竜は見送ることをやめなかった
老いることを許されぬ竜が、常若島の岩陰から迷い子たちの旅立ちを見送り続けた。家路を選んだ少女の船出に、竜は自分には決して許されない「変わっていくこと」を託す。
一 子供部屋の灯、消える前に
港町セイルズ・エンドの外れに、白い漆喰の壁を持つ古い家があった。三階の子供部屋には、姉の小夜(サヨ)と二人の弟、連(レン)と一(イチ)が寝起きしている。父は遠洋を渡る貿易船の航海士で家を空けることが多く、母は針仕事の内職をしながら三人を育てていた。窓は港の方角へ開いていて、夜になると沖を行く船の灯りが、まるで星が水面にこぼれ落ちたように瞬くのが見えた。
小夜は今年で十二になる。近ごろ母から、そろそろ子供部屋を出て、階下の裁縫部屋で行儀作法を習う年頃だと言い渡されていた。弟たちに寝物語を語ってやれる夜も、あと幾晩残っているのか、小夜自身にもわからない。「大人になる」ということが、潮が満ちるように、いつのまにか足元にまで迫ってきている気配だけを、小夜はぼんやりと感じ取っていた。
その夜も、小夜はいつものように弟たちに物語を聞かせていた。海の彼方に浮かぶという、大人にならない子供たちの島の話――船乗りたちが酒場で語る、半分は与太話、半分は本気で信じられている噂だった。「その島には、歳を取らない少年がいてね。夜な夜な窓辺に現れて、行きたい子をさらっていくんだって」と小夜が声を潜めて言うと、一が布団の中で身を縮めた。連は「さらわれるんじゃなくて、招かれるんだよ」と生意気な口を利いた。
物語を語り終え、蝋燭を消そうとしたとき、小夜はふと窓の外に人影のようなものを見た気がした。街灯の届かない屋根の稜線に、何かがうずくまっている。瞬きをする間にそれは消え、後には夜風にきしむ煙突の音だけが残った。見間違いだと自分に言い聞かせながらも、小夜の胸の奥には、説明のつかない胸騒ぎが小さな棘のように残った。
近ごろ、港町ではおかしな噂が絶えなかった。夜半に子供が忽然と姿を消し、朝には何事もなかったように寝床に戻っている、という話。漁師たちの間では、沖合いの霧の向こうに見たこともない島影が浮かぶことがある、とも囁かれていた。誰も本気には取り合わなかったが、小夜だけは、屋根の上の人影のことを思い出すたびに、噂がただの与太話ではないような気がしてならなかった。
その晩、小夜は久しぶりに、自分がまだ「子供」でいられる時間の名残を惜しむように、長いこと寝つけずにいた。窓の外では、風が凪いだ後の静けさの中、遠い沖の方角から、ほんのかすかに、笛のような音色が届いていたような気がした。それが空耳なのか、それとも本当に何かが自分たちを呼んでいるのか、小夜には判じようがなかった。
翌朝、食卓に着いた母は、いつもより幾分か言葉少なだった。針仕事の注文が減り、家計の遣り繰りに頭を悩ませているらしいことは、子供たちの目にも薄々わかっていた。「小夜、お前ももう十二だ。いつまでも弟たちと同じ部屋で無邪気にしていられる歳じゃない」母はそう言って、階下の裁縫部屋に置く小机をどこからか調達してくる算段を語った。小夜は素直に頷きながらも、胸の奥で何かが静かに軋む音を聞いた気がした。大人になるということは、こんなふうに、望むと望まざるとにかかわらず、日常の隅々からじわじわと迫ってくるものなのだと、小夜はそのとき初めて実感した。
その日の午後、小夜は港の桟橋まで買い物に出た帰り、古老の漁師が若い衆に語る話に足を止めた。「昔からある話さ。沖の霧の向こうに、歳を取らない子供らの棲む島がある。行った者は二度と歳を取らんが、帰りたいと思った者だけは、なぜか無事に帰ってこられるんだと」老人はそう言って、パイプの煙を吐き出した。若い衆の一人が鼻で笑い飛ばすと、老人は真顔になって「笑い事じゃないぞ。わしの伯父も、子供の時分に三日ほど行方知れずになって、戻ってきたときには妙な粉のにおいがしていたそうだ」と付け加えた。小夜はその話を聞きながら、屋根の上の人影のことを、また思い出さずにはいられなかった。
二 星屑の道、常若島
事件はその三日後の晩に起きた。子供部屋の窓が音もなく開き、月明かりを背にした人影が、逆さまに宙に浮かんだ姿勢で覗き込んでいたのだ。小夜が悲鳴を上げかけると、その人影――背丈は小夜とさほど変わらぬ少年で、緑がかった衣をまとい、瞳だけが年齢不詳の鋭さを湛えていた――は、唇に指を立てて笑ってみせた。
「静かに。おれはトワだ。お前たちを、大人にならなくていい島に連れていってやる」
トワと名乗るその少年は、懐から取り出した粉――彼が「星屑」と呼ぶ、淡く発光する砂のようなもの――を三人にまぶすと、こともなげに「飛べ」とだけ言った。最初は半信半疑だった連と一も、体がふわりと宙に浮く感覚に歓声を上げ、あっという間に窓の外の夜空へと舞い上がっていった。小夜は振り返り、灯りの消えた子供部屋の窓を、しばらくの間だけ見つめていた。母の寝顔と、まだ何も言わずに出てきてしまった罪悪感が、胸の奥をちくりと刺した。だがその痛みも、雲海を突き抜けて広がる満天の星々の眺めに、すぐに搔き消されてしまった。
幾夜とも知れぬ飛行の果てに辿り着いたのは、深い森と切り立った崖、そして三日月形の浅瀬を抱く一つの島だった。トワはそこを「常若島(とこわかじま)」と呼んだ。島には、かつてトワと同じように連れてこられ、大人になることを拒んだまま、あるいは帰る道を見失ったまま留まり続けている「迷い子たち」が、木の洞や崖の窪みを住処にして暮らしていた。彼らは小夜たちを歓迎し、木の実や川魚をご馳走してくれた。連と一はすぐに迷い子たちと打ち解け、崖を駆け回り、木の蔓を渡って歓声を上げた。
島の暮らしには、時計というものが存在しなかった。日が昇れば起き、腹が減れば木の実をもぎ、眠くなれば焚き火のそばで寄り添って眠る。誰も「そろそろ大人にならなければ」とは言わなかった。小夜は最初の数日、その解放感に酔いしれた。母に叱られることも、裁縫部屋の小机のことを考える必要もない。連と一は日に日に日に焼けし、迷い子たちの誰よりも高く崖を跳ぶことを覚え、島の言葉――鳥の鳴き真似に似た合図の数々――をあっという間に習得していった。
だが小夜自身は、どうしても島の子供たちのように無邪気になりきれない自分に気づいていた。夜、焚き火を囲んで迷い子たちの一人が身の上話を始めると、小夜はその子がもう何十年もこの島にいるらしいことに、密かに背筋の冷たくなる思いをした。「昔のことはあんまり覚えてないんだ。母さんの顔も、名前も」その子はさばさばした調子でそう言ったが、小夜には、その明るさの奥に、消えかけた記憶を悼むような、ごく小さな翳りが見え隠れしているように思えてならなかった。
小夜が島で最も心惹かれたのは、森の奥、切り立った岩壁に守られた「人魚の入江」だった。夕暮れどき、入江の水面には人魚たちが姿を現し、透き通った声で歌う。小夜が岩場に腰掛けてその歌に聞き入っていたある晩、ふと視線を感じて崖の割れ目の方を見やった。そこには何もない――はずだった。だが確かに、暗がりの奥から、こちらを見つめる何か大きなものの気配があった。息をひそめてじっと目を凝らしても、闇よりも濃い闇があるだけで、姿形はまるで掴めない。
「トワ、あの岩陰に何かいるの?」
小夜が尋ねると、トワは肩をすくめて答えた。「知らないな。昔からいる何かさ。誰も姿を見た者はいない。悪さもしないから、みんな気にも留めていない」
その晩以来、小夜は入江に行くたびに、その気配を探すようになった。恐ろしいとは、なぜか思わなかった。むしろその視線には、見張るというよりも、見守るというに近い静けさがあるように感じられた。迷い子の一人、年嵩の少女ミナが小夜に耳打ちしたことがある。「あの岩陰の主はね、私たちがここに来る前からずっといるんだって。誰かが困ったとき、ふっと助けが来ることがあるの。誰の仕業かは、誰も知らないんだけどね」
「怖くないの、そんなのがすぐ近くにいて」小夜が尋ねると、ミナは首を横に振った。「怖いなんて、一度も思ったことない。むしろ、あの岩陰があるから、この島は安心なんだって、みんな心のどこかで信じてる。姿を見せないのは、きっと見せたくない理由があるからよ。無理に暴こうとは思わない」
その言葉を聞いてから、小夜は入江に立ち寄るたび、崖の割れ目に向かって小さく会釈をするようになった。応えが返ってくることは一度もなかったが、それでも小夜は、自分のその仕草が誰かに届いているような、根拠のない確信をどこかに抱いていた。
三 人魚の入江に潜むもの
常若島での日々は、小夜が思い描いていたどんな冒険譚よりも鮮やかだった。トワに導かれ、迷い子たちと共に森を駆け、崖から入江へ飛び込み、人魚たちの歌に耳を澄ませる。連と一もすっかり島に馴染み、家のことを口にする回数は日ごとに減っていった。だが小夜だけは、夜になると時折、港町の窓辺の灯りや、母の針仕事の手つきを思い出しては、言葉にならない疼きを胸の奥に抱えることがあった。
ある日、迷い子の一人である幼い少年タロが、崖の斜面から足を滑らせ、人魚の入江の切り立った岩場へと転落しかけた。潮の流れは速く、下は鋭い岩礁が牙のように連なっている。小夜が声にならない悲鳴を上げたその瞬間、水面近くの岩陰から、太い影が一閃した。何が起きたのか、誰にも正確には見えなかった。ただ、タロの体はふわりと持ち上げられるように岩棚へと押し戻され、あとには水しぶきと、硫黄にも似た微かな熱の匂いだけが残されていた。
「今の、見たか」トワが目を丸くして呟いた。迷い子たちがざわめく中、小夜だけは、崖の裂け目の奥に、確かに一対の金色の瞳が沈んでいくのを見た気がした。誰かに助けられたのだと、それだけは確かだった。だが助けた当人は、名乗り出ることも、姿を見せることもなく、ただ闇の奥へと沈黙のまま帰っていった。
その夜、小夜は一人で入江の岩場に腰を下ろし、暗い水面に向かって語りかけてみた。
「ありがとう。タロを助けてくれたのは、あなたなんでしょう」
返事はなかった。ただ、遠くの岩壁の奥で、何か大きなものが身じろぎするような、低い地響きにも似た音が一度だけ響いた。それが応えなのか、それとも単なる岩の軋みなのか、小夜には判別がつかなかった。それでも小夜は、その日を境に、入江の岩陰に向かって時折り一言二言、独り言のように話しかける癖がついた。今日あったこと、島の暮らしのこと、そして時折り、港町に残してきた母や父のこと。相手が本当に聞いているのかどうかもわからないまま、小夜はその静かな闇に、いつしか心を許すようになっていた。
迷い子たちの間では、姿を見せぬその存在を「隠れ竜」と呼ぶようになった。誰かが危機に陥ると、決まって不思議な助けが差し伸べられる。だが恩に着せることも、正体を明かすこともなく、隠れ竜は常に沈黙の奥へと帰っていく。トワはそのことをさして気にも留めず、「あいつは昔からああなんだ、島の一部みたいなものさ」と笑って済ませていた。だが小夜には、その沈黙の裏に、ただの島の一部とは思えない何かが潜んでいるように思えてならなかった。
雨の続いたある週、迷い子の一人が高熱を出して寝込んだ。島には薬師などいない。心配した小夜が、せめて熱冷ましになる草を探しに崖沿いを歩いていると、それまで一度も踏み入ったことのない獣道の先に、見慣れぬ青白い葉をつけた草むらを見つけた。不思議なことに、その一角だけ、まるで誰かが手入れをしたかのように霧が薄く払われ、朝露の乗った葉先が仄かに光って見えた。小夜がその草を摘んで戻ると、たちまち高熱は引き、迷い子は三日と経たずに元気を取り戻した。
「あの道、前は藪でふさがってたはずなのに」ミナが不思議そうに呟くのを聞いて、小夜は、あの晩に見た金色の瞳のことを、また思い出さずにはいられなかった。姿を見せず、名乗りもせず、それでいて誰かが困っているときには、必ず何かが差し伸べられている。小夜の中で、その正体不明の存在への畏れは、いつしか温かな信頼に近いものへと変わりつつあった。
四 鉤十郎の罠、燃える夜
常若島には、迷い子たちの天敵と呼ぶべき存在がいた。入江の沖に船を停泊させる海賊船長、鉤十郎(かぎじゅうろう)である。左腕を失い、その先端に鉄の鉤を仕込んだこの男は、かつてトワとの諍いで負った傷への恨みを、幾星霜経てもなお忘れていなかった。
満月の晩、鉤十郎は手下たちを率いて入江へと上陸し、迷い子たちの寝込みを襲った。小夜たちが目を覚ましたときには、既に崖のねぐらは包囲され、逃げ場を失った連と一を含む幼い子供たちが、縄で縛り上げられて船へと引き立てられようとしていた。トワは剣を抜いて奮戦したが、多勢に無勢、じりじりと崖際まで追い詰められていく。
「トワ、お前を倒すためだけに、俺はこの十年、この鉤を研ぎ続けてきた」鉤十郎は嗤いながら鉄鉤を月明かりにかざした。「だが今夜はまず、お前の大事な仲間から一人ずつ海に沈めてやる。その方が、お前には苦しかろうからな」手下の一人が連の襟首を掴み、船縁まで引きずっていく。連が悲鳴を上げ、一が泣きながらその後を追おうとして、別の手下に取り押さえられた。小夜は無我夢中でその手下に体当たりしたが、大人の力の前ではひとたまりもなく、砂浜に叩きつけられた。
「その気の強い娘から先に海に落としてやろう」
鉤十郎の鉤爪が小夜の肩に伸びたその刹那、入江の水面が轟音と共に爆ぜた。岩壁の奥からのしかかるように現れたのは、黒々とした鱗に覆われ、月光を弾く巨躯――幾世代もの迷い子たちを陰から見守り続けてきた、あの気配の正体だった。竜は咆哮と共に一息の炎を吐き、鉤十郎の乗ってきた小舟を瞬く間に焼き払った。手下たちは悲鳴を上げて算を乱し、鉤十郎自身も鉤の腕を庇いながら海へと転げ落ちた。
炎の残光の中、小夜は初めてその姿をはっきりと見た。翼は片方の付け根から先が奇妙にねじれ、二度と広げられぬまま骨だけの影を晒している。全身にはいくつもの古い傷痕が刻まれ、まるで長い歳月そのものが刻み込まれた地図のようだった。竜は誰とも目を合わせぬまま、迷い子たちの縄を尾の一振りで断ち切ると、また踵を返して岩陰の闇へと戻っていこうとした。
「待って」
小夜は思わずその背に声をかけていた。竜は一瞬だけ動きを止め、金色の瞳だけをこちらに向けた。言葉は交わされなかったが、その一瞥に宿る色は、小夜が思っていたような冷たいものではなかった。むしろそれは、長い孤独に慣れきった者だけが持つ、静かな諦念に似た光だった。
その夜を境に、小夜の中で何かが定まった。連と一を危険な目に遭わせてしまった恐怖、そして母の顔を思い出すたびに疼いていた望郷の念が、堰を切ったように溢れ出したのだ。翌朝、小夜はトワに、家に帰ると告げた。
「なんでだ。ここにいれば、ずっと今のままでいられるのに」
トワには理解できなかった。歳を取らず、悲しい別れも訪れない常若島の暮らしのどこに、不満があるのか。彼にとって「変わらないこと」は、この島の何よりの恵みだった。小夜は言葉を尽くそうとしたが、うまく説明できなかった。ただ、母の年老いていく姿を、自分もまた歳を重ねながら見届けたいのだと、そう思う気持ちだけは、揺るがなかった。
その日は一日中、島全体が重い沈黙に包まれていた。迷い子たちは口々に「帰るなんて、もったいない」「ここにいれば怖いこともあったけど、ずっと楽しいのに」と小夜を引き止めたが、誰一人として、小夜の決意を本当に覆すことはできなかった。連と一も、最初は姉と離れることに戸惑っていたが、母の顔が恋しいと打ち明けると、二人とも存外あっさりと頷いた。「姉ちゃんが決めたなら、僕らもついていく」連がそう言ったとき、小夜はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
その晩、小夜は最後にもう一度、入江の岩陰を訪れた。竜はいつものように姿を見せなかったが、小夜は闇に向かって静かに語りかけた。
「あなたも、ここから出られないの? だから、ずっとこの島にいるの?」
長い沈黙の後、岩の奥から低く、地の底から響くような声が返ってきた。人の言葉というより、頭の中に直接伝わってくるような、不思議な響きだった。
「この島の古い魔法が、俺を仔竜のまま縛りつけている。成体になることも、島を出ることも、俺には許されていない。だが――お前は違う。老いて、いつか死んでいく定めを持つ者は、故郷に帰り、愛する者たちと共に歳を重ねて生きるべきだ。それが、変わることを許されなかった俺には、決して手にできないものだからだ」
その声には、羨望とも祝福ともつかない、複雑な響きが滲んでいた。小夜は暗闇に向かって深く頭を下げた。何と言えばいいのか、言葉が見つからなかった。ただ、自分がこれまで漠然と抱いていた「帰りたい」という気持ちの輪郭が、その声によって初めてはっきりと形を得たような気がした。
五 帰る舟、見送る岩陰
出立の朝、トワは仏頂面のまま砂浜まで見送りに来た。まだ小夜の決断が呑み込めないながらも、無理に引き止めようとはしなかった。連と一は名残惜しそうに迷い子たちと抱き合い、幾つもの約束にならない約束を交わした。
小夜たちが借り受けた小舟を漕ぎ出そうとしたとき、入江の水面に幾筋もの淡い燐光が浮かび上がった。まるで見えない手が、深い霧の向こうにある安全な航路だけを、光の粒でなぞって示しているかのようだった。誰の仕業かと辺りを見回す間もなく、光はゆっくりと沖へ向かって伸びていく。小夜だけは、その光の帯の先、水面すれすれの岩陰に、ほんの一瞬だけ、あの金色の瞳が浮かぶのを見た。
「ありがとう」
小夜は声に出さず、ただ唇だけでそう告げた。竜がそれに応えたのかどうかはわからない。ただ、光の帯は舟が霧の切れ目を抜けるまで、片時も揺らぐことなく道を示し続けた。
港町に戻った小夜たちを、母は言葉もなく抱きしめた。何日も家を空けていたはずなのに、時計の針はまるで一晩しか経っていないかのように、わずかしか進んでいなかった。だがその一夜のうちに、小夜の中では確かに、二度と元に戻らない何かが変わっていた。
翌朝、小夜は自分から母に、階下の裁縫部屋に机を移してほしいと申し出た。母は驚いた顔をしたが、何も聞かずに頷いた。連と一は相変わらず子供部屋で寝起きしながらも、時折り夜更けに、常若島の思い出をこっそり語り合っているらしかった。小夜はそれを咎めることなく、むしろその夜語りに耳を傾けながら、自分もまた、あの島でのひとときを大切に胸にしまい続けた。
それから幾年もの月日が流れた。小夜は裁縫部屋で行儀作法を身につけ、やがて港町の若い船大工のもとへ嫁ぎ、自らも母となって、子供部屋の窓辺で我が子に寝物語を聞かせる側に回った。連は父の跡を継いで航海士となり、遠洋を渡るたびに「常若島なんて、もう夢だったんじゃないかな」と苦笑いすることもあったが、その目の奥には、消えることのない懐かしさが宿っていた。一だけは大人になっても、時折り縁側でぼんやりと空を見上げ、口ずさむように「隠れ竜」の名を呟く癖が抜けなかった。
大人にならない少年の島の話を我が子に語るたび、小夜の胸には、あの入江の岩陰に潜んでいた金色の瞳のことが、いつも静かに蘇った。竜がその後どうなったのか、小夜には知る術もなかった。ただ、年老いた自分の手を鏡に映すたび、あの晩に聞いた低い声――「老いて、いつか死んでいく定めを持つ者は、故郷に帰り、愛する者たちと共に歳を重ねて生きるべきだ」――を思い出し、小夜はその手のしわの一本一本さえも、誰かから譲り受けた贈り物のように、愛おしく思うのだった。
けれど今も、常若島の人魚の入江では、新しく流れ着いた迷い子たちが、姿の見えない守り手に幾度となく助けられているという。誰にも名乗らず、恩に着せず、ただ闇の奥から見守り続けるその存在は、老いることも、島を出ることも、自らの手で「変わる」ことも、決して許されていない。それでも竜は、幾世代もの子供たちが故郷を想い、いつか船出を決める夜が来るたびに、その航路をそっと照らし続けている。自分には決して手にできない「変わっていくこと」を、せめて誰かの手に渡すために。
岩陰に潜む竜の孤独を知る者は、今も島には誰もいない。ただ、見送られた者たちの胸の奥にだけ、その静かな眼差しの記憶が、消えることなく残り続けている。