竜は価値を知らなかった
見栄のために借りた血統証つきの仔竜を夜会の帰り道に失った書記官の若妻は、闇の竜商から法外な値で身代わりを買い、十年の労働でその借金を払い続ける。ようやく明かした真実が突きつけたのは、虚栄が生んだ価値の虚しさだった。
一 灰色の街と竜市の噂
港湾都市セランドでは、人の値打ちは着ているものよりも、腕に乗せている竜で決まった。
石畳の目抜き通りを歩けば、貴婦人たちの肩先や腕の中に、様々な色の仔竜が納まっている。青みがかった鱗を持つ種は船問屋の妻の定番で、白銀の種は法官の家に多いというように、竜の血統と持ち主の家格は、いつしか分かちがたく結びついていた。年に一度、大聖堂前の広場で開かれる竜市の品評会では、貴婦人たちが互いの竜を見比べながら、鱗の艶や瞳の色について、蜜のように甘い賛辞と、針のように鋭い皮肉を交わし合う。中でも人々が言葉を失って見入るのは、燭台の灯を吸い込んでは燃えるように輝く、緋色の鱗を持つ「緋燐種(ひりんしゅ)」だった。血統帳に名を連ねる家は片手で数えるほどしかなく、その一匹を腕に抱くというだけで、社交界における格が二段も三段も上がるとまで言われていた。竜商たちの間では、真に血の絆を結んだ相手の腕の中でのみ、竜は喉の奥をかすかに震わせて「唄う」のだと言われており、その唄声こそが、血統帳の文字よりも雄弁な、真正性の証とされていた。
マレーヌは幼い頃、教会の裏庭で親を失った野良の仔竜を拾い、こっそり餌をやっていたことがある。あの竜には血統帳などなかったが、マレーヌの足音を覚え、遠くからでも駆け寄ってくるようになった。あの頃感じていた温もりと、今、通りで見かける竜たちの纏う輝きとは、どこかで違う種類のものであるはずだった。だがいつからか、マレーヌはその違いを深く考えることをやめていた。
書記官エミール・フォスの妻マレーヌは、そうした竜たちを遠目に眺めるたび、喉の奥に小さな棘が刺さるような心地を覚えた。自分にも、あの緋色の輝きがふさわしいはずだという、根拠のない確信がいつも胸の底にわだかまっていたからだ。マレーヌは古い家柄の生まれではなかったが、女学校では誰よりも所作が美しいと褒められて育った。教師たちは、彼女ならいずれ相応の家に嫁ぐだろうと囁き合ったものだ。それなのに嫁いだ先は、市庁舎の記録保管室で日がな戸籍簿と向き合う実直な書記官の家で、暮らしは慎ましいというよりも、切り詰めているという言葉のほうが近かった。
夕餉の支度をしながら、マレーヌは繕い物の山に目をやった。近所の裕福な家から回ってくる仕立て直しの仕事は、家計の足しにはなったが、指先に絹の感触を残すたび、これが自分のドレスであったならと、詮無い想像が頭をよぎるのを止められなかった。窓の外を、隣家の令嬢が生まれたばかりの青竜を肩に乗せて、御者付きの馬車に乗り込んでいくのが見えた。マレーヌはそっとカーテンを引いた。
「今日も帳簿の書き写しで一日が終わったよ」
その晩もエミールは、インク染みの残る指先を洗いながら、疲れた笑みを浮かべた。彼は不平を言わない男だった。誰よりも早く出仕し、誰よりも遅くまで残って古い戸籍を整理する。上役からの覚えもよく、いずれは記録局の要職に、という噂も同僚の間ではささやかれていたが、本人はただ、目の前の仕事を積み重ねることしか考えていないようだった。マレーヌは、そんな夫の実直さを疎ましく思う日と、誇らしく思う日とが、日替わりでやってくるのを持て余していた。
数日後、エミールは上気した顔で一通の招待状を手に帰宅した。総督府が開く夜会への招きだった。長年の地道な仕事ぶりが目に留まり、記録局の代表として末席に加えてもらえることになったのだという。エミールは何度も招待状を読み返し、子供のように声を弾ませた。
「まさか、僕たちのような家にこんな話が来るとは。マレーヌ、これでようやく、お前を人前に連れて行ってやれる」
だがマレーヌの顔は、喜びよりも先に曇った。
「本当に、わたしたちが行っても構わないの? あなたの同僚には、もっとふさわしい奥様がたくさんいらっしゃるでしょうに」
「局長は、僕の妻にぜひ会いたいとまでおっしゃったんだ。心配することはないよ」
エミールは屈託なくそう言ったが、マレーヌの胸には、喜びよりも先に不安が広がっていった。局長に会うということは、記録局中の視線が自分に注がれるということだ。そこで見劣りすれば、夫の評判にまで傷がつきかねない。マレーヌはしばらく黙り込んだ後、ようやく重い口を開いた。
「わたし、着ていくものが何もないわ。それに——」
そこで言葉を切り、マレーヌは自分の空っぽの手のひらを見つめた。総督府の夜会に集うのは、この街でもとびきりの家柄の者たちばかりだ。誰もが腕に竜を乗せて現れるだろう。何も乗せない手のひらは、招かれた側の格の低さを、何より雄弁に語ってしまう。そこに立つ自分の姿を想像するだけで、マレーヌは胃の底が冷えるような心地がした。招待状はまだ卓の上に置かれたままだったが、その白い紙が、これから訪れる何かの前触れのように、ランプの灯の下で妙に生々しく見えた。予感めいた小さな翳りが、その夜、初めて胸の内に差し込んでいた。
二 借りた緋の仔竜
夜会まで十日というその晩、マレーヌは女学校時代からの友人、イレーヌ・カルヴィの屋敷を訪ねた。イレーヌは廻船問屋の家に嫁ぎ、今では市内でも指折りの富を誇る夫人だった。玄関をくぐるだけで、マレーヌは自分の外套の色褪せた襟が、急に気恥ずかしく感じられた。応接間には季節ごとに違う色の竜が現れるという噂で、この日も見慣れぬ真珠色の仔竜が長椅子の上でまどろんでいた。
「マレーヌ、久しぶりね。すっかり老けたと思ったら、まだそんな顔ができるのね」
軽口とも本気ともつかない調子でイレーヌは笑い、マレーヌの緊張をよそに、給仕に茶を運ばせた。夜会の話を切り出すと、イレーヌは目を輝かせ、身を乗り出してあれこれと質問を重ねた挙句、悪びれもせず立ち上がり、奥の間から漆塗りの籠を運んできた。
「そうだ、これ、貸してあげる。ホムラっていうの。うちにはもう見飽きちゃって」
籠の中で丸くなっていたのは、燭台の灯を映して燃えるように輝く、緋色の鱗の仔竜だった。マレーヌは息を呑んだ。血統帳に載る緋燐種を、まるで古着でも貸すような気安さで差し出すイレーヌに、驚きと羨望とが同時にこみ上げた。
「本当に……借りてもいいの? こんな貴重なものを」
「いいのいいの。マレーヌが夜会で目立ってくれたほうが、わたしも鼻が高いもの。友達甲斐があるってものだわ」
イレーヌにとってそれは、古い友人への気軽な親切以上の意味を持たない一言だった。だがマレーヌにとっては、長年閉ざされていた扉が、ふいに開いたような出来事だった。震える指先で籠から抱き上げると、ホムラは警戒するように身をこわばらせたが、やがて根負けしたように、マレーヌの掌の温もりに小さな鼻先を押しつけてきた。その仕草に、マレーヌは思わず頬を緩めた。
夜会までの十日間、マレーヌはホムラの世話に没頭した。餌となる木の実を選び、鱗を柔らかい布で磨き、夜は寝台の脇に籠を置いて寝息を聞いた。ホムラは初め人見知りをして籠の隅に丸くなっていたが、日を追うごとにマレーヌの声を覚え、足音を聞きつけると鼻先を籠の格子に押しつけてくるようになった。餌をやる手のひらに舌先で触れる仕草も、いつしか毎朝の習慣になっていた。
エミールは仕立て屋への支払いに、こつこつ貯めていた小遣いをすべて注ぎ込み、マレーヌのために一着のドレスを誂えた。給金の前借りまでしたことは、マレーヌには黙っていた。玄関の姿見の前で、緋色の仔竜を肩に乗せたマレーヌを見て、エミールは目を細めた。
「まるで別人みたいだ。いや——本当のお前は、こういう人だったのかもしれないな」
その言葉に浮かれたのか、それとも単に慣れてきたためか、ホムラはその頃から、マレーヌの肩の上で心地よさそうに目を細めるようになっていた。真に懐いた相手の腕でしか竜は唄わないという、あの言い伝えを、マレーヌは密かに思い出していた。まさか借り物の身で、と自分に言い聞かせながらも、いつかきっと、と胸の奥で願わずにはいられなかった。夜会を三日後に控えたある晩、鏡の前でドレスの試着をするマレーヌの肩に乗ったホムラが、初めてかすかに喉を鳴らした。空耳かと思うほどの小さな震えだったが、マレーヌはその夜、なかなか寝つけなかった。
三 夜会の灯、消えた翼
総督府の大広間は、無数の燭台と、そこかしこで輝く色とりどりの竜の鱗で、まるで宝石箱をひっくり返したようだった。楽団の奏でる旋律に、絹擦れの音と、竜たちの立てるかすかな鳴き声が溶け合う。マレーヌが緋色のホムラを肩に乗せて現れると、広間にさざ波のようなどよめきが走った。誰もが振り返り、誰もが言葉を惜しまず賛辞を口にした。
「あちらの方は、どちらのご令嬢かしら。緋燐種を連れていらっしゃるなんて」
「存じ上げませんわ。でも、あの子の懐きようをご覧になって。まるで生まれた時からずっとご一緒だったみたい」
見知らぬ紳士が幾人も踊りを申し込みに来て、貴婦人たちはマレーヌのドレスと、それ以上に肩の竜について尋ねた。総督夫人までもがわざわざ歩み寄り、ホムラの鱗の艶を褒め、どちらの血統かと問うた。マレーヌは用意していた通り、遠縁から譲り受けたのだと微笑んで答えた。嘘をついているという疚しさよりも、この瞬間だけは誰にも劣らない人間になれたという高揚のほうが、はるかに強くマレーヌを満たしていた。エミールは壁際で、妻がこれほど輝く姿を見るのは初めてだと、誇らしさと少しの気後れを覚えながら見守っていた。
広間の隅では、記録局長の妻が、白銀種の竜を抱いた令嬢たちに囲まれていた。局長の妻はマレーヌの姿を認めると、わざわざ人垣を割って近づいてきた。
「あなたが書記官フォスの奥様ね。噂には聞いていたけれど、これほどとは思わなかったわ」
その一言に、周囲の視線が一斉にマレーヌへ集まった。局長の妻は続けて、若い頃に自分も緋燐種を欲しがったが手が届かなかったのだと、冗談めかして打ち明けた。その打ち明け話に、マレーヌは思わず誇らしさで頬が熱くなるのを感じた。エミールの立場が、この一晩でどれほど確かなものになったか、マレーヌにもはっきりと伝わってきた。
そして夜も更けた頃、シャンデリアの下で見知らぬ婦人に微笑みかけたその瞬間、マレーヌは肩の上で、かすかな震えを感じた。ホムラの喉の奥から、低く柔らかな唸りにも似た音が漏れていた。周囲の貴婦人たちが目を丸くする。
「まあ……唄っていますわ。この方に、心を許しているのね」
「借り物だと聞いたけれど、まさか」
その一言に、マレーヌの胸は熱いもので満たされた。血統も家柄も持たない自分に、この稀少な生き物が心を開いてくれた。そう思うと、これまでの慎ましい暮らしのすべてが報われる気がした。この夜だけは、自分は誰にも劣らない人間なのだと、心の底から信じることができた。踊りの輪の中で、マレーヌは何度も肩の上のホムラに頬を寄せた。竜の体温は、これまで感じたどんな賛辞よりも、確かな温もりを持っていた。
夜会がお開きになったのは夜半過ぎだった。辻馬車を拾う金を惜しんだエミールとマレーヌは、寒空の下を歩いて帰った。街灯の乏しい裏通りに差しかかった頃、総督府の裏手では余興の祝砲が上がり、乾いた破裂音が続けざまに夜気を裂いた。その瞬間、肩の上のホムラが激しく身をよじった。細い綱がマレーヌの指先をすり抜け、緋色の翼がはためく。
「ホムラ!」
叫んだときにはもう遅かった。仔竜は暗い夜空へ一直線に舞い上がり、燭火の届かない路地の向こうへ、瞬く間に見えなくなってしまった。マレーヌは震える足でその後を追ったが、暗闇に紛れた緋色の影は、二度と視界に戻らなかった。エミールも上着を脱ぎ捨てて駆け出し、二人で夜通し、路地から波止場まで、通りという通りを探し回った。だが夜明けの光が石畳を照らし始めても、緋色の翼影はどこにも見つからなかった。マレーヌは波止場の石段に座り込み、乾いた声で呟いた。
「わたしたち、どうすればいいの」
その問いに、エミールは答えることができなかった。
四 贋の血統
「イレーヌに、何と言えばいいの」
マレーヌは震える声で繰り返した。正直に話せば、友人としての信頼はおろか、夫の評判までもが地に落ちる。記録局の代表として夜会に招かれた矢先の醜聞は、エミールの将来をも閉ざしかねなかった。二人は幾晩も話し合った末、似た竜を探し出し、こっそり返す以外に道はないという結論に至った。
港の裏通りに、竜市と呼ばれる一角がある。表向きの店には出せない訳ありの竜たちが、灯りの乏しい店先で息を潜めていた。潮風に錆びた看板の下、老竜商人ヤコフの店には、鱗の色艶を人工的に調えるための染料の瓶が、棚いっぱいに並んでいた。ヤコフは二人の話を聞くと、値踏みするような目でマレーヌの肩のあたりを一瞥した。
「緋燐種そのものはうちにはない。血統帳に載る個体は、そう易々と手放されるものじゃないからな。だが灰燐種の仔に緋を挿せば、色柄はまず見分けがつかんだろう」
そこまで言って、ヤコフは声を低めた。
「ただし、色は誤魔化せても、血の絆までは偽れん。血統帳に名のある個体は、真に懐いた者の腕でしか唄わんのだ。貸主が抱いたとき唄わなければ、まがい物だと露見するぞ。それでも構わんなら、話は進めよう」
それでも他に道はなかった。ヤコフが示した値は、エミールの年収の何年分にも相当する法外なものだったが、二人は迷う間もなくうなずいた。家財を売り、エミールは記録局に借財を申し出て、実家の遠縁からも金を借りた。それでも足りぬ分は、高利貸しの証文に署名するほかなかった。緋に染められた仔竜を籠に入れ、震える手でイレーヌの屋敷を訪ねたときのことを、マレーヌは生涯忘れないだろう。
「ありがとう、助かったわ。この子、少し痩せたかしら」
イレーヌは籠を一瞥しただけで、大して確かめもせずに侍女へ渡してしまった。唄うかどうかを試す間もなかった。安堵と、名状しがたい虚しさが、マレーヌの胸に同時に押し寄せた。
その日から十年、フォス夫妻の暮らしは一変した。住み慣れた借家を出て、波止場に近い狭い部屋に移った。マレーヌは近所の仕立て物を一手に引き受け、夜なべで針を動かした。エミールは記録局の仕事を終えた後、竜市で荷運びの手伝いをして日銭を稼いだ。ある冬、燃料の薪すら買えず、二人で毛布にくるまって夜を明かしたこともあった。かつて誰よりも滑らかだったマレーヌの手は荒れ、若さは急速に失われていった。鏡を見るたび、そこに映るのは、あの夜会で喝采を浴びた女とは別人のような顔だった。
その苦しい日々の中で、二人の傍らには常に、身代わりに買ったあの仔竜がいた。名は借り物のまま「ホムラ」と呼び続けたが、その竜は誰よりも近くで二人の労苦を見つめ続けていた。ある夜、高熱を出したエミールの枕元で、竜は一晩中翼を広げて彼の額を扇ぎ続けた。マレーヌが夜なべの合間に疲れて眠り込むと、竜はそっと彼女の膝に頭を預けた。返済の督促状が届いた日、マレーヌが声を殺して泣いていると、竜は膝によじ登り、濡れた頬に鼻先を擦り寄せた。飾りとして生まれ変えられたその竜は、いつしか誰よりも確かな絆を、この慎ましい夫婦との間に紡いでいた。マレーヌはその温もりに支えられて、幾度となく朝を迎えることができた。
返済も半ばを過ぎた頃、マレーヌは仕立て物の届け先で、思いがけずイレーヌと鉢合わせたことがあった。イレーヌが懇意にしている屋敷の玄関先で、繕い直した外套の包みを抱えたマレーヌと、供の者を連れたイレーヌが、ほんの数歩の距離ですれ違ったのだ。とっさに顔を伏せ、日除けの帽子を目深にかぶり直したマレーヌの心臓は、早鐘のように打っていた。幸いイレーヌは、質素な身なりの女に目を留める余裕もなく、供の者と談笑しながら通り過ぎていった。角を曲がってから、マレーヌはその場にしゃがみ込みそうになるほどの安堵と、それ以上の惨めさを噛みしめた。もし気づかれていたら——その想像だけで、指先の震えはしばらく止まらなかった。
十年目の春、最後の証文にエミールが署名を終えたとき、二人は狭い部屋で肩を寄せ合い、しばらく声もなく座っていた。喜びというより、長い戦いの果てに残った、静かな疲労のような感情だった。竜はその足元で、いつものように丸くなって眠っていた。
五 竜は価値を知らなかった
その年の秋、借財を払い終えてしばらく経ったある日、マレーヌは市場の雑踏でふと呼び止められた。
「……マレーヌ? まさか、あなたなの」
振り返ると、記憶の中よりずっと豪奢な装いをしたイレーヌが、目を見開いて立っていた。日に焼け、荒れた手と、深く刻まれた目元の皺のせいで、旧友はすぐには気づかなかったのだ。イレーヌの肩には、見たこともない群青色の仔竜が乗っていた。
「お久しぶりね。ずいぶん……その、いろいろあったのね」
言葉を選びかねているイレーヌを前に、マレーヌはようやく、十年抱え続けた重荷を下ろす覚悟を決めた。あの夜会の帰り道、竜を逃がしてしまったこと。友を欺くまいとして、かえって深く欺いてしまったこと。身代わりを買うために、二人でどれほどの歳月を犠牲にしてきたか。すべてを、震える声で打ち明けた。
イレーヌはしばらく言葉を失っていたが、やがて困惑したように笑い出した。
「まあ……そんなことのために、そんなに苦労を? マレーヌ、あの子はね、灰燐種を緋に染めて、それらしい血統紙を添えただけの、仮装用の子だったのよ。あの季節限りの余興のつもりで手に入れたもので、次の夜会にはもう別の緋燐種を新調していたから、正直あなたに貸したことすら、しばらく忘れていたくらいだったわ」
乾いた笑い声とともに告げられたその一言に、マレーヌの膝から力が抜けた。血統も稀少さも、初めから何一つ実体のないものだったのだ。十年の労苦も、若さも、笑い合う時間も、すべてを吸い込んでいったのは、誰かの気まぐれな見栄が生んだ、まがい物の影にすぎなかった。
「マレーヌ、そんな顔しないで。言ってくれれば、わたしがいくらでも助けてあげたのに」
イレーヌの言葉に、悪意はなかった。ただ、竜を何匹も着せ替えてきた者と、たった一匹の竜のために十年を捧げた者との間には、決して埋まらない隔たりがあるのだと、マレーヌはそのとき初めて、骨身に染みて悟った。イレーヌはなおも何か言葉を継ごうとしていたが、マレーヌはそれ以上聞いていられず、曖昧な会釈だけを残して雑踏の中へ足を向けた。
その帰り道、日暮れの迫る通りを、マレーヌは重い足取りで歩いた。悔しさと虚しさが、潮のように胸へ押し寄せては引いていった。あの一晩の喝采のために、自分たちは何を賭けたのだろう。何のために、若さを、暮らしを、削り取ってきたのだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、マレーヌは家路をたどった。
家に着くと、扉を開ける前から、聞き慣れた低い唸り声が聞こえてきた。十年連れ添った竜が、扉の内側で待ちきれずに喉を鳴らしていたのだ。マレーヌが敷居をまたぐと、竜はまっすぐに飛んできて肩に乗り、耳元でかすかに、確かに、唄い始めた。それは血統帳に記されるような由緒ある唄ではなかった。だが十年という歳月の重みだけが持ちうる、掛け値のない響きだった。
その音を聞きながら、マレーヌは静かに涙をこぼした。悔しさのためだけではなかった。血統帳にも載らず、誰の羨望も浴びることのないこの竜が、ただ十年という歳月をかけて、正直に差し出してくれた真の絆——それだけが、あの夜会の一晩の喝采よりも、よほど確かな価値を持っていることに、マレーヌはようやく気がついたのだった。竜は、自分がまがい物と呼ばれる由縁など、初めから何も知らなかった。血統帳の名も、鱗の色の由来も、竜には関わりのないことだった。ただそこに在り、慈しまれた分だけの真心を、静かに返し続けていただけだった。エミールが仕事から帰り、扉を開けたとき、マレーヌは竜を肩に乗せたまま、久しく忘れていたような、穏やかな微笑みを浮かべていた。