れが、他の誰にとってよりも、直弥の胸に深く根を張ったのかもしれなかった。窯の火を落とした夜、赤く燻る炭を眺めながら、直弥はいつも、次に環が里を訪れる秋までの日数を、指を折って数えているのだった。
その年も、流れ星の季節になると、一人の女がふらりと里を訪れた。名を環(たまき)といい、薬草の知識に長け、里に病人が出るたびにどこからともなく現れては、乾いた根や葉を煎じて飲ませ、姿を消していく。もう五年ほど、同じ時季に同じように現れては去っていく女だった。里の女たちは「あれは山の精かもしれない」と半ば本気で噂したが、それも無理からぬことだった。環は歳月が経ってもまるで老いる気配がなく、夕暮れどきに彼女の瞳を覗き込むと、なぜか星影の粒がそのまま宿っているように、金色にちらちらと光って見えることがあったからだ。
直弥が環と親しく口をきくようになったのは、三年前、彼女が窯の火傷を負った直弥の手に薬を塗ってくれたことがきっかけだった。以来、環が里に滞在する数日の間、直弥は用もないのに薬草小屋を訪ね、他愛もない話をして過ごすのが常になっていた。環は多くを語らない女だったが、直弥の焼く器を見せると、いつも指先でそっとその肌理(きめ)をなぞり、「この土は、まだ何になるか迷っている顔をしていますね」というような、少し変わった言葉で褒めてくれた。直弥にとって、環と過ごす秋の数日は、一年を通して最も心が浮き立つ時間になっていた。
初めて環と言葉を交わした日のことを、直弥は今でもよく覚えている。まだ十七の年、窯出しに失敗して割れた器の欠片を裏山に埋めに行った帰り、道に迷い込んできた環と出くわした。彼女は割れた欠片のひとつを拾い上げると、「これは失敗ではなく、途中の姿ですよ」と言って、欠片を陽にかざした。そのとき、欠片越しに差し込む光の粒が環の瞳の中で揺れるのを見て、直弥は妙に胸を騒がせたものだった。以来、秋が近づくたびに、直弥はどこかそわそわと空模様を気にするようになっていた。
「星が竜の寝床に還る夜、というのは、本当のことなのですか」ある年の宵、薬草を干す環の傍らで、直弥は思い切って尋ねたことがある。環はしばらく黙って夜空を見上げていたが、やがて小さく笑って「さあ、どうでしょう」とだけ答え、それ以上は語らなかった。その曖昧な笑い方が、直弥の胸にいつまでも小さな棘のように残り続けていた。
だがその年の環は、いつもと様子が違っていた。頬はこけ、唇には血の気がなく、薬草小屋の戸口に立つのもやっとという有様だった。直弥が驚いて駆け寄ると、環は乾いた咳の合間に、いつもよりずっと静かな声でこう言った。
「今年で、最後の旅になるかもしれません」
窯の煙が薄く棚引く夕暮れの中、直弥はその言葉の重さをまだ正しく測りかねたまま、ただ黙って環の肩を支えていた。山の端に、一番星がひとつ、震えるように瞬き始めていた。
二 埋めた約束
環の病は、里の誰も見たことのない類のものだった。里の年配の女が煎じ薬を作っても効かず、日に日に痩せ細っていく環を、直弥は自分の家に運び込み、傍らに付き添い続けた。ある夜、熱にうかされていた環がふと目を開け、思いのほかはっきりとした声で、直弥にこう切り出した。
「直弥さん、わたしの生まれについて、話しておきたいことがあります」
環は、自分が並みの人間ではないのだと語った。竜の血をわずかに引く一族の末裔であり、その血のゆえに人よりずっと長く生きてきたのだと。ただし血が薄いぶん、いずれ人と同じように命の終わりを迎える定めにあるのだとも。直弥は最初、熱に浮かされた譫言(うわごと)だと思おうとしたが、環の瞳の奥で揺れる金色の光を見つめるうち、それが単なる戯れ言ではないと悟らざるを得なかった。
「わたしのような血を引く者が死ぬと、魂は土に還るのではなく、卵の中で眠りにつくのだと聞かされて育ちました。竜にとっての一つの眠り――人でいう百年というのは、竜にとってはひと呼吸ほどの間に過ぎないのだそうです。だから直弥さん、わたしが死んだら、里の見える裏山の頂に、わたしを埋めてほしいのです。墓標には、貝殻を――できれば夜光貝のような、虹色に光るものを――飾り、その上に、これを添えてください」
環はそう言って、懐から小さな布包みを取り出した。開くと、掌に載るほどの、鈍い金色に光る石の欠片が現れた。
「昔、山向こうで拾った、星の欠片です。竜の卵は、これに似た光を宿すのだと、母から聞かされました」
「それで――」直弥は震える声で尋ねた。「それで、環殿はどうなるのですか」
「百年、待っていてほしいのです」環は静かに、しかしはっきりと言った。「一日一日を、数えながら。そうすれば、わたしは卵から孵り、竜となって、あなたのもとへ還ってきます。人の姿ではないかもしれません。けれど、必ず」
「百年など、私には生きられません」直弥は思わず声を荒らげた。「そんな途方もない約束を、どうして――」
環は弱った手で直弥の手を握り、微かに笑った。
「竜の眠る塚のそばに長くいる者は、時の流れ方が、少しだけ人と違ってくるものです。あなたがわたしを信じて待ってくれるなら、きっと、百年はあなたが思うほど長くはない」
その言葉の意味を、直弥はまだ十分に理解できないままだった。だが環の瞳の中で揺れる金色の光を見ていると、疑うことのほうがよほど難しく思えた。
環が息を引き取るまでの数日、直弥はほとんど眠らずに枕元に付き添った。熱の下がった一時(いっとき)、環は昔語りをするように、二人で過ごした秋の日々を、ひとつひとつ数え上げるように語って聞かせた。窯出しの日に割れた器の話、薬草小屋の軒先で雨宿りをした日のこと、直弥が焼いた不格好な湯呑みを、環がずっと自分の旅荷に入れて持ち歩いていたという打ち明け話。最後の話を聞いたとき、直弥は不覚にも涙をこぼし、環はその涙を指先でそっと拭いながら、「泣くのは、まだ早いですよ」と笑った。
その秋の終わり、環は静かに息を引き取った。直弥は言われた通り、里を見下ろす裏山の頂に環を埋め、墓標に虹色の貝殻を飾り、星の欠片をその傍らに据えた。そして誰に告げるでもなく、墓のすぐそばに小さな庵(いおり)を建て、そこに住み着いた。
里の者たちは初め、直弥の悲しみに同情し、時折食べ物を届けに来てくれた。だが、直弥が「百年待つのだ」と口にするたび、その同情の色は次第に、憐れみと戸惑いの色に変わっていった。
三 数えぬ年月
最初の十年は、まだ誰もが直弥を、深い悲しみに沈んだだけの男だと思っていた。里の幼馴染で、直弥と兄弟のように育った兵吾(ひょうご)だけは、変わらず庵を訪ね、酒を酌み交わしては、環の思い出話に付き合ってくれた。
だが二十年が過ぎる頃、異変が里の噂に上るようになった。他の里人たちが着実に歳を重ね、腰が曲がり、白髪が増えていく中で、直弥だけがほとんど若い頃の姿のまま、裏山の庵に暮らし続けていたのである。兵吾も所帯を持ち、子をもうけ、その子がまた孫を連れて里を歩くようになる頃には、直弥の顔つきは、あの日環を埋めた時とほとんど変わっていなかった。
「あれは、もう人ではないのかもしれん」
いつしか里の若い者たちは、直弥をそう呼ぶようになった。裏山の塚は、冬の凍える晩にも、なぜかその周辺の土だけがうっすらと温かく、時折、地の底から低い唸りのような音が響くことがあった。里人たちはそれを竜の言い伝えと結びつけ、「祟りの塚」と呼んで近づかなくなった。子供たちの間では、あの庵の男に近づくと魂を吸われるという、根も葉もない話がまことしやかに語られた。
直弥自身、里との間に隔たりが生まれていくのを感じながらも、墓標の傍らに刻んだ日数の刻み目を、来る日も来る日も一つずつ増やし続けた。刻み目は墓標を囲む木の柵にびっしりと並び、その数はいつしか七千を超えていた。夜明けごとに東の空を、夕暮れごとに西の空を眺め、直弥は「百年」という途方もない約束の重みを、日ごとに骨身へ刻みつけていった。
三十年目の夏、里を大きな野分(のわき)が襲い、直弥の庵は屋根の半分を吹き飛ばされた。里人たちは誰も手を貸そうとせず、それどころか「これも祟りの前触れだ」と口々に噂しあった。直弥はひとり、崩れた屋根の下で墓標だけは風雨から守ろうと、自分の体で覆うようにして一晩を明かした。翌朝、泥だらけの姿で庭先の貝殻の艶を確かめる直弥を見て、通りがかった里の子が「あの人、化け物じゃなくて、ただの寂しがり屋なんじゃない」と呟いたのを、直弥は風の音にまぎれて聞き取った。その子だけは、それから幾年か、こっそり握り飯を庵の戸口に置いていってくれた。直弥はその子の名も知らぬまま、いつしかその子も大人になり、里を出て行ったと風の噂に聞いた。
五十年を過ぎた頃には、直弥を直接知る里人はほとんどいなくなっていた。かつて幼馴染だった者たちは次々と世を去り、代わって、直弥のことを「昔から裏山に棲む、人ならぬ何か」としてしか知らない世代が里の大半を占めるようになった。祖父母から聞かされた話をそのまま鵜呑みにする子供たちにとって、直弥はもはや実在の隣人ではなく、夜語りの中の存在に近かった。それでも直弥は、日々の刻み目を刻む手を止めなかった。土を捏ねる仕事も続け、時折、里の誰かがこっそり買い求めていく素朴な器を焼いては、その稼ぎで細々と暮らしを立てていた。
刻み目が一万八千を超える頃、星の欠片は以前よりわずかに明るく光るようになっていた気がした。直弥は夜ごと墓標の前に座り、環と交わした最後の言葉を思い返しながら、その光の強さの変化だけを、唯一の希望の証として胸に刻んでいった。
老いた兵吾だけが、それでも変わらず庵を訪れてくれる、数少ない者だった。しかし兵吾の訪れの合間には、次第に苦い沈黙が挟まるようになっていた。
「なあ、直弥」ある年の暮れ、白髪の増えた兵吾が、酒を注ぎながらぽつりと言った。「お前は、羨ましいよ。おれはこんなに老いた。孫の顔もろくに覚えられなくなってきておる。だのにお前は、あの日のまま、若い姿で環殿を待ち続けている」
その声には、懐かしさだけでなく、隠しきれない翳りが滲んでいた。直弥はそれに気づきながらも、うまく応える言葉を持たなかった。
「わしは、お前が羨ましいと同時に、恐ろしくもあるのだ」兵吾は続けた。「あの塚の下に、本当に人ならぬものが眠っているのだとしたら――そしてお前が、その傍にいるせいで人ではなくなりつつあるのだとしたら、わしはお前を、いつまでこうして、友と呼んでいてよいものか、わからなくなる」
直弥は何も言わず、ただ杯を傾けた。窓の外では、裏山の稜線に、環が遺した星の欠片によく似た光が、ちらちらと瞬いているように見えた。それが本当に星なのか、塚から漏れる光なのか、直弥にはもう見分けがつかなくなっていた。
四 崩される墓標
九十九年目の秋、里は稀に見る旱魃(かんばつ)に見舞われた。作物は実らず、井戸は次々に涸れ、里人たちの間には焦りと怒りが渦を巻いていた。誰からともなく、「この災いは、裏山の祟りの塚のせいに違いない」という声が上がり始めた。かつて直弥を案じていた若者たちの多くは、今や壮年となり、飢えと不安の中で、その噂に容易く飲み込まれていった。
先頭に立ったのは、里の長となっていた兵吾だった。すでに腰は深く曲がり、足取りもおぼつかない老爺(ろうや)となっていたが、その目には、若い頃には見せなかった昏(くら)い決意が宿っていた。
「わしは長年、直弥の友であろうとしてきた」兵吾は集まった里人たちに向けて、震える声で告げた。「だが、もう限界だ。あの塚は、生きた人間の理を超えたものを孕んでおる。このまま放っておけば、里はいずれ、あれに食い尽くされる」
直弥はその夜、鍬(くわ)や松明(たいまつ)を手にした里人たちが、裏山を登ってくるのを庵の前で迎えることになった。松明の列は蛇のように曲がりくねりながら斜面を這い上り、その数は直弥が思っていたよりもずっと多かった。井戸の涸れた家の主が、飢えた子を抱えた母親が、それぞれの恐怖を鍬の柄に握りしめて、裏山を目指していた。中には、かつてこっそり握り飯を届けてくれたあの子供の孫にあたる若者の姿もあった。若者は直弥のことを、祖父から伝え聞いた昔語りの中の存在としてしか知らず、その目には純粋な恐れしか浮かんでいなかった。
先頭の兵吾と目が合った瞬間、直弥はようやく気づいた。兵吾の中に長年くすぶっていたのは、恐れだけではなかったのだと。
「長殿、本当にそれでよいのですか」群衆の後方から、若い女の声が上がった。かつて握り飯を届けていた子の孫娘だった。「祖父はいつも、あの庵の人は化け物なんかじゃない、ただ誰よりも辛抱強いだけの人だと言っていました。今夜壊してしまえば、取り返しがつきません」
娘の声は、恐怖に呑まれかけていた群衆の一部の足を、わずかに鈍らせた。だが兵吾は、その声にすら苛立ちを募らせるように鍬を握り直し、「情に流されている場合ではない」と一喝した。ためらいの気配は束の間で消え、松明の群れは再び墓標へと詰め寄っていった。
「兵吾、正直に言ってくれ」直弥は静かに問うた。「お前は、本当に里を案じているのか。それとも――」
兵吾の顔が、松明の炎に赤く照らされて歪んだ。
「昔、わしも環殿に、想いを寄せていたことがある」兵吾は絞り出すように言った。「言えなんだ。お前が先に、あの人の心を得たと知っていたからな。それでもわしは、お前たちの仲を喜んでいたつもりだった。だが……お前だけが老いから逃れ、あの人をいつまでも待ち続けられるさまを、幾十年も間近で見せつけられて、わしの中の何かが、擦り切れてしまったのだ」
積年の羨望と恐れ、そして若き日に飲み込んだ想いが、旱魃という恐怖を触媒にして、一気に噴き出したのだった。兵吾の合図で、里人たちが鍬を振り上げ、墓標へと殺到する。直弥は塚の前に立ち塞がり、両手を広げて叫んだ。
「待ってくれ、あとわずかだ。今宵で、ちょうど百年になる」
だがその声は、恐怖に駆られた群衆には届かなかった。鍬の刃が、虹色の貝殻で飾られた墓標に振り下ろされようとした、まさにその瞬間――大地が、割れんばかりに震動した。
五 卵の中の百年
地響きとともに、塚の中心が内側から盛り上がり、星の欠片を宿した土くれが四方へと弾け飛んだ。里人たちは悲鳴を上げて後ずさり、松明を取り落とす者もいた。土煙の向こうに、鈍い金色の光を帯びた巨大な卵の殻が姿を現し、その表面に幾筋もの亀裂が走っていく。
直弥は、恐怖に立ちすくむ里人たちの中でただ一人、震える足で卵に歩み寄った。殻の隙間から漏れる光は、かつて環の瞳の奥で揺れていた金色の光と、寸分違わなかった。
「環殿……」
呼びかけに応えるように、殻が大きく弾け、中から現れたのは、月光を編み込んだような銀鱗をまとう一頭の竜だった。長い首をもたげ、ゆっくりと瞼を開いたその双眸は、深く澄んだ金色で、直弥はその奥に、かつて自分の器を優しくなぞってくれた指先の記憶を、確かに見出した気がした。
竜は、逃げ惑う里人たちには目もくれず、ただ一直線に直弥へと視線を注いでいた。そして、まるで人であった頃の癖のように、わずかに首をかしげてみせた。それは、環がいつも直弥の焼いた器を眺めるときにする仕草と、あまりにもよく似ていた。
「本当に、還ってきてくれたのか」
直弥の声は掠れていた。竜は答える代わりに、鼻先をそっと直弥の頬に近づけ、低く、しかしどこか優しい唸り声を漏らした。人の言葉ではなかった。それでも直弥には、その響きの中に、確かな親しみが込められているように感じられてならなかった。
呆然と立ち尽くす里人たちの中で、兵吾だけが、鍬を握った手をだらりと下げ、その場に膝から崩れ落ちた。
「わしは……とんでもないことを、しでかすところだった」
老いた声が、夜風にかすれて消えていった。直弥は兵吾を責める気にはなれなかった。長い歳月の中で、恐れも妬みも、誰の胸にも等しく降り積もるものだと、直弥自身、痛いほど知っていたからだ。
竜は、崩れかけた墓標の残骸の上に静かに翼を休めると、鱗の隙間からまだ土のにおいを漂わせながら、やがてゆっくりと夜空へ舞い上がった。翼が広がるたび、その内側に星の欠片とよく似た金色の光の筋が幾つも走り、まるで夜空そのものを縫い留めるかのようだった。だがそれは、去っていく別れの飛翔ではなかった。竜は里の上空を大きくひと巡りしたのち、少し離れた峰の頂に降り立ち、そこにとぐろを巻くように身を落ち着けた。以来、晴れた夜には、その峰の稜線に、銀色に光る竜の姿が、ひとつの星影のようにたたずんでいるのが、里のどこからでも見えるようになった。
直弥は、それからもとの人の歳月の流れの中へと、静かに戻っていった。緩やかに老い、白髪が増え、やがて杖をつくようになっても、直弥は毎晩、峰の竜影に向かって手を合わせることを欠かさなかった。あれは本当に環なのか、それとも環という魂が形を変えて宿った、まったく新しい命なのか――その問いに、直弥は最後まで、確かな答えを出すことができなかった。
けれどある夜、峰を見上げながら、直弥はふと、ひとつの想いに行き当たった。百年という途方もない歳月を、自分は指折り数えながら過ごしてきたつもりでいた。だが本当は、環を待ち続けたあの一日一日そのものが、既に環と共にある時間だったのではないか。数え終えることを待つまでもなく、百年は、とうにこの胸の裡に満ちていたのかもしれない。
そう思い至ったとき、峰の竜影が、ほんのわずかに、頷くように首を傾けたように見えた。それが目の錯覚だったのか、あるいは本当に竜がその想いに応えたのか、直弥はもう、確かめようとはしなかった。
晩年、里の子供たちが物珍しさに直弥の庵を訪ねてくることがあった。子供たちは決まって「峰の竜は、本当に人だったことがあるの」と尋ねた。直弥はそのたびに、若い頃の環と同じように、少し困ったような笑みを浮かべてこう答えるのだった。
「さあ、どうでしょうね。ただ、待つ甲斐のあるものだったことだけは、確かです」
その答えに満足したのかどうか、子供たちは無邪気に頷き、峰の竜影を指差してはしゃぎながら帰っていった。直弥が焼いた最後の器には、貝殻と星の欠片を模した文様が、そっと刻み込まれていたという。その器が誰の手に渡ったのかは、今となっては誰も知らない。ただ、星影の里では今も、秋の初めの流れ星の晩に、峰へ向かって手を合わせる風習だけが、静かに語り継がれている。
あとがき
夏目漱石『夢十夜』第一夜は、死にゆく女が「百年待っていてほしい」と男に頼み、その言葉通りに男が墓標のそばで待ち続けると、百合の花が開き、それが約束の成就として描かれる、夢のように儚く美しい掌編である。本作ではその「百合」を竜の卵に置き換え、百年という人間には途方もない歳月を、竜にとってはひと眠りに過ぎないものとして再定義した。原作の持つ幻想味を保ちながら、待つ側の孤独と、周囲からの嘲笑・軋轢という現実の重みを、章立ての中で膨らませることを試みている。
特に、原作にはない「待ち続ける男の老いが緩やかになる」という設定と、幼馴染・兵吾による裏切りに近い転換点を加えたのは、百年という時間を単なる背景としてではなく、待つ者と周囲の関係性を静かに軋ませていく力として描くためである。竜となった環が本当に環その人なのか、それとも新しい命なのかという問いに明確な答えを与えず、主人公自身の内的な納得に委ねる結末は、原作の「百年はもう来ていたんだな」という一文が持つ、答えを急がない余韻を継承しようとしたものである。
本作は夏目漱石『夢十夜』(第一夜)を参考にした翻案作品です。