竜は孤独を見過ごさなかった
ペテルブルクの運河に眠る竜は、白夜の光を貸しては引く。孤独な夢想家に束の間の恋と、悲しみに独り向き合う静かな暗闇を贈った、姿を見せぬ竜の物語。
一 白夜に灯る運河
北の水都に暮らす者なら誰でも知っている、奇妙な、しかし誰も本気で疑おうとはしない噂があった。夏至の前後、ほんの二月足らずの間だけ、この街には夜が来ない。日没から夜明けまでの数刻、空は生ぬるい灰色と乳白色の狭間に留まり続け、通りを歩く人々の影さえ、真夜中だというのに薄く伸びたままになる。市民たちはそれを「白夜(びゃくや)」と呼び、格別ありがたがるでもなく、ただ夏の当たり前の景色として受け入れていた。
学者たちは緯度と太陽の傾きの話をし、行商人たちは商機の話をする。だが運河端の安酒場に集う老人たちだけは、決まって別の由来を語りたがった。曰く、街を縦横に走る運河のどこか、誰も潜ったことのない深みに、途方もなく年老いた竜が眠っている。竜は一年のほとんどを泥と水草に埋もれて深く眠っているが、夏の初め、ほんの数週間だけふと目を覚まし、水面に向かって細く長い吐息を吐き上げる。その吐息が燐光を帯びた靄のように立ちのぼり、沈みかけた太陽の裾を捕まえて、ほんの少しだけ引き止める――だから、この時期だけ夜が来ない。誰に頼まれたわけでもなく、竜自身、誰かに感謝されたいわけでもない。ただ寝ぼけた獣が寝返りを打つように、気まぐれに息を吐いているだけなのだ、と老人たちは酒杯を傾けながら笑って締めくくる。若い者たちはその話を鼻で笑い、子供たちだけが本気で運河の欄干から水面を覗き込んでは、金色の目玉が沈んでいないかと目を凝らした。
橋のたもとで小舟を貸し出す老船頭は、彼が通りかかるたびに決まってこの話を蒸し返した。「旦那、今年もよく降りてくるねえ、この光は」皺だらけの顔で運河の水面を指差しながら、老船頭は続けた。「わしの親父も、その親父も、みんなこの話を信じちゃいなかったが、それでも毎年この時季だけは、なぜだか運河に手を合わせたもんだ。頼まれてもいない親切に、こっちも黙って頭を下げる。それだけの話さ」彼はその言葉を聞くたびに、曖昧な相槌を返しながらも、胸の奥では老船頭よりもずっと強く、その話を信じている自分に気づいていた。
彼――街の人々からは、これといった名も呼ばれず、ただ「夢想家さん」とだけ呼ばれている青年――は、この白夜の季節を誰よりも愛していた。役所の片隅で書類を写し続ける日々の生活は色を持たず、同僚たちの顔さえ、いつも同じ灰色の靄の向こうにあるように思えた。上司に呼ばれても心はどこか上の空で、退勤の鐘が鳴る頃には、今日という日が本当にあったのかどうかさえ怪しく感じられた。だが夜になり、運河沿いの石畳を独り歩き出すと、頭上に居座り続ける乳白色の空だけは、彼にだけ語りかけてくるような気がしてならなかった。
来る日も来る日も、彼は同じ道を歩いた。同じ橋を渡り、同じ欄干に肘をつき、同じ角度で水面を見下ろした。石畳の隙間に生えた雑草の位置さえ、彼はいつのまにか覚えてしまっていた。街の人々は彼を、少し変わった、けれど害のない青年だと思っていた。実際、彼自身も自分がこの街で誰の記憶にも深く刻まれていないことを、うっすらと自覚していた。友と呼べる者はなく、両親の温もりも遠い記憶の中にしかない。彼の交友関係のほとんどは、頭の中で紡がれる空想の登場人物たちで占められていた。夜ごと違う物語の主人公になり、見知らぬ街の見知らぬ広場で、見知らぬ誰かと言葉を交わす――そうした空想だけが、彼の孤独をかろうじて支えていた。
白夜の季節、街全体はどこか浮かれたような空気に包まれる。恋人たちは長く明るい夜を口実に散歩を引き延ばし、露店は普段より遅くまで店を開け続け、子供たちは寝る時刻がわからなくなったと大人を困らせる。だが彼にとって、その浮かれた喧騒は自分とは無縁のものだった。誰かと腕を組んで歩くでもなく、誰かの帰りを待つでもなく、彼はただ独り、街の賑わいの縁を歩く傍観者だった。それでも、この季節が巡ってくるのを、彼は一年のどの季節よりも心待ちにしていた。乳白色の光の下でだけ、自分がこの街に確かに存在しているのだと、ふとした瞬間に実感できる気がしたからだった。
けれど、ここ数年、彼は密かに気づいていたことがあった。白夜の光は、他の誰の頭上よりも、心なしか自分の歩く道の上でだけ、わずかに長く留まっているような気がするのだ。橋を渡り終える頃には、たいてい辺りはとうに宵闇に沈んでいてもよいはずなのに、彼の背後だけ、いつまでも仄白い残光が纏わりついている。すれ違う恋人たちや、家路を急ぐ商人たちの頭上では、光はごく普通に薄れていくのに、なぜか自分の頭上でだけ、その薄れ方が心なしか遅い。気のせいだと自分に言い聞かせながらも、彼はどこかで、この街のどんな伝説よりも、その残光の温もりだけを密かに信じていた。誰にも打ち明けたことのない、たった一つの秘密だった。
その夜も、彼はいつもの欄干にもたれ、水面に映る乳白色の空を眺めていた。運河の水は普段よりわずかに満ちて、橋脚の影を長く引きずっていた。ふいに、少し先の欄干から、押し殺した嗚咽が聞こえた。見れば、若い娘が一人、肩を震わせて泣いている。その傍らには、酔った様子の男が一人、しつこく娘の腕を掴もうとしていた。
「放してください」娘の声は震えていたが、芯には確かな強さがあった。男はなおも笑いながら詰め寄る。彼は迷う間もなく足を進め、努めてさりげない調子で男に声をかけた。「その人は連れを待っているところです。邪魔をしないでいただきたい」男は舌打ちをして、ふらつく足取りで立ち去った。娘は涙に濡れた顔を上げ、警戒と安堵の入り混じった目でこちらを見た。
「ありがとうございます。でも、あなたを困らせてしまうかもしれません。あの人は執念深い性質なので」
「構いません。もう行きましたから」彼はそう答えながら、去り際にちらりと空を見上げた。乳白色の光は、いつもよりほんの少し、彼らの頭上に長く留まっているように思えた。娘は涙を拭いながら小さく頭を下げ、しばらく黙って隣に立っていた。橋の下を通り過ぎる小舟の櫂の音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
二 四つの夜、ナースチェンカ
娘の名はナースチェンカといった。目の弱った祖母と二人暮らしで、片時も傍を離れることを許されず、外出の際にはドレスの裾を祖母の服のボタンに安全ピンで結びつけられるという、奇妙な監視のもとで育っていた。その夜だけは祖母が居眠りをしている隙に、こっそり外へ出てきたのだと、ナースチェンカは恥ずかしそうに打ち明けた。「笑わないでくださいね。もう二十歳を過ぎているのに、こんな有様なんです」そう言って俯く彼女に、彼はなぜか自分自身の不甲斐なさを重ねずにはいられなかった。
一晩だけの出会いのつもりが、二人は翌晩も同じ欄干で顔を合わせる約束を交わした。彼にとって、誰かと言葉を交わす約束があるということ自体が、長らく忘れていた感覚だった。約束の刻限が近づくたび、胸の奥が落ち着かなくなり、役所の書類仕事も上の空になった。ナースチェンカもまた、閉ざされた暮らしの中で、この運河沿いの数刻だけが唯一、自分の意志で選び取れる時間なのだと語った。
二晩目、月のない曇り空にもかかわらず、いつもと変わらぬ乳白色の明るさが運河一帯を包んでいた。ナースチェンカは待ち合わせの場所に、前夜より幾分早く姿を現した。「今日は祖母がぐっすり眠ってくれたので」と、いたずらっぽく笑う彼女の表情には、前夜にはなかった気安さが滲んでいた。二人は欄干を離れ、しばらく橋を渡り歩きながら、他愛のない話に興じた。街で評判の菓子屋の話、近頃流行り始めた芝居の噂、互いに好きな色。そうした些細なやり取りの一つ一つが、彼にとってはこれまでの人生で味わったことのない、ささやかな贅沢のように感じられた。
一頻り笑い合った後、ナースチェンカは身の上をさらに詳しく語った。一年前、祖母の家に間借りしていた青年がいたこと。彼と親しくなり、いつか妻に迎えると約束されたこと。だがその青年は都を離れる際、「一年後、必ず戻る」とだけ言い残し、以来一度も便りをよこしていないこと。約束の一年が過ぎようとする今、ナースチェンカはその青年に手紙を書き、返事を待っているのだと打ち明けた。「もし今夜、あの人の返事が来ていたら――」ナースチェンカはそこで言葉を切り、川面の光を見つめた。彼はただ黙って耳を傾け、時折り相槌を打つことしかできなかったが、それでも彼女の表情が少しずつ和らいでいくのを見て、密かな充足を覚えていた。
その帰り道、彼は欄干を離れる直前、ふと空を仰いだ。乳白色の残光は、いつもより明らかに長く、二人の背中を追いかけるように運河の上に留まっていた。物言わぬ空の贈り物を、彼はまだそのときには、自分だけへの好意だとは思っていなかった。ただ、二人でいる時間を、街そのものが惜しんでくれているような、そんな錯覚を静かに抱いただけだった。下宿へ戻る道すがら、彼は自分の口元が、これまでの人生でおそらく一度も浮かべたことのない緩み方をしていることに気づき、思わず苦笑した。
その道すがら、例の老船頭が桟橋に舟を繋いでいるのに出くわした。「今夜はまた、ずいぶんと機嫌がよさそうだね、旦那」老船頭は片目をつぶってそう茶化した。彼は曖昧に笑って答えなかったが、老船頭は構わず続けた。「運河の主も、たまには人の恋路を面白がって見物してるのかもしれないねえ。何しろ暇な奴だ、何百年も寝てばかりで」その軽口を、彼はそのときは冗談として聞き流したが、後になって幾度も思い返すことになる。
三晩目、二人はいつもの欄干を離れ、少し足を延ばして運河沿いの小さな庭園を歩いた。手入れの行き届かない薔薇の茂みと、苔むした古い彫像が並ぶだけの、誰も気に留めないような庭だったが、乳白色の光の下では、それさえも幻想的な舞台装置のように見えた。ナースチェンカは彫像の台座に腰掛け、靴の先で小石を弄びながら、ぽつぽつと自分の子供時代の話を始めた。母を早くに亡くし、祖母の手だけを頼りに育ったこと、外の世界を知らないまま大人になってしまった心細さ。彼はその話に相槌を打ちながら、自分もまた、誰かにこんな風に胸の内を明かしたのは初めてだと気づいていた。
二人は互いの孤独について語り合った。ナースチェンカは、祖母への愛情と息苦しさの間で引き裂かれる胸の内を吐露し、彼は自分がこの街のどこにも根を張れずにいる感覚――誰かの記憶に長く残ることのない、影のような存在としての自分――を、初めて誰かに向けて言葉にした。「僕はずっと、頭の中でしか物語を生きてこなかった。空想の中の街で、空想の中の誰かと話すことでしか、自分を保てなかったんです」
「あなたは空想の中でしか、人と付き合ったことがないのね」ナースチェンカは笑いながら、けれど蔑むふうもなくそう言った。「でも、今はちゃんと、生きた人間と話しているじゃない。私も、あなたも」
その言葉に、彼は胸の奥が熱くなるのを感じた。長年、頭の中の登場人物たちとだけ交わしてきた対話が、初めて生身の相手に届いたような、そんな確かな手応えがあった。橋のたもとの街灯が一つ、じじ、と小さく音を立てて瞬き、二人はどちらからともなく声を上げて笑った。運河の水面には、いつにも増して濃く長い燐光の帯が浮かび、二人の会話が途切れるまで、片時も揺らぐことなく灯り続けていた。ナースチェンカはふと真顔になり、「あなたが好きよ、友達として。ただ、私にはもう、心に決めた人がいるの」と付け加えた。彼はその言葉に頷きながらも、胸のどこかで小さな痛みが芽生えるのを、気づかぬふりで押し殺した。
四晩目を迎える前、彼はようやく、自分の胸の内にある感情の輪郭に気づいた。ナースチェンカへの想いは、もはや同情でも憐れみでもなく、はっきりとした恋情だった。だが同時に、彼女がいまだ下宿人の帰りを待ち続けていることも、痛いほどわかっていた。伝えるべきか、伝えざるべきか。彼は幾晩も繰り返し歩いた欄干の上で、初めて自分自身の答えを出せずにいた。役所の窓から見える運河の一角を眺めながら、彼は書類の余白に、言葉にならない言葉を何度も書きかけては消した。
四晩目の夜、待ち合わせの橋には、いつもより落ち着かない様子のナースチェンカが先に来ていた。彼女は下宿人からの手紙がまだ届かないことへの不安を口にしながらも、彼と過ごすこの時間を心待ちにしていたのだと素直に語った。その言葉に背を押されるように、彼はついに意を決した。「もし、あの人が戻らなかったら――僕は、あなたのために生きたい」彼はそう切り出しかけた。ナースチェンカは俯き、返事を探すように黙り込んだ。運河の空は、これまでのどの夜よりも長く、乳白色の光を留め続けていた。まるで、この告白の時間だけは、誰にも急かされたくないとでもいうように。
三 光の途切れた夜
言葉を続けようとした、まさにその刹那だった。橋の向こうから、外套の裾を翻して足早に近づいてくる人影があった。ナースチェンカが弾かれたように顔を上げ、次の瞬間には彼のそばを離れ、その人影めがけて駆け出していた。
「戻ってきてくれたのね」
下宿人だった。一年の約束を違えず、しかし何の前触れもなく戻ってきた青年に、ナースチェンカは迷う素振りすら見せずに抱きついた。二人が交わす再会の言葉は、風に乗って途切れ途切れに彼の耳へ届いた。彼はその場に立ち尽くしたまま、二人の再会を見届けるほかなかった。声をかけることも、割って入ることもできず、ただ欄干に手をかけたまま、自分の告白の言葉が行き場を失って喉の奥に沈んでいくのを感じていた。
そのときだった。頭上に留まり続けていた乳白色の光が、不意にすっと色を失い、いつもよりずっと早く、本物の夜の闇へと沈んでいったのは。橋の上には、街灯の頼りない灯りだけが残された。彼は思わず空を見上げ、初めてはっきりと自覚した――ああ、この光はやはり、自分のために留まっていたのだ、と。そして今、その光は、彼のために早々に退いていったのだ、と。
これまでの三晩、光は確かに自分たちの頭上に長く留まり続けていた。だがそれは、二人の幸福な時間を祝福するためだけの贈り物ではなかったのかもしれない。今こうして光が退いていく様を目の当たりにして、彼はようやく気づいた。あの淡い光は、ただ彼の孤独に寄り添っていただけなのだ。孤独が二人分の温もりに変わっている間はそのぶん長く、そして今、その温もりが再び独りのものへと戻った瞬間には、速やかに闇を返す。まるで、彼という一人の人間の心の潮位そのものを、静かに計り続けていたかのように。
慰めでも、罰でもなかった。もし光がいつも通りに長く留まり続けていたなら、彼は二人の後ろ姿をいつまでも照らし出されたまま、明るい橋の上でみじめに立ち尽くさねばならなかっただろう。だが竜は――名も知られず、姿も見せぬまま運河の底に眠るその何かは――誰に求められるでもなく、その夜だけそっと光を引いた。彼が一人になって悲しみと向き合うための、束の間の暗闇を用意するために。それは慈悲と呼ぶには小さすぎ、けれど無視するには重すぎる、無言の気遣いだった。
彼はしばらくの間、暗くなった欄干にもたれたまま動けずにいた。悲しみは深かったが、不思議と惨めさはなかった。誰にも見られていない、完全な闇の中でだけ許される涙というものがあるのだと、彼はそのとき初めて知った。竜の吐く息が街に恵みを与えるという伝説を、彼は今まで単なる与太話としか思っていなかった。だが今この瞬間だけは、その正体不明の優しさの気配を、痛いほど確かに感じ取っていた。遠く運河の底の方角から、地響きにも似た低いうねりが一度だけ伝わってきた気がしたが、それが本当に何かの気配だったのか、単に自分の心臓の音だったのか、彼には判じようがなかった。
暗がりの中、桟橋に舟を繋ぎ終えた老船頭の影が、ちょうど傍らを通りかかった。老船頭は普段の軽口を控え、ただ黙って彼の隣に立ち、しばらく共に暗い水面を眺めていた。「光ってのは、あってもなくても、それだけで何かを語ってるもんだ」やがて老船頭はぽつりとそう呟くと、それ以上は何も言わず、静かに立ち去っていった。その背中を見送りながら、彼はようやく、目の縁に溜まっていたものを流すことを自分に許した。
やがて彼は、震える足取りで自分の下宿へと帰った。窓辺に座り、まだ乳白色の名残りをわずかに留める東の空を眺めながら、彼はこの数日間の記憶を一つ一つ辿り直した。ナースチェンカの笑い声、街灯の瞬き、二人だけの沈黙。後悔はなかった。ただ、失われたものの重さだけが、静かに胸にのしかかっていた。
四 分かたれた朝、そして
翌朝、下宿の扉を叩く音で彼は目を覚ました。届けられたのは、ナースチェンカからの手紙だった。彼女は詫びと感謝の言葉を丁寧に並べ、これまでの数日間を、自分にとってかけがえのない時間だったと綴っていた。下宿人との再会に取り乱してしまったことを詫び、彼の優しさと、静かに寄り添ってくれた時間への感謝を、幾度も言葉を変えて書き記していた。そして最後に、こう書き添えていた。
「あなたが幸せになれますように。私はあなたの優しさを、生涯忘れません」
手紙を読み終えた彼は、しばらく窓の外を眺めていた。もう、あの乳白色の光が特別に長く留まることは、二度とないかもしれない。だが彼は、手紙を握りしめたまま、ふと東の空の際が、いつもよりほんの数分だけ、名残惜しそうに白く光っているのに気づいた。誰に気づかれるでもなく、確かめる術もない、ごくささやかな延長だった。それでも彼には、その数分間が、自分のこの数日間――「一生分の幸福な一瞬」と呼ぶべき記憶――を、静かに見届けてくれた証のように思えてならなかった。
手紙をしまい、身支度を整えて役所へ向かう道すがら、彼は自分の胸のうちを静かに検めてみた。悲しみは消えていなかった。だが、その悲しみの底に、確かな温もりの残滓があることにも気づいていた。四晩という短い時間の中で、自分は確かに誰かと生きた言葉を交わし、誰かに笑いかけ、誰かのために涙を堪えた。それは空想の中の登場人物たちとの対話では、決して得られなかったものだった。たとえこの先二度とナースチェンカに会うことがなくとも、その事実だけは、誰にも奪えない自分だけの財産として、胸の奥に残り続けるはずだった。
彼はその後も、変わらず役所へ通い、変わらず運河沿いを一人で歩き続けた。ナースチェンカと再会することは二度となかったが、彼女への想いを恨みに変えることもなかった。同僚たちは、あの夢想家がここ最近少し落ち着いたようだと噂し合ったが、その理由を本人に問うことはなかった。ただ、白夜の季節が巡ってくるたび、彼は欄干にもたれ、頭上の乳白色の光にそっと語りかける癖がついた。
例の老船頭とは、それからも幾度となく顔を合わせた。あの夜のことを、老船頭が改めて口にすることはなかったが、すれ違うたびに交わす小さな会釈の中に、彼はかつてのあの静かな慰めの続きを感じ取っていた。歳月が流れ、老船頭の白髪が一段と増え、桟橋の舟が新しいものに替わった頃になっても、その会釈だけは変わらずに続いた。
何年か後のある白夜の晩、彼は運河沿いの欄干で、若い娘が独り涙ぐんでいるのを見かけた。素性も名前も知らぬ娘だったが、その肩の震え方に、彼はかつての自分自身を見た気がした。声をかけようか迷い、結局は少し離れた場所からただ静かに見守っただけだったが、去り際にふと頭上を見上げると、娘の頭上にだけ、乳白色の光がほんの少し長く留まっているのが見えた。誰に頼まれたわけでもない、あの気まぐれな贈り物が、また新しい誰かの上に降りている。彼はそのことに、言葉にならない安堵を覚えながら、いつもの帰り道を辿った。
「今年も、少しだけ長く灯っていてくれるかい」
答えが返ってくることは、もちろんない。ただ、その光がいつもより心なしか長く、彼の頭上にだけ留まっているような気がする夜が、今もなお、年に幾晩かは訪れるのだった。運河の底に眠る竜は、今日もその正体を誰にも明かさぬまま、街を訪れる孤独な魂の一人一人に、束の間の時間をそっと貸し与えては、静かに引いていく。名乗ることも、感謝されることも求めず、ただ夏の初めの数週間だけ、寝ぼけた息を空へ吐き続けながら。誰かの幸福な一瞬を見届けたことなど、竜自身は覚えてすらいないのかもしれない。それでも運河の水面は、来年もまた同じ季節に、同じように仄白く輝き続けるはずだった。そしてまた新しい孤独な誰かが、その光の下で束の間の伴走者を見つける夜が、きっとどこかで静かに訪れるのだろう。