竜は値踏みを許さなかった
レイヴンズコートの誇り高き竜は、誰にも心を開かないと近隣に知られていた。舞踏会での不快な出会いから当主エドマンドに偏見を募らせるマリアンは、やがて手紙と一つの噂の真相を通じて、竜と自分自身の思い込みに向き合うことになる。
一 ハイフィールドの舞踏会
ハイフィールドの村に、遠からず新しい借地人が越してくるらしいという噂が広まったのは、麦の穂がようやく色づき始めた頃だった。生垣沿いの小道を歩けば誰彼となくその話に行き当たり、教会の日曜礼拝の後でさえ、婦人たちは祈りの余韻もそこそこに、隣村ネザーヒルの館の噂に花を咲かせた。ウィンフィールド家の食卓でも、その話題は三日と空けずに繰り返された。五人姉妹の母であるウィンフィールド夫人にとって、独身の資産家が館に居を構えるという知らせは、娘たちの縁談を占う吉兆以外の何物でもなかったからだ。
「チャールズ・ハートウェル様は、年に五千ポンドはお持ちだそうよ。しかも独り身。これはもう、うちのどの娘かに違いないわ」
そう言って母が茶器を鳴らしながら声を弾ませるたび、次女のマリアンは苦笑いを浮かべながら刺繍の針を運ぶ手を止めなかった。窓の外では、初秋の風が庭の薔薇を揺らしている。姉のセシリアは母の隣で慎ましく微笑むばかりで、末の妹フローラだけが、舞踏会という言葉に頬を赤らめて椅子から身を乗り出していた。
「お母様、私、新しい髪飾りが欲しいわ。民兵隊の将校の皆さまも、きっと舞踏会にいらっしゃるのでしょう」
「フローラ、はしたないことを言うものではありません」
母はそう窘めながらも、その口元は緩んでいた。この家では、五人の娘のうち誰か一人でも身分のよい家に嫁がせることが、何にも増して切実な悲願だった。父の遺す財産は、遠縁の男子にしか相続が許されない定めになっており、母の心配は決して大袈裟なものではなかった。
三女のケイトと四女のドリーは、姉たちの話に加わりたくてうずうずしながらも、母の勢いに気圧されて隅で顔を見合わせるばかりだった。マリアンだけは、そうした一家の熱狂から少し身を引いた場所に立っていた。彼女にとって結婚とは、財産や体面の帳尻を合わせるための取引ではなく、互いを本当に知り合った末に選び取るべきものだった。そう考える自分が、この家の中では少し変わり者なのだということも、マリアンはよく承知していた。
村の噂話には、いつも尾ひれがつく。レイヴンズコートの竜についても、実際に見た者はほとんどいないというのに、誰もがまるで自分の目で確かめたことのように語った。曰く、あの竜は先代の当主が亡くなって以来、ただの一度も人を近づけたことがない。曰く、竜舎の扉には常に錠が下ろされ、餌をやる従者以外は誰も立ち入りを許されない。そうした話を聞くたび、マリアンは漠然とした不気味さと、それに勝る奇妙な興味とを同時に覚えていた。心を閉ざした獣とは、いったいどんな眼をしているのだろうか、と。
その舞踏会は、案の定、村じゅうの話題をさらった。会場となった公会堂には蠟燭の灯りが煌々と灯り、弦楽の調べに合わせて着飾った紳士淑女が行き交っていた。ハートウェル氏は評判どおりの快活な青年で、最初のダンスからセシリアに惹かれている様子を隠さなかった。人懐こい笑顔で誰にでも声をかけ、招かれた誰もが彼の人柄に好感を抱いた。
だが、その隣に立っていた友人――レイヴンズコートの当主エドマンド・アシュフォードの態度は、対照的なまでによそよそしいものだった。長身で整った顔立ちをしていながら、会場を見渡す眼差しにはどこか値踏みするような冷たさがあり、誰かに紹介されても一言二言を返すだけで、すぐに視線を逸らしてしまう。年に一万ポンドは下らないという噂が瞬く間に広まると、婦人たちの視線は一斉に彼へと注がれたが、その視線を受け取る彼の表情は、むしろ煩わしそうにさえ見えた。
「あの方、一晩じゅうダンスを申し込んだのは一人だけですって。それも仕方なく、という様子で」
友人のシャーロットが耳打ちすると、マリアンは扇の陰でくすりと笑った。
「レイヴンズコートの竜と同じね。誰も乗せない、誰にも心を開かないという、あの噂の竜と」
レイヴンズコートに伝わる竜の話は、この地方に生まれた者なら誰でも知っていた。アシュフォード家が幾世代にもわたって守り伝えてきたその竜は、決して人を背に乗せることがなく、どんなに位の高い客人が訪れても、身をよじって顔さえ見せようとしないのだという。近隣の子供たちの間では、竜舎に近づいた者が呪われるという他愛のない怪談まで語り継がれていた。「アシュフォード様と同じくらい、高慢で近寄りがたい竜」――そんな評判が、いつしか当主本人の噂と分かちがたく重なり合っていた。マリアンは、まだその竜を実際に見たことはなかったが、想像の中では、青年当主そのままの、冷ややかな金色の瞳を思い描いていた。
その晩、給仕の間を通りかかったマリアンの耳に、アシュフォードとハートウェルのやり取りが偶然飛び込んできた。
「マリアン嬢を誘ってみたらどうだ。控えめだが、なかなか感じのいい人だよ」
ハートウェルの言葉に、アシュフォードは壁際に佇むマリアンを一瞥しただけで答えた。
「まあまあの器量だな。だが、私の心を動かすほどではない。今夜は他の男を喜ばせる役に、私を煩わせないでくれ」
その一言は、マリアンの胸に小さな棘のように刺さった。傷ついたというよりも、むしろ苛立ちに近い感情だった。彼女は踵を返しながら、心の中でその評価を固めた。あの人は、自分を含めたこの村の誰も彼もを、値札でも眺めるような目で見ているのだ、と。踊りの輪から少し離れた場所で、マリアンは友人たちに件のやり取りを面白おかしく語って聞かせ、笑いを誘った。だがその笑いの裏で、彼女の胸にはすでに、拭い難い先入観の種が根を下ろし始めていた。
二 中傷と、深まる偏見
秋が深まる頃、ハートウェルの領地に駐屯していた民兵隊の中に、ジョージ・ヴェインという青年が加わった。人当たりのよい物腰と、よく通る快活な声で、たちまち村の娘たちの人気者になった彼は、マリアンとも自然に言葉を交わす仲になっていった。街の茶会で顔を合わせるたび、彼はマリアンの話に熱心に耳を傾け、他の誰よりも彼女の意見を尊重しているように振る舞った。
ある晩、街灯りの下で肩を並べて歩きながら、ヴェインはふと声を落として言った。
「アシュフォード殿とは、幼い頃からの知り合いでしてね。あの方の父君には、大変お世話になった。だが、当代のご当主とは、いささか事情が違う」
「事情、とは」
「父君が私に遺してくださるはずだった聖職禄を、当代殿は反故になさった。それだけならまだしも……あの方は、レイヴンズコートの竜にさえ、心を開くことを許さぬ人だ。私が幼い頃、竜舎に近づいただけで叱責されたことがある。誰にも懐かせず、誰にも譲らず、すべてを独り占めにする。あの竜が誰も乗せないのは、竜自身の頑なさというより、当主殿がそう仕向けているのだと、村の古老たちは言っていますよ」
ヴェインの語り口は、同情を誘うように静かで、それだけに真実味を帯びて聞こえた。マリアンは、舞踏会での冷淡な一言と、この話とを重ね合わせた。やはりあの人は、財産も、竜も、何もかもを独り占めにする性根の人間なのだ――そう思い込むことに、もはや何のためらいもなかった。
「お労しいこと。あなたが正当な取り分を奪われたというのに、あの方は何食わぬ顔で舞踏会に現れて」
「もう慣れました。あの方の高慢は、生まれつきのものですから」
その言葉を聞くたび、マリアンの胸には義憤にも似た熱がくすぶった。ヴェインは決して声高に相手を非難するわけではなく、むしろ諦めきったような、寂しげな微笑みを浮かべてみせるのが常だった。その控えめな態度が、かえって彼の言葉に信憑性を与えていることに、マリアンは気づいていなかった。茶会の席でヴェインがふとその話題に触れるたび、周囲の令嬢たちは同情の眼差しを彼に注ぎ、アシュフォードの名は、いつしか村じゅうで「冷酷な当主」の代名詞として囁かれるようになっていった。
折しも、ウィンフィールド家の遠縁にあたる牧師フィリップ・ダンビーが訪ねてきて、あろうことかマリアンに結婚を申し込んだ。父の財産を将来相続する立場にある彼は、自分との結婚こそが一家を救う道だと大真面目に説いたが、その台詞には愛情の欠片もなく、ただ体面と打算だけが並べ立てられていた。マリアンはにべもなく断った。母は嘆いたが、マリアンの心は揺るがなかった。
冬を待たずして、ハートウェルとその一行は突然ネザーヒル館を引き払い、都へ戻ってしまった。姉セシリアは表向き平静を装っていたが、部屋に籠って窓辺に座る時間が増えたことに、マリアンは気づかないふりができなかった。噂では、アシュフォードがハートウェルに、セシリアの気持ちは打算に過ぎないと吹き込み、二人を引き離したのだという。マリアンの中で、アシュフォードへの反感は、もはや動かしがたいものになっていた。
翌春、親戚の家に滞在していたマリアンのもとに、思いがけずアシュフォード本人が訪れた。硬い表情で入ってくるなり、彼は前置きもなく切り出した。
「幾度自分に言い聞かせても、無駄でした。マリアン嬢、あなたを愛しています。身分も、周囲の思惑も、すべて振り払ってでも――どうか私と結婚していただきたい」
その言葉には、身分違いへの葛藤や、自らの矜持と戦った痕跡が滲んでいた。だがマリアンには、その屈折した誠実さを汲み取る余裕がなかった。彼の物言いは、求愛というよりも、まるで自らに不利な取引を渋々承諾するかのように聞こえたからだ。
「よくもそのようなことを、そのような言い方で。姉と友人の仲を引き裂いたのはあなたでしょう。ヴェイン様への仕打ちも聞いています。そしてレイヴンズコートの竜にさえ心を閉ざさせているという、あなたのその性根も。あなたは、人も竜も、ご自分の都合のよいように扱われるのですね」
アシュフォードの顔から血の気が引いた。何か言いかけて口を開き、けれど言葉にならぬまま、彼はしばらく黙し、やがて短く一礼すると、何も弁明せずに部屋を辞していった。マリアンは、勝ち誇った気持ちと、なぜか拭いきれない後味の悪さを、同時に抱えながらその後ろ姿を見送った。窓の外では、雨に濡れた庭木が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。
三 手紙の真実
翌朝、マリアンのもとに一通の手紙が届いた。差出人はアシュフォードだった。震える指でそれを開いた彼女は、そこに綴られた事実に、目を疑った。
ヴェインは父君の遺志を無視されたのではなく、遺された金を早々に使い果たした挙句、聖職禄の代わりにまとまった金銭を受け取っていたこと。それでも飽き足らず、アシュフォードのまだ幼い妹に言葉巧みに近づき、駆け落ち同然の結婚で財産を狙おうとしたのを、間一髪で食い止めたこと。手紙は淡々とした筆致で、恨み言も自己弁護もなく、ただ事実だけを積み重ねていた。セシリアとハートウェルの件についても、姉の心が本当に彼にあるのかどうか確信が持てず、友人が不幸な結婚をするのを恐れるあまり、余計な差し出口を利いたのだと、率直に非を認める一文があった。
そして最後に、竜のことが記されていた。
『あなたは、レイヴンズコートの竜が私に似て高慢だと思っておいでのようだ。しかし真実は逆です。祖父の代、家は体面と資産のためだけに「家柄にふさわしい」乗り手をあの竜に宛てがおうとした。竜の心などお構いなしに、値札を貼るようにして、幾人もの候補を試すように連れてきては、気に入らねば次へ次へと替えていった。竜はそのとき深く傷つき、以来どんな相手にも決して心を許さなくなった。私はただ、竜の意志を尊重し、二度と誰にもあの竜を値踏みさせまいと、周囲の勧める話をすべて断ってきただけです。世間はそれを、私自身の高慢さだと取っているようですが』
読み終えたマリアンは、しばらく手紙を握りしめたまま動けなかった。窓辺に立ち、幾度も文面を読み返す。ヴェインの甘い言葉を疑いもせずに信じ、アシュフォードの不器用な態度だけを見て、性根そのものを断じてしまった自分。竜が誰にも心を開かないのは頑迷さゆえだと決めつけていた自分。その二つの決めつけが、実は同じ根から生えていたことに、彼女は初めて気づいた。値踏みされることを恐れて心を閉ざしていたのは、竜だけではなかったのだ。自分もまた、噂と第一印象だけで、目の前の人間を値踏みしていたのだから。
「私は、なんて浅はかだったのでしょう」
誰もいない部屋で、マリアンは思わず声に出して呟いた。頬が熱くなり、目の奥がじんと痛んだ。これまで得意になって周囲に語ってきた自分の観察眼が、実はヴェインの巧みな話術と、自分自身の先入観に振り回されていただけだったのだと悟ると、恥ずかしさで顔を上げていられなかった。
四 レイヴンズコート、駆け落ちの報
夏の初め、伯父夫妻に誘われて北へ旅したマリアンは、道すがらレイヴンズコートの領地に立ち寄った。当主が不在だという家政婦の言葉を信じて庭園を歩いていると、緑深い並木道の向こうに、灰色の石造りの館が悠然と姿を現した。想像していたよりもずっと風格に満ちながら、どこか人の温もりを感じさせる佇まいに、マリアンは思わず足を止めた。
案内してくれた家政婦は、当主について問われると、意外な言葉を返した。
「エドマンド様ほど、公正で優しいご主人はおりません。使用人にも、佃戸の方々にも、決して驕った態度をお取りになったことはございません」
その評は、マリアンがこれまで思い描いていた人物像とあまりにかけ離れていて、彼女はしばらく言葉を返せなかった。庭園を巡っていると、思いがけずアシュフォード本人と鉢合わせした。驚きを隠せない様子だったが、その物腰は、以前とは別人のように穏やかだった。伯父夫妻を丁重にもてなし、庭を案内する道すがら、マリアンは遠くの丘に、悠然と翼を休める竜の姿を見た。噂に違わぬ威容でありながら、どこか孤独な佇まいだった。竜はこちらに一瞥もくれず、静かに首を伏せたままだった。
「あの竜が、レイヴンズコートの……」
「アルヴィスといいます。もう百年近くこの地を守ってきた、我が家の誰よりも古株です」
アシュフォードの声には、隠しきれない愛情が滲んでいた。マリアンはその横顔を見つめながら、手紙に綴られていた言葉を思い出していた。
館の食堂に招かれた晩、マリアンは伯父夫妻とともに、思いのほか和やかな時間を過ごした。アシュフォードは給仕の一人一人に気さくに声をかけ、佃戸の子供が熱を出したと聞けば、自ら医師の手配を申し付けていた。舞踏会で見た、あの人を見下すような硬い表情は、もうどこにも見当たらなかった。マリアンは、あの夜の一言――「まあまあの器量だな」――が、もしかすると彼にとっては、見知らぬ大勢の視線に晒された末の、ただの照れ隠しだったのではないかと、今更ながらに思い至った。
だが、その穏やかな数日は、一通の急報によって打ち砕かれた。急使が知らせを携えてきたのは、伯父の館に戻った直後のことだった。末の妹フローラが、あろうことかヴェインと駆け落ちしたというのだ。結婚の約束もないままの出奔は、ウィンフィールド家の名誉を根こそぎ奪いかねない醜聞だった。マリアンは蒼白になり、取るものも取りあえず旅を切り上げた。
「もう、すべて終わりだわ。誰があんな家の娘を迎えてくれるものですか」
母は泣き崩れ、父は自らを責め続けた。マリアンの胸にも、深い絶望が広がった。アシュフォードとの間に、ようやく芽生えかけていた何かも、これで潰えたに違いない――そう思うと、悲しみはいっそう重く胸にのしかかった。フローラの部屋には、書きかけの手紙と、開いたままの衣装箪笥だけが残されていた。マリアンはその部屋の戸口に立ち尽くし、幼い頃の妹の笑い声を思い出しては、涙を堪えることができなかった。
ところが数週間後、事態は思いがけない形で収束した。ヴェインとフローラが正式に結婚したという知らせが届いたのだ。莫大な結納金が、どこからともなく用立てられたという噂とともに。真相を知ったのは、後になって伯父の口からだった。
「あれは、アシュフォード殿がお一人でなさったことだ。ロンドン中を駆けずり回って二人を捜し出し、ヴェインの借金をすべて肩代わりし、結婚を取り持たれた。誰にも知られぬようにと、固く口止めなさってね。私も、うっかり口を滑らせるまでは、何も知らずにいたのだよ」
マリアンは言葉を失った。恨まれこそすれ、礼を言われる筋合いなど何もない相手のために、彼はすべてを人知れず引き受けていたのだ。ヴェインの中傷を鵜呑みにしていた自分の愚かさと、それでもなお動いてくれた彼の誠実さとが、マリアンの中で音を立てて位置を入れ替えていった。夜、寝台に横たわりながら、マリアンは幾度も同じ問いを自らに投げかけた。もし自分が最初から、噂ではなく彼自身を見ていたなら、どれほど多くの誤解を防げただろうか、と。
五 心を許した竜
その年の夏の終わり、アシュフォードは改めてウィンフィールド家を訪れた。以前のような気負いも尊大さもなく、ただ静かに、けれど揺るがぬ声でマリアンに再び心を告げた。
「私はまだ、あなたにふさわしい人間ではないかもしれません。しかし、もう一度だけ聞いていただきたい」
マリアンは、かつて自分がどれほど彼を見誤っていたかを、ようやく素直に打ち明けることができた。窓辺に差し込む夕日が、二人の間に長い影を落としていた。二人の間にあった氷は、静かに、けれど確かに溶け始めていた。
数日後、マリアンは再びレイヴンズコートを訪れる機会を得た。庭園の奥、竜が羽を休める丘まで足を延ばすと、アシュフォードは少し離れた場所で足を止め、彼女だけを先に行かせた。夏草の匂いを含んだ風が、丘の上を吹き渡っていく。
竜は近づいてくる足音に気づくと、大きな首をわずかにもたげた。金色の瞳が、まっすぐにマリアンを映す。マリアンは、家柄も財産も、乗り手としての資格も、何一つ携えていなかった。ただ、素朴な好奇心だけを胸に、竜の傍らにしゃがみ込んだ。
「あなたは、誰にも心を開かないと聞いていたわ。でも、それはきっと、値踏みされることに疲れてしまっただけなのね。私も、少し前まではそうだった。人を、噂や第一印象だけで決めつけていたの。あなたのことも、そうだった」
竜は答えなかったが、じっとマリアンを見つめたまま、身じろぎ一つしなかった。しばらくして、その太い首がゆっくりと下がり、鼻先がマリアンの伸ばした指先に触れた。ひやりとした鱗の感触と、思いのほか穏やかな息づかい。竜が誰かにこれほど近づくのを見るのは初めてだと、後方に控えていた庭師が小さく呟くのが聞こえた。
振り返ると、アシュフォードが目を見開いたまま、その光景に立ち尽くしていた。彼が生まれてこの方、竜がこうして誰かを迎え入れる姿を見たことは一度もなかったのだ。マリアンが竜に向けたのは、地位でも血筋でもなく、ただその存在そのものへの敬意だった。竜はそれを、正確に見分けたのだろう。
「私の一族は長い間、この竜を宝物のように誇りながら、その実、誰も竜そのものを見ていなかった。あなたは違う」
アシュフォードの声は、かすかに震えていた。マリアンは立ち上がり、竜の頭にそっと手を添えたまま、彼のほうへ向き直った。
「私もあなたを、長い間、噂と第一印象だけで判じていました。許していただけるなら、これからは、あなた自身を見ていきたいのです」
その言葉に、アシュフォードはようやく、憑き物が落ちたように微笑んだ。夕暮れの光が丘の上を橙色に染め、竜の鱗が静かに輝いていた。二人が婚約を交わしたのは、その年の秋の初めのことである。式の当日、レイヴンズコートの竜は、誰に命じられるでもなく丘を飛び立ち、教会の上空をゆるやかに一巡りしたという。誇り高き竜が、初めて誰かを「選ばれた乗り手」としてではなく、対等な相手として迎え入れた瞬間を、村人たちは長く語り継ぐことになった。ハイフィールドの村では、その日から、竜の噂に「高慢」という言葉が添えられることは、二度となかったという。
あとがき
ジェーン・オースティン『高慢と偏見』は、田舎の地主階級の令嬢マリアン(原作名エリザベス)と、資産家の当主アシュフォード(原作名ダーシー)が、第一印象による決めつけと偏見を、互いへの理解を深める中で少しずつ解いていく過程を描いた古典恋愛小説である。本作では、この「決めつけとその氷解」という骨格を保ちながら、原作にはないレイヴンズコートの竜という存在を新たに据え、身分や評判で人を値踏みする社会構造そのものを、竜との距離の変化という形で反復・強調する翻案とした。
竜が過去に「家柄にふさわしい乗り手」を宛てがわれかけて傷ついたという設定、竜が最終場面で初めて心を開く場面、登場人物の名前や細部の出来事・台詞は、すべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はジェーン・オースティン著『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』(https://www.gutenberg.org/ebooks/1342)を参考にした翻案作品です。