竜は偽りの戴冠に炎を惜しまなかった
生き写しの異国貴族エドヴァルトは、毒に倒れた王の身代わりとして戴冠の座に立つ。地下に眠る戴冠の竜アルガディンは偽りを見抜きながら沈黙し、正統性とは血ではなく王冠を担う覚悟だと悟らせる。
一 旅人と生き写しの王
リンドヴァル王国の首都は、戴冠式を三日後に控え、朝から晩まで鐘の音に沸き立っていた。石畳の広場には諸侯の紋章旗がひしめき合うように掲げられ、露店には蜜と胡桃を練り込んだ祝いの菓子が積まれ、通りを行く誰もが、若き王ヴィクトール五世の御代の始まりを寿ぐ言葉を口にしていた。
その喧噪の片隅、宿場町の古びた酒場で、異国から来た紋章学者エドヴァルト・ラスキンは、擦り切れた地図の写しを卓に広げながら、一人静かに麦酒を傾けていた。齢三十を過ぎ、旅塵にまみれた外套を纏う彼の家系は、遠い先祖の代にこの国の王統から分かれ出た、今はもう誰も覚えていない傍系の血筋だという。それが事実かどうかを確かめるための、いわば物好きな旅であった。故郷では変わり者の学者としか見られぬ身の上を、彼自身は苦笑まじりに受け入れていた。
「お客人、この国は初めてかね」
酒精で赤らんだ顔の給仕の老爺が、興味深げに声をかけてきた。エドヴァルトが頷くと、老爺は空いた卓に肘をつき、声をひそめて続けた。
「なら、ツェルナ城の竜の話は聞いたかね。あの城の地下には、太古よりアルガディンという竜が眠っていてな。戴冠の折には、必ずやその竜の御前で新王が試されるのだ。真に王家の血を引く者にしか、竜は祝いの炎を吐かぬという。もし血の違う者が玉座を騙ったなら――竜の眼差し一つで、すべてが露見すると言われておる。焼き殺されるとも、魂を喰らわれるとも噂される」
「随分と厳格な守り神だな。国の要石を、一頭の獣に委ねているとは」
「厳格すぎて、時に困りものでもあるのさ」老爺は声をさらに落とした。「今の陛下の異母弟、ミハイル公などは、己の方こそ先王の血を濃く継いでおると、いまだに未練を捨てておらぬという噂だ。母君の身分が低かったばかりに世継ぎから外れたのを、いまだ根に持っておいでとか。まあ、飲み屋の与太話に過ぎんがね」
「異母兄弟の確執か。どこの国でも聞く話だ」
「聞く話で済めばよいがな。近頃は、公の館に出入りする剣呑な連中の噂も耳に入る。まあ、戴冠式さえ滞りなく済めば、それも杞憂であろうよ」
老爺は肩をすくめて去っていった。エドヴァルトは杯を置き、開け放たれた窓の外に目をやった。戴冠を寿ぐ旗の下に、どこか張り詰めた気配が漂っているのを、彼はその時初めて肌で感じ取った。
翌日、エドヴァルトは古い紋章の遺構を訪ねるべく、王都近郊の森へ分け入った。木漏れ日が苔むした石畳に斑を描き、遠くで鳥の声が澄んで響く。渓流のほとりに屈み込み、革の水筒に清水を汲もうとしたとき、対岸から涼やかな声がかかった。
「そこの御仁、随分と熱心な様子だが、何を探しておいでか」
顔を上げたエドヴァルトは、思わず息を呑んだ。渓流を挟んで立つ、狩装束に身を包んだ青年の顔立ちが、水面に映る自分自身の顔と、寸分違わず重なって見えたからだ。同じ鳶色の瞳、同じ眉の傾き、同じ顎の線。
「これは――」
青年もまた同じ驚きに打たれたらしく、しばし言葉を失い、まじまじとエドヴァルトの顔を見つめていた。やがて青年は、堪えきれぬというように快活に笑い出した。
「これは愉快だ。鏡を持たずとも、水面越しに自分の顔が拝めるとはな。私はヴィクトール。この国の、まあ、来たる戴冠式の主役というやつだよ」
「エドヴァルト・ラスキンと申します。異国より参った、しがない紋章学者にございます」
「学者が、生き写しの顔を持って現れるとはな。これも何かの縁だ。どうせなら、もっとよくこの奇妙な符合を確かめたい。今宵、私の狩猟小屋で一献傾けぬか。供の者には内緒でな」
供の者たちを先に城へ帰らせ、身軽な狩装束一枚で忍んで来たらしいヴィクトール王は、悪戯っぽく片目を眇めてそう誘った。エドヴァルトは戸惑いながらも、その屈託のない人柄と、王という身分に似合わぬ気安さに、思わず引き込まれるように頷いた。
二人が連れ立って森を歩き去った後、木立の深い陰から、黒い羽根飾りを兜に付けた騎馬の一団が、無言のままその背を見送っていた。馬の鼻面が苛立たしげに鳴らされ、やがて一団は音もなく森の奥へと消えていった。
二 毒杯の夜
狩猟小屋の暖炉には赤々と火が焚かれ、鹿肉を炙る匂いが漂う中、ヴィクトールとエドヴァルトは杯を重ねながら、互いの身の上を語り合った。ヴィクトールは酔いが回るにつれ、日頃は決して人前で見せぬであろう素顔を覗かせた。
「王冠というのは、被ってみるまでその重さが分からぬものだな。特に、血筋を根に持つ弟がすぐ隣にいるとなれば尚更だ。ミハイルは、私より一つ年上でありながら、母の生まれが卑しかったというだけで世継ぎから外された。奴の目には、私が単なる幸運の産物としか映っておるまい」
「殿下ご自身は、いかがお思いですか」
「幸運かどうかは分からぬ。ただ、生まれ落ちたその日から、この国を背負う定めであったことだけは確かだ。エルヴィラ――婚約者の姫のことも、正直に言えば、政略の外に出たことがない。互いに礼儀正しく接しているだけで、まだ心までは通わせておらぬ」
「それでも殿下は、玉座に立つことを厭うてはおられぬご様子だ」
「厭うてなどおらぬさ。ただ、覚悟を決めねばならぬと、日々己に言い聞かせているだけだ。血の高貴さなど、覚悟の重さの前では、案外あてにならぬものかもしれぬな」
ヴィクトールはそう言って自嘲気味に笑い、杯を干した。そこへ、辺境の村々からの祝いとして届いたという珍しい琥珀色の酒が、従者の手で運ばれてきた。差出人は名も知れぬ辺境領主とのことで、誰も疑う者はいなかった。ヴィクトールは気にも留めず二杯目、三杯目と杯を重ね、やがて上機嫌のまま長椅子へ身を沈め、眠りに落ちるように瞼を閉じた。エドヴァルトもまた酔いに任せて、暖炉のそばでまどろんだ。
異変に気づいたのは、夜明け前だった。ヴィクトールがいくら揺すっても、頬を叩いても、目を覚まさない。息はあるが、深い泥の底に沈んだような重い眠りに囚われたまま、身動き一つしないのだ。
急を聞いて狩猟小屋に駆けつけた近衛隊長ヴァレクと、王の学友であり文官のフリードマンは、青ざめた顔で言葉を失った。ヴァレクは震える手で王の脈を確かめ、フリードマンは残された酒瓶の匂いを嗅ぎ、苦い顔で首を振った。
「毒だ。それも、容易には覚めぬ類の……戴冠式は、今日この後、大聖堂で執り行われるはずだというのに」
「陛下がこの様では、式に立つことは叶いませぬ。かといって延期を告げれば、ミハイル公は待ってましたとばかりに、摂政の座を、いや玉座そのものを、力ずくで奪いにかかるでしょう。公の館には、すでに剣呑な兵が集まっているとの報せもございます」
二人がなす術もなく立ち尽くしていたとき、部屋の隅で成り行きを見守っていたエドヴァルトの顔に、ヴァレクの目が釘付けになった。松明の灯りの下、王と寸分違わぬその横顔を見て、ヴァレクは息を呑んだ。
「……天の配剤か。ラスキン殿と申されたな。恐ろしいことを頼む。どうか、今日一日だけ、陛下の身代わりとして戴冠の座にお立ちいただけまいか。式さえ滞りなく終われば、国はひとまず落ち着く。その間に、我らは全力で解毒の道を探る」
「正気か。私は王家の血など一滴も引いておらぬ。地下の竜の御前に立てば、たちどころに露見しよう。焼かれるか、喰われるか――そう聞いたばかりだ」
「分かっておる。分かった上で、頼んでおるのだ」
フリードマンも膝をつき、声を震わせて懇願した。
「ラスキン殿。あなたが拒めば、今日にもこの国は乱れます。ミハイル公が玉座に座れば、真の陛下の御命すら危うい。あなたにしか、頼める者がおらぬのです」
エドヴァルトは、震える指先で己の顔に触れた。恐怖が総身を駆け巡ったが、同時に、昨夜の屈託ない王の笑顔が脳裏をよぎった。政略に縛られながらも自嘲気味に笑ってみせた、あの人懐こい横顔。この人のために、この国のために――そう思い定めるまでに、さして長い時はかからなかった。
「……分かった。竜に焼かれるならば、それも一つの定めだろう。だが、これは今日一日限りのことだ。殿下が目覚められ次第、私はただの旅の学者に戻る」
「無論だ。この恩は、生涯忘れぬ」
その日の昼下がり、エドヴァルトは王の衣装を纏い、震える足でツェルナ城への道を進んでいった。大聖堂での戴冠の儀は形ばかりのものにすぎず、真の試練は、この国の古い慣わしに従い、ツェルナ城の地下で待っているのだった。
三 竜の沈黙
ツェルナ城の地下には、古びた石段が幾重にも螺旋を描いて続いていた。松明の灯りに照らされた最奥の広間には、鈍い金色の低い炎が絶えず揺らめき、その傍らに、途方もない大きさの竜が身を横たえていた。灰銀の鱗は松明の光を鈍く弾き、閉じた瞼の下から、琥珀色の瞳がゆっくりと開かれる。アルガディン――この国の建国よりも古くから仕える、戴冠の竜であった。
広間には貴族たちがずらりと居並び、その中にはミハイル公の姿もあった。抜け目のない目で、竜と「王」とを交互に見比べている。エドヴァルトは震える足を叱咤し、古い儀式の口上に従って、竜の御前に置かれた紋章の指輪へと手を伸ばした。指先が震えているのを、周囲に悟られぬよう、彼はきつく奥歯を噛みしめた。
アルガディンの巨大な瞳が、まっすぐにエドヴァルトを見据えた。長い、長い沈黙が広間を支配した。松明の炎が微かに揺れる音だけが響き、貴族たちの息遣いすら止まったかのようだった。エドヴァルトは、この一瞬に己の命運のすべてが懸かっていることを悟り、目を逸らさぬよう、ただ歯を食いしばった。
――竜は、静かに息を吐いた。
金色の炎が、優しくエドヴァルトを包み込んだ。熱くはなかった。ただ、柔らかな光が全身を撫でるようにして立ち上り、やがて霧のように消えていく。広間にどよめきが走り、貴族たちは一斉に膝を折った。ミハイル公だけが、忌々しげに唇を歪め、拳を握りしめていた。
儀式の後、人払いされた広間に一人取り残されたエドヴァルトの耳元に、低く響く声が届いた。
「お前は、この国の血を引いてはおらぬな」
エドヴァルトは凍りついた。逃げ場のない広間の中で、竜の瞳が再び彼を捉えていた。竜は続けた。
「恐れずともよい。私はすでに、お前を焼かぬと決めた後だ」
「――なぜ、見逃した」
「私が見るのは血の色ではない。玉座を戴く者の、覚悟の重さだ。お前の胸の内には、恐れを押し殺してでもこの国を守ろうとする意志が、確かに満ちていた。血筋の正しさだけを誇り、覚悟一つ持たぬ者よりも、よほど王冠に相応しい姿を、私は見た」
「では、あなたは……真実を、告げぬというのか」
「私が告げるべきは、真偽ではなく、この国が持ちこたえるかどうかだ。今この時、お前がここで露見すれば、国は真っ二つに割れよう。それを望まぬのであれば、私は沈黙する。ただし――」
竜はそこで、初めて僅かに首をもたげた。
「お前がその覚悟を裏切るならば、次に炎を吐く時、それは祝福ではなく、裁きとなろう」
エドヴァルトはその言葉を、震える胸に深く刻みながら、震える足で広間を後にした。
それから幾日か、エドヴァルトは「王」として宮廷に立ち続けた。朝は評定の間で老臣たちの奏上に耳を傾け、昼は使節との謁見に応じ、夜は書庫でヴィクトールの筆跡を真似て書状に印を捺す。慣れぬ重責に幾度も冷や汗をかきながらも、彼は次第に、王としての振る舞いを身につけていった。
その合間、エルヴィラ姫と過ごす時間の中で、エドヴァルトは次第に、飾らぬ思いやりをもって姫に接するようになっていった。ある夕暮れ、宮廷の庭園で二人きりになった折、姫はふと足を止めて言った。
「近頃の陛下は、以前より、私の話に耳を傾けてくださるようになった気がします。政略の相手としてではなく、一人の人として」
「それは……姫のお言葉に、真に耳を傾ける値打ちがあると気づいたからでしょう」
姫は驚いたように目を見開き、それから頬を微かに染めて微笑んだ。エドヴァルトは、その笑顔に胸が締め付けられる思いを覚えながらも、己が本物の王ではないという事実を、決して忘れることはなかった。
一方でエドヴァルトは、ヴァレクやフリードマンと密かに手を組み、真のヴィクトールの行方を追っていた。解毒の術を探る医師たちの報告は捗々しくなく、やがて三人は、王が単に眠らされているだけでなく、何者かによって別の場所へ運び去られたらしいという不穏な兆候を掴んだ。夜ごとの密談と、忠実な従者を使った探索の末、彼らはついに、真のヴィクトールがツェルナ城の地下牢――アルガディンの眠る広間からほど近い場所に、幽閉されていることを突き止めた。
「ミハイル公は、名目上『王』を戴かせたまま、実権を己が握るつもりでいるようです。頃合いを見て、真の陛下を密かに葬り去り、その罪をも『偽りの王』になすりつける肚積もりかと」
ヴァレクの報告に、エドヴァルトは唇を強く結んだ。竜の言葉が、改めて胸に重くのしかかった。
四 ツェルナ城の真実
内通者の存在が露見したのは、そんな折であった。信を置いていた侍従の一人が、実はミハイル公の間者であり、エドヴァルトとヴァレクの密談を逐一報告していたのだ。ミハイル公は「王」の物腰の微妙な変化に、かねてより疑念を抱いていたらしい。
ある朝、評定の間で、ミハイル公は宮廷の面前で、古い慣例を持ち出した。声には、獲物を追い詰める者特有の余裕があった。
「陛下の御世継ぎに万一の疑いあるときは、『再戴冠の儀』をもって竜の裁定を仰ぐが、この国の定めにございましょう。近頃、陛下の御振る舞いに、いささか奇妙な噂が絶えませぬ。今一度、皆の前で竜の御前にお立ちいただきたい。潔白であれば、何を恐れることがございましょうか」
罠であることは明らかだった。だが、拒めば疑惑はいっそう深まり、それこそがミハイル公の思う壺となる。エドヴァルトは腹を括り、公衆の面前でツェルナ城の地下へと下りていく決断を下した。
「殿下、いや、ラスキン殿」ヴァレクが人目を避けて囁いた。「この隙に、我らは兵を率いて地下牢へ向かいます。ミハイル公の注意が地下の広間に向いておるうちに、真の陛下を必ずや奪還いたします」
「頼む。だが、決して無理はするな。私の身がどうなろうと、真の陛下だけは、必ず生きて連れ戻してくれ」
広間には、前回よりもさらに多くの貴族が詰めかけていた。ミハイル公は勝ち誇った笑みを隠しもせず、腹心の剣士ルーペルトを従えて広間の奥に立っていた。アルガディンの瞳が、再びエドヴァルトを見据える。
このとき、王の救出が万一失敗すれば、すべてが露見し、国は瞬く間に内乱の渦に呑まれる。エドヴァルトの胸に、いっそこの場ですべてを告白し、罪を一身に負うべきではないかという想いが去来した。もし自分一人が偽者として裁かれることで済むならば、それに越したことはない――そう覚悟を決めかけたその時、竜が先んじて動いた。
低く、しかし広間の隅々にまで届く声で、アルガディンは告げた。
「炎が応えるのは、玉座を欲する疑いにではない。この国を守ろうとする意志にのみだ」
そう言い放つと、竜は再び金色の炎をエドヴァルトへと吐きかけた。広間の貴族たちの間に、動揺と困惑のさざめきが広がった。竜の言葉は、誰の耳にも、疑いを持ち込んだミハイル公その人への静かな問いかけのように響いたからだ。老臣の幾人かが、探るような視線をミハイル公へと向けた。
「戯言を!」
ミハイル公は、もはや取り繕う術を失ったかのように叫び、隠し持っていた剣を抜いた。ルーペルトもまた身構え、広間に緊迫が走る。控えていた近衛の幾人かが、慌てて剣の柄に手をかけた。
「竜の御前で刃を抜くとは、正気か、ミハイル公!」
老臣の一人が声を張り上げたが、ミハイル公はもはや後には引けぬとばかりに、居並ぶ貴族たちを睨め回した。
「この国は、偽りの王と、それを操る狐狸どもに乗っ取られようとしておるのだ! 今こそ、真に正統なる血が――」
その言葉が言い終わらぬうちに、地下牢の方角から駆けてきたフリードマンが、息を切らせながら広間に飛び込んできた。
「陛下がご存命にて、ただいま奪還いたしましてございます! ヴィクトール陛下は、すでに毒の眠りより覚め始めておられます!」
その報せに、貴族たちの間からどよめきが上がった。頼みの筋書きを崩されたミハイル公は、剣を握ったまま立ち尽くし、顔面から血の気が引いていくのが見て取れた。やがて駆けつけたヴァレクの兵に、ミハイル公は取り押さえられていった。ルーペルトは形勢の非を悟るや、身を翻して広間の闇へと駆け去っていった。
広間に残された静寂の中、アルガディンはただ静かに、燃え続ける炎を見つめていた。
五 王冠を戴く者
ヴィクトールの目覚めは、思いのほか早かった。毒の効き目が薄れつつあったところへ、ヴァレクらの奪還が間に合ったのだ。数日を経て体力を取り戻した王は、事の顛末をつぶさに知らされ、静かに、深く息をついた。
真相は、王とエルヴィラ姫、ヴァレク、フリードマンの、ごく限られた者たちの胸にのみ収められた。表向きには「陛下は療養のため、しばし人前を避けておられた」とだけ伝えられ、ミハイル公の企みについては「謀反」として静かに処断された。玉座の権威が揺らぐことはなかった。
宮廷の奥まった一室で、エドヴァルトはヴィクトールの前に膝をついた。窓辺から差し込む夕陽が、二人の生き写しの顔を等しく照らしていた。
「陛下、王冠をお返しいたします。私は、ただの旅の学者に戻る時が参りました」
「ラスキン殿。貴殿がいなければ、この国も、私自身も、今頃どうなっていたか分からぬ。何か望みがあれば、遠慮なく申すがよい。爵位でも、褒賞の金子でも」
「望みなどございませぬ。ただ、静かに故郷へ帰る道をお許しいただければ、それで十分にございます」
ヴィクトールはしばし沈黙し、それから深く頭を下げた。王が臣下でもない者に頭を下げるなど、本来あってはならぬことだったが、彼はそれを厭わなかった。
エルヴィラ姫は、そっとエドヴァルトに歩み寄り、微かに震える声で言った。
「短い間でしたが、あなたが見せてくださった優しさを、私は忘れません」
「殿下には、これからも真の陛下がお傍におられます。あの方の飾らぬ心根を、どうか知って差し上げてください。私などより、よほど深く姫を見ておいでのはずです」
エルヴィラは涙をこらえるように微笑み、小さく頷いた。二人はしばし見つめ合ったが、それ以上の言葉を交わすことはなかった。互いの立場をわきまえた、静かな別れであった。
旅立ちの前夜、エドヴァルトは最後にもう一度だけ、ツェルナ城の地下へと下りることを許された。石段を降りるたび、松明の灯りが揺れ、あの夜の恐怖と、そこで得たものの重みが、交互に胸をよぎった。アルガディンは、揺らめく金色の炎の傍らで、ゆっくりと瞼を開いた。
「戻ってきたか、覚悟の旅人よ」
「アルガディン。あなたの沈黙のおかげで、多くの命が救われました。この礼を、どう言えば良いか分かりません」
「礼はいらぬ。私はただ、見るべきものを見て、応えるべきものに応えただけだ」竜はゆっくりと首をもたげ、エドヴァルトを見下ろした。「お前の秘密は、私の眠りとともに、この地の底に留め置こう。今後、私が炎を捧げるのは、正統な血を継ぎ、かつ覚悟を失わぬ者――今のヴィクトール王、ただ一人だ」
「あなたにとって、玉座に座る資格とは、結局のところ何なのでしょうか」
竜は、しばし炎を見つめてから答えた。
「血は、その者がこの国に生まれ落ちた理由を語るに過ぎぬ。だが、王冠の重さに耐え、国のために己を賭す覚悟は、血では測れぬ。私が長きにわたり見てきた王たちの中には、血筋正しくとも覚悟なき者もいれば、お前のように、血を持たずとも覚悟だけを胸に抱いた者もいた。私が炎を捧げるのは、常にその覚悟に対してだ」
竜はそう言うと、大きな翼を静かに畳み、再び炎のそばに身を横たえた。エドヴァルトは深く頭を垂れ、広間を後にした。
夜明け前、エドヴァルトは供も連れず、一頭の馬にまたがってリンドヴァルの城門を出た。振り返った先には、朝靄に霞む城壁と、その地下深くで静かに眠り続ける竜の気配だけがあった。彼が王冠とともに手にしたものは、栄誉でも財でもなく、ただ、覚悟ある者だけが見せてもらえる、竜の沈黙という名の勲章だった。それを胸に抱いたまま、エドヴァルトは朝日の差し始めた街道を、静かに馬を進めていった。故郷への道のりは長かったが、彼の足取りは、来た時よりも幾らか軽やかであった。
あとがき
アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)は、英国紳士ルドルフ・ラッセンディルが、瓜二つの小国の新王の身代わりとして戴冠式に臨み、幽閉された真の王を救うため陰謀に立ち向かう物語である。原作の核である「身代わりの覚悟」と「叶わぬ恋の静かな結末」という骨格を活かしつつ、本作では、王家の血筋にのみ祝福の炎を捧げるとされる「戴冠の竜アルガディン」を新たに創作し、脇役として物語に組み込んだ。竜が偽者と知りながら沈黙し、炎を捧げる場面を軸に据えることで、原作が問いかける「正統性とは何か」というテーマを、竜の裁定という形で鏡写しにすることを狙った。
王国名や登場人物名、竜の名と設定、地下墓所の儀式などはすべて本作独自の創作であり、原文からの翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はアンソニー・ホープ(Anthony Hope Hawkins)著『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)を参考にした翻案作品です。