物語雳
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竜は、二度とは同じ声で鳴かなかった

心臓を患う人妻は、山道で隊商が竜に襲われ夫が落命したと聞かされる。喪失の底から、遠く谷を渡る竜の咆哮が、まるで己の自由を告げる声のように響く。だが生きて帰った夫を前に、同じ咆哮はもう自由の声には聞こえなかった。

一 颪ヶ嶽の郷

深山郷は、颪ヶ嶽と呼ばれる険しい峰の裾野に、身を寄せ合うようにして開けた小さな郷だった。峰の頂は年の半ばを雲に閉ざされ、麓から仰いでも、その姿を拝めるのはよく晴れた冬の朝ばかりである。田は峰の裾に沿って幾段も棚を成し、その間を細い川が縫うように流れ、郷の家々は川沿いに肩を寄せ合うようにして並んでいた。峠を越えれば隣国へと通じる交易路に出るが、その道のりは険しく、行き来できるのは荷駄を扱う商人と、腕の立つ猟師くらいのものだった。郷の者たちは古くから、あの雲の奥に竜が棲むのだと語り継いできた。誰も見た者はいない。ただ、嵐の晩や、日暮れて風の凪ぐ刻限に、峰の奥から低く長い咆哮が谷を渡ってくることがあり、それを郷の者は「颪の主」と呼んで畏れ、また同時にどこか誇らしくも思っていた。子が生まれれば、その泣き声が颪の主に届くようにと峰に向かって手を合わせ、日照りが続けば、颪の主の機嫌を損ねたのではないかと囁き合う。この郷の空の上には、何ものにも縛られず、思うがままに渡っていく者がいる――そう信じることが、貧しくとも変わらぬ暮らしを営む郷人たちの、ささやかな心の拠り所になっていた。

早瀬美祢は、その郷で生まれ育った女である。八つの年に長らく高熱を患って以来、心の臓に持病を抱え、少し急な坂を上っただけで息が上がり、時には目の前が昏くなって倒れることさえあった。あの熱の晩、母は一晩中、美祢の額に濡れ手拭いを当て続け、明け方になってようやく熱が引いたとき、声を上げて泣いたという。それからというもの、母は美祢を家の内にばかり置いて育てた。医者からは「決して無理をさせぬように」と度々念を押され、母はその言葉を後生大事に守った。美祢が十二の頃、一度だけ隣の子供たちに誘われ、峰の裾までこっそり山道を登ったことがある。息が切れて動けなくなった美祢を、探しに来た母は泣きながら叱った。「お前が倒れたら、私はどうしたらよいのか」――その言葉の重みを、美祢は生涯忘れることができなかった。それ以来、美祢は自分から外へ出たいと望むことを、少しずつやめていった。

嫁いでからも、それは変わらなかった。夫の忠一郎は、郷でも指折りの荷駄問屋を営む男で、美祢の病を誰よりも案じ、誰よりも大切にした――少なくとも、傍から見ればそのように映るはずだった。祝言を挙げて十年近く、忠一郎は美祢のために都から良い医者を招き、季節ごとに滋養のつく品を欠かさず届けさせた。子には恵まれなかったが、忠一郎はそのことで美祢を責めたことも一度もなかった。郷の女たちの間では、早瀬の奥方はよい夫を持ったと、幾度となく羨まれてきた。

「お前の心の臓は、この郷の宝のようなものだ」忠一郎は幾度となくそう言って、美祢の肩に優しく手を置いた。「危ういことは、何一つさせるわけにはいかぬ」

その言葉に嘘はなかった。だからこそ美祢は、長らくその言葉に逆らう術を持たなかった。木戸の外に出ることも、遠くの親類を訪ねることも、ちょっとした力仕事すらも、すべては忠一郎の判断ひとつで決まった。三年前の秋、隣郷に嫁いだ叔母が病に臥せったとき、美祢は見舞いに行きたいと願い出たが、忠一郎は「道中の冷えがお前の心の臓に障る」と取り合わなかった。叔母はその冬のうちに世を去り、美祢は一度も顔を見ることができなかった。その夜、美祢は誰にも言わずに一人で泣いたが、朝になれば、いつもと変わらぬ顔で忠一郎の膳を整えた。祝言を挙げた春、郷では珍しく賑やかな夜祭があり、若い嫁たちは連れ立って輪踊りに加わるのが習わしだったが、忠一郎は「人混みに揉まれては危うい」と美祢だけを家に残した。窓辺から漏れ聞こえる太鼓の音と、若い女たちの笑い声を聞きながら、美祢は独り針仕事をして夜を明かした。美祢自身、幼い頃からそれが当然のことと思って育ってきたし、忠一郎の気遣いを疎ましく思ったことも、表向きは一度もなかった。ただ、夜ごと颪ヶ嶽の方角から低く響いてくるあの咆哮を聞くたび、美祢の胸の奥には、誰にも語ったことのない小さな疼きが兆した。

幼い頃、亡くなった祖母がよく囲炉裏端で語ってくれたものだった。

「颪の主は、誰の許しも得ず、思うままに空を渡っておいでなさる。谷向こうの国へ渡ろうと、遠くの峰々を巡ろうと、あの方の翼を止められる者は、この世のどこにもおらぬ」

祖母の声を思い出すたび、美祢は寝床の中で、見たこともないその姿を思い描いた。雲を纏うほど大きな翼、誰の指図も受けず、行きたいところへ行きたいだけ渡っていく――そのことが、幼い美祢にはひどく眩しいことのように思われた。長じてからは、無論それを口にすることはなかった。良き妻として、良き病者として生きることが、美祢に許された唯一の生き方だったからである。それでも、夜半にふと目を覚まし、遠く谷を渡ってくるあの咆哮を聞くと、美祢の胸は、説明のつかない仕方でざわめいた。まるでその声だけが、家の内に押し込められた美祢のかわりに、代わる代わる空を渡ってくれているかのように。

季節が巡り、田の畦に彼岸花が咲く頃になると、美祢は縁側に座り、夕暮れの空を眺めるのを常とした。渡り鳥が幾筋もの列を成して颪ヶ嶽の稜線を越えていくのを見送りながら、美祢はいつも同じことを思った。鳥たちは誰の許しも得ずに、あの峰の向こうへと渡っていく。自分だけが、この縁側に根を張ったように留まり続けている。十六の頃、一度だけ夕暮れの峰の中腹に、雲間から差す夕日を受けて金色に光る何かの影が動くのを見たことがあった。それが颪の主の鱗だったのか、あるいはただの霧と光のいたずらだったのか、確かめる術はなかったが、美祢はその光景を、誰にも語らぬまま胸の奥にしまい込んでいた。美祢は幾晩も、暗い天井を見つめながら、自分がその咆哮の主に、いつの間にか心を寄せてしまっていることに気づいていた。誰にも許しを乞う必要のない、あの声にだけは。

二 隊商、山を越えず戻らず

その年の晩秋、忠一郎はみずから隊商を率いて、隣国との交易のため颪ヶ嶽の山道を越えることになった。雪が降り積もる前のこの時期を逃せば、次の商いの機会は半年先になる。荷駄には反物と塩、蜜蝋の樽が積まれ、雇い人足たちが十数人、馬を曳いて出立の支度を整えていた。忠一郎は出立の朝、美祢の手を取り、いつものように言った。

「十日もあれば戻る。留守の間、決して無理はするな」

美祢はただ頷き、遠ざかっていく隊商の列を、木戸の内から見送った。荷を積んだ馬の背が山道の向こうに消えていくのを眺めながら、美祢はふと、颪ヶ嶽の頂にかかる雲の重なりに目をやった。今日はいつになく低く、峰全体を覆い隠すほど厚い雲だった。朝靄の中、隊商の立てる鈴の音が次第に遠のいていくのを、美祢はいつまでも聞いていた。

それから幾日か、美祢はいつもと変わらぬ日々を過ごした。機を織り、庭先の菊に水をやり、雇いの下女と共に夕餉の支度をする。忠一郎の留守の間だけは、木戸の外に出て、川べりまで散策することを許されていた。川面に映る颪ヶ嶽の影を眺めながら、美祢は素足を水に浸し、しばらくの間、誰の目も気にせず、ただぼんやりと空を見上げていることができた。その数日は、美祢にとって珍しく心安らぐ刻限だった。だが夜になると、決まって颪ヶ嶽の方角に耳を澄ませてしまう己に、美祢は気づかぬふりを続けていた。

出立から七日目の昼下がり、美祢のもとに姉の志乃が、いつもとは違う急いた足取りで訪ねてきた。志乃の夫、玄哲は郷の医者で、街道を行き来する飛脚たちの噂話にも通じている。美祢は志乃の顔を見た瞬間、何かただならぬことが起きたのだと悟った。だが志乃は、すぐには本題を切り出さなかった。まず美祢を框に座らせ、その手をしっかりと握ってから、ようやく低い声で語り始めた。

「美祢、気を確かに持って聞いておくれ。……颪ヶ嶽の峠で、隊商が難に遭ったそうだ」

美祢の心の臓が、大きく跳ねた。志乃はなおも言葉を選びながら、続けた。峠の最も険しいあたりで、突如として山肌が大きく崩れ、隊商の列を呑み込んだのだという。生き延びた人足の話によれば、崩落の直前、峰の奥から獣ともつかぬ、途方もない咆哮が轟いたのだと。長らく人を襲うことなどなかった颪の主が、なぜあの日に限って山を鳴動させたのか、誰にも分からない。ある者は、隊商が知らずに峠の御神域を踏み荒らしたのではないかと噂し、また別の者は、ただの巡り合わせの悪い山崩れに、いつもの咆哮が重なっただけだと言った。真相を確かめる術は、もはやどこにもなかった。ただ確かなのは、隊商を率いていた忠一郎の姿が、生き延びた者たちの中に見当たらなかったということだった。峠に近い村では、他にも二人の人足の妻が、夫の身を案じて泣き崩れているという。

「忠一郎殿は……」志乃は言葉を詰まらせた。「峠を捜索した人足たちが、崩れた土砂の下から、殿の羽織を見つけたそうだ。それより先は……まだ、確かなことは何も」

美祢は、しばらく声を発することができなかった。志乃は美祢の心の臓を案じ、その背をずっとさすり続けていた。玄哲もまた、隣室で薬湯を煎じながら、美祢の様子にじっと耳を澄ませていた。だがその夜、独り部屋に下がった美祢の胸の内に兆したものは、志乃が案じていたような、崩れ落ちるほどの悲嘆だけではなかった。

行灯の灯りだけが揺れる部屋の中、美祢は初め、声を殺して泣いた。十年近く連れ添った夫の死を悼む涙は、確かに本物だった。忠一郎の優しさも、その優しさに込められた重さも、美祢はよく知っていた。だが涙が乾いていくにつれて、美祢の胸の奥深くから、何か得体の知れないものが、ゆっくりと兆し始めた。それは、悲しみによく似た形をしていながら、悲しみとはまるで違う手触りをしていた。

障子越しに、颪ヶ嶽の方角から、あの聞き慣れた咆哮が低く響いてきた。今宵の咆哮は、これまで幾度となく聞いてきたものと、何ら変わらぬはずだった。それなのに美祢の耳には、今夜だけはまるで違う響きに聞こえた。まるでその咆哮が、美祢ひとりに向けて放たれた言葉であるかのように。

――これからは、誰の許しも得ず、思うままに生きてよいのだ。

その言葉にならない声が、美祢の四肢の隅々にまで染み渡っていくのを、美祢は抗いようもなく感じた。木戸を出ることも、遠くを訪ねることも、もう忠一郎の判断を仰ぐ必要はない。誰かのために己の望みを押し殺す日々は終わったのだ。美祢は自分の胸に兆したその感情の正体を、しばらくの間、恐ろしくて名付けることができなかった。だがそれは間違いなく、幼い頃、祖母の語る颪の主の話を聞くたびに感じた、あの眩しさと同じ手触りをしていた。

美祢は行灯を消し、暗闇の中で膝を抱え、幾度も己に問うた。夫を悼む悲しみの底から、なぜこれほどまでに軽やかな感情が湧いてくるのか。答えは、美祢自身の中にすでにあった。忠一郎の情は本物だった。だがその情に守られる日々は同時に、美祢を家の内にだけ閉じ込める檻でもあったのだ。颪の主が、誰の許しも得ずに空を渡っていくように、これからの美祢の人生もまた、誰の判断も仰がず、美祢自身のものになる――そう思い至った瞬間、美祢の唇からは、自分でも驚くほど深い、安堵にも似た息が漏れた。

暗闇の中で、美祢は来たるべき季節のことを思い描いた。春になれば、誰に断ることもなく川向こうの叔母の墓に参ろう。夏には、遠い親類の祝言にも自分の足で出向こう。長らく人任せにしてきた蔵の帳面も、これからは美祢自身の手で改めていくのだ。幼い頃、読み書きを教えてくれた老いた師匠にも、久しく顔を見せていなかった。これからは折に触れて訪ね、茶飲み話に興じてもよい。庭の隅に、誰の許しも得ずに好きな花だけを植えた小さな畑を作ってもよい。夜祭の輪踊りにも、来年こそは自分の足で加わろう――そのひとつひとつは、傍から見ればとるに足らぬささやかな望みに過ぎなかったが、美祢にとっては、生まれて初めて己の意のままに描く未来だった。明け方近く、美祢はようやく寝床に横たわった。忠一郎を悼む涙はまだ胸の奥に残っていたが、それと同じだけの重みで、生まれて初めて味わう解放の予感が、美祢の胸を静かに満たしていた。峰の向こうに広がる空のように、果てのない自由が、美祢の前に広がっているように思われた。

三 生きて帰った忠一郎

葬いの支度は、志乃と郷の女たちの手によって、慌ただしく進められた。忠一郎の亡骸はまだ峠から運び出されていなかったが、崩落の規模と、生き延びた人足たちの証言からして、もはや疑う余地はないというのが、郷の者たちの一致した見立てだった。同じ隊商にいた二人の人足の家でも、すでに弔いの支度が始まっているという。美祢は喪服に袖を通しながら、不思議なほど落ち着いた心持ちで、志乃の指図に従った。悲しみは確かにそこにあったが、その悲しみの奥底には、誰にも明かせぬ静かな高揚が、消えることなく灯り続けていた。

弔問に訪れた郷の女たちは、口々に美祢を気の毒がった。「これからお独りで、どうなさるおつもりか」と案じる声もあれば、「忠一郎殿ほどのお方は、二度と現れますまい」と涙する声もあった。同じ隊商で夫を亡くした若い女房が、美祢の手を取って「せめて奥方様と、これからは支え合っていければ」と声を震わせたとき、美祢は初めて、自分の胸の内にあるものを知られてはならないという恐れをはっきりと自覚した。美祢はそのひとつひとつに丁寧に頭を下げながら、胸の内でだけ、誰にも気取られぬよう、そっと呟いていた。独りで生きていくことを、この郷の誰もが不幸なことだと思っている。だが美祢にとってそれは、初めて手にする、己だけの人生の始まりに他ならなかった。灯明の煙が細く立ちのぼる祭壇の前に座りながら、美祢はふと、忠一郎への悼みと、この新しい人生への予感とが、自分の中で少しも矛盾なく同居していることに、自分自身で戸惑いを覚えた。

葬いの前夜、志乃が美祢の部屋に線香を運んできたとき、表の木戸の方角から、慌ただしい足音と、何人もの声が近づいてくるのが聞こえた。

「奥方様! 奥方様はご在宅か!」

聞き覚えのある声だった。忠一郎の下で働く番頭の声である。志乃が眉をひそめて框へ出ていくと、番頭は息を切らせながら、信じがたい報せを告げた。

「旦那様が……旦那様が、生きておいでです! 崩落の折、たまたま別の道筋を検分しておられたとかで、難を逃れ、たった今、隣郷の宿場からお戻りになりました!」

志乃は言葉を失ったまま、しばらく番頭の顔を見つめていた。それから弾かれたように、美祢の部屋へと駆け戻った。

「美祢、美祢! 忠一郎殿が……忠一郎殿が、生きておいでだそうだ!」

美祢は、その報せを、しばらく理解することができなかった。喜びよりも先に、美祢の胸を貫いたのは、名状しがたい鈍い衝撃だった。志乃はその様子を、あまりの安堵に言葉も出ないのだと思い込み、美祢の手を強く握りしめた。

「よかった、本当によかった……! さあ、玄関先までお迎えに出ておくれ。忠一郎殿がお戻りだよ!」

美祢は、志乃に手を引かれるようにして框を降り、玄関先へと向かった。表に出た瞬間、峰の方角から、あの聞き慣れた咆哮が、また低く響いてくるのが聞こえた。数日前、美祢の胸を解き放ったのと、寸分違わぬはずの咆哮だった。だが今宵、その響きは、美祢の耳にはただ重く、ただ暗く、のしかかってくるだけだった。自由を告げる声には、もう聞こえなかった。

夕暮れの薄闇の中、木戸の向こうに、旅装のまま土埃にまみれた忠一郎の姿が見えた。数日にわたる山道の難渋を物語るように、着物の裾は泥に汚れ、髷も乱れていたが、その足取りにはいつもと変わらぬ力強さがあった。忠一郎は美祢の姿を認めると、安堵に顔を崩し、大股に歩み寄ってきた。番頭や下男たちが、口々に「よかった、よかった」と涙ぐみながら忠一郎の無事を喜び合う声が、木戸のあたりに満ちていく。

「美祢! すまなかった、さぞ気を揉んだであろう」

忠一郎が両腕を広げ、美祢の名を呼びながら歩み寄ってくる。その姿を目の当たりにした瞬間、美祢の胸の奥で、たった今取り戻したばかりの果てのない自由が、音もなく崩れ落ちていくのを、美祢は感じた。春には川向こうの叔母の墓へ、夏には遠い祝言へ、美祢自身の足で出向くはずだった未来。蔵の帳面も、これからは美祢自身の手で改めていくはずだった。それらすべてが、忠一郎の伸ばす両腕の中に、音もなく吸い込まれて消えていく。これから先の幾年もの季節が、再びこれまでと同じ形に――誰かの判断を仰ぎ、誰かの情に守られ、そして誰かの意のままに閉じ込められる、あの檻の形に――戻っていくのだと悟った瞬間、美祢の視界が、急速に昏くなっていった。

美祢は、伸ばされた忠一郎の腕にすがりつくこともできぬまま、その場に崩れ落ちた。

四 医者の見立て

美祢はそのまま、二度と目を覚まさなかった。

志乃の夫であり郷の医者でもある玄哲が、駆けつけて美祢の脈を診た。玄哲は美祢の持病を長らく診てきた者である。しばらくその顔を検分したのち、玄哲は静かに、しかし確信をもって告げた。

「あまりの喜びに、心の臓が耐えきれなかったのでしょう。……ご亭主が生きて戻られた、その喜びに」

その場に居合わせた誰もが、玄哲の見立てに深く頷いた。忠一郎は美祢の亡骸を抱き、声もなく涙を流した。志乃もまた、妹があれほど夫を案じていたはずなのに、あまりの喜びに命を落とすとは、と繰り返し呟いた。ただ志乃だけは、崩れ落ちる直前の美祢の顔に浮かんでいたものが、喜びにはとても見えなかったことを、胸の奥にしまい込んだまま、誰にも語らなかった。あれは、何かにすがりつこうとして、すがりつけなかった者の顔だった――志乃はそう感じたが、その感覚に名を与える言葉を、志乃自身も持ち合わせていなかった。郷の者たちの間でも、「早瀬の奥方は、旦那様への情が深すぎたのだ」という話が、しばらくの間、まことしやかに語り継がれた。

一年ののち、命日に妹の墓を訪れた志乃は、供えた菊の花を整えながら、ふとあの夜のことを思い返した。あのとき美祢が崩れ落ちる寸前に漏らした、安堵とも絶望ともつかぬ小さな吐息――あれは何だったのかと、志乃は幾度も己に問うたが、答えはついぞ見つからなかった。ただ、丘の上から見下ろす郷の景色を眺めながら、志乃は妹が最期に見ていたものが、自分たちの誰にも分からぬ、美祢だけの景色だったのだろうと、漠然と思うようになっていた。

だが、その見立ては、真実とはまるきり逆のものだった。美祢の心の臓を止めたのは、喜びではなかった。取り戻したはずの、果てのない自由が、音もなく閉じられていくことへの、名状しがたい絶望だったのだ。そのことを知る者は、この郷のどこにもいなかった。

美祢の亡骸は、颪ヶ嶽を望む丘の上に葬られた。忠一郎は、それから幾年もの間、妻の墓に絶えることなく花を手向け続けたという。妻がどれほど自分を頼りにしていたか、その死を通して忠一郎は改めて思い知らされたと、周りの者たちに幾度も語った。それは忠一郎にとって、疑う余地のない真実だった。だが忠一郎自身、妻の胸の裡に何が去来していたのか、生涯知ることはなかった。

颪ヶ嶽は、その後も変わらず郷の頭上にそびえ続けている。嵐の晩や、日暮れて風の凪ぐ刻限には、今も峰の奥から、あの低く長い咆哮が谷を渡ってくることがある。郷の者たちは今も、それを颪の主の声だと信じ、誰の許しも得ず思うままに空を渡っていく、その自由な姿に、変わらぬ憧れを抱き続けている。ただ、その咆哮が、ただ一夜だけ、ある一人の女の耳に、まったく異なる二つの意味で響いたことを――かつては解き放つ声として、そしてその同じ声が、再び閉じ込める影として響いたことを、颪の主自身は知る由もない。峰は今日も、変わらぬ姿で雲を纏い、谷を渡る風だけが、その裾野に広がる郷の屋根々を、静かに撫でていく。

あとがき

本作は、ケイト・ショパン「一時間の物語(The Story of an Hour)」を下敷きにした翻案である。原作では、心臓病を患う人妻ルイーズ・マラードが、夫の鉄道事故死の報せを受けた後、悲しみの底から「これからの人生はすべて自分のもの」という言葉にならない解放感に密かに歓喜するが、夫が無事に帰宅した瞬間、その場で息絶える。医者は「あまりの喜びのあまりの死」と診断するが、真相はまったくの逆だったことが末尾で明かされる。

本作では、「鉄道事故」を「山道で竜に襲われた隊商の遭難」に置き換え、竜そのものを物語の現実には一度も登場させず、終始「遠い咆哮」としてのみ存在させる構成を取った。主人公が幼い頃から抱いてきた竜への憧れ――「誰の許しも得ず、思うままに空を渡る」自由の化身としての竜――を、夫の死の報せを境に自らの解放の予感と重ね合わせ、しかし夫の生還によってその予感が音もなく崩れ落ちるという、原作の皮肉な結末の構図を踏襲している。姉・志乃が最期の妹の表情に喜び以外の何かを感じ取りながらも、それに名を与えられずにいる一節は、原作の医者の誤診が持つ皮肉の余韻を、より深く残すために独自に加えたものである。

舞台・人物名・地名・展開の細部はすべて独自に創作したものであり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。


本作はケイト・ショパン(Kate Chopin)著「一時間の物語(The Story of an Hour)」を参考にした翻案作品です。

本作はケイト・ショパン(Kate Chopin)の『一時間の物語(The Story of an Hour)』を参考にした作品です。原典