物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は名前を持たなかった

孤児の少女アンの空想が生んだ小さな竜は、彼女がひとりで抱えきれない感情にだけ寄り添い、心の友や絆を得て成熟していくにつれ、姿を見せる頻度を減らしていく。L・M・モンゴメリを翻案した静かな成長譚。

一 グリーン・ゲイブルズに来た朝

その少女がグリーン・ゲイブルズの馬車に揺られて来たとき、頭の中はすでに、これから出会うはずの世界でいっぱいだった。痩せた体に安っぽい服をまとい、そばかすの散った顔にはおよそ十一歳らしからぬ大人びた言葉遣いが同居していたが、何よりも目立つのは、その口が一瞬たりとも止まらないことだった。

「あの並木道、なんて素敵なんでしょう。真っ白な花が両側からアーチのように重なって……ああ、名前をつけなくちゃ。『歓喜の白路』、それとも『恋人の小径』かしら。先生、あなたはどちらがお好き?」

御者の老農夫マシューは、寡黙な性分にもかかわらず、隣に座るこの奇妙な赤毛の子どもの饒舌さに、いつしか口元をゆるめていた。並木道を抜け、丘を越え、夕陽に染まる池のほとりに差しかかると、少女はまた声をあげた。

「あの池も、ただの『バリーさんの池』だなんて、あんまりだわ。あんなにきらきら光っているんですもの、『輝く湖水』と呼ばせていただくことにします」

孤児院から男の子を引き取るはずだったのに、手違いでこの少女がやって来てしまったのだと知ったのは、駅に降り立った瞬間のことだ。妹のマリラはきっと送り返すと言うだろう。マシューにもそれはわかっていた。それでも、この子の弾むような声を聞いていると、なぜだか送り返すという言葉が、うまく現実味を持たないのだった。

グリーン・ゲイブルズに着いた少女――名はアンといった――は、その晩、台所の椅子に腰かけたまま、養い親になるはずだったマリラから、手違いの経緯を淡々と告げられた。頬を紅潮させ、目に涙をためながらも、アンは黙って聞いていた。想像力に富んだこの子どもにとって、初めて心を許しかけた場所から再び追い出されるという現実は、これまでの孤児院暮らしの中で味わってきた、いくつもの失望の続きに過ぎなかった。

翌朝、送り返される汽車を待つ間、アンはマリラに、輝く湖水と呼びたくなるような沼のほとりを歩かせてほしいと頼んだ。

「バリーさんの池のことなら、知っているよ。何もそんな大層な名前をつけなくても」

マリラはにべもなくそう言ったが、アンの想像の癖まで止めることはできなかった。孤児院育ちのこの子どもは、みすぼらしい現実の隙間という隙間に、自分だけの名前と物語を注ぎ込むことで、これまでの寂しさを生き延びてきたのだ。名づけるという行為は、アンにとって、ただの遊びではなかった。名もなきものに名を与えることで、初めてそれを自分の世界の一部として、心の内側に招き入れることができるのだった。

結局、成り行きと、何よりマシューの一言によって、アンはグリーン・ゲイブルズに残ることになった。「男手が欲しかったのは事実だが、この子には何か、ふつうと違う光るものがある」とマシューは呟いた。マリラは呆れながらも、それ以上は反対しなかった。

屋敷の裏手には、樅と楓が鬱蒼と茂る一角があった。日中は木漏れ日の落ちる穏やかな林に過ぎなかったが、日が沈むと途端に、風のざわめきさえ違う響きを帯びるように思われた。アンはそこに「お化けの森」という名をつけ、夕暮れどきに一人でその境をうろつくのを好んだ。恐ろしいはずのその名づけは、彼女にとってむしろ、心細さを飼い慣らすための呪文のようなものだった。誰もいない場所に、誰かがいることにしてしまえば、本当の一人ぼっちからは、少しだけ遠ざかれる気がした。

引き取られて間もないある晩、アンは自分がここに留まれるかどうかの不安に押しつぶされそうになり、お化けの森の際まで駆けていった。まだ見知らぬ土地に馴染めぬまま、また荷物ひとつで別の場所へ送られるのではないかという恐れが、幼い胸を締めつけていた。涙で滲む視界の奥、木々の隙間の暗がりに、何か小さなものがうずくまっているのに気づいたのは、その時が初めてだった。

爬虫類のような滑らかな輪郭、月明かりに濡れたような鱗、そして何より、こちらを咎めも急かしもしない、静かな眼差し。アンはそれを恐ろしいとは思わなかった。ただ、低く喉の奥で鳴るような音が、震える自分の胸の内と、不思議なほど同じ調子をしていることに気づいた。竜は言葉を持たず、ただそこに蹲り、アンの涙が涸れるまで、じっと動かずにいた。

その夜、アンはそれが何なのか、誰にも説明できなかった。ただ、その小さな竜のような影が、自分の空想が形になって滲み出てきたものだということだけは、幼いながらに直感していた。誰にも打ち明けられない秘密を、アンはこうして、たった一人で胸の内に仕舞い込むことを覚えていった。

二 心の友と、宿敵と、竜のいる森

グリーン・ゲイブルズでの日々は、アンにとって驚きの連続だった。隣家のバリー家には、アンと同い年のダイアナという少女がいて、二人はたちまち「心の友」になる誓いを立てた。木の下で手を取り合い、永遠の友情を誓う儀式めいた言葉を交わしたとき、アンの胸はこれまで感じたことのない充足感で満たされた。

「わたし、生まれてからずっと、心の友を探していたの。ダイアナ、あなたがそうだって、初めて会った瞬間からわかっていたわ」

そう語るアンの瞳は、いつもの空想話をするときと同じくらい、いや、それ以上に真剣な光を帯びていた。ダイアナもまた、この物おじしない、豊かな言葉を持つ友人に、すぐさま心を開いた。

しかし、喜びの多い日々の裏には、アンの短気と虚栄心が引き起こす小さな騒動も絶えなかった。教室で、机の後ろの席から赤毛をからかい「にんじん」と囃し立てた少年、ギルバート・ブライスに対して、アンは石板を彼の頭上で真っ二つに叩き割った。以来、ギルバートがどれほど詫びの言葉を尽くしても、アンは頑として口をきこうとしなかった。負けん気の強さは、彼女の想像力と同じくらい、抑えの利かないものだった。

ある晩、ギルバートへの意地を張り通した自分を持て余し、アンはお化けの森の際まで足を運んだ。誰にも打ち明けられない苛立ちと、少しの後ろめたさを抱えたまま木々の暗がりに座り込むと、いつのまにか、あの小さな竜がすぐそばに来ていた。竜は何も言わず、ただ低く喉を鳴らし、アンの膝先にそっと鼻先を寄せた。言葉で慰められるよりも、その沈黙のほうが、こわばった心をほどいてくれるように感じられた。

「あなたは、わたしを馬鹿な子だとは思わない? ギルバートはただ、わたしをからかっただけなのに、わたし、いつまでも根に持ってしまって」

竜は答えなかった。ただ、月明かりの下でゆっくりと瞬きをするだけだった。アンはそれで十分だと思った。誰かに認められることよりも、ただ黙って隣にいてくれることのほうが、時にはずっと必要なのだと、幼いなりに感じ取っていた。

虚栄心が招いた騒動は、ほかにもあった。近所の行商人に唆され、艶やかな黒髪になれると信じ込んで買った染料で、アンは自分の赤毛を緑色に染めてしまったことがある。鏡に映る奇妙な緑の頭を見て、アンは自室に閉じこもり、声を殺して泣いた。マリラに知られる前に、こっそり庭を抜けてお化けの森に逃げ込んだとき、竜はすでにそこで待っているかのように、暗がりに蹲っていた。

「もう、みんなに笑われる。ダイアナにも合わせる顔がない」

竜は静かに首をもたげ、アンの震える肩に、鱗に覆われた小さな頭をそっと押し当てた。慰めの言葉ひとつなく、ただそこにいるという事実だけが、アンにとっては何よりの救いだった。結局、緑の髪は短く切り落とすほかなく、しばらくの間、アンは自分の見た目を恥じて過ごしたが、その恥もやがて笑い話に変わっていった。

もう一つ、アンの心を長く苛んだ出来事があった。マリラが大切にしていた紫水晶のブローチを紛失した際、身に覚えのないまま疑いをかけられたアンは、絶望のあまり無実の罪を認めてしまい、罰として日曜の礼拝行事への外出を禁じられた。後にブローチはマリラ自身のショールの陰から見つかり、疑いは晴れたが、身に覚えのない罪をなぜ認めてしまったのかと問われたアンは、こう答えた。

「だって、そう認めなければ、外に出してもらえないと思ったんです。ピクニックに行きたくて、頭の中で勝手に、失くした顛末をこしらえてしまったの」

このときも、罰を受けて自室で膝を抱えていたアンのもとに、竜は音もなく現れていた。窓辺から差し込む月光の中、竜は何も咎めず、ただアンの涙が乾くまで、辛抱強く傍らに留まっていた。

こうした失敗のたび、竜はいつも変わらぬ姿でお化けの森に現れた。だが、アンとダイアナの友情が深まり、マリラやマシューとの間にも少しずつ確かな信頼が積み重なっていくにつれ、竜が姿を見せる頻度は、誰に気づかれることもなく、ゆるやかに減っていった。かつては毎晩のように待っていたその影が、いつしか、よほど耐えがたい夜にしか現れなくなっていることに、アン自身もまだ気づいていなかった。

この頃、アンはダイアナや近所の子どもたちと「物語クラブ」なるものを立ち上げ、めいめいが空想の物語を書いては読み聞かせ合う遊びに夢中になっていた。血の涙を流す姫君や、呪われた城の亡霊など、いかにも大仰な筋書きばかりを好んで綴りながら、アンは自分だけが知るお化けの森の竜のことは、一度もその物語の題材にしなかった。空想が売り物のこの少女にとってさえ、竜のことだけは、物語というかたちにして誰かに手渡してよいものとは思えなかったのだ。

ホワイト・サンズのホテルで開かれた発表会に招かれ、人前で詩を暗誦する機会を得たときも、アンは緊張のあまり舞台袖で足がすくんでしまった。だが、いざ壇上に立つと、いつもの弾むような声が戻ってきて、聴衆の拍手喝采を浴びるほどの朗誦をやってのけた。晴れがましい成功の裏で、その夜だけは、竜のもとへ駆け込む必要すらなかった。喜びを分かち合う相手が、もうダイアナやマリラという、確かな血の通った人々になっていたからだった。

ただ一度だけ、ダイアナがその姿を見たことがある。アンが試験の結果に怯え、二人で森の際に座り込んでいた夕暮れ、木々の合間に小さな光る眼差しが揺れるのを、ダイアナは確かに見た。

「アン、今……何か、いなかった? 光る目みたいな……」

「気のせいよ、きっと。森にはいろんな鳥がいるもの」

アンはとっさにそう答えたが、心の中では、あれが自分だけの秘密だということを、なぜかダイアナにも知られたくないと感じていた。友情という確かな絆が育つほどに、あの竜の存在は、誰にも触れさせたくない、自分だけの内側の部屋のようなものになっていった。

三 葡萄酒の夜と、遠ざかる竜影

アンとダイアナの友情に、最初の深い亀裂が入ったのは、ある茶会の午後のことだった。ダイアナをもてなそうと張り切ったアンは、戸棚の奥から取り出した瓶の中身を、木苺のシロップだと信じて疑わず、惜しみなくダイアナのグラスに注いだ。それが実は、マリラが誰にも言わずに仕舞い込んでいた葡萄酒だったとは、二人とも知る由もなかった。

上機嫌に杯を重ねたダイアナは、やがて足元をふらつかせながら帰宅し、母親のバリー夫人を心底から怒らせることになった。バリー夫人はアンが娘を酔わせたのだと決めつけ、以後、ダイアナがアンと交わることを固く禁じてしまった。

「もう二度と、口をきいてはいけないと言われたの。お母様、聞く耳を持ってくださらなくて」

窓越しに震える声でそう告げられたとき、アンの世界は音を立てて崩れ落ちた。悪意など欠片もなかったのに、心の友を失うという現実だけが、容赦なく彼女の前に横たわっていた。マリラに事情を訴えても、バリー夫人のもとへ謝罪に出向いても、頑なな心はまるで動かなかった。

その夜、アンは声を殺して泣きながらお化けの森へと駆け込んだ。暗がりの奥、竜は待っていた。だがそれは、かつてのように毎晩そこにいる竜ではなく、ひどく久方ぶりに姿を見せた、懐かしい影だった。アンが泣き崩れると、竜は低く長く喉を鳴らし、その音は森全体を震わせるほどに大きく響いた。まるでアンの絶望そのものを、竜自身が肩代わりして吠えているかのようだった。

「わたしのせいで、ダイアナと引き離されてしまった。心の友を失うくらいなら、いっそ最初から出会わなければよかった」

竜は答えなかった。ただ、涙に濡れたアンの手のひらに、ひんやりとした鱗の額を押し当てただけだった。かつてなら、それだけで十分だった。だが、その夜のアンは、竜の沈黙だけでは埋まらない虚しさを、初めてはっきりと感じ取っていた。竜がどれほど寄り添おうとも、ダイアナという生身の友の代わりにはなり得ない。想像の慰めと、現実の絆とは、決して同じものではないのだと、アンはその晩、痛いほど思い知らされた。

幸い、その断絶は長くは続かなかった。ある夜、ダイアナの幼い妹ミニー・メイが猛烈なクループの発作に苦しみ、両親が留守にしていたところへ、アンが持ち前の機転と、かつて読みふけった医学書の知識を頼りに駆けつけ、震える手で手当てを施し、一命を取り留めさせたのだ。バリー夫人はその働きに深く感謝し、禁令はあっけなく解かれた。ダイアナとの友情は、以前にも増して固いものとして結び直された。

この一件を境に、アンがお化けの森を訪れる夜は目に見えて少なくなっていった。悲しみや怒りを抱えたとき、アンはまず、竜のいる暗がりではなく、ダイアナの家の戸を叩くようになっていた。あるいはマリラに、あるいは学校の恩師スタシー先生に、胸のうちを打ち明けるようになっていた。想像の慰めよりも、確かな誰かの言葉のほうを、いつのまにか頼りにするようになっていたのだ。

年月は静かに流れた。アンはクイーン学院の入学試験に首席で合格し、さらに難関のエイブリー奨学金まで射止めた。かつて石板を叩き割った宿敵ギルバートは、あるとき自ら教師の職を譲り、アンがカーモディではなくアヴォンリーの学校で働けるよう取り計らってくれた。いつしか対等に競い合う好敵手は、互いを認め合う静かな友へと変わっていった。アンの世界は、想像の力を借りずとも、確かな人間関係だけで十分に豊かなものになりつつあった。

その年の秋、思いがけない報せがグリーン・ゲイブルズを襲った。マシューが虎の子の貯金を預けていた銀行が破綻したという知らせを聞いた直後、マシューは心臓の発作でそのまま息を引き取ってしまったのだ。玄関先で崩れ落ちるように倒れたマシューを見つけたときの光景を、アンは生涯忘れることができないだろうと感じた。これまでの人生で味わったどんな悲しみよりも、深く、暗く、出口の見えないものだった。悲しみのあまり幾晩も眠れぬ夜を過ごしながら、アンはふと、久しく忘れていたお化けの森の暗がりを思い出していた。

四 竜の見送り

マシューを失った悲しみの上に、さらに重い現実が積み重なった。長年の心労がたたり、マリラの視力は急速に衰えつつあり、このままではやがて完全に光を失うかもしれないと医者は告げた。屋敷の借金も明らかになり、グリーン・ゲイブルズを手放すことさえ現実味を帯びていた。マリラは気丈に振る舞いながらも、夜ごとひとりで台所に座り、暗闇の中で肩を落としている姿を、アンは幾度も見かけていた。

進学のため大学へ向かうべきか、それともここに残るべきか。アンは幾晩もかけて、その答えを胸の内で探し続けた。エイブリー奨学金を手にした栄光と、これから開かれるはずだった広い世界。それらを思うたび、胸の奥がちくりと痛んだ。だが、目の前で気丈に振る舞いながらも確実に衰えていくマリラの姿を見るにつけ、アンの心はゆっくりと、しかし迷いなく、ひとつの方角へ傾いていった。

「わたし、大学には行きません。カーモディの学校で教師の職を探して、ここからマリラの世話をしながら勉強を続けます。夢はまだ、遠くへ行かなくても叶えられるはずだもの」

その決意をマリラに告げた夜、アンは久方ぶりに、屋敷の裏手のお化けの森へと足を向けた。もう幽霊など少しも怖くはなかったし、竜のことも、長らく思い出しさえしなかった。それでも、あの夜だけは、どうしようもなく懐かしい気持ちに誘われるようにして、暗い木立の際に立っていた。夜風は冷たく、樅の梢が低くざわめいていた。

月明かりの下、かつてと寸分変わらぬ姿で、竜はそこにいた。ただし、その体はどこか薄い光を透かすように、ぼんやりと輪郭が揺らいで見えた。アンが歩み寄っても、竜はもう低く喉を鳴らすことも、鼻先を寄せることもしなかった。ただ静かに、澄んだ眼差しでアンを見つめ返すだけだった。

「もう、あなたを頼らなくても、大丈夫になったみたい。マシューがいなくなって、マリラの目も弱っていって、これから先のことを思うと怖くないと言えば嘘になるけれど――それでも、一人で抱え込まなくてもいいんだって、今のわたしは知っているから」

アンは静かにそう呟いた。責めるでも、名残を惜しむでもない、ただ事実を確かめるような口調だった。竜はそれに応えるように、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。かつて幾度も見せてきた、あの静かな仕草だった。

次の瞬間、竜の輪郭は月光に溶け込むように淡くなり、音もなく、お化けの森の奥深くへと後ずさっていった。追いかけようとは、アンは思わなかった。ただ、その背をじっと見送った。竜は一度も鳴き声を上げず、一度も振り返ることなく、闇の奥へと静かに姿を消していった。

それが、アンが竜を見た最後だった。

終章 グリーン・ゲイブルズの窓辺

決意を固めたその晩から、アンの日々は目に見えて忙しくなった。教員資格を得るための書類を整え、カーモディの学校の職を得るため奔走し、合間を縫ってはマリラの目となり手となって家事を手伝った。悲しみが完全に消えたわけではなかったが、そこには確かな手応えのある充実があった。

ある晩、窓辺で編み物をするマリラの傍らに腰かけながら、アンはふと、幼い頃に自分だけに見えていた、あの小さな竜のことを思い出した。誰にも話したことのない秘密だった。今ならもう、あれが何だったのか、アンにもぼんやりと分かる気がした。

あれは、たった一人で寂しさを抱えていた孤児の少女が、自分自身の空想の力で編み上げた、もうひとりの自分だったのだろう。誰にも頼れなかった夜、誰にも打ち明けられなかった怒りや不安を、静かに受け止めてくれる存在。だが、本物の友情と、本物の絆と、本物の悲しみを分かち合える相手を得るにつれて、その役目は少しずつ、確かに終わりを迎えていったのだ。

「マリラ、わたし、思うの」窓の外の暗い並木道を眺めながら、アンは静かに口を開いた。「人は誰でも、子どもの頃だけに見える何かを、心の中に飼っているんじゃないかしら。それは、大人になるにつれて姿を消してしまうけれど、消えたことを寂しがる必要はないんだと思うの。だってそれは、もう要らなくなったからこそ、静かに退場していくものだから」

マリラは編み棒を止め、いつになく穏やかな眼差しでアンを見つめた。

「おまえの言うことは、時々、わたしにはよくわからないよ。だが――おまえがそう思うのなら、きっとそうなのだろうね」

窓の外では、お化けの森が、もう何の変哲もない、ただの静かな木立として月明かりに浮かんでいた。アンはその暗がりに向かって、心の中でそっと別れの言葉を告げた。ありがとう、と。そしてさようなら、と。

グリーン・ゲイブルズの夜は、これまでと変わらぬ静けさの中で更けていった。だが、その静けさの中に流れる時間の質は、もはや以前とは違うものになっていた。想像の慰めを必要としなくなったアンの心には、代わりに、現実の絆という、もっと確かで、もっと温かなものが根を張り始めていたのだった。窓辺のランプの灯りが、二人の影を壁に静かに映し出し、外の闇は、ただ穏やかに、次の朝を待っていた。

あとがき

本作はL・M・モンゴメリ『赤毛のアン』(Anne of Green Gables)を翻案した短編である。原作には存在しない「お化けの森に棲む小さな竜」という空想上の存在を新たに据え、孤児の少女アンが幾多の失敗と友情を通じて成長していく過程に、もうひとつの静かな軸を通すことを試みた。

竜は、アンが一人で抱えきれない感情――孤独、不安、悔恨――を吐き出すためだけに現れ、教え諭すことも、試練を課すこともしない。ただアンの想像力そのものが形を持ったかのような存在として寄り添い、彼女が現実の人間関係の中に本当の居場所を見出していくにつれて、誰に気づかれることもなく姿を見せる頻度を減らしていく。マシューの死という現実の重さに向き合い、奨学金を辞退してアヴォンリーに残る決意を固めた夜、竜が最後にもう一度だけ姿を見せ、何も語らずに森の奥へ溶けていく結末は、「空想上の分身が、当人の成熟と共に自ら役目を終えて退場する」という構図を、原作の持つ明るい成長物語の基調を保ったまま描くための選択である。


本作はL・M・モンゴメリ『赤毛のアン』(Anne of Green Gables)を参考にした翻案作品です。

本作はL・M・モンゴメリの『赤毛のアン(Anne of Green Gables)』を参考にした作品です。原典