竜はまなざしを逸らさなかった
薄給の写字生が理不尽な仕打ちの末に世を去った夜、その無念は言葉を持たぬ小さな竜となって氷の都を彷徨いはじめる。役人の外套を剥ぎ続けた竜が最後に望んだのは、己を切り捨てた男へ向ける、ただ一度のまなざしだけだった。
一 氷筆府の写字生
氷筆府(ひょうひつふ)は、一年のうち十月は霜に覆われているといわれる官庁都市だった。都の中心にそびえる文書局の石造りの棟には、羊皮紙と膠と、燭の脂の匂いが幾層にも染みついている。廊下を吹き抜ける隙間風でさえ、どこかインクの匂いを帯びているようだった。都の外れには職人町や市場もあるにはあったが、氷筆府という名を口にするとき、誰もがまず思い浮かべるのは、あの果てしなく続く書架と、そこに詰め込まれた無数の台帳、条例、勅令の写しの山だった。この都では、人の値打ちは剣の腕でも商いの才でもなく、幾つの位を持つ官吏であるかで測られる。氷筆府に生きる者は皆、幼い頃からそう教えられて育つ。
その文書局の三階、最も陽の当たらぬ北向きの間に、詞介(ことすけ)という写字生がいた。齢五十を数えるが、位はいまだ最下級の九等官。二十七年のあいだ、朝から晩まで、来る日も来る日も他人の書いた文書を清書し続けてきた男である。同期に採用された者たちはとうに七等、六等へと昇り、局長に近い間で采配を振るう身になっていたが、詞介だけは昇進の話に一度も名を挙げられたことがなかった。誰も、それを不思議とは思わなかった。詞介自身も、そのことを恨みに思う様子は見せなかった。
詞介には、これといって語るべき経歴も、誇るべき功績もなかった。ただ一つ、彼だけが持つものがあるとすれば、それは文字そのものへの、ほとんど信仰に近い愛着だった。書き写す文書の中身が国庫の勘定書であろうと、退屈な条例の改訂であろうと、詞介にとってはどうでもよいことだった。筆先が紙の上を滑り、一画一画、墨が吸い込まれていくその瞬間だけが、彼の生きている実感のすべてだった。休憩の鐘が鳴っても、詞介は席を立たず、書きさしの一文字を書き終えるまでは腰を上げようとしなかった。夜、蝋燭を吹き消して寝床に入ってからも、詞介の瞼の裏には、その日書き写した美しい字形が、いつまでも仄かに光っていた。
そんな詞介を、同僚たちは陰で「継ぎ接ぎの詞介」と呼んでいた。理由は彼の外套にある。もとの生地がどんな色だったのかも判然としないほど継ぎが当てられ、袖口はほつれ、裾は幾重にも折り返されて縫い留められている。若い書記たちは、詞介が自分の机を離れるたびに、紙屑を丸めて投げつけたり、耳元でわざと大声を上げて驚かせたりして笑った。ある者は、詞介の背後にそっと回り込み、「詞介殿、局長がお呼びですぞ」と真顔で告げては、詞介が慌てて席を立つのを見て腹を抱えて笑ったこともあった。詞介はそのたび、驚いた顔を見せるだけで、決して怒らなかった。ただ黙って机に戻り、また筆を執った。
「何がそんなに面白いんだか、あの人をからかっても、こっちが得することなんて一つもないのに」
そう漏らしたのは、今年の春に配属されたばかりの若い書記、小十(こじゅう)だった。周りが囃し立てる輪の中で、小十だけはいつも一歩退いて、居心地悪そうに立っていた。ある日、詞介が根を詰めて書き上げた古い勅令の写しを覗き込んで、小十はぽつりと言った。
「詞介さん、その字……きれいですね。まるで、生きているみたいだ」
詞介は驚いたように顔を上げ、それから、皺だらけの顔をくしゃりと崩して微笑んだ。声には出さなかったが、その日の彼は、いつもより少しだけ背筋が伸びて見えた。帰り際、詞介は小十の机にそっと立ち寄り、「墨の乾かし方、教えましょうか」とだけ言い残していった。小十にはそれが、詞介なりの精一杯の礼だったのだと、ずっと後になってから分かった。
その年の霜月、氷筆府には例年よりひと月も早く、身を切るような北風が吹き込んだ。窓の隙間から忍び込む風は、詞介の継ぎ接ぎだらけの外套をやすやすと通り抜け、骨の髄まで凍えさせた。筆を握る指がかじかんで動かず、インク壺の中身までもがうっすらと膜を張って凍りついている朝、詞介は震える手で無理やり筆を持ち上げようとして、机に突っ伏すように咳き込んだ。
「まったく、その外套はもう衣というより、氷の網だな」
年嵩の書記の一人がそう言って笑い、周りもつられて笑った。詞介はいつものように黙って首を振り、しかし今度ばかりは、乾いた咳がしばらく止まらなかった。医局勤めの書記が、通りすがりにその咳を聞きとがめ、「その胸の音では、この冬は危ういぞ」と、珍しく本気の顔で忠告していった。
詞介は、その夜遅くまで一人机に残り、擦り切れた外套の裾をぼんやりと撫でていた。窓の外では、早くも根雪になりそうな粉雪が降り始めている。書き写す文字にはあれほどの情熱を注げるのに、自分の身一つを守ることには、これまで一度も本気で向き合ったことがなかったと、そのとき初めて思い至ったのだった。もし自分がこの冬に倒れたら、この机はまた誰か別の写字生に引き継がれ、自分の書いた文字は誰の記憶にも残らないまま、書庫の奥深くに埋もれていくのだろう――そう思うと、詞介の胸に、これまで感じたことのない小さな焦りが兆した。
二 新しい外套
翌朝、詞介は局の帰りに、縫箔師の多平(たへい)の店を訪ねた。多平は継ぎ当てを頼みに来た詞介の外套を広げ、しばらく無言でそれを検分したあと、ぽつりと言った。
「これはもう、繕う場所がない。生地そのものが尽きているんだ。新しいのを仕立てるほかあるまいよ」
「新しい……それは、いかほどかかりましょうか」
多平が口にした金額は、詞介の半年分の俸給に近かった。多平は貂の毛皮を襟にあしらった案を勧めたが、詞介にはとても手の出せる話ではなかった。肩を落として帰りかけた詞介の背に、多平は珍しく声をかけた。
「地味な生地でよければ、少しは値を下げられる。だが、氷筆府の冬を舐めちゃいけないよ。安物じゃ三年と持たん」
その言葉に、詞介は足を止めた。三年。自分にはまだ、三年より長く書き続けたい年月があると、そのとき初めてはっきりと思った。詞介は深く頭を下げ、「必ず、また参ります」とだけ言って店を出た。
その日から、詞介の暮らしは一変した。日が落ちてからは蝋燭を灯さず、窓から差し込む月明かりだけを頼りに繕い物をした。夕餉の温かい汁物を控え、湯を沸かす薪の一片も惜しんだ。靴底がすり減らぬよう、爪先立ちで歩く癖までついた。同僚が「近頃、めっきり瘦せたな」と冷やかしても、詞介はただ微笑むだけで、事情を語ろうとはしなかった。誰に強いられたわけでもないのに、詞介は日々の小さな倹約のすべてを、いつしか苦にしなくなっていた。まだ影も形もないその外套は、詞介の心の中で、すでにもう一人の道連れのように息づいていたからだ。夜、貯めた銭を数えるとき、詞介は自分でも気づかぬうちに、その外套に向かって語りかけるような気持ちになっていた。もう少しの辛抱だ、と。
数ヶ月が過ぎたある日、局長から思いがけない褒賞金が下された。重要な条約文書を、一字の誤りもなく清書し終えたことへの礼だという。それは詞介の貯えを一息に押し上げるのに十分な額だった。震える手で多平の店の戸を叩いたとき、詞介の声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
出来上がった外套に袖を通した朝のことを、詞介は生涯忘れないだろうと思った。分厚い羅紗の生地が肩に馴染み、貂の襟が首筋を優しく包む。姿見に映る自分の姿を、詞介はしばらくの間、それが本当に自分であるとは信じられぬ面持ちで眺めていた。局の廊下を歩けば、いつもは目も合わせない同僚たちが、次々と足を止めて振り返った。
「おい、詞介じゃないか。まるで別人だな」
からかい半分ではあったが、その晩、古参の書記の一人が「これは祝わねばな」と言い出し、自宅で小さな酒宴を催すことになった。詞介は、自分がその席の主役として招かれるなど、生まれて初めての経験に戸惑いながらも、久方ぶりに心から笑った。杯を勧められ、外套の仕立ての良さを褒められ、誰かに肩を叩かれる――ただそれだけのことが、これほど胸を温めるものだとは知らなかった。片隅で控えめに杯を傾けていた小十も、その夜ばかりは詞介のそばに寄って、「よく似合ってますよ」と静かに言った。詞介は照れくさそうに襟元を直しながら、「小十くんのおかげでもあるよ」と応じた。何のことか小十には分からなかったが、詞介はそれ以上を語らなかった。
宴を辞したのは夜も更けてからだった。月が高く、霜市場(しもいちば)の敷石には粉雪がうっすらと積もっている。人気のない広場の真ん中で、詞介はふと足を止め、夜空を見上げた。新しい外套の重みが、これまで感じたことのない安心感を肩に伝えてくる。今夜だけは、九等官という己の位も、二十七年という歳月の重さも、少しも気にならなかった。
そのときだった。闇の中から二つの人影が音もなく現れ、詞介を左右から挟み込んだ。抗う間もなく襟首を掴まれ、外套は乱暴に引き剥がされる。詞介が声を上げる間もなく、影は雪煙の向こうへ走り去った。後に残されたのは、薄い下着一枚で雪の上に膝をつく、詞介の姿だけだった。震える手で雪を掻き、消えていく足跡を追おうとしたが、数歩も進まぬうちに膝から力が抜けた。
震えながら駆け込んだ衛士の詰所では、年老いた当直の衛士が「霜市場ではよくあることだ」と気だるげに調書を取っただけだった。誰かが、しかるべき筋に直に訴え出るべきだと助言した。氷筆府の官吏たちを束ねる監督官、重親(しげちか)ならば、動いてくれるかもしれないと。名の知られた、恐ろしいほど気位の高い人物だが、機嫌さえ損ねなければ話を聞かないこともないという。
翌日、詞介は震える足で重親の役邸を訪ねた。手持ちの一張羅すら失った身に、以前の継ぎ接ぎだらけの予備の外套を纏い、控えの間で幾時間も待たされた。ようやく通された部屋には、重親が大事な客人を前に上機嫌で談笑している最中だった。詞介がしどろもどろに事の次第を訴えると、重親の顔から一瞬にして笑みが消えた。
「なぜ然るべき書式を踏まずに、直にまかり越した! 私を誰だと心得る!」
重親の怒声は、客人の手前もあってことさら大きく、部屋中に響き渡った。詞介が何を奪われたのか、いつ、どこでのことなのか――そのどれ一つとして、重親は問おうとしなかった。詞介がなおも震える声で「せめて、一言だけでも……」と食い下がろうとすると、重親は苛立たしげに手を振り、番人を呼んで凍える詞介を雪の中へ追い立てさせた。
その夜のうちに熱を発した詞介は、そのまま床から起き上がれなくなった。うわ言のように、幾度も外套のことを呟き、時折、何かを訴えようとするように口を動かしたが、言葉にはならなかった。近所の老婆が粥を運んできても、詞介はほとんど口をつけず、ただ天井の一点を見つめ続けていた。三日目の未明、誰にも看取られることなく、詞介は静かに息を引き取った。局に彼の死が伝わったのは、それからさらに二日後のことだった。彼の机はその日のうちに片付けられ、誰もそこに座りたがらないまま、しばらく空いたままになった。
その同じ刻限、氷筆府の屋根々々の上を吹き荒れていた雪風の中に、それまで誰も見たことのない何かが生まれつつあった。二十七年分の忍耐と、一度だけ抱いた小さな誇りと、それを奪われたまま声にすることさえ許されなかった無念――それらが霜の結晶のように寄り集まり、やがて小さな竜の形をとった。鱗は雪のように白く透き通り、爪も牙も、傷つけるためというより、ただそこにあるだけのもののように頼りなかった。声はなかった。生涯、誰にも本音を聞き届けてもらえなかった男の魂に、今さら言葉が宿るはずもなかった。
ただその瞳だけが、恐ろしいほど雄弁だった。
三 声なき竜
その冬、氷筆府の官吏たちの間で、奇妙な噂がまことしやかに囁かれるようになった。夜更けに独りで帰路につく役人の外套が、次々と何者かに剥ぎ取られるというのである。怪我をする者は一人もいない。ただ、剥ぎ取られる瞬間、決まって「氷のように冷たい何かの視線」に射すくめられたと、誰もが同じように証言した。
被害に遭うのは、なぜか下級の書記や庶民ではなく、相応の位を持つ官吏ばかりだった。噂はやがて「外套剥ぎの竜」という呼び名を得て、夜の巡回を怠けたがる者、供を二人も三人も連れて帰宅する高官、街灯を倍に増やせと役所へ怒鳴り込む重役――氷筆府の上つ方はにわかに浮き足立った。文書局でも、日が傾く頃になると、誰もが我先にと帰り支度を始め、独りで最後まで残る者はめっきり減った。皮肉なことに、詞介がいた頃には誰も気にも留めなかった「独りで遅くまで残る書記」の存在が、いまや局中の話題の中心になっていた。
小十は、詞介の机が空になったことと、この噂が広まり始めた時期とが、奇妙に重なっていることに気づいていた。誰に言うでもなく、詞介の下宿があった裏路地に、夜な夜な足を運ぶようになった。同僚たちは、小十が近頃どこか浮かない様子で、夜遅くまで出歩いていることを訝しんだが、小十はただ「野暮用です」とだけ答えて詳しくは語らなかった。
幾晩目かの、雪の粒が頬を刺すように舞う夜だった。路地の暗がりに、白く光る小さな影が蹲っているのを、小十は見つけた。逃げも威嚇もせず、ただじっとこちらを見つめてくるその瞳に、小十は思わず息を呑んだ。
「詞介さん……ですよね」
竜は答えなかった。答えられるはずもなかった。だが、その瞳の奥に浮かぶ静かな光を見たとき、小十は確信めいたものを覚えた。震える足を叱咤して一歩踏み出し、小十は雪の上にゆっくりと腰を下ろした。
「怖くはないですよ。あなたが誰かを傷つけていないことくらい、噂を聞いてすぐに分かりました」
それから小十は、寒空の下で竜に語りかけることを日課にした。局の他愛のない噂話、新しく配属された書記のこと、詞介が愛用していた筆の穂先のこと。竜は言葉を返さなかったが、小十が話し終えるまで、瞬きもせずにじっと耳を傾けているように見えた。ある夜、小十は自分の手袋を片方、そっと竜の傍らに置いてみた。竜はそれに鼻先を寄せ、しばらく動かなかった。別の夜には、詞介の書きさしの写しを一枚、そっと広げて見せた。竜の瞳が、その一画一画をなぞるように、じっと紙の上を彷徨うのを、小十は確かに見た。
「あなたの字、本当にきれいでしたよ。誰も、ちゃんと見てなかっただけで」
小十がそう呟いた夜、竜の瞳から、初めて何かが零れ落ちるのを、小十は見た気がした。涙なのか、それとも溶けた雪の粒に過ぎないのか、確かめる術はなかった。それでも小十は、その夜だけは自分の外套を脱ぎ、震える竜の背にそっとかけてやった。竜は逃げようとせず、むしろ小十の膝先に頭を預けるようにして、しばらくじっとしていた。
日を重ねるうち、小十は一つのことに気がついた。竜は氷筆府のどの区画へも夜ごと出没するが、なぜか重親の役邸の周りにだけは、決して近づこうとしない。塀の外まで来ては足を止め、しばらく屋敷の灯りを見上げたきり、踵を返して雪の中に消えていく。まるで、そこに何かを果たしに行きたいのに、その一歩がどうしても踏み出せずにいるかのようだった。
小十は、詞介が最後に訪ねた先が重親の役邸であったことを、局の噂話の断片から知っていた。竜が求めているのは、外套ではない。剥ぎ取り続けているのは、ただその手が止められずにいるだけの、行き場のない衝動に過ぎない。竜が本当に望んでいるのは、生前ただ一度だけ、誰かにまっすぐ見てもらうことだったのではないか――そう思い至ったとき、小十の胸に、静かな決意が芽生えた。
「詞介さんの代わりに、私が言ってきます」
竜は答えなかった。ただ、白い鱗をまとった頭を、小十の手にそっと擦り寄せただけだった。その仕草が、まるで「頼む」とでも言っているように、小十には感じられた。
四 対峙の夜
翌日、小十は思い切って重親の役邸を訪れた。門番に取り次ぎを乞い、震える声で「文書局の写字生、詞介の一件で申し上げたき儀がございます」と告げると、案に相違して、すぐに奥へ通された。重親自身、近頃の噂に苛立ちを募らせていたところだったのだ。
「詞介……? ああ、あの、書式も踏まずに騒ぎ立てた老いぼれか。それが何だと言うのだ」
重親の口ぶりには、記憶の底からようやく引きずり出したような、うっすらとした嫌悪しかなかった。小十が竜のこと、詞介の死のことを訴えても、重親は「下賤な迷信話に構っている暇はない」と一蹴し、小十を追い返した。それでも去り際、小十は振り返りざま、はっきりとした声で言い残した。
「あの方は、あなたに問い返してほしかっただけです。何を奪われたのか、たった一言、聞いてほしかっただけなんです」
重親はその言葉を鼻先で笑い飛ばしたが、その夜、氷筆府に例年にない大雪が降った。重親の役邸の周りにも、幾人もの供や番人が篝火を焚いて警戒に当たっていたが、真夜中を過ぎた頃、庭先の雪が誰の足音もなく踏みしめられる気配がした。
篝火の明かりの届く縁に、白く透き通った小さな竜が、音もなく佇んでいた。番人たちが色めき立ち、槍を構えるより早く、重親自身が寝所を飛び出してきた。噂の怪物の正体を、この目で見定めてやろうという、意地とも虚勢ともつかない衝動に突き動かされてのことだった。手には抜き身の剣を提げていたが、その切っ先は、雪明かりの下でかすかに震えていた。
だが、雪明かりの中に立つ竜の姿は、重親が想像していたどんな怪物とも違っていた。牙を剥くでもなく、爪を立てるでもなく、重親の外套に手をかけようとすらしない。ただ、雪の重みにも耐えかねるほど頼りない体で、じっとそこに佇んでいる。番人たちが「討ちましょうか」と伺いを立てたが、重親は片手を上げてそれを制した。何かが、この場を力で片付けてはならないと、重親自身の勘が告げていた。
その瞳と目が合った瞬間、重親の喉から出かけた怒声が、そのまま凍りついた。
竜の瞳の奥に、重親は見た。控えの間で何時間も待たされ、それでも礼を失うまいと身を縮めていた、あの継ぎ接ぎだらけの外套の老人の顔を。震える声で、何を奪われたのかを訴えようとしていた、その言葉の一つも聞かずに怒鳴りつけた、あの日の自分自身の姿を。客人の前で威厳を示したいがために、老いた写字生の訴えを、聞く前から切り捨てたあの一瞬を、重親は今になって初めて、まざまざと思い出した。あのとき、この老人は、いったい何を言いたかったのだろう。重親は、その問いを二十七年もの間、一度も自分に投げかけたことがなかった。
竜は、何も言わなかった。何も奪おうとしなかった。ただ、生前の詞介が誰からも向けられることのなかった「まなざし」――怒りでも、憐れみでもない、ただ一人の人間として真っすぐに見るという、それだけのまなざしを、いま静かに重親へと返していた。
重親は、その視線から逃れることができなかった。逃れようとするたび、竜の瞳の静けさが、かえって重親自身の醜さを鮮やかに照らし出した。長い長い沈黙の果てに、重親は先に目を伏せた。膝から力が抜け、篝火の熱もろくに感じぬまま、雪の上に崩れ落ちた。
「……すまなかった」
誰に向けてともつかぬ、掠れた声だった。それが重親の唇から漏れた、生涯で数少ない詫びの言葉だった。
竜は、その言葉を聞き届けたのか届けなかったのか、表情を変えることなく、ゆっくりと後ずさった。そうして、降りしきる雪の一片一片に溶け込むように、輪郭から順に透き通り、やがて夜の闇の中へ跡形もなく消えていった。
翌朝、篝火の跡には、うっすらと霜の結晶が花のように散らばっているだけだった。番人たちは口々に、あれは本当に怪物だったのかと囁き合ったが、誰一人として、確かなことを言える者はいなかった。ただ重親だけは、雪の上に膝をついたまま、しばらく立ち上がることができなかった。
五 雪解けの後
それから、氷筆府の「外套剥ぎ」の噂はぱたりと止んだ。誰の外套も二度と奪われることはなく、白い竜の姿を見た者も、それきり現れなかった。
重親は、あの夜を境に人が変わったと局中で囁かれるようになった。控えの間に来た者を長時間待たせることをやめ、月に一度、下級の書記や庶民の訴えを直に聞く日を自ら定めた。最初の月、ある老いた門番が「本当にこのようなことをなさるとは思っていませんでした」と目を丸くしたとき、重親はただ短く「遅くなった詫びだ」とだけ答えた。誰に命じられたわけでもなく、詞介の墓に、ささやかな石碑を立てさせたことを知る者は、ごく僅かしかいない。石碑には名だけが刻まれ、余計な言葉は一つもなかった。それが重親なりの、精一杯の礼儀だったのだろうと、後に石碑を見つけた小十は思った。
小十は、詞介の使っていた北向きの机を引き継いだ。周りの誰も望まなかったその席に、小十は自ら望んで座った。詞介が遺した書きさしの写しを見つけたとき、その一画一画の丁寧さに、小十は思わず筆を止めて見入った。それからというもの、小十は誰に見られるでもない書類にまで、心を込めて筆を運ぶようになった。若い書記の何人かは、そんな小十を「詞介の生まれ変わりみたいだ」と笑ったが、小十はもう、それを悪口とは思わなかった。
雪の季節が巡り、ふたたび霜月を迎えたある夜、遅くまで局に残って写しを続けていた小十は、ふと窓の外に目をやった。誰もいないはずの夜更けの窓辺に、誰かが静かに寄り添っているような、そんな温かさをその夜だけ感じた気がした。
小十は、誰にともなく小さく呟いた。
「詞介さん。今年の冬は、私が字を書きますから」
窓の外では、音もなく雪が降り続いていた。それは、もう誰の外套も奪うことのない、ただ静かに世界を白く覆っていくだけの、穏やかな雪だった。
あとがき
ニコライ・ゴーゴリの『外套』(The Overcoat)は、周囲から侮られながらも清書の仕事だけを生きがいに黙々と働く下級官吏アカーキイ・アカーキエヴィチが、ようやく新調した外套を強奪され、訴え出た先の高官にも見放されたまま憤死し、死後、道行く人々の外套を剥ぎ取る幽霊となって町を彷徨うという物語である。本作では、この「幽霊」を、声を持たない一頭の小さな竜――生前決して口にできなかった無念そのものが形をとった存在に置き換え、外套を奪う行為の先に、加害者へ「まなざし」を突きつけて成仏するという着地点を新たに与えた。
原作の骨格――薄給の写字生が新調の外套を強奪されること、訴え出た高官に理不尽に見放されること、憤死の後に外套を剥ぐ怪異が都に現れること、最後にその高官自身が怪異と対峙すること――は保ちながら、都市や人物の名、竜の由来と造形、若い書記・小十が竜との静かな交流を通じて詞介の想いを汲み取っていく筋立てはすべて独自に創作したものである。竜を「裁く者」ではなく「かつて向けられなかったまなざしを、ただ一度だけ返しに来た者」として描くことで、官僚制の非情さへの風刺と、亡き者の魂が静かに成仏していく鎮魂の物語という、原作の持つ二つの側面を竜の視点から重ねて描くことを試みた。
なお本作は、原典(英訳: Claud Field, Project Gutenberg #36238)の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。
本作はニコライ・ゴーゴリ著『外套』を参考にした翻案作品です。