竜は帰る場所を諦めなかった
嵐の夜、アヒルの巣に紛れ込んだ一つの卵。孵ったのは灰褐色の鱗を持つ仔竜だった。化け物と呼ばれ追われ続けた彼が、雪解けの湖でついに見出したのは、失われた故郷だった。
一 嵐の夜、迷い込んだ卵
スガ村の外れに、寡婦のトヨが一人で営む小さな家禽小屋があった。夫を亡くして七年、痛む腰をさすりながらアヒルの世話を続けてきたトヨにとって、春先の孵化はその年の暮らしを左右する大事な仕事だった。屋根板の傷みはもう三年越しで放ってあり、隙間から漏れる雨だれを桶で受けるのも、この家の春の恒例行事になっていた。今年こそ雛を売った金でどうにかしたいと、トヨは連日、藁を敷き替えては巣の卵を数え、指先で殻の温もりを確かめる日々を送っていた。
村の年寄りたちは、遠い山の稜線の向こうに竜の棲む湖があるという言い伝えを、酒の席の与太話として語ることがあった。子供の頃に聞かされたその話を、トヨ自身もほとんど忘れかけていた。竜など、絵物語の中だけの生き物だと、誰もが疑いもせずに思っていた。
その夜、村道を貫くようにして嵐が来た。風は家々の戸板を軋ませ、雷は遠い山の稜線を幾度も白く裂いた。ちょうど隣町から卵の仕入れに回っていた行商人の荷馬車が、村はずれの泥濘に車輪を取られて大きく傾いた。荷台に積んであった木箱が跳ね、藁にくるまれた卵がいくつも道端に転がり落ちる。馬が棹立ちになって暴れる中、行商人は「畜生、こんな夜に限って」と毒づきながら手綱を握り直すので精一杯で、闇の中に転げていった卵のことなど構ってはいられなかった。彼が扱う卵の中には、時折り、山向こうの民から「安全な場所に運んでほしい」と頼まれる、少し変わった大きな卵が交じっていることがあったが、その夜の混乱の中では、それがどれであったかを気にする余裕など誰にもなかった。
行商人は雷鳴に急かされながら、散らばった卵をいくつか拾い集めたものの、暗闇と泥にまみれた道の上で数を数え直す余裕はなかった。「まあ、割れちまったのもあるだろう。仕方がない」と独りごちて荷を縛り直すと、傾いだ車輪を何とか立て直し、逃げるように村を後にした。彼が失くした卵が、その後どこに転がっていったのかを知る者は、誰もいなかった。
その卵の一つが、雨に濁った溝を伝い、ちょうどトヨの家禽小屋の壁の隙間から中へと転がり込んだ。折しも巣の中で卵を温めていた母アヒルは、外の物音に一度は身を固くしたものの、寒さに凍えたその卵が藁をかき分けて自分の羽の下にもぐり込んでくるのを、拒みはしなかった。他の卵よりひとまわり大きく、殻の色もどこか鈍い灰色を帯びていたが、暗い巣の中でそれを気に留める者はいなかった。母アヒルはただ、いつもより重く感じるその卵の上に、そっと羽を広げて眠りについた。
翌朝、嵐が去った後の澄んだ光の中で藁を直しに来たトヨは、巣の隅にある見慣れぬ卵に気づいて眉をひそめた。持ち上げてみると、ずしりと重く、表面には他のアヒルの卵にはない、細かな網目のような凹凸がある。行商人が卵を落としていったという話は昼過ぎには村中に広まっていたが、トヨはそれがこの卵のことだとは思い至らなかった。ただ、この妙な卵を巣から取り除けば母アヒルが気を揉んで他の卵まで見放しかねない、という現実的な理由から、トヨはそれをそのまま巣に残すことに決めた。
「まあ、孵るにしても孵らないにしても、お前の好きにおし」
トヨは独り言のようにそう呟いて、卵にもう一度藁をかけ直すと、小屋の戸を閉めた。風はもう止んでいたが、遠くの山並みの上空には、まだ薄暗い雲が幾重にも渦を巻いて残っていた。誰も気に留めなかったその雲の形が、まるで巨きな翼が幾つも重なり合っているように見えたことに、気づいた者は村に一人もいなかった。トヨは井戸端で桶に水を汲みながら、ふと胸の奥に小さな胸騒ぎを覚えたが、それが何によるものかを言葉にすることはできなかった。
二 灰色の仔、裏庭にて
他の卵は十日足らずで次々と孵り、黄色い綿毛に包まれた雛たちが巣の周りでよちよちと歩き始めた。だが例の大きな卵だけは、二週間が過ぎても、三週間が過ぎても、殻に一筋のひびすら見せなかった。近所の農夫たちは小屋を覗きに来るたびに「もう腐っているに違いない、早く捨ててしまえ、疫病でも呼び込んだらどうする」と口々に言ったが、母アヒルはその卵の上から動こうとはしなかった。夜になると温もりを求めるように身を寄せてくるその卵の重みを、母アヒルはむしろ愛おしむようにさえ見えた。トヨもまた、意地のようなものでその卵を見捨てなかった。
そして四週目のある朝、殻の表面に細い亀裂が走り、やがて中から這い出てきたのは、綿毛ではなく、湿った灰褐色の鱗に覆われた、小さくぎこちない生き物だった。丸まった尻尾の先と、まだ柔らかい小さな爪。背中には、翼になりきれていない皺だらけの膜が張りついている。小屋に居合わせた農夫の女房が悲鳴を上げ、鍬を取りに走った男もいた。
母アヒルは一瞬、体を強張らせた。だが、生まれたばかりのその生き物が寒さに震えながら羽の下に潜り込もうとするのを見て、迷いながらも自分の翼を広げてやった。「化け物だ、今のうちに始末してしまえ」と男が鍬を手に近づいてきたが、トヨはその前に立ちはだかった。
「殺されるいわれのあるものが、この子のどこにある。ただ、他のと違う形で生まれてきただけだろう」
そう言い放ったトヨの声は、自分でも驚くほど固かった。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、震えながら鳴くこともできずにいるその小さな生き物を見ていると、亡くなった夫が病床で見せた、あの心細げな眼差しを思い出したのだった。男は舌打ちをして鍬を下ろしたが、「後で何かあっても知らんぞ」と捨て台詞を残して立ち去った。
仔竜――と呼ぶよりほかにない、その小さな生き物は、それから夏の盛りまで裏庭で育った。水に入れば他の雛のようには浮かず、じたばたと羽をばたつかせて岸に這い上がる。それを見た雄鶏の群れの長は首を伸ばして甲高く鳴き、羽を膨らませて威嚇した。他の家禽たちも「化け物の子」「拾われっ子」と嘴でつつき、餌場から追い立てた。仔竜が近づくだけで水浴びの輪が割れ、誰も隣に並ぼうとしない日が続いた。
それでも母アヒルは自分の子らと分け隔てなく仔竜に餌をついばんでやり、夜には翼の下に招き入れた。トヨは毎晩、彼のために小屋の隅に藁を厚く敷いてやり、他の家禽の目を盗んでは川魚の切れ端をそっと与えた。
「お前は泳ぎ方が下手なだけで、他の子より力があるじゃないか。その爪で土を掘る仕草を見てごらん、誰もお前には敵わないよ」
母アヒルがそう言うように鳴き、トヨがそれに相槌を打つように声をかけるのを、仔竜はいつも黙って聞いていた。言葉こそ交わせなかったが、母アヒルの傍らにいる間だけは、つつかれる恐怖も、嘲る声も、少しだけ遠のいた。裏庭の隅、干し草の陰でうずくまり、母アヒルの羽づくろいを受けるひとときが、仔竜にとって一日でもっとも安らげる時間になっていった。
だが、夏が深まるにつれ、噂は村の外にまで広がっていった。「トヨの家に化け物が飼われている」という話は尾ひれをつけて隣村にまで届き、家畜を狙う怪物ではないかと恐れた村人たちが、寄合の場でトヨを詰問した。
「あれを飼い続けるなら、お前の家の卵も雛も、もう誰も買わん。市場への出入りも禁じる」
村長にそう告げられ、トヨはしばらく黙り込んでいた。生活のすべてを賭けた選択を迫られていることは、誰よりもトヨ自身が分かっていた。仔竜はその話を、寄合の建物の陰から一部始終聞いていた。
その夜、トヨは仔竜を裏庭の外れまで連れ出し、震える声で告げた。
「お前を憎くて言うんじゃない。だが、このままではお前も、私も、共倒れになる。お前はきっと、私が思っているよりずっと大きくなる子だ。どこか、ここではない場所に、お前の居場所があるはずだよ」
トヨはそう言うと、自分の羽織っていた青い襟巻きの端を裂いて、仔竜の首元に結んでやった。指先が震えていた。仔竜は初めて、自分を見つめるトヨの目に浮かんだ涙に気づいた。母アヒルは何も言わず、ただ長い間、仔竜の背に自分の嘴を押し当てていた。
仔竜はその夜、月明かりだけを頼りに、初めて一人で村の柵を越えた。振り返ると、小屋の灯りの下でトヨが立ち尽くしているのが見えた。悲しみと安堵とがない交ぜになったその横顔を、仔竜は長いこと忘れられなかった。
三 松明の影、彷徨う心
村を出てからの仔竜の旅は、行く先々での拒絶の連続だった。ある村では井戸端で水を飲もうとしただけで悲鳴が上がり、松明を掲げた男たちに「化け物が出た、逃がすな」と追い立てられ、夜通し森の中を逃げ惑った。ある牧場では、羊を狙う怪物と思い込んだ牧夫が投げた石が肩を掠め、鱗の隙間から血が滲んだ。彼が望んだのは、ただ雨風をしのげる場所と、誰にも怯えられない一時の静けさだけだったが、行く先々でそれすらも許されなかった。
橋のない川を渡ろうとして流されかけたこともあった。まだ十分に力の入らない翼では飛ぶこともできず、仔竜は増水した川に呑まれ、岩に体を打ちつけながら半里も下流に流された末、ようやく岸辺の木の根にしがみついて命をつないだ。その夜は動くこともできず、ただ震えながら夜明けを待つしかなかった。
一度だけ、小さな異変があった。とある村外れの納屋に隠れていたとき、その家の幼い娘が、夜な夜なパンの欠片を戸口に置いていってくれたのだ。娘は仔竜の姿を見ても悲鳴を上げず、ただじっと見つめてから小さく会釈をした。
「あなた、独りぼっちなの」
娘は小声でそう尋ねた。仔竜には答える言葉がなかったが、その優しい声だけは、凍りついた心の奥にしばらく温かく残った。だがその親切は長くは続かなかった。娘の父親がそれを見咎め、「そんなものに餌をやるな、村の禍になる、次に見かけたら猟師を呼ぶぞ」と娘を叱りつけ、納屋には鍵がかけられた。仔竜はその夜のうちに、また旅立たねばならなかった。振り返ると、格子窓の向こうから娘がこちらを見ているのが、ほんの一瞬だけ見えた気がした。
秋の初め、山道で片脚を失った老いた狐と出会ったことがあった。狐もまた、群れから外れ、独りで冬を越そうとしている身の上だった。互いに言葉は交わせなかったが、二晩ほど、崩れかけた炭焼き小屋の跡で身を寄せ合って眠った。狐は仔竜の鱗の冷たさを厭うでもなく、むしろその体温を分け合うようにすり寄ってきた。だが三日目の朝、狐は仔竜が目を覚ます前に、跡を濁すこともなくどこかへ姿を消していた。互いにこれ以上連れ立てば、どちらもより人目を引き、狩られやすくなることを、狐は知っていたのかもしれない。仔竜はしばらくの間、消えた狐の匂いを追って鼻を鳴らしていたが、やがて諦めて再び独り旅を続けた。あの二晩の温もりだけが、長い旅の中でトヨの記憶に次いで、仔竜の胸に残る数少ない優しさだった。
追われることに、いつしか慣れてしまった自分に気づくたび、仔竜の胸は重く沈んだ。追われるのが怖いのではない。追われて当然の何かが、自分の中にあるのかもしれない――そんな疑いが、日を追うごとに深く根を張っていった。水面に映る自分の姿を見るのが、いつしか恐ろしくなっていた。
秋が終わり、冬が来た。仔竜はある凍った沼地の岸に、身を隠すようにして丸くなった。育ちきらない翼の膜は寒さで硬く強張り、羽ばたこうにもろくに動かせなかった。餌になるものはほとんど見つからず、痩せ細った体で凍える夜を、ただじっと耐え続けるしかなかった。吐く息は白く固まり、鱗の表面にはうっすらと霜が降りた。
夜、氷に閉ざされた沼の面を見下ろしながら、仔竜はトヨの声を思い出していた。「お前はきっと、私が思っているよりずっと大きくなる子だ」――あの言葉の意味を、まだ何一つ掴めていない自分がいた。母アヒルの温かい羽の感触も、遠い記憶のように薄れかけていた。それでも、その二つの記憶と、首に結ばれたままの色褪せた青い襟巻きだけは、凍りつく心の奥で消えずに残り続けた。
冬の底で、仔竜は幾度となく思った。このまま誰にも見つからず、静かに凍りついてしまうのではないか、と。だが不思議なことに、腹の奥のどこかに、まだ小さな熱のようなものが灯っていた。それは希望と呼ぶにはあまりに頼りなく、ただ、まだ死にたくないという、動物としての本能に近いものだったのかもしれない。仔竜は、その小さな熱だけを頼りに、凍える夜をひとつ、またひとつと越えていった。
四 雪解けの湖、竜の群れ
長い冬がようやく緩み、沼のほとりに薄氷の割れる音が響き始めた頃、仔竜はふと、体の奥から突き上げてくるような衝動を感じた。それは言葉にできない、ただ「北の山の方角へ」という一点に引き寄せられるような感覚だった。物心ついてからずっと感じていながら、これまでは気に留める余裕すらなかったその引力に、仔竜は初めて素直に従うことにした。
雪解け水が谷を伝い、川となって流れ落ちる音を頼りに、仔竜は幾日もかけて山を登った。痩せた体には堪える道のりだったが、進むごとに空気は澄み渡り、頭上を覆っていた重苦しい雲がまるで嘘のように晴れていった。岩肌を這うように越え、時に転がり落ちそうになりながらも、仔竜は足を止めなかった。
やがて辿り着いたのは、切り立った崖に囲まれた高地の湖だった。雪解けの水を湛えたその湖面は、朝の光を受けて銀色に輝いている。そして、その上空には――大きく翼を広げた生き物たちが、幾頭も連なって悠然と輪を描いて飛んでいた。翼が風を切る音が、遠く谷にまで響いてくる。
仔竜は思わず岩陰に身を潜めた。あれほど大きな翼を持つものを見たことがなかった。恐怖が先に立ち、逃げ出そうとする足がすくんで動かない。だが、渇きに耐えかねて水際に近づき、湖面に顔を寄せたとき、仔竜は水鏡に映った己の姿に、息を呑んで立ち尽くした。
そこに映っていたのは、灰褐色の鱗に覆われた、あの空を舞う生き物たちと同じ輪郭を持つ姿だった。ぎこちなく萎びていたはずの背中の膜は、いつの間にか力強い翼へと育っていた。伸びた首、逞しくなった四肢、そして額から背に連なる、独特の稲妻形の斑紋――それは彼がこれまで恐れ、疎まれてきた「異形」ではなく、まさしく空を舞うあの群れと同じ、竜の姿だった。
湖面のさざ波にその輪郭が揺れるのを、仔竜はただじっと見つめていた。喜びよりも先に、めまいにも似た戸惑いが胸を満たした。自分がこれまで信じてきた「自分」の形が、音を立てて崩れ落ちていくような感覚だった。
そのとき、群れの中から一頭の年老いた竜が、静かに高度を落として岸辺に降り立った。灰の混じった鱗と、深い皺の刻まれた眼差しを持つその竜は、警戒するように仔竜との間合いを詰めた。仔竜は反射的に身を縮め、逃げ場を探して視線を彷徨わせた。だがその視線が、仔竜の額から背に走る稲妻形の斑紋に留まった瞬間、老竜の表情が大きく揺らいだ。
「その斑紋は……まさか」
低く震える声で、老竜――群れの長老グラームは呟いた。数年前の嵐の夜、卵の孵化を早めるために人里近くの信頼できる商人へ一時預けていた卵の一つが、嵐に紛れて行方知れずになったことを、グラームは今でも悔やみ続けていた。あの晩、失われた卵にあった斑紋こそ、目の前の若い竜が持つものと寸分違わなかった。
「お前は、あの嵐の夜に消えた仔だ。ずっと、探していたわけではなかった。もう戻らぬものと諦めていた。すまなかった、迎えに行ってやれなかったことを、どうか許してくれ」
グラームは、震える声のまま、あの夜のことを語り始めた。孵化を早めるため、山向こうの信頼できる商人の手を借りて、里の暖かな厩に卵をいくつか預けていたこと。ところが運悪く嵐がその夜に重なり、商人の荷馬車が難に遭ったという知らせだけが後になって届いたこと。群れの誰もが「あの荒れ模様では助かるまい」と口をつぐみ、以来その話に触れる者はいなかったこと。グラーム自身、夜ごと湖の上を飛びながら、失われた卵のことを胸の奥にしまい込んだまま、幾つもの季節をやり過ごしてきたのだった。
「あの夜、俺たちの誰も、お前を迎えに行ってやれなかった。お前が独りで、あれほど長い間、耐え続けねばならなかったことを思うと」
グラームの声には、後悔と驚きと、抑えきれない喜びが同時ににじんでいた。仔竜は、言葉の意味を半分も理解できないまま、ただその声の震えだけを聞き取っていた。恐怖でも敵意でもない、初めて向けられる種類の眼差しに、体の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
「怖がらなくていい。お前の生まれた場所は、ここだ」
グラームがそう言って翼を広げたとき、上空を舞っていた群れの何頭かが、興味と警戒の入り混じった目でこちらを見下ろしていた。若い竜の何頭かは、見慣れぬ育ち方をした彼を訝しむように唸り、一頭は「そいつの匂いは、俺たちと違う」と鼻を鳴らした。だがグラームが静かに一喝すると、その声はすぐに収まった。
「この子の育ちが変わっているのは、その子のせいではない。人里で、たった独りで育たねばならなかったのだ。迎え入れぬ理由には、ならぬ」
グラームの言葉に、群れは次第に静かな受け入れの空気に変わっていった。若い竜の一頭が、恐る恐る仔竜の傍らに舞い降り、「怖い思いをしたんだな」と小さく鼻先を寄せてきた。仔竜は、生まれて初めて、誰にも追われることのない場所に立っていた。喉の奥から込み上げてくる震えが、悲しみなのか安堵なのか、自分でも判別がつかなかった。
五 大空の同胞、地上の眼差し
それから幾月かが過ぎた。仔竜は――いや、もはやその名で呼ぶ必要はなかった。グラームは彼に、額の斑紋にちなんで「カイ」という名を与えた。灰色の空を裂く稲妻という意味を込めた名だった。カイは群れの中で少しずつ飛び方を学び、風を捉える呼吸を覚え、傍らに舞い降りてきたあの若い竜――シダという名だった――と競うように空を駆け、仲間たちと連なって舞えるようになっていった。
「お前、最初に会った時よりずっと様になってきたな」
シダにそう言われるたび、カイは照れくさそうに翼をすぼめた。かつて水に浮くことすらままならなかった体が、今では風をまとって自在に舞う。その変化を、カイ自身が誰よりも信じられずにいた。
ある日、群れは季節の渡りのため、南の平地へと長い飛行に出た。その進路は、かつてカイが追われ続けた幾つもの村の上空を通っていた。松明を掲げて彼を追い立てた村、石を投げつけた牧場、パンの欠片をくれた娘のいた村、そして――スガ村の上空も。
地上では、農作業の手を止めた村人たちが、空を覆うほどの竜の群れを見上げて息を呑んでいた。恐怖に立ちすくむ者もいれば、ただその壮麗さに見入る者もいた。群れの中ほどを飛ぶ一頭、額に稲妻形の斑紋を持つ若い竜に目を留めた老女が、震える指でそれを指し示した。トヨだった。
「まさか……あの子なのかい」
その呟きは風にかき消されたが、上空を舞うカイは、確かに小屋の方角へと一度だけ大きく旋回した。かつて自分にパンの欠片を分けてくれた娘のいた村の上を通り過ぎるときも、追い立てた牧夫のいた牧場の上を通り過ぎるときも、カイは怒りも憎しみも覚えなかった。ただ、遠く見下ろす地上の景色が、いつか自分がそこにいたことの証のように、静かに胸の奥を温めた。
トヨの小屋の上を過ぎるとき、カイは高度を落とし、首に結んだままだった青い襟巻きの切れ端を、そっと風に流した。それは風に舞いながら、庭先に立つトヨの足元へと落ちていった。トヨはそれを拾い上げ、震える指で握りしめながら、空を見上げ続けた。かつて追われ、化け物と呼ばれた小さな仔が、今は堂々と群れの一員として空を渡っていく――その姿を、トヨは涙をこらえながら、いつまでも目で追い続けた。かたわらでは母アヒルも、首を高く伸ばして空を仰いでいた。
群れが山の向こうへと消えていった後も、村人たちはしばらくその場を動けずにいた。恐怖だったものが、いつしか畏敬に似た何かへと変わっていくのを、誰もがどこかで感じ取っていた。かつて異物として疎まれた者は、ただ本来の同胞のもとにいなかっただけだった。そして真の居場所を得た瞬間、疎外の記憶さえも、静かな祝福へと姿を変えていくのだった。
高地の湖に戻ったカイは、その夜、水面に映る自分の姿を、もう戸惑うことなく見つめた。灰色の鱗、稲妻形の斑紋、力強く広がる翼――そのすべてが、迷いなく「自分」だと言い切れる夜だった。遠く地上に残してきた温かな記憶を胸に抱きながら、カイは同胞たちの傍らで、静かに眠りについた。窓辺で襟巻きの切れ端を胸に抱いていたトヨの姿を、湖の水面が、いつまでも淡く映し出しているような気がした。