物語雳
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·読了目安 14分主役

竜は二度と空を渡らなかった

嵐に難破し小人の国に拘束された若い竜は、敵意なきことを示して信頼を得て、やがて戦の英雄となる。だがその力ゆえに宮廷は竜を恐れ、恩義は猜疑に変わっていく――政治風刺を帯びた追放の物語。

一 浜辺の糸

嵐が去ったあとの浜は、いつも奇妙なほど静かになる。リムトの民はそれを知っていた。だからこそ、その朝早く漁師の子どもが浜辺から転がるように駆け戻り、「浜に山が打ち上げられた」と叫んだとき、大人たちは眉をひそめながらも、すぐに武具を手に取った。この島国では、嵐の翌朝に何が流れ着くかわからぬということを、誰もが骨身に染みて知っていたからだ。

浜に横たわっていたのは、山ではなく、一頭の竜だった。翼を大きく広げたまま力なく砂に伏し、灰がかった青い鱗のあちこちに、波にさらわれた海藻がまとわりついている。まだ若い個体らしく、角も牙も、老いた竜が持つという禍々しい太さはなく、むしろ均整のとれた、どこか未完成な美しさをたたえていた。気を失っているのか、微かな寝息のような呼吸だけが、竜の巨躯をゆっくりと上下させている。潮騒の合間に響くその呼吸音を、浜に集まった人々は、地の底から響く太鼓の音のように聞いた。

リムトの民は、成人でも掌に乗るほどの背丈しか持たない。そんな彼らにとって、目覚めれば村ひとつを踏みつぶしかねないこの客人は、恐怖そのものだった。この島には古くから、竜にまつわる言い伝えがあった。曰く、竜は嵐を呼ぶ悪しき兆しであり、竜が浜に現れた年は、必ず戦か疫病に見舞われる、と。年寄りたちは口々にその言い伝えを唱え、若い母親は子どもを家の奥へ隠した。誰もが、この巨躯の来訪を、平穏な日常を食い破る不吉な予兆として受け止めていたのだった。兵を率いてきた将軍バシェトは、竜が目を覚まさぬうちにと号令をかけ、幾百本もの糸と縄を持ち出させた。船の帆を編むための麻縄、漁網、機織りの糸――ありとあらゆる紐という紐が、蟻の行列のように竜の体へと運ばれていく。夜が明けきる頃には、竜の四肢と翼、長い首までもが、地に打ち込んだ無数の杭へと、幾重にも縫い留められていた。

「これで十分か」と問う若い兵に、バシェトは首を振った。

「十分などということがあるものか。目を覚ましたとたん、翼の一振りで村がひとつ消える。糸はまだ足りぬ。編める者は総出で編ませろ」

翌朝までに、竜の体はまるで繭のように、幾重もの糸で覆われていた。それでもなお、バシェトの目には安堵の色はなかった。

竜が目を開けたのは、その日の昼過ぎのことだった。

最初の身じろぎに、周囲を取り囲んでいた小人たちは悲鳴をあげて後ずさった。誰かが「殺せ」と叫び、誰かが「待て、まだだ」と制した。竜はゆっくりと頭をもたげ、自分の体に食い込む幾百の糸を見下ろし――そして、動きを止めた。

暴れれば、この程度の縛めなど容易く引きちぎれることは、竜自身にもわかっていたはずだった。だが竜は、低く一度だけ喉を鳴らしただけで、それ以上は身を強張らせなかった。糸の一本一本が、竜の鱗に浅く食い込んでいる。痛みがないはずはなかった。それでも竜は、怯えて盾を構える小人たちの群れを、ただ静かな金色の瞳で見つめ続けた。

その日から幾日か、竜は身じろぎひとつせず、与えられも奪われもしない位置に留まり続けた。夜になれば見張りの兵が篝火を焚き、昼になれば物見高い村人たちが遠巻きに集まった。子どもたちが投げつける小石にすら、竜は身をよじって避けようとするだけで、怒りの唸り声ひとつあげなかった。喉が渇いているのだろうと誰かが水桶を運んでくると、竜はほんの少しだけ首を伸ばし、こぼさぬよう用心深く舌先で水面に触れた。その慎ましさが、見張りの兵たちの間に、わずかな戸惑いを生み始めていた。

王宮からは、この珍客を記録するために若い書記官が遣わされた。名をセティアといった。彼女は竜の記録係に任じられたことを、名誉というよりも罰のように感じていたが、実際に浜へ赴き、あの金色の瞳を間近に見たとき、なぜか恐怖よりも先に、奇妙な静けさに胸を打たれた。

「あなたは、痛いはずなのに」

セティアが独り言のように呟くと、竜はわずかに首を傾け、彼女の方へ視線を向けた。それだけのことだったが、彼女には、竜が自分の言葉を聞き取ろうとしているように思えてならなかった。それから幾日か、セティアは日課のように浜へ通い、竜の傷を記録するふりをしながら、実のところはただ、その静かな瞳を見つめに来るようになっていた。

同じ頃、王宮の奥では、宰相ドルアフが海図を広げ、隣国カレスタとの国境線を指先でなぞっていた。両国の間には、漁場と航路をめぐる争いがくすぶって久しい。ドルアフの目には、浜に転がる竜の巨躯が、ただの厄介な客人ではなく、まったく別の何かとして映り始めていた。彼は誰にともなく呟いた。

「あれほどの力を、遊ばせておく手はあるまい」

その呟きを聞いた者は、まだこの時、誰もいなかった。

評定の間では、竜をどう扱うべきかをめぐって、幾日も議論が続いていた。「あのような怪物、直ちに始末すべきだ」と声を荒げる老将軍もいれば、「もしあれが人語を解する知性を持つならば、無闇に殺めるは天の理に背く」と諭す神官もいた。王エイガルは玉座の肘掛けを指先で叩きながら、意見の応酬をしばらく黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。

「殺すのは、いつでもできる。だが、一度殺めてしまえば、二度と話を聞くことはできぬ。まずは見極めよ。あれが敵意を持つ獣なのか、それとも、我らと同じく理を弁えるものなのか」

宰相ドルアフは表向き王の言葉に頷きながらも、心中では別のことを考えていた。見極めるだけでよいのか、それとも、いずれ役立てる道を探るべきか――彼の思案は、この時すでに、王の慈悲とは異なる方向へと動き始めていた。

この一言が、竜の命をひとまず繋ぎとめた。だが同時に、竜の処遇はこれ以降、王の裁量ひとつにかかる、脆い均衡の上に置かれることにもなった。

二 湾の勝利

竜を縛る糸は、日を追うごとに、一本、また一本と緩められていった。王エイガルは、竜がひと月のあいだ誰も傷つけなかったという報告を受け、慎重に、しかし着実に解放を許した。最後の縄が外された朝、竜は大きく翼を広げたが、飛び去りはしなかった。ただゆっくりと身を伸ばし、浜に片膝――前脚をつくように体を沈め、集まった村人たちに深く頭を垂れた。それは、まるで礼を尽くす仕草のように、誰の目にも映った。歓声とも溜め息ともつかぬどよめきが、浜全体を包んだ。

それからのセティアと竜の日々は、宮廷の記録には収まりきらないほど豊かなものになっていった。セティアは竜の傷に薬草を塗り、竜はその礼のように、彼女が漁に出す小舟を、遠浅の岩場から鼻先でそっと押し出してやった。ある日には、強風で転覆しかけた漁師の舟を、竜が翼の陰に庇って波風をしのがせたこともあった。助けられた漁師は、最初こそ腰を抜かして震えていたが、やがて涙を流しながら何度も頭を下げた。

言葉は通じずとも、身振りと根気強い繰り返しの中で、竜は少しずつ、リムトの言葉のいくつかを覚えていった。セティアは砂浜に木の枝で文字を書き、竜はその一画一画を、太い前脚の爪先で真似るように地面へなぞった。最初は歪んだ線にしかならなかったものが、幾日も繰り返すうちに、次第に人の文字に近い形を結び始めた。夜になれば、セティアは竜の傍らに小さな灯りを置き、故郷の昔話を読み聞かせた。竜は目を閉じてそれに耳を傾け、時折、話の筋を確かめるように低く喉を鳴らした。

ある夕暮れ、竜が初めて「セティア」と、たどたどしくも人の声に似せた喉音で呼びかけたとき、彼女は不覚にも涙ぐんでしまった。

「私の名を、覚えていてくれたのですね」

「忘れる、はずがない。お前は、私を糸から解いた、最初の言葉をくれた者だ」

竜がそう答えると、セティアは笑いながら、涙を拭った。子どもたちも次第に竜を恐れなくなり、竜の背に乗せてもらうことをせがむようになった。竜は決して高くは飛ばず、浜の上をゆっくりと弧を描くだけだったが、子どもたちの歓声は、いつしか村の風物詩のようになっていた。

だが、平穏はいつまでも続かなかった。隣国カレスタの艦隊が、国境近くの漁村を焼き討ちにしたという報せが、血相を変えた伝令によって王宮へ届いたのは、竜が完全に解き放たれてからひと月後のことだった。逃げ延びた村人たちは、家族を海に奪われ、傷つき、王宮前の広場に座り込んで泣いた。焼け焦げた匂いを衣にまとわせたまま、幼子を抱いて立ち尽くす母親の姿を、セティアは見た。その光景を、竜は浜からずっと眺めていた。

竜が自ら王の御前に赴き、拙いながらも意志のはっきりした言葉で「戦わせてほしい」と申し出たとき、宮廷はどよめいた。命じられたのではない。竜は、誰かに強いられたわけでもなく、ただ焼け出された村人たちの姿に、自らの意志で応えようとしていた。

王エイガルは長く逡巡した。竜の力を戦に用いることは、諸刃の剣であるとわかっていたからだ。竜自身に問うた。

「お前は、我が国のために戦うことを、本当に望んでいるのか。誰に強いられたのでもなく」

「望んでいる。あの母子の姿を見て、なお動かぬ道理はない」

竜の答えに迷いはなかった。王はなおしばし目を閉じていたが、これ以上の犠牲を見過ごすこともできないと、ついに頷いた。宰相ドルアフは表向き慎重論を唱えながら、内心ではこの機を待ち望んでいた。

「陛下。竜の申し出をお受けになるのがよろしいでしょう。ただし――」

ドルアフは言葉を切り、傍らのバシェト将軍と目配せを交わした。

「――事が済んだのちのことも、いずれ考えねばなりますまい」

その一言の意味を、この時のセティアはまだ深く汲み取れずにいた。

出陣の朝、竜は単身で海へ飛び立った。カレスタの艦隊が沖合に展開しているとの報を受け、竜はまず自らの巨躯を大胆に敵の目にさらし、挑発するように湾の奥へと飛び込んでいった。誘われるように追ってきたカレスタの軍船が、次々と浅瀬と岩礁の入り組んだ湾内へ入り込む。竜はそこで初めて力を振るった。巨大な翼で海面を打ち、渦を起こして船団の隊列を乱し、いくつかの帆に狙いすまして小さく炎を吐きかけて動きを封じた。船体そのものを沈めることも、乗組員を焼き殺すこともせず、ただ艦隊を無力化し、湾の内側へと閉じ込めてみせたのだった。

甲板から矢を射かけてくる兵もいたが、竜は苛立つ様子も見せず、ただ淡々と船の帆綱を焼き切り、舵を砕き、逃げ場を奪っていった。一隻の指揮官船が最後まで抵抗を試みたが、竜が湾口を塞ぐように巨躯を横たえると、もはや打つ手を失い、静かに旗を降ろした。

戦闘は半日ともたずに終わった。カレスタの提督は降伏の白旗を掲げ、リムトは血をほとんど流すことなく勝利を収めた。港に戻った竜を、国中の民が沸き立つ歓声で迎えた。花びらに似た紙吹雪が舞い、太鼓と笛の音が響き渡った。王エイガルは自ら竜の前に進み出て、「導きの白」という称号を授けた。竜の首には、金糸で編まれた華やかな首飾りがかけられた。

その熱狂の底で、しかしいくつもの囁きが、静かに芽を出し始めていた。祝宴の隅で、バシェト将軍は杯を傾けながら、隣の貴族に低く漏らした。

「あの巨躯だ。今日は我らの味方だったが、明日もそうだとは、誰にも保証できまい」

「しかし将軍、竜はこの国を救ったのですぞ」

「救われた恩は、いずれ薄れる。だが、あの力への恐れだけは、薄れることがない」

その言葉に、周囲の貴族たちは誰も異を唱えなかった。

三 密議の夜

戦が終われば、竜の力を必要とする理由もまた、静かに消えていく。皮肉なことに、リムトの宮廷がそのことに気づいたのは、勝利からわずか数か月後のことだった。

竜は変わらず浜辺に留まり、セティアと言葉を交わし、時折は子どもたちを背に乗せて短く飛んでみせるほどに、この国へ馴染んでいた。だがその馴染みようこそが、一部の貴族たちには薄気味悪く映るようになっていた。「もし竜が、いつか我らに刃を向けたら」「もし他国が、竜をそそのかしたら」――そうした「もし」は、宴席の噂話から始まり、やがて評定の間の議題へと形を変えていった。

評定の間では、竜の処遇をめぐる議論が繰り返された。ある老臣は「竜の忠誠は、この一年で幾度も証明されている」と擁護したが、ドルアフはそのたびに静かな声で反論した。

「忠誠とは、証明されるものではなく、常に疑われ続けるべきものです。特に、あれほどの力を持つ者の忠誠は」

議論は平行線をたどったが、ドルアフとバシェトは、表の評定とは別に、裏で着々と手を打ち始めていた。

ある夜、セティアは書庫で資料を整理していた際、隣室からドルアフとバシェトの声が漏れ聞こえてくることに気づいた。声を潜めるつもりが、興奮のあまり抑えきれていない口ぶりだった。

「倉の火事を、竜の仕業だったことにする。証人はもう手配してある」

「陛下は反対されるだろう」

「陛下には、事が済んでからお伝えすればよい。竜を鎖につなぎ、外へ出さぬようにする。それが、この国にとって最も安全な道だ。反逆の疑いをかけ、拒めば処罰する。恩を仇で返すようで気は咎めるが……力を持て余す者を野放しにする方が、よほど危うい」

「証人の口が軽ければ、すべてが露見しますぞ」

「案ずるな。証人には、竜が倉に近づく姿を見たとだけ言わせる。あとは民の恐れが、勝手に尾ひれをつけてくれる。倉番の男には、すでに銀貨を握らせてある。あの男は借財で首が回らぬ身だ、多くは語るまい」

「陛下が、それでも竜を信じるとおっしゃったら」

「その時は、鎖の必要をこう説けばよい。忠臣であるならば、疑いを晴らすためにも、しばらく大人しく繋がれてみせるはずだと。もし拒めば、それこそが後ろ暗い証だ、とな」

ドルアフの声には、もはや躊躇いの色すら残っていなかった。バシェトは低く笑い、杯を傾ける音だけが、しばし静寂を埋めた。

セティアは、書物を抱えたまま、その場に凍りついた。竜が単身で敵艦隊を退けたあの日の記憶が、まざまざと蘇った。恩義よりも恐怖が、この宮廷ではとうに勝っていたのだ。

その夜のうちに、セティアは浜へと走った。息を切らして竜の前に辿り着いた彼女は、聞いたことをすべて、言葉を選ぶ余裕もなく伝えた。竜は長いあいだ、何も言わずに海を見つめていた。金色の瞳の奥に、これまで見せたことのない昏い光が揺れていた。

「私は、誰も傷つけていない」

竜の声は静かだったが、その静けささえもが、深い痛みを孕んでいるようにセティアには聞こえた。

「私は、村を焼いた者たちと戦った。それだけだ。それなのに、今度は私が焼いたことにされる。恩義とは、そんなにも軽いものだったのか」

「私は、あなたを信じています。王も、きっと真実を知れば――」

「王が真実を知る前に、鎖は打たれ、火は放たれる。お前の主たちは、そういう筋書きを描いているのだろう」

竜はゆっくりと首をもたげ、遠く王宮の灯りを見やった。その気になれば、あの城郭も、宮廷の面々も、竜の一撃で瓦礫に変えることができるだろう。セティアは、竜の巨躯の中に渦巻く怒りを、肌で感じ取った。彼女は思わず一歩後ずさったが、竜はそれに気づくと、わずかに視線を和らげた。

「怖がらせるつもりはない」

長い沈黙のあとで、竜は静かに息を吐いた。

「だが、私はそれをしない」

「なぜ」

「彼らが私を裏切ったからといって、私まで彼らと同じ理屈で動く道理はない。力で報いれば、私は彼らが恐れていた通りの怪物になり下がる。それに――」

竜は視線をセティアへと戻した。

「お前や、あの子どもたちまで、恨みたくはないのだ」

四 二度目のない空

夜が明けきる前、竜は静かに身を起こした。首飾りを一度だけ見つめ、それを浜の砂に丁寧に横たえると、翼を大きく広げた。

セティアは、寝ずの番をするように浜に留まっていた。竜が飛び立とうとするのを見て、彼女は叫びかけた言葉を、結局は呑み込んだ。引き止める資格など、自分にはないと悟っていたからだ。

「行くのですか」

「行く。誰も傷つけずに、ここを去れる道は、それしかない」

その少し前、実は隣国カレスタからも、密かに使者が竜のもとを訪れていた。降伏の恥辱を雪ぎたい提督が、竜を自国に迎え入れたいと申し出たのだ。使者は甘い言葉を並べ、「リムトよりも遥かに厚遇しよう」と持ちかけたが、竜はその誘いにも、静かに首を振った。

「私はリムトを裏切らない。かといって、お前たちの復讐に手を貸すつもりもない。私はもう、どちらの空の下にも属さない」

翼が一度、大きくはためいた。砂が舞い上がり、セティアの頬を打った。

「セティア。お前が薬草を塗ってくれた傷は、もう痛まない。だが、心に受けた傷というのは、体のそれよりもずっと治りが遅いものらしい」

竜はそう言って、初めて小さく笑ったように見えた。それが彼女の見た、竜の最後の表情だった。

「どこへ、向かうのですか」

「わからない。どちらの国の旗も掲げぬ、遠い空だ。もし辿り着けたなら、そこで初めて、恨むことも恐れられることもなく、ただの一頭の竜として生きられるかもしれない」

竜は一度も振り返ることなく、朝焼けの空へと舞い上がっていった。灰青色の鱗が、昇る朝日を受けてわずかに輝き、やがてその姿は、水平線の彼方に溶けるように消えていった。セティアは、声も出せぬまま、ただその背が見えなくなるまで見送り続けた。

竜の姿が完全に消えたあと、セティアは砂に横たえられたままの首飾りを拾い上げた。金糸の重みが、思いのほか手に馴染んだ。彼女はそれを抱えたまま、誰にも告げずに王宮へと戻った。

その日の朝議は、荒れた。竜の不在にまず気づいたのは、いつも通り贄品めいた供物を運ばせようとしていたバシェトの従者だった。浜が空であるという報告に、ドルアフは顔色を変え、慌てて倉の火事の筋書きを早めようとしたが、肝心の竜がいないのでは、鎖を打つことも罪を着せることもできない。証人に立てるはずだった倉番の男は、事の次第を悟ると恐れをなし、王の前で洗いざらいを白状してしまった。

王エイガルは、真実を知ると長く沈黙した後、静かに、しかし底に怒りを湛えた声で命じた。

「あの竜は、この国のために命を懸けた。その恩を、鎖と偽りで返そうとした者を、私は許さぬ」

宮廷では、竜の失踪が知れ渡ると、様々な憶測が飛び交った。反逆の証拠を偽装しようとしていたドルアフとバシェトは、王の前でうまく言い逃れることができず、後にひそかに更迭されたと伝えられている。だが、その顛末を、竜自身が知ることは、もう二度となかった。

セティアはその後も王宮に仕え続けたが、幾年もの後、年老いてから浜辺に小さな庵を構え、余生をそこで過ごした。晴れた日には、決まって水平線を眺めた。あの朝、竜が飛び去っていった方角を。

竜が残していった鱗の欠片を一枚、セティアは死ぬまで手元に置いていたという。誰かがその由来を尋ねるたび、彼女はいつも同じ言葉で答えた。

「この国のために戦い、この国に裏切られかけ、それでも誰も傷つけずに去っていった友がいた、というだけの話です。もう二度と、あの空をこの国の上に飛ぶことはないでしょう」

竜がその後どこへ渡り、どのような余生を送ったのか、リムトの記録にはどこにも残っていない。ただ、国境の空を、二度とその巨躯が横切ることはなかった、という一文だけが、古い年代記の片隅に、静かに書き添えられている。

あとがき

ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』第一篇「リリパット渡航記」は、難破して小人の国に打ち上げられた主人公ガリバーが、糸で拘束されながらも敵意なきことを示して信頼を勝ち取り、隣国との戦争で艦隊を無力化する武勲を立てながらも、その力を恐れる宮廷の陰謀によって国を追われる物語である。本作は、その骨格――巨躯の異物が、力を貸して英雄となりながら、まさにその力ゆえに恩義よりも猜疑に晒されるという構図――を、ガリバーを一頭の竜に置き換えて翻案した。

原作のリリパット・ブレフスキュという国名は用いず、リムト・カレスタという独自の国名と、セティア、ドルアフ、バシェトといった独自の人物を創作し、竜と若い記録係との交流や、竜が自らの意志で参戦を志願する展開、宮廷の密議を耳にしてなお復讐を選ばず去るという結末についても、独自の脚色を加えている。原作でガリバーが目を潰される陰謀を察知して隣国へ逃れるくだりは、本作では竜が誰も傷つけぬまま静かに姿を消すという結末に置き換え、恩を仇で返された英雄の物語に、能動的な赦しと自発的な追放という色合いを添えた。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)著『Gulliver’s Travels(ガリバー旅行記)』第一篇「リリパット渡航記」を参考にした翻案作品です。

本作はジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)の『Gulliver's Travels(ガリバー旅行記、第一篇「リリパット渡航記」)』を参考にした作品です。原典