物語雳
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·読了目安 13分主役

竜は三度、花を捧げることをやめなかった

傷ついた卵から老夫婦に拾われた仔竜は、恩返しに金塊を掘り当てるが、強欲な隣人に殺されてしまう。だが仔竜の温もりは亡骸から巨木へ、巨木から黄金の臼へ、臼の灰から満開の花へと三度姿を変え、恩を返し続ける。

一 卵を拾う夜

葛葉村は、周囲を低い山にぐるりと囲まれた、田と畑だけの小さな村だった。村の外れ、渓流に近い一角に、田治郎作とその妻おたみは二人きりで暮らしていた。子を授からぬまま歳を重ね、今では互いの白髪の本数を数えるほどの年寄りになっていたが、貧しくとも誰かを羨んだり恨んだりすることを知らぬ、穏やかな夫婦だった。持ち田はわずかで、暮らしは楽ではなかったが、二人でいれば冬の寒さも夏の日照りも、どうにか凌いでこられた。

村には古くから、「恩を慈しみで返す者には三たびの福が、恩を仇で返す者には三たびの罰が下る」という言い習わしが伝わっていた。年寄りたちが囲炉裏端で語る他愛のない教訓話の一つに過ぎず、治郎作もおたみも、それを深く意味づけて考えたことなど一度もなかった。ただ、貧しい暮らしの中でも人には親切にする、それだけを二人はごく自然に守ってきただけだった。

その年の秋、めずらしく大きな嵐が村を襲った。夜通し吹き荒れた風が明け方にようやく凪ぎ、村人たちが恐る恐る戸を開けたとき、裏山の渓流はまだ濁った水を勢いよく吐き出していた。様子を見に出た治郎作は、川岸の岩に打ち上げられた奇妙なものを見つけて足を止めた。人の頭ほどもある大きな卵だった。殻には深い緋色の網目模様が幾筋も走り、片側が大きくひび割れて、そこから弱々しい呼吸の気配が漏れていた。

「これは……」

治郎作はしばし言葉を失った。この村には昔から、奥山のさらに奥に竜が棲むという言い伝えがあった。滅多に人前へ姿を見せぬというその竜が、昨夜の嵐に巻き込まれて、卵を谷へ落としてしまったのだろうか。理由はわからなかったが、放っておけば、この寒さでは中の命は保つまい。治郎作は迷わず両腕でしっかりと卵を抱え上げ、濡れた岩場を用心深く伝いながら、家路を急いだ。

「おたみ、大変なものを拾うてきた」

戸口で迎えたおたみは、夫の腕の中の卵を見て思わず声を上げたが、すぐに気を取り直し、囲炉裏端に藁を厚く敷いて卵を横たえた。二人は代わる代わる火の番をし、卵が冷えぬよう夜通し見守り続けた。おたみは古い綿入れを卵にそっと巻きつけ、治郎作は薪を惜しまず焚べた。二人ともろくに眠らぬまま、三日三晩がそうして過ぎていった。

四日目の晩、殻がぱきりと乾いた音を立てて割れた。中から現れたのは、灰褐色の柔らかな鱗に包まれた、掌に乗るほど小さな仔竜だった。翼はまだ薄く縮こまり、片方の爪は嵐に打たれたのか少し欠けている。仔竜は弱々しく喉を鳴らすと、おたみの差し出した指先に、おそるおそる鼻先を寄せてきた。

「まあ、なんて温かい子だろう」

おたみがそう呟いたとおり、仔竜の鱗はほのかな熱を帯びていた。まるで小さな炭火を体の内に飼っているかのようだった。治郎作もその温もりに指先を近づけ、目を細めた。二人はこの子を灯(ともし)と名付けた。夜の炉端に灯る火影のように、頼りなくも確かな温もりを持つ命だったからだ。

灯は驚くほどの早さで元気を取り戻し、十日もすると小屋の中を跳ね回るようになった。だが、その落ち着きのない仕草の中に、治郎作は時折不思議なものを見た。灯は何もない土間の隅にふと鼻先を向け、くんくんと匂いを嗅いでは、そこを爪先でかりかりと掻くような仕草をするのだ。最初は子供らしい戯れかと思っていたが、幾度も同じ場所を繰り返し掻くうちに、治郎作はそれが単なる気まぐれではないと感じ始めていた。ある晩など、土間の隅を少し掘ってみると、忘れていた古い一文銭が二枚出てきたこともあった。ほんの小さな出来事だったが、治郎作の胸には小さな驚きが残った。

灯はまだ人前に姿を晒すことを許されてはいなかった。竜の子を飼っているなどと知れれば、村じゅうが騒ぎになるだろうし、余所の郡から役人が調べにくるかもしれない。治郎作とおたみは、灯が外へ出るのは夜更けの、月明かりだけを頼りにできるわずかな時間に限っていた。それでも灯は不満を漏らすことなく、日中は縁の下や納屋の暗がりでじっと丸くなり、夜になるとようやく庭先で伸び伸びと羽を伸ばした。狭い暮らしの中にも、灯なりの静かな居場所があった。

同じ頃、村では隣家の権六が、治郎作の家に妙な生き物がいるらしいという噂を聞きつけていた。権六は村でも指折りの田畑を持ちながら、いつも他人の懐具合を気にかけては舌打ちをするような男だった。日照りの年にはわずかな水を巡って隣家と争い、豊作の年には自分の蔵の米俵の数を誰よりも先に数え上げる。そうした振る舞いを、村人たちは陰でひそかに疎んじていたが、面と向かって咎める者はいなかった。「あの貧乏夫婦の家に、何か変わった生き物が転がり込んだそうだ」と、権六は垣根越しに治郎作の家をちらちらと窺うようになっていた。まだ何も起きてはいなかったが、静かな村の暮らしの底に、小さな亀裂が兆し始めていた。夕暮れ時、灯を抱いたおたみが縁側で夕焼けを眺める姿を、権六は薄暗くなった垣根の陰から、じっと見つめ続けていた。

二 灯、恩を返す

冬を越え、灯は目に見えて大きくなった。とはいえ、まだ翼で空を舞うには程遠く、鱗も柔らかいままの幼体だった。それでも、灯には生まれつき備わった不思議な力があった。風に乗って流れてくる、土の奥に眠る鉱脈や、埋もれた宝の匂いを、誰よりも鋭く嗅ぎ分けることができたのだ。それは灯自身にもうまく説明のできない感覚だった。ただ、地面のある一点だけが、他の場所とは違う匂いを放っているように感じられる。灯はその匂いに導かれるまま、いつも自然と足を向けてしまうのだった。

ある春の朝、灯は治郎作の裾を引っ張り、家の裏手の痩せた畑の一角を、しきりに前足で掻いた。訝しみながらも治郎作が鍬を入れると、土の中から鈍く光る塊がいくつも転がり出た。金塊だった。

「おたみ、おたみ、これを見てくれ」

震える手で塊を掲げる治郎作に、おたみは声も出せずに駆け寄った。二人は灯を代わる代わる抱きしめ、その小さな体を撫でた。灯は嬉しそうに喉を鳴らし、二人の手のひらに額を擦り付けた。恩を返しているのだという明確な自覚が、幼い竜のどこにあったのかは分からない。ただ、この老夫婦の傍にいると、生まれてすぐに失った親の温もりに似た何かを感じるのだと、灯はそれだけを知っていた。

金塊のおかげで暮らしは幾らか楽になったが、治郎作とおたみは驕ることをしなかった。新しい着物を仕立てるでもなく、屋根を葺き替えるでもなく、余った金は困窮する村人にそっと分け与えた。冬に病で臥せった隣の隣の家には米俵を届け、日照りの年には水路の普請にいくばくかの銭を出した。村人たちは事情を知らぬまま、ただ「近頃の治郎作どんは、妙に人助けが多いね」と噂し合うばかりだった。

ある夜、夫を亡くしたばかりの若い母親おふじが、乳飲み子を抱えて治郎作の家を訪ねてきたことがあった。冬を越す蓄えもなく、途方に暮れていたのだという。治郎作は黙って米と銭の包みを差し出し、「困ったときはお互い様だ、遠慮はいらん」とだけ言った。おふじが幾度も頭を下げて帰っていく後ろ姿を、灯は縁の下からじっと見つめていた。誰かの暮らしが、こうして少しずつ立て直されていく様を目にするたび、灯の胸の奥にも、じんわりとした温かいものが広がっていくのだった。自分の力が、誰かの涙を止める役に立っている――その手応えを、灯は言葉にはできぬまま、確かに感じ取っていた。

夜、囲炉裏端で治郎作が語る昔話に、灯は丸くなって耳を傾けた。灯が特に好んだのは、遠い山の向こうを渡っていく雁の群れの話や、若い頃の治郎作が旅の行商人から聞いたという、異国の海の話だった。おたみが繕い物をする傍らで、灯はその膝に頭を乗せて眠る。そんな穏やかな時間が、幾月も積み重なっていった。灯はまだ自分の翼で空を飛べなかったが、いつか自分もあの雁のように、遠くの景色を見に行ける日が来るのだろうかと、うとうとしながら夢想することがあった。

灯にとって、治郎作とおたみの家は世界のすべてだった。二人の笑い声、囲炉裏の爆ぜる音、雨の日に藁屋根を打つ雨音――それらすべてが、灯の小さな体に染み込んでいった。灯はまだ、恩というものの重さを知らなかった。ただ、この二人が笑っていてくれることが、何より心地よかっただけだ。

夏の盛り、村では毎年恒例の夜祭りが開かれた。太鼓の音や笛の音、子どもたちの歓声が、夜風に乗って治郎作の家の裏山まで届いてくる。灯は生まれて初めて聞くその賑わいに、じっとしていられぬ様子で、庭先を落ち着きなく歩き回った。人前に出られぬことはわかっていたが、あまりにせがむ様子を見かねた治郎作は、灯を背負い籠に隠し、こっそり裏山の中腹まで連れ出してやった。遠く眼下に望む祭り提灯の灯りの連なりを、灯は身を乗り出すようにして、いつまでも見つめ続けた。「いつか、お前がもっと大きくなったら、空からあの灯りを見せてやれるかもしれんな」。治郎作がそう囁くと、灯は嬉しそうに小さく喉を鳴らした。その夜のことを、灯はいつまでも忘れなかった。

だが、静かな幸いは長くは続かなかった。ある日、畑仕事の合間に灯が土を掘り当てるところを、垣根越しに権六がとうとう目撃してしまったのだ。掘り出された金塊が日の光を弾くのを見て、権六は思わず息を呑んだ。

「なるほど、そういうことか」

権六の目に、強い光が宿った。あの貧乏夫婦が急に羽振りを良くしたのは、あの得体の知れない生き物の仕業だったのだ。ならば、あれを借り受けさえすれば、自分もまた同じ恩恵に与れるはずだ。権六の胸に、これまでにない強欲な企みが芽生え始めていた。その夜、権六は女房にも聞かせぬまま、行灯の灯の下でひとり算盤をはじき、あの生き物を手に入れる算段を巡らせていた。

村の古老は、かつて権六の父の代からこの土地を見てきた人物だったが、ある寄合の帰り道、ふと権六に釘を刺したことがあった。「欲というものは、持てば持つほど際限がなくなる。身の丈に合わぬ幸いを追えば、いつか痛い目を見るぞ」と。権六はその場では殊勝な顔で頷いてみせたが、内心では鼻先で笑っていた。年寄りの繰り言など、耳を貸すだけ損だと思っていたのだ。むしろその忠告は、権六の胸の奥にくすぶる焦りに、いっそう火をつけただけだった。

三 奪われた牙

数日後、権六は治郎作の家の戸を叩いた。表向きは愛想のよい笑みを浮かべていたが、その目の奥には焦りにも似た欲の色が滲んでいた。

「治郎作どん、聞くところによると、お前さんとこの生き物には、土の下から宝を探し当てる不思議な力があるそうじゃないか。一日だけでいい、うちの畑を見てもらえんかね」

治郎作は言葉に詰まった。灯の力は、決して見世物や金儲けのためのものではなかった。だが権六は、村の寄合での貸し借りや、以前治郎作が畑仕事で世話になった小さな恩を持ち出し、なかば強引に灯を借り受けようとした。「日頃の付き合いというものがあるだろう」と、権六の口ぶりには、断れば村での立場が悪くなるという含みがあった。治郎作は幾度も言い淀んだが、おたみの不安げな視線を横目に、ついに渋々と頷いてしまった。

「灯、少しの間だけだ。すぐに戻れるから」

治郎作の言葉に、灯は不安げに主人の顔を見上げた。いつもと違う空気を敏感に感じ取っていたのだろう、灯は治郎作の袖にしがみつくように鼻先を寄せたが、逆らうことも出来ずに権六に連れられていった。おたみは戸口に立ち尽くしたまま、小さくなっていく灯の背中を、いつまでも見送っていた。

権六の畑に着くなり、権六は灯の首根っこを乱暴に押さえつけ、あちこちの土を無理やり掘らせた。だが、灯の鼻がとらえるのは、土の奥に眠る本物の宝の気配ではなく、権六の掌からにじみ出る、じっとりとした欲の匂いばかりだった。優しさや慈しみに応えて働くはずのその力は、命令や恫喝のもとでは、まるで働かなかった。灯が掘り当てるのは、瓦礫と、腐った木の根ばかりだった。

「役立たずめ! さんざん人を焦らせておいて、この様か!」

畑の隅で麦の穂を刈っていた作男の一人が、この剣幕に驚いて手を止めた。「権六どん、その生き物はまだほんの子どもじゃありませんか、そう手荒にしては……」と控えめに口を挟んだが、権六は「よそ者は黙っていろ」と一喝し、作男はそれ以上何も言えぬまま、その場を離れていった。誰にも止める術がないまま、権六の苛立ちだけが際限なく膨れ上がっていった。

苛立ちを募らせた権六は、幾度も灯を怒鳴りつけ、縄で締め上げ、無理に地面へ押し付けた。まだ幼く、翼も定まらぬ灯には、抗う力も、逃げる術もなかった。それでも権六は掘れ掘れと喚き続け、しまいには手にした鍬の柄で、灯の華奢な体を打ち据えた。

一撃、また一撃。灯の小さな悲鳴は、次第に力を失っていった。夕焼けが畑を赤く染める頃、権六の足元に横たわった灯は、もう二度と動かなくなっていた。

「ふん、しょせんはとかげの化け物か」

権六は肩で息をしながらそう吐き捨てると、動かなくなった灯を、まるで用済みの荷のように筵にくるみ、治郎作の家の前に放り捨てて去っていった。

夕暮れ、戸口で異変に気づいたおたみの悲鳴が、村の静けさを引き裂いた。駆けつけた治郎作は、変わり果てた灯の亡骸を抱き上げ、声にならない声で泣いた。あれほど自分たちを慕い、温もりを分け与えてくれた小さな命が、他人の欲のために踏みにじられたのだ。おたみは灯の冷たくなった鱗にすがりつき、幾度も名を呼び続けた。二人は夜通し、灯の傍らを離れなかった。

四 亡骸、巨木、黄金の臼

翌朝、治郎作は涙を堪えながら、庭の隅に小さな穴を掘り、灯の亡骸をそっと横たえた。土をかける手が幾度も止まった。「すまなかった、すまなかった」とおたみは繰り返し呟きながら、最後の土を被せた。土饅頭の上には、灯が好んで転がっていた丸い石をひとつ、そっと置いた。

その夜、二人が眠れぬまま過ごしていると、庭先からかすかな地鳴りのような音が聞こえてきた。驚いて戸を開けると、灯を埋めた場所から、若木がすでに人の背丈ほどに伸びているのが見えた。木はなおも軋むような音を立てて育ち続け、夜が明ける頃には、枝葉を大きく広げた見上げるほどの巨木になっていた。

「灯が、まだ私たちのそばにいてくれる……」

おたみは震える手で幹にそっと触れた。木肌には、灯の鱗によく似た、ほのかな熱がこもっていた。灯の内に灯っていた命の残り火が、土の底深くまで染み渡り、この巨木を一夜のうちに育て上げたのだと、二人には自然と分かった。悲しみは消えなかったが、その温もりに触れているあいだだけは、灯がまだどこかで生きているような、そんな心地がした。

朝になると、一夜にして現れた見上げるほどの巨木の噂を聞きつけ、村人たちが次々と治郎作の家の庭先を訪れた。誰もが幹の太さに目を丸くし、こんな木は見たことがないと口々に言い合った。中には枝先に手を触れ、「ほんのり温かい、まるで生き物のようだ」と呟く者もいた。治郎作とおたみは、灯のことを詳しくは語らなかったが、「大事な生き物を、この木の下に眠らせている」とだけ、静かに答えた。その言葉の重みを感じ取ったのか、村人たちはそれ以上詮索せず、ただ木を見上げて静かに手を合わせていった。

治郎作は木の一部を切り出し、餅をつく臼を拵えた。木を削るあいだ中、木屑からもほのかな温かさが漂い、治郎作はそのひと削りひと削りに、灯への詫びと感謝を込めた。おたみが蒸した米を臼に入れ、治郎作が杵を振るうと、搗きあがった餅は目にも鮮やかな黄金色に輝いた。恐る恐る触れてみれば、それは正真正銘の黄金だった。灯の温もりが、形を変えてなお二人に恵みをもたらしてくれているのだった。二人はその黄金の餅を、これまでと同じように、村の困窮した者たちへそっと分け与えた。

この噂もまた、たちまち権六の耳に入った。「今度は木か。ならば、その臼を寄越せ」と、権六は今度も強引な理屈をこねて臼を借り受け、自らの家で餅をつかせた。だが搗き上がったのは黄金ではなく、饐えた臭いを放つ泥のような土くれだった。怒り狂った権六は臼を斧で叩き割り、その場で火にくべて燃やしてしまった。めらめらと燃え上がる炎を、権六は苦々しい顔で睨みつけていた。灯の最後の贈り物は、こうして灰となって消えた――かに見えた。

五 花咲く朝、殿様の采配

燃え尽きた臼の灰を、治郎作は権六の家の焼け跡から丁寧にかき集め、竹籠に入れて持ち帰った。庭の隅には、幾年も前に枯れてしまった老木が、寂しく立っているだけだった。かつて灯が好んで木陰で昼寝をしていた、思い出深い木だった。治郎作は灰を一掴み、その枯れ枝に向かって静かに振りまいた。

灰が枝に触れた瞬間、まるで時が巻き戻るように、枯れ木の隅々にまで薄紅の蕾が膨らみ、瞬く間に満開の花で覆われた。季節外れの花吹雪が庭に舞い、朝の光を浴びてきらきらと輝いた。灯の最後の温もりが、灰の一粒一粒に宿っていたのだ。治郎作とおたみは、花びらの雨の中に立ち尽くし、しばらくは声も出せなかった。

折しもその朝、領内を見回っていた大和守様の一行が、村はずれのこの庭先を通りかかった。馬上の大和守は、季節を違えて咲き誇る花に目を奪われ、思わず馬を止めさせた。

「これはまた、見事な花よ。誰の仕業か」

治郎作は膝をつき、灯を拾った夜のことから、亡骸が木となり、木が黄金の臼となり、臼の灰がこの花を咲かせたことまで、ありのままを語った。竜という言葉こそ口にしなかったが、大和守は静かに耳を傾け、時折深く頷いた。

「命あるものを慈しみ、見返りを求めずに世話をする――それがこれほどの花を咲かせるとはな。情け深い者にこそ、天は恵みを与えるものよな」

大和守はそう言って目を細め、褒美として反物と金子を与えた。治郎作とおたみは幾度も頭を下げ、「これはすべて、あの子が私どもに授けてくれたもの」とだけ答えた。慈しみ深い老夫婦の噂は、またたく間に村じゅうに広まった。

これを聞いた権六は、悔しさのあまり地団駄を踏んだ。「灰を撒けば良いだけなら、俺にも出来る」とばかりに、燃やした臼の燃え殻を拾い集め、大和守の一行を追いかけた。だが権六の手には、灯の温もりなど微塵も宿っていなかった。ただの煤と燃えかすでしかないその灰を、権六は大和守の前で力任せに撒き散らした。

折悪しく、風向きが変わった。灰は花を咲かせるどころか、まっすぐに大和守の顔へと吹きつけた。目を痛めた大和守は激しく怒り、無礼を働いた権六はその場で厳しく罰せられ、二度と人前に姿を見せなくなったという。

それから幾年もの月日が流れた。治郎作とおたみは変わらず貧しいままだったが、庭の老木は毎年その季節になると、判で押したように見事な花を咲かせた。村人たちはいつしかその木を「灯の桜」と呼ぶようになり、花の盛りには近隣からも見物に訪れる者が絶えなかった。二人は歳を重ねてなお、花の下で灯の名を呼び、その温もりを懐かしんだ。花見に訪れる村の子どもたちに、おたみは幾度も、小さな竜の話を語って聞かせた。子どもたちはその話を、いつしか村の新しい言い伝えとして語り継ぐようになっていった。

治郎作が齢を重ね、鍬を握る手も震えがちになったある年の春、二人は縁側に並んで座り、満開の「灯の桜」をいつまでも眺めていた。「私たちは、あの子に何をしてやれただろうな」と治郎作がぽつりと漏らすと、おたみは静かに首を振った。「何もしてやれなかったからこそ、あの子はこんなにも返してくれたのですよ。きっと、いてくれただけで良かったのです」。風が吹き抜け、花びらが二人の膝の上にひとひら、またひとひらと舞い落ちた。

亡骸から巨木へ、巨木から黄金の臼へ、そして臼の灰から満開の花へ――灯は三度、姿を変えてなお、慈しんでくれた老夫婦のもとへ恩を返し続けた。花びらが風に舞うたび、治郎作とおたみには、小さな竜の温かな鼻先が頬に触れるような、そんな気がしてならなかった。

本作は楠山正雄の『花咲かじいさん(花咲か爺さん)』を参考にした作品です。原典