竜は情念を手放さなかった
涸れ野の岩陰に眠る竜は、引き取られた孤児の少年になつき、二人は一心同体に荒野を駆けて育つ。だが想い人に裏切られた少年の心が恨みに染まると、竜の忠誠は世代を超えて暴れ狂う執念に変わっていく。
一 涸れ野の館と、目覚めた竜
涸れ野と呼ばれるその高原は、年じゅう風が吹きすさび、まともな作物など何一つ育たぬ荒れ地だった。丈の低い草と、ひび割れた岩ばかりが地平の果てまで続き、旅人はみな襟を立て、足早に通り過ぎていく。その真ん中に、巌谷家の館だけが、風雪に耐える老爺のようにうずくまっていた。石造りの壁はどこもかしこも黒ずみ、窓は年じゅう軋み、夜になると風が煙突を吹き抜けて、獣の唸り声のような音を立てた。
当主の巌谷宗左衛門は、ある年の冬、町へ商いに出た帰りに、橋の下で凍え死にかけていた身寄りのない少年を拾ってきた。垢に汚れ、痩せこけたその子は、名を尋ねられても答えることができなかった。宗左衛門は「牙彦」という名を与え、実の子と分け隔てなく育てると、館じゅうの者たちの前で宣言した。
館の者たちは誰もが眉をひそめた。ただでさえ厳しい暮らし向きの中に、素性も知れぬ子を養う余裕などないと、女中頭は陰で愚痴をこぼした。ことに、跡取り息子の宗一郎は、父の情けが自分の取り分を脅かすものだとみなし、初めから牙彦を憎んだ。夕餉の席で、宗一郎はわざと牙彦の椀に汁をこぼし、「拾い犬に、まともな器は要らぬだろう」と嘲った。
だが、宗左衛門の娘である小夜だけは違った。まだ七つの小夜は、怯えた目をして部屋の隅に座り込む牙彦のもとへまっすぐに歩み寄り、震える手を取って、誰よりも先にその名を呼んでやった。
「牙彦。今日から、あなたも私たちの家族よ」
その一言だけで、牙彦の凍りついていた何かが、わずかにほどけた気がした。
牙彦が館に来たその夜、涸れ野の岩肌の奥から、地の底が身じろぎするような、低い震動が伝わってきたという。古くから館に仕える下男の伝次は、囲炉裏端で子供らにこう語り聞かせた。
「涸れ野の奥の岩陰には、太古の昔から一頭の竜が眠っておられる。名を荒神様という。滅多なことでは目を覚まされぬが、時折、人の心に何か大きなものが動き出すと、それに呼応するように身じろぎされるのだそうだ。今夜のあの音も、きっとその印だろうよ」
牙彦は、そんな言い伝えを半信半疑で聞き流していた。だが、館に馴染めず、夜ごと独りで裏庭に座り込んでいた牙彦は、来て三日目の晩、涸れ野の岩陰から、爛々と光る二つの眼がこちらをじっと見つめているのに気づいた。恐ろしいはずなのに、なぜか身を竦めることができなかった。その眼差しには、獲物を狙う獣のものとは違う、どこか静かで、澄んだ色があったからだ。
「お前か」
低い声が、風のように耳に届いた。牙彦は驚いて辺りを見回したが、他に人影はなかった。声は、岩陰の巨大な影そのものから響いてくるようだった。
「怖がらずともよい。ただ、お前がこの地に来てから、わしの内側で長らく眠っていたものが、久方ぶりに疼いておる。それだけのことだ」
「あなたは……荒神様、ですか」牙彦は震える声で尋ねた。
「そう呼ぶ者もおるな」影はゆっくりと身を起こし、月明かりの下に、灰褐色の鱗に覆われた巨躯の輪郭を現した。「わしは、この涸れ野に根を張って生きる何かに従う者だ。それが人の情念であることも、風であることも、いずれでもないこともある。今宵は、お前という小さな情念の芽に、応えているにすぎぬ」
姿を見せぬまま、声だけがそう告げていたなら、牙彦もまだ夢か何かと思えただろう。だが、目の前に確かにある巨躯の重み、時折ふっと漏れる荒い息遣いは、紛れもなく現実のものだった。牙彦には、竜の言葉が何を意味するのか、まだ知る由もなかった。ただ、その夜以来、岩陰の眼差しは、牙彦が裏庭に出るたびに、必ずそこにあるようになった。
翌朝、牙彦は台所仕事を言いつけられた合間に、こっそり裏庭から涸れ野を見晴らした。夜には確かにあったはずの岩陰の気配は、日の光の下では何一つ見当たらず、ただ乾いた風だけが草を揺らしていた。それでも牙彦は、あの眼差しがどこかから自分を見ているのだと、なぜか疑わなかった。
「昨夜、竜を見たのか」
小夜が背後から声をかけた。牙彦が驚いて振り返ると、彼女は好奇心を隠しもせずに目を輝かせていた。
「爺やたちは、荒神様のことを滅多に口にしないの。畏れ多いからと。でも、あなたが来た夜に地鳴りがしたことは、館じゅうの誰もが知っている」
「本当にいたんだ」牙彦は小さく頷いた。「怖くはなかった。むしろ――」
言葉を探しあぐねる牙彦の手を、小夜はごく自然に握った。
「今度、一緒に見に行きましょう。あなたが見たものを、私も見てみたい」
その一言が、身寄りのない少年にとって、この館で初めて得た確かな居場所の始まりだった。
二 双子のように駆けた日々
歳月が流れた。牙彦と小夜は、まるで双子のように涸れ野を駆け回って育った。牛飼いの真似事をし、岩場に登り、風の匂いだけで嵐の来るのを言い当てる術を覚え、雨が来れば館に逃げ帰る。館の中の窮屈さから逃れられる涸れ野の荒々しさこそが、二人にとって何よりの遊び場だった。
そして、いつからか、荒神と呼ばれるその竜は、牙彦のそばにだけ、まるで飼い慣らされた獣のように寄り添うようになっていた。灰褐色の鱗に覆われた巨躯は、涸れ野の岩そのもののように無骨でありながら、牙彦が呼べば、どこからともなく現れて低く唸り、その背に少年と少女を乗せて岩場の間を滑るように飛んだ。
ある夏の日、二人が遠くの谷まで足を延ばしたとき、空が瞬く間に黒く塗り替わり、雹混じりの豪雨が襲いかかったことがあった。逃げ場もない岩場で震える二人の頭上に、荒神は音もなく舞い降り、大きな翼を屋根のように広げて雨風を防いだ。
「怖くはないぞ」竜は低く言った。「わしがおる限り、お前たちを濡らしはせぬ」
小夜はその温かい翼の内側で、牙彦の袖をぎゅっと握りしめた。牙彦は、竜の鱗越しに伝わる規則正しい鼓動を聞きながら、この瞬間だけは、拾われ者だという引け目も、宗一郎の嘲りも、何もかもが遠いことのように思えた。
「荒神は、お前にしかなつかぬな」嵐が過ぎた後、小夜は竜の硬い鱗を撫でながら、笑ってそう言った。
「お前様がここへ来た夜から、ずっとそうなのだと、伝次が言っていた」
牙彦は答える代わりに、竜の首筋にそっと手を当てた。荒神は目を細め、低く喉を鳴らした。それは牙彦にだけわかる、親愛の証だった。
夜には、二人はしばしば岩場に並んで座り、竜を挟んで他愛のない話をした。小夜は、いつか遠い町へ出て見たこともない景色を眺めてみたいと語り、牙彦は、ただこの涸れ野に、自分の居場所さえあればそれでいいと答えた。
「お前は望みが小さいのね」小夜は笑った。
「望みが大きいと、失うものも大きくなる」牙彦はぼそりと答えた。
荒神は、そのやり取りを黙って聞いていた。竜の耳には、二人の若い声が、涸れ野に吹く風の音と同じように、いつまでも変わらぬものとして響いているようだった。だが実のところ、竜自身にもまだ知らぬことがあった。人の情念というものが、時にどれほど姿を変え、どれほど遠くまで人を連れ去ってしまうものかを、この時の荒神はまだ、身をもっては知らなかったのである。
だが、この幸福な日々は長くは続かなかった。牙彦が十四になった年の秋、宗左衛門が病に倒れ、そのまま息を引き取った。葬儀の翌日には早くも、館の主は宗一郎に代わっていた。宗一郎は待っていたとばかりに、牙彦を身内の座から引きずり下ろし、下働きの身分に落とした。学問を禁じ、朝から晩まで牛馬の世話と畑仕事を課し、夜は納屋で寝起きすることを命じた。
「拾われ者が、いつまでも息子面をしていられると思うな」
宗一郎はそう吐き捨て、牙彦の手から書物を取り上げて囲炉裏にくべた。牙彦は歯を食いしばって耐えたが、その胸の底には、日ごとに黒い澱のようなものが溜まっていった。唯一の慰めは、小夜が変わらず牙彦のもとを訪れ、こっそりと食べ物を運んでくれることと、夜ごと涸れ野に出れば、荒神が黙って傍らに寄り添ってくれることだけだった。
ある夜、泥だらけの手のまま裏庭にうずくまる牙彦のそばに、荒神が音もなく降り立った。
「お前の内側で、何かが変わりつつあるな」
竜の声は、以前よりも幾分低く、重く響いた。
「宗一郎に、俺を人として扱う気などない」牙彦は絞り出すように言った。「小夜だけが、俺をまだ人として見てくれる」
「その娘がいる限り、お前の内側にあるものは、まだ穏やかでいられるだろう」
荒神はそう言うと、牙彦の肩にそっと鼻先を寄せた。牙彦は、その温かさにすがるようにして、その夜だけはどうにか眠りについた。
三 身分という壁
小夜が野犬に足を噛まれ、隣の平野に館を構える早乙女家の月見野邸に運び込まれて数週間を過ごしたのは、牙彦が十七になった年のことだった。早乙女家の邸は、涸れ野の館とは違い、磨き上げられた床に日の光が差し込み、絹の帳が風に揺れる、穏やかな暮らしに満ちていた。
戻ってきた小夜は、以前より言葉遣いも所作も洗練され、着るものも髪の結い方も垢抜けていた。何より、早乙女の若き当主・文弥への親しみを、隠さなくなっていた。牙彦は、日に焼け、泥にまみれた自分の手と、書物ばかりを扱ってきたであろう文弥の白く滑らかな手とを、館の廊下ですれ違うたびに、否応なく比べずにはいられなかった。
「牙彦、あなたも湯に浸かって、少しは身なりを整えたらどうかしら」
ある日、小夜は悪気もなく、ただ何気なくそう言った。だがその一言は、牙彦の胸に、これまで感じたことのない鋭さで突き刺さった。彼女は、彼の姿を恥じ始めている――そう気づいてしまったのだ。
ある晩、牙彦は台所の陰から、小夜が乳母に胸の内を打ち明けているのを耳にしてしまった。
「文弥様と添うことは、私にとって何の恥でもない。彼のもとに嫁げば、この家も、私自身も、もっと広い世界を見られるようになるでしょう。けれど――牙彦と添うことは、今の私を貶めることになる。宗一郎があの人をあれほどまでに落としてしまった今となっては、もう」
乳母が何か窘めるように言葉を挟むと、小夜はさらに続けた。
「わかっているわ。本当に愛しているのは、あの人だということくらい。牙彦がいなければ、私の魂は半分も生きていないも同然。でも、愛することと、共に生きられることとは、また別のことなのよ」
その先に続いた言葉を、牙彦はもう聞いていなかった。踵を返し、闇の中へ駆け出していた。耳の奥では「貶める」という一語だけが、鐘の音のように鳴り響いていた。
嵐の夜だった。牙彦は涸れ野の奥へ奥へと駆け、雨に打たれながら岩場に突っ伏して声もなく泣いた。稲光が荒野を白く照らすたび、これまで積み重ねてきた惨めさのすべてが、一枚一枚めくり返されるようだった。気づけば、荒神がすぐそばに来て、じっと彼を見下ろしていた。
「あの娘の言葉が、お前を貶めたのだな」
「俺は、貶められるために生まれてきた身だ」牙彦は雨の中で吐き捨てた。「橋の下で野垂れ死にかけていた拾い子に、何を望めというのだ。ならば、貶められた通りのものになってやる。誰にも、二度と憐れまれぬように」
荒神の双眸に、それまで見せたことのない光が宿った。それは、忠実な獣の眼ではなく、何か途方もなく古い、剥き出しの情念そのものを映す鏡のような色だった。
「よかろう」竜は低く唸った。「わしはお前に従う。お前の内にあるものに、そのまま従う。それが、わしという者の定めだ。裁くことも、諭すこともせぬ。ただ、お前の情念が向かう先を、共に歩むだけだ」
「たとえそれが、俺自身をも焼き尽くすとしても、か」
「情念とは、そういうものだ」
その夜を最後に、牙彦は涸れ野から姿を消した。小夜が翌朝、寝台から起き出して裏庭を探しても、そこにはもう誰の影もなかった。
四 裏切りと、荒ぶる牙
三年の後、牙彦は見違えるほど身なりを整え、莫大な財を携えて涸れ野に戻ってきた。どこで、どうやってそれを築いたのか、誰も知らなかった。小夜はすでに文弥に嫁ぎ、月見野邸の奥方となっていた。
牙彦はまず、賭け事に溺れて借財を重ねていた宗一郎に金を貸し付け、返せぬと見るや容赦なく証文を盾に館の権利を奪い取った。かつて自分にされた仕打ちをそっくりそのまま、宗一郎の幼い息子・宗太に押し付け、文字も学ばせず、下働きとして涸れ野の館に縛りつけた。宗太が母を亡くし、行き場を失っていたことも、牙彦にとってはむしろ好都合だった。
「お前の父が、俺にしたことを覚えているか」牙彦は幼い宗太を見下ろしながら言った。「お前には、恨む相手を間違えぬよう、いずれきちんと教えてやろう」
それから間もなく、牙彦は文弥の妹である千代を娶った。それは愛ゆえではなく、早乙女の家をも内側から蝕むための、冷え切った計略にすぎなかった。千代は夫の胸の内にある底なしの闇に気づかぬまま、ただ言われるがままに嫁いできた自分の運命を、後になってようやく思い知ることになる。
嫁いで間もない頃、千代は夫の後を追って涸れ野の岩場まで出向いたことがあった。そこで彼女が目にしたのは、月光の下、巨大な竜に向かって独り言のように恨み言を吐き続ける牙彦の姿だった。
「あの人は、竜と話しているの」
千代は震えながら、供をしていた老いた伝次に尋ねた。伝次は答える代わりに、ただ首を横に振った。
「奥方様は、決して近づかれませぬよう。あの岩場は、当主様と荒神様、お二方だけのものにございます」
その日以来、千代は涸れ野の館の中で、誰にも心を開くことのないまま歳月を過ごすことになった。
小夜と牙彦は、それぞれの家に囲われながら、ある冬の日に一度だけ、言葉を交わす機会を得た。互いの目に映るものは、かつて涸れ野を駆けた日々の残り火と、取り返しのつかぬ隔たりの両方だった。
「お前がここまで変わり果てたのは、私のせいだ」
小夜は震える声でそう言った。窓の外では、涸れ野から吹き下ろす風が、月見野邸の庭木を激しく揺らしていた。
「お前は何も悪くない」牙彦は静かに答えた。「悪いのは、貶められるままに生きた俺自身と――そう仕向けた、この世の理そのものだ」
牙彦は答えられるだけの言葉を、それ以上は持っていなかった。
その冬の終わり、小夜は娘の花恵を産み落として間もなく息を引き取った。報せを受けた牙彦は、涸れ野の岩場に駆け上り、獣のように咆哮した。
「荒神! お前は、わしに従うと言った。ならば、この胸の内にあるものごと、涸れ野を、二つの家を呑み込め!」
竜はもはや、かつて少年を背に乗せて空を舞った、あの静かな伴侶ではなかった。牙彦の底なしの情念そのものを鏡のように映し、涸れ野に吹く風を凍てつかせ、二つの家の畑を実らせず、家畜を病ませ、生まれてくる子供らの上にまで、癒えぬ怨念の影を落とし続けた。牙彦自身は、その執念を裁くでもなく、止めるでもなく、ただ竜の唸り声の中に、小夜を失った己の慟哭を聞き続けるだけだった。
牙彦と千代の間に生まれた牙一は、生まれつき病弱で、父の情念の重みに耐えられぬまま育った。花恵と牙一、そして下働きの宗太――憎しみの渦中で生を受けた三人の子らの上にこそ、荒神は世代を超えて執行され続ける牙彦の執念を、そのまま体現し続けていた。館に仕える古老たちは、涸れ野の空を渡る雲の影がいつになく黒々として見える夜には、決まってこう囁き合った。
「荒神様は、もはや誰かを守るために吼えてはおられぬ。あの方は、当主様の胸の内にある恨みそのものになってしまわれたのだ」
五 和解、竜の眠り
牙彦は、花恵を月見野邸ごと手中に収めるため、まだ十六の花恵を病弱な牙一に嫁がせた。牙一は祝言から一年と経たぬうちに息を引き取り、花恵は若くして未亡人となった。涸れ野の館に戻された花恵は、字も知らず、獣のように育てられた宗太と、否応なく同じ屋根の下で暮らすことになった。
初めのうち、花恵は宗太の粗野な物言いを疎んじた。彼が椀を持つ手つきも、囲炉裏端で丸くなって眠る姿も、身分違いの下働きそのものにしか見えなかった。だが、長い冬の夜、花恵が炉端で亡き母の遺した書物を読み聞かせるうち、宗太は少しずつ文字を覚え、拙いながらも自分の名を書けるようになった。その眼差しから、濁った諦めの色が、季節が巡るごとに少しずつ薄れていくのを、花恵は気づかぬふりをしながらも、確かに見ていた。
「俺のような者に、字なぞ要らぬと思っていた」ある晩、宗太はぽつりと言った。
「あなたを、そんな風に育てたのは、あの人の恨みです」花恵は静かに答えた。「あなた自身の罪ではない」
「お前の父は、俺の父から全てを奪った男だ。それでも、お前は俺にこうして字を教えるのか」
「憎しみを受け継ぐことだけが、この家に生まれた者の定めだとは、私には思えないのです」
二人の間に芽生えたものは、憎しみによって歪められた血の因縁の中で、初めて自らの意志で選び取った、静かな情だった。それは涸れ野の荒々しさとは対照的な、ゆっくりと、しかし確かに根を張っていく種火のようなものだった。
春が来ると、二人は連れ立って涸れ野を歩くようになった。宗太は、かつて父から聞かされたはずの土地の記憶を何一つ持たぬまま育ったが、花恵と並んで歩くうち、岩の名前や風の読み方を、まるで初めて出会う土地のことのように、一つひとつ教わっていった。
「あなたは、この土地のことを何も知らずに育ったのですね」
「知る必要がないと言われて育った」宗太は苦笑した。「だが、お前と歩くと、この荒れ地にも、覚える価値のあるものがあるのだと思えてくる」
夏の盛りには、二人は嵐の夜、かつて牙彦と小夜がそうしたように、館の窓から涸れ野の稲光を並んで眺めた。宗太が思わず身を竦めると、花恵はその手にそっと自分の手を重ねた。
「怖くはありません。私たちは、もう独りではないのですから」
その言葉に、宗太は長らく忘れていた温かさを、確かに取り戻していった。
牙彦は、その様子を屋敷の窓越しに眺めながら、日に日に痩せ細っていった。かつてあれほど激しく燃えていた復讐の炎は、いまや彼自身の内側を空洞にするだけの、虚しい残り火にしか見えなかった。ある嵐の晩、彼は涸れ野の岩場で、若き日に小夜と駆け回った光景の幻を見たという。風の唸る中に、少女の笑い声を確かに聞いたと、後に見つけた者たちに語ったのは、彼を看取った老いた伝次だけだった。
翌朝、牙彦は岩の陰で、これまで見せたことのないほど穏やかな顔のまま、息絶えているのが見つかった。
村人たちは、牙彦を小夜の眠る墓の傍らに葬った。かつて彼を憎んだ宗一郎の血を引く者たちも、花恵と宗太の祝言を機に、二つの家の間にわだかまっていた確執を、ようやく水に流す気になっていた。
祝言の夜、涸れ野の空に、久方ぶりに大きな影が舞い上がった。荒神だった。竜は二つの墓が並ぶ塚のそばに舞い降りると、これまで幾十年もの間、人の情念に従い荒れ狂い続けてきた身を、ゆっくりと横たえた。灰褐色の鱗が月光を受けて鈍く光り、その巨躯からは、もう誰も脅かすことのない、深く安らかな寝息だけが漏れていた。
「わしは、裁く者でもなければ、幽閉された者でもない」荒神はそう独りごちた。「ただ、人の情念そのものに従い、それが尽きるまで、代わりにその重みを負い続ける者だ。そのお前たちが、ようやく憎しみを終わらせたのなら――わしにも、眠りが許されるのだろう」
それから涸れ野を訪れる者は、風の凪いだ夜にだけ、二つの墓の傍らでとぐろを巻き、静かに寝息を立てる竜の姿を見ることがあるという。誰を襲うでもなく、誰かに従うでもなく、ただそこに、人の情念が確かに鎮まった証として、今もひっそりと眠り続けているのだと。
あとがき
本作は、エミリー・ブロンテ「嵐が丘」を下敷きにした翻案である。原作では、身寄りのない少年ヒースクリフが引き取られた家の娘キャサリンと固い絆で結ばれながらも身分差ゆえに引き裂かれ、裏切られたと感じた彼の復讐が両家の子や孫の代にまで及び、次の世代の若い男女の結びつきによってようやく確執が解けていく。
本作では、その復讐の連鎖を体現する存在として、涸れ野に太古から棲む竜「荒神」を配した。荒神は独立した意思で人を裁いたり罰したりする存在ではなく、“人の情念(愛と憎しみ)そのものが荒野に根ざして生きている姿”として描くことを意図している。牙彦になついたのも、牙彦を通して竜自身の内に眠っていた情念が呼び覚まされたためであり、牙彦の恨みが深まるほどに、竜の忠誠もまた荒ぶる執行力へと姿を変えていく。そして、次世代の花恵と宗太が自らの意志で憎しみを乗り越えたとき、竜もまた、その激情から解き放たれて静かな眠りにつく。
舞台・人物名・地名・展開の細部はすべて独自に創作したものであり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作はエミリー・ブロンテ(Emily Brontë)著「嵐が丘(Wuthering Heights)」を参考にした翻案作品です。