物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は影を拒まなかった

初めて船を任されたばかりの若い船長は、嵐の去った夜、舷側にすがる竜を見つけて自室に匿う。名乗らぬまま「影」と呼び合ううちに、船長は誰にも語れない不安を分かち合い、初めて船を掌握する手ごたえを得る。

一 初めての夜、澄まない胸の裡

夜霧丸が錨を上げてから、まだ七日しか経っていなかった。

リアンは船尾楼の手すりに手を置いたまま、暮れなずむ海を眺めていた。二十四になったばかりの若さで船長の辞令を受け取ったとき、誇らしさよりも先に込み上げてきたのは、底の見えない不安だった。この船の乗組員たちは、誰一人としてリアンが育てた者ではない。前の船長が急な病で職を退いたあと、本社が寄越したのは、よそから来た若い男だった。甲板を歩けば、視線が背中に貼りつくのを感じる。声には出さないが、乗組員たちの目はいつもこう問うている――お前に、この船を任せて大丈夫なのか、と。

一等航海士のハウエルは、二十年近くこの夜霧丸に乗り続けている男だった。白髪の交じった顎鬚をしごきながら、リアンの指示には黙って従う。従いはするが、その所作の端々に、値踏みするような間があった。今朝も、リアンが風向きを読み違えて舵の角度を一度訂正したとき、ハウエルは何も言わずに口の端をわずかに歪めた。それだけで、リアンの胸の底に冷たい水が落ちたような気がした。

夜霧丸はいま、暁礁と呼ばれる岩礁群を左手に望む海域を進んでいた。この一帯の海には、船乗りたちの間で古くから伝わる言い習わしがある。竜を狩らず、竜の眠りを妨げない船だけが、嵐の夜にも暁礁を無事にくぐり抜けられる――そんな迷信じみた話を、リアンは幼い頃、祖父の膝の上で聞かされたことがあった。むろん、竜などという生き物を、リアンは一度も目にしたことがない。あれはただの海霧と潮流が織りなす偶然の逸話だろうと、大人になってからは思うようにしていた。

昼過ぎから海は荒れはじめ、夕刻には本格的な嵐になった。帆を絞り、舵を握り締めて風と波にあらがう間、リアンは自分でも意外なほど冷静に指示を出せたと思う。だがそれも、心の底に張りついた不安を上から押し隠していただけなのかもしれない。嵐が過ぎ去り、ようやく風が凪いだいま、疲れきった乗組員たちは仮眠に落ち、甲板にはリアン一人が残っていた。

嵐の最中、最年長の水夫が、舫綱を締め直しながらぼそりと呟いたのを、リアンは聞き逃さなかった。「今夜は風の唸り方が違う。竜が誰かを追っているときの音だ」と。若い水夫たちは笑ってその言葉を受け流したが、老水夫はそれきり黙り込み、二度と口を開かなかった。リアンもまた、迷信だと分かっていながら、なぜかその一言だけが耳の奥に引っかかって離れなかった。空を裂くようだった風の唸りは、たしかに、これまで経験したどの嵐とも違う響きを孕んでいたように思える。

一人になると、途端に胸の裡が騒がしくなる。船長という役目は、孤独と隣り合わせのものだと、誰かに聞かされたことがあった。だがその孤独の重みを、実際に味わうまで、リアンは本当の意味では理解していなかった。何かを決断するたびに、その結果をすべて一人で引き受けなければならない。誰にも弱音を吐けない。誰にも、今夜のように心細いとは言えない。

甲板の隅で揺れるランタンの明かりが、波の残滓を淡く照らしていた。リアンはその明かりを頼りに、船縁に沿ってゆっくりと歩き出した。特に用事があったわけではない。ただ、一人で立っていることに耐えられず、体を動かしたかっただけだった。

縄梯子の下りたあたりまで来たとき、リアンはふと足を止めた。

波の音に紛れて、何か別の音が聞こえた気がした。息づかいに似た、低く掠れた音だった。

二 舷側に息づく影

リアンは手すりから身を乗り出し、ランタンを海面へと向けた。

縄梯子の途中、波にわずかに洗われる高さのところに、何かがしがみついていた。最初は難破船の残骸かと思った。だがランタンの光が届いた瞬間、それが人の形をしていることに気づいて、リアンは息を呑んだ。

いや、人ではない。

濡れた黒髪の下から覗く肌には、月光を弾くような淡い鱗の名残があった。両の肩甲骨のあたりには、たたまれた翼の骨組みらしきものが、薄い皮膜ごと張りついている。それは荒く肩で息をしながら、片手だけで縄梯子にすがりついていた。もう片方の腕は、深い傷を負っているのか、力なく垂れ下がっている。

「……人間か」

掠れた声が、その影から漏れた。リアンよりいくつか年下に見える、若い声だった。

「動くな。誰か呼ぶ」

咄嗟にそう口にしてから、リアンは自分の言葉に戸惑った。誰を呼ぶというのか。乗組員を呼べば、この生き物はどうなる。祖父の言い伝えが本当なら、竜を害する船は暁礁を渡り切れない。だが迷信を抜きにしても、リアンの中には、いま目の前で消え入りそうにしている者を、そのまま海に突き落とすことへの、単純な躊躇いがあった。

「呼ばないでくれ」

竜は――リアンはもう、それを竜だと確信していた――そう懇願するように言った。

「同族に追われている。見つかれば、私は終わりだ」

「同族に? なぜ」

「掟を破った。それだけで十分だろう」

竜はそう言ったきり、口をつぐんだ。傷ついた腕が縄梯子から滑り落ちかけ、リアンは反射的に手を伸ばして、その腕を掴んでいた。冷たく、しかし確かに脈打つ体温が、手のひらに伝わってきた。

なぜそうしたのか、リアン自身にもよくわからなかった。ただ、乗組員たちの値踏みするような視線に晒され続けてきたこの数日の中で、初めて、自分の判断だけで何かを選び取っている感覚があった。誰の顔色も窺わず、誰の承認も待たずに。

見つかれば、船長としての立場すら危うくなるかもしれない。密航者を、しかも得体の知れない生き物を匿ったなどと知れれば、本社はためらいなくリアンを解任するだろう。頭の片隅でそう計算する自分と、それでも手を離せずにいる自分とが、同時に胸の中でせめぎ合っていた。結局、リアンは後者を選んだ。理屈では説明のつかない選択だった。

リアンは周囲を見回した。甲板に人影はない。見張りは嵐の後片付けに追われ、船尾楼の裏手までは手が回っていなかった。

「来い。急げ」

竜を縄梯子から引き上げ、肩を貸しながら、リアンは自室へと続く狭い通路を進んだ。竜の体は思いのほか軽く、それでいて濡れた翼の膜が触れるたびに、ひやりとした異物感がリアンの腕に残った。

船長室の奥には、使われなくなった予備の帆布を収める小部屋がある。ハウエルでさえ滅多に立ち入らない場所だった。リアンはそこに竜を横たえ、手早く傷の様子を検めた。腕の傷は深いが、命に関わるものではなさそうだった。

「なぜ、匿う」

竜が、掠れた声で尋ねた。リアンは少し考えてから、正直に答えた。

「わからない。ただ、放っておけなかった」

竜は闇の中で、じっとリアンを見返していた。その目の色は、ランタンの光の加減で、赤にも金にも見えた。

「名を聞いてもいいか」

リアンがそう尋ねると、竜はわずかに首を振った。

「名乗れば、お前も同罪になる。私を匿ったというだけでも、十分に危うい立場になるだろうに」

「じゃあ、何と呼べばいい」

「好きに呼べばいい。……影とでも」

その言葉に、リアンは奇妙な納得を覚えた。影。自分もまた、この船の上では、誰の目にもまだ実体を持たない、頼りない影のようなものだと感じていたからだ。

「わかった。影」

リアンはそう繰り返し、水と乾いた布を運んでくると約束して、小部屋の戸をそっと閉めた。

三 名もなき合図

その夜から、リアンには誰にも明かせない役目がひとつ増えた。

食事のたびに自分の分をわずかに残し、夜更けに乗組員たちが寝静まった頃を見計らって、小部屋へと運ぶ。竜――影は、日ごとに顔色を取り戻していったが、腕の傷が完全に癒えるまでには、まだしばらくかかりそうだった。

「なぜ、掟を破った」

三日目の夜、リアンはようやくそれを尋ねる余裕を得た。影は、しばらく黙って闇を見つめていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。

「嵐の夜、小さな漁船が転覆しかけていた。人間の船だ。私たち竜には、人前に姿を現してはならないという古い掟がある。姿を見られれば、人はいずれ竜を恐れ、あるいは狩ろうとする。その恐れと欲が積み重なれば、いつか本物の争いになる。だから私たちは、人の目に触れぬところで、密かに嵐を鎮めたり、潮を整えたりしてきた」

「暁礁の言い伝えは……」

「本当だ。竜を狩らぬ船には、私たちなりの礼を返す。だが、それは常に隠れて行われるべきものだった」

影は、傷ついた腕にそっと触れながら続けた。

「あの夜、漁船の男たちは、隠れて助けるには近すぎるところで沈みかけていた。翼を広げ、この身をさらして波を遮るしかなかった。男たちは私を見た。悲鳴を上げる者もいた。だが、船は沈まずに済んだ」

「それの、何が罪になる」

「掟だ。理由がどうであれ、人前に姿を見せた時点で、私は同族の裁きを受ける身になる。追っ手はもうこの海域まで来ているはずだ。人の姿も取れる者たちだから、お前の船に紛れ込むことも、造作もない」

その言葉に、リアンの背筋が冷たくなった。だが同時に、リアンの中で何かが静かに定まっていくのも感じていた。

「後悔しているか」

リアンが尋ねると、影は少し驚いたように目を見開き、それから小さく首を振った。

「後悔と、この痛みは別のものだ。もう一度同じ夜に戻っても、私はきっと同じように翼を広げる。ただ、そのあとに何が待っているかを、あのときは考えていなかっただけだ」

「家族は」

「同族の群れはある。だが、群れというのは、時に掟そのものよりも冷たいものだ。私を庇う者は誰もいないだろう。庇えば、その者も同罪に問われる。だから私は、誰にも助けを求めずに、ここまで逃げてきた」

その言葉に、リアンは自分の胸の裡にあるものと、驚くほど似た輪郭を見つけた気がした。乗組員という群れの中で、誰にも本音を明かせずに一人で立ち続けてきた自分と、同族という群れから追われ、たった一人で夜を渡ってきたこの竜と。互いに違う理由で、互いに似た孤独を抱えている。そう思うと、なぜか胸の重さが、わずかに軽くなった。

翌日、ハウエルが妙な顔でリアンのもとへやってきた。

「船長。夕べ、船倉の見回りをしていた乗組員が、船尾のあたりで妙な足音を聞いたと言っています」

「気のせいだろう。嵐の後で、みな気が立っている」

リアンは、自分でも驚くほど落ち着いた声でそう答えていた。ハウエルは疑わしげにリアンを見つめたが、それ以上は追及せず、黙って持ち場に戻っていった。

その夜、影に日中のやり取りを話すと、影は静かに言った。

「お前は、うまくやっている」

「うまくなど……ただ、噓をついているだけだ」

「噓ではない。落ち着いて、正しいと思う言葉を選んだだけだろう。それは噓と違う」

影の言葉に、リアンは思わず苦笑した。

「お前に船の指揮の何がわかる」

「わからない。だが、私も同じだ。掟を守るのが正しいのか、目の前で沈む者を見捨てないのが正しいのか、選ぶ瞬間まで、私自身にもわからなかった。選んだ後になって、それが自分の答えだったと知る。そういうものではないか、指揮というのは」

その言葉は、リアンの胸の奥に、静かに、しかし確かに沈んでいった。乗組員たちの視線に怯え、自分の判断に自信を持てずにいたこの数日、リアンはずっと、正解がどこか外にあると思い込んでいた。だが影と言葉を交わすたびに、正解とは自分が選び取った後にしか形にならないものかもしれない、と思えてきた。

それから数日、船は比較的穏やかな海を進んだ。リアンは日中、努めて堂々と乗組員たちに指示を出し、夜になると小部屋を訪れて、影と静かに言葉を交わす。誰にも打ち明けられない秘密を共有する相手がいるというだけで、リアンの足取りは、目に見えて確かなものになっていった。ハウエルの目にも、その変化は映っていたはずだった。値踏みするような視線は、いつしか、ただ注意深く見守るだけのものに変わっていた。

ある晩、給仕係の若い水夫が、船長室へ皿を下げに来て、リアンの分の食事が妙に少なく減っていることに気づいた。

「船長、近頃、食が細くありませんか。お加減でも」

とっさに、リアンは笑って誤魔化した。

「なに、慣れない指揮で気疲れしているだけだ。心配は要らない」

若い水夫は納得したように頷いて下がっていったが、リアンの心臓はしばらく早鐘を打ち続けていた。小さな綻びが、いつどこから広がるか分からない。その緊張感もまた、リアンにとっては初めて味わう、船長という役目の重さの一部だった。

だが、穏やかな日々は長く続かなかった。

四 掟の番人、迫る

七日目の朝、見張りが一隻の船を発見した。細身の快速艇で、旗も掲げず、まっすぐに夜霧丸へと近づいてくる。

「臨検を求める」

やがて快速艇から乗り移ってきたのは、灰色がかった長衣をまとった、五人の男女だった。先頭に立つ、年齢の見当もつかない女が、静かな、しかしよく通る声でそう告げた。

「何の権限で」

リアンが問うと、女は微かに笑みを浮かべた。

「この海域で、掟を破った者を追っている。人前に姿を現した咎人だ。お前の船に匿われているという噂がある」

乗組員たちがざわめいた。ハウエルが鋭い視線をリアンに向ける。リアンは、その視線を正面から受け止めながら、内心の動揺を必死に押し隠した。

「その者を捕らえれば、どうなる」

リアンが尋ねると、女は感情の読めない顔で答えた。

「掟に照らして裁かれる。だが、それはお前が案じることではない。案じるべきは、この海域を渡る船すべてに関わることだ。竜を狩らぬ船が受けてきた穏やかな航海――それは、私たちが密かに守ってきた均衡の上に成り立っている。掟を破った者を見過ごせば、その均衡そのものが崩れる。人が竜の存在を知れば、いずれ恐れが生まれ、恐れはやがて武器を取らせる。私たちは、そうなる前にこの咎人を止めねばならない」

その言葉には、リアンが思っていたよりもずっと重い理屈があった。単なる同族間の私刑ではなく、竜と人との間に長く保たれてきた、目に見えない約定を守るための行為なのだと、女は言っているのだった。それでも、リアンの心は揺らがなかった。掟の重さと、目の前で沈みかけていた人間を見捨てなかった者の重さと、どちらを選ぶべきか、リアンにはもう迷いがなかった。

「この船に、そのような者はいない。好きに調べるがいい」

女はゆっくりと頷き、供の者たちに指示を出した。番人たちは船倉から甲板まで、隅々を検め始めた。リアンは船長として、その捜索に立ち会わねばならなかった。心臓が早鐘を打つのを感じながら、リアンは平静を装い続けた。

番人たちの足音が、船尾楼の小部屋の近くまで来たとき、リアンの喉がひきつった。だがそのとき、ハウエルがふいに口を挟んだ。

「船長、そちらは予備帆布の物置です。先の嵐で水が入り込み、かび臭くなっています。案内はわたしが」

ハウエルはそう言うと、番人の一人を別の方向へと誘導した。リアンは、老練な航海士の横顔を見つめた。ハウエルが何かに気づいているのか、それとも本当にただの案配なのか、リアンには判じかねた。だが、その一手のおかげで、小部屋は詳細な捜索を免れた。

日が暮れて、番人たちは一旦、快速艇へと戻っていった。だが女は去り際、リアンにこう告げた。

「この海域を離れるまで、我々はお前の船を見張り続ける。咎人は、翼を痛めている。遠くへは飛べぬはずだ」

その夜、リアンが小部屋を訪れると、影は静かにこう切り出した。

「もう、潮時だ。私が名乗り出れば、これ以上お前とこの船を危険にさらさずに済む」

「駄目だ」

リアンは、自分でも驚くほど強い口調でそれを遮った。

「お前が名乗り出れば、それこそ噂は事実になる。この船が咎人を匿っていたと知れ渡れば、船も乗組員も、これから先ずっと同族の目に晒され続けることになる。それに――」

言葉に詰まったリアンに、影は静かな眼差しを向けた。

「それに?」

「お前は、あの漁船の男たちを見捨てなかった。それを裁くための掟なら、私はそんな掟に、お前を差し出したくない」

影は、しばらく黙っていた。やがて、微かに笑ったような気配があった。

「お前は、本当に船長になったな」

その夜、リアンは海図を広げ、暁礁の位置を何度も確かめた。番人たちの快速艇は、夜霧丸の少し後方につかず離れず追走している。もし影を海へ、あるいは空へと送り出すなら、番人たちの視界から確実に隠れられる場所でなければならない。そして、その機を逃せば、次はいつ訪れるかわからない。

暁礁の内側には、満潮時にだけ現れる狭い水路があると、影が以前、ぽつりと漏らしたことがあった。竜だけが知る、隠れた通り道。ハウエルなら、間違いなくそこへ船を寄せることに反対するだろう。海図に記された等深線は不確かで、下手をすれば座礁は免れない。だが、それ以外に道はなかった。

リアンは、静かに心を決めた。

五 波間に残された鱗

翌日の夜、リアンはハウエルを船長室に呼んだ。

「今夜、暁礁の内側水路を抜ける」

ハウエルの顔が強張った。

「船長、あの水路は正確な深浅図がありません。無謀です」

「わかっている。だが、これしかない」

リアンは、あえて理由のすべてを語らなかった。ただ、まっすぐにハウエルを見つめて、こう続けた。

「お前の反対はもっともだ。だが、この判断は、私が引き受ける。従ってくれるか」

ハウエルは、長い沈黙のあとで、深く息を吐いた。

「……この数日で、あなたの目つきが変わった。理由は聞きません。従います」

夜半、月が雲間に隠れる頃合いを見計らって、夜霧丸は暁礁の内側へと舵を切った。リアンは自ら舵輪の傍らに立ち、影から聞かされていた水路の目印を、記憶の底から手繰り寄せた。ひときわ尖った岩の形、潮の流れの筋目、波の砕け方――そのすべてが、まるで影の声そのもののように、リアンの耳の奥で響いていた。

「面舵、いっぱいに」

リアンの指示に、舵手が息を詰めて従う。船体が軋み、波が船腹を叩く。後方に、番人たちの快速艇の灯りが、追走をためらうように揺れているのが見えた。この危険な水路までは、彼らも容易には踏み込めないはずだった。

船が最も狭い水路の中ほどに差しかかったとき、リアンは影を甲板へと連れ出した。傷はまだ完全には癒えていなかったが、飛ぶことも泳ぐことも、もう十分にできるはずだった。

「ここでいい」

影が、静かに言った。

「お前の船なら、この先の水路を抜けられる。私が教えた通りに進めば」

「本当に、行くのか」

「行かねば、いずれまた見つかる。それに――」

影は、リアンの目をまっすぐに見つめた。

「お前はもう、私がいなくても大丈夫だ」

その言葉を最後に、影は船縁に立つと、傷ついた翼を大きく広げた。月明かりが雲間から一瞬こぼれ、その鱗を淡く輝かせる。翼が一度、大きく羽ばたいた拍子に、小さな鱗の欠片がひとつ、はらりと甲板に落ちた。次の瞬間、影の姿は夜の闇に溶けるように消え、波音だけが残った。

リアンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて我に返り、舵輪へと駆け戻った。水路は思っていたよりも狭く、両側に切り立った岩肌が迫っていた。だが、リアンの脳裏には、影が語ってくれた目印のすべてが、鮮やかに刻み込まれていた。潮の流れを読み、岩の影を数え、確信をもって舵を切っていく。

「面舵を戻せ。このまま直進」

リアンの声には、もう迷いはなかった。ハウエルが、驚いたようにリアンの横顔を見て、それから静かに頷き、指示を復唱した。乗組員たちの動きも、いつしか、一糸乱れぬものになっていた。

夜霧丸が水路を抜け、外洋へと出たとき、東の空がわずかに白みはじめていた。後方を振り返っても、番人たちの快速艇の灯りは、もうどこにも見えなかった。

甲板に落ちていた小さな鱗の欠片を、リアンは静かに拾い上げた。手のひらの上で、それは朝の光を受けて、淡く虹色に光った。名前も知らぬ、影とだけ呼び合った相手が残していった、たったひとつの合図だった。

その日以降、夜霧丸の乗組員たちがリアンを見る目は、確かに変わった。ハウエルは、それからも多くを語ることはなかったが、時折、リアンの判断に先んじて帆の調整を命じるようになった。それは、若い船長への、言葉によらない信頼の表明だった。

リアンは、あの鱗の欠片を小さな革袋に入れ、肌身離さず持ち歩くようになった。嵐の夜、遠く水平線の向こうに、翼を広げた影のような雲の切れ端を見つけるたびに、リアンは静かに袋の上から胸に手を当てる。名乗り合うことのなかったあの一夜の同居人が、いまどこかの空を、あるいは海を、自由に渡っているのだと信じて。

船を掌握するということは、誰かに認められることではなく、自分自身の判断を、自分自身が信じ抜くことなのだと、リアンはあの夜、ようやく知った。そしてその手ごたえを教えてくれたのは、名前すら持たない、束の間の影だった。

本作はジョーゼフ・コンラッドの『秘密の同居人(The Secret Sharer)』を参考にした作品です。原典