物語雳
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·読了目安 14分主役

竜は大人しくならなかった

食い詰めた山賊二人が身代金目当てに迷い込んだ幼竜をさらうも、幼竜は火加減も翼の加減も知らぬ暴れん坊で、隠れ家を焼き尽くし夜通し二人を振り回す。疲弊した末に待っていたのは、まさかの逆転劇だった――痛快などたばた誘拐騒動。

一 灰麦山の相談

金がなかった。それも、酒代に困るとか、宿代を踏み倒すとかいう、可愛らしい水準の話ではない。俺とドスは、灰麦山の中腹にある岩屋に転がり込んでからというもの、三日にいっぺん干し肉をかじれれば上出来という暮らしをしていた。かつては馬泥棒として鳴らした二人組だったが、この一帯の馬という馬に顔を覚えられてしまい、盗む端から突き出される始末で、とうとう「山賊」を名乗ることさえ恥ずかしくなるほどの零落ぶりだった。

思えば、俺たちの凋落は、いつも似たような形でやって来た。目算だけは立派で、いざ実行に移すと必ずどこかで綻びが出る。馬を盗んでは、その馬に見覚えのある人間に町の入り口で呼び止められ、金貨を掠め取ったと思えば、その金貨が偽物だったこともある。ドスは「俺たちには運がない」と嘆くが、俺に言わせれば、運のせいにできるほど周到な計画を立てたためしが、そもそも一度もなかった。

「なあジェド、そろそろ潮時じゃねえか」

岩屋の入り口で焚き火を焚きながら、ドスが言った。大柄な図体に似合わず、こういう時だけは弱気になる男だった。俺は答える代わりに、麓に広がる灰麦村の灯りを見下ろした。夕暮れの空気に混じって、遠く牛の鳴き声と、誰かが呼びかける声がかすかに届いてくる。あの村は、名の通り小麦の穂が灰色がかって実る土地で、決して豊かではないが、質朴に暮らしを回している村だった。石垣の間を縫うように延びる小道には、夕餉の支度をする煙がいくつも立ち上り、遠目にはひどく穏やかな眺めに見えた。

その灰麦村で、少し前から奇妙な噂が流れていた。村はずれの岩場に、長らく誰も近づかなかった古い巣があり、そこに残されていた卵がこの春になって孵った、という話だ。孵ったのは竜の子だという。曰く、赤い鱗をした幼竜が、村の周りをふらふらとうろつき、時折り小さな火を吹いては自分で驚いて転げ回っているらしい。村の者たちはその幼竜を遠巻きに見ているだけで、手出しもせず、かといって追い払うでもない、という奇妙な距離の取り方をしているという。

「聞いたか、ドス。村の連中、竜の子を放し飼いにしてるらしいぜ」

「ああ、聞いた。気味の悪い話だ。竜なんぞ、小さくたって火を吐くんだろう」

「だが、な。考えてもみろ。あの村にとって、その竜の子は――特別な生き物なんじゃねえか。何しろ古い巣から孵った、いわくつきの竜だ。村長のネストルとやらは、えらくその卵を大事にしてたって噂もある」

俺の頭の中で、算盤がかちりと音を立てた。金のない山賊が思いつく手段など、そう多くはない。だが、目の前に、誰も本気で守ってはいなさそうな「村の宝物」が、のこのこと山をうろついているとなれば話は別だ。

「さらって、身代金を要求する。単純明快だろう」

ドスは最初、あからさまに嫌な顔をした。

「竜だぞ。子供とはわけが違う。爪も牙もある」

「まだ卵から孵ったばかりの赤ん坊だろうが。羽の生えたひよこみたいなもんだ。俺たちが本気になれば、袋の一つも被せて連れて来られるさ」

結局、腹が減っているという事実は、どんな理屈よりも雄弁だった。ドスは渋々ながら頷き、俺たちはその晩のうちに、村の外れをうろついているという幼竜を探しに下山することに決めた。荷物と言えるほどのものは何もなかったから、支度はすぐに整った。使い古した麻袋と、火傷よけのつもりで巻いた古い革の手甲。今にして思えば、あの手甲がのちにどれほど頼りなかったか、二人ともまるで想像していなかった。

月明かりの下、灰麦村の畑を迂回しながら岩場へと近づくと、なるほど噂は本当だった。小さな、それでいて存在感だけは一人前の赤い影が、月光を浴びてぽつんと佇んでいる。俺たちはしばらく茂みに隠れて様子を窺ったが、妙なことに、村の見張りらしき人影はどこにも見当たらなかった。畑の向こうに並ぶ家々の窓からは、暖かな灯りが漏れているというのに、竜の子のいる岩場周辺だけが、まるで誰にも顧みられていない場所のように静まり返っていた。

「用心が甘いな、灰麦村は」

「それとも――」

ドスが何か言いかけたが、俺はそれを遮って歩き出した。今にして思えば、あの時のドスの言葉を最後まで聞いておくべきだった。だが、目先の金にしか目が向いていなかった俺たちに、そんな余裕はなかったのだ。

近づいてみると、幼竜は思っていたよりもさらに小さく、翼を折り畳んだ姿は、まるで羽織を着せられたひよこのようだった。それでいて、月明かりを弾く鱗の一枚一枚には、確かに竜と呼ばれるにふさわしい鋭さが宿っている。時折、地面に落ちた木の実をつつくような仕草を見せるかと思えば、急に自分の尻尾を追いかけてくるくると回り出す。そのたびに、俺は「本当にこれが村の宝物なのか」と半信半疑になった。少なくとも、これほど無防備な生き物を、村がろくに見張りもつけずに放し飼いにしていることだけは確かなようだった。

二 迷い竜、隠れ家を焼く

幼竜を捕らえるのは、拍子抜けするほど簡単だった。俺が背後から袋を被せ、ドスが両腕でひょいと抱え上げると、それだけで済んでしまった。暴れるかと身構えていたのだが、幼竜は驚いたようにジタバタしただけで、大した抵抗も見せなかった。むしろ、袋の中でくうくうと妙に人懐こい声を上げているのが、かえって薄気味悪かった。

「拍子抜けだな」

「ああ。だが、まあいい。上出来だ」

岩屋に連れ帰ると、俺たちは袋の口を開けて中身を確かめた。赤い鱗に覆われた、犬ほどの大きさの幼竜が、ぱちぱちと目を瞬かせながら俺たちを見上げていた。丸い金色の瞳には、恐怖の色よりも、むしろ好奇心の方が色濃く浮かんでいるように見えた。焚き火の明かりを映して、その瞳はまるで二つの小さな炎のように揺らめいていた。

「こいつが竜の子か。案外、かわいい面してやがる」

ドスがそう言って指を近づけた瞬間、幼竜はぱくりとその指先に甘噛みをした。ドスが悲鳴を上げて手を引っ込める。傷はなかったが、驚いた拍子に幼竜も驚いたらしく、口から小さな火の玉を「ぷすっ」と吐き出した。その火が、運悪くドスの敷いていた古い毛皮に燃え移った。

「うわっ、火が! 火が付いた!」

「水を、水をかけろ!」

俺たちは大慌てで岩屋の隅にあった水瓶をひっくり返し、どうにか火を消し止めたが、毛皮も、積んであった干し草も、半分近くが炭になってしまった。幼竜は自分の吐いた火に自分でも驚いたのか、部屋の隅で丸くなって震えていた。

「……こいつ、火加減がまるでわかってねえ」

「生まれたばかりなんだろう。仕方あるまい」

落ち着いたのも束の間、今度は幼竜が壁際に積んであった薪の山に興味を示し、鼻先でつつき始めた。放っておけばまた燃やされかねないと思い、俺は慌てて抱え上げようとしたが、その拍子に幼竜は驚いて短い悲鳴を上げ、羽をばたつかせて俺の手から逃れた。不慣れな翼はまるで意のままにならず、幼竜はそのまま岩屋の壁に真正面から突っ込んだ。積んであった食料の壺が次々と崩れ落ち、割れた欠片が床に散らばる。虎の子の干し肉の残りも、その騒ぎの中で灰にまみれて食えなくなった。

その夜だけで、俺たちは三度、小火を消す羽目になった。幼竜が驚くたびに火を吐き、火を吐くたびに何かが燃え、俺たちがそれを消して回る。おまけに、幼竜はまだ飛び方もろくにわかっておらず、翼をばたつかせては岩屋の壁に体当たりし、そのたびに棚の道具がガチャガチャと音を立てて崩れ落ちた。俺たちが寝床にしていた藁も、気づけば半分近くが火の粉で焦げていた。

「これじゃあ、身代金を取る前に、俺たちの方が丸裸になっちまう」

ドスがすすだらけの顔でぼやいた。俺も似たような顔をしていたに違いない。だが、ここまで来て手を引くわけにもいかない。俺は焦げた紙切れを引っ張り出し、震える手で身代金要求の文を書き始めた。「灰麦村の長老殿へ。貴村の竜の子は我らが預かった。無事に返してほしくば、金貨二百枚を用意されたし」――そう記すと、俺はドスに命じて、こっそり村はずれの木の根元にその文を置きに行かせた。

「これで、明日にはこっちのもんだ」

そう自分に言い聞かせたが、正直なところ、その晩の岩屋の惨状を見る限り、俺の自信は半分も本物ではなかった。ドスが戻ってくる頃には、幼竜はようやく疲れたのか、崩れた壺の欠片の間で丸くなって眠りに落ちていた。その寝顔だけは、驚くほど無邪気だった。

三 眠れぬ夜と絆

夜が更けても、幼竜はいっこうに眠り続けてはくれなかった。それどころか、俺とドスがようやく落ち着いて横になろうとすると、目を覚ました幼竜がとことこと歩み寄ってきて、俺の腹の上に丸くなって寝そべった。ずしりと重く、そのくせ体温は驚くほど高い。まるで抱え込んだ焚き火のようだった。

「おい、どけ。寝られん」

押しのけようとすると、幼竜は不満げに小さく喉を鳴らし、今度はドスの背中によじ登った。ドスが呻き声を上げる。

「こいつ、俺たちに懐きすぎじゃないか」

「懐かれても、金は貰えん。それより寝かせろ」

だが幼竜は一向にこちらの都合など気にする様子もなく、俺たちの間を行ったり来たりしては、鼻先を擦りつけてくる。夜半を過ぎた頃には、俺もドスも目の下に濃い隈を作っていた。幼竜は退屈するたびに小さな炎を吐いて遊び、そのたびに俺たちは飛び起きて火を消して回った。岩屋の壁は煤で真っ黒になり、俺たちの服は焦げ穴だらけになった。

翌日から、俺たちの暮らしは奇妙な形で回り始めた。朝になれば幼竜に急かされるように起こされ、井戸端代わりの小川で水浴びをさせ、火加減の下手な吐息のせいで焦がしてしまった鍋を洗い、崩れた岩屋の壁を積み直す。かつて馬を盗んでいた頃には想像もしなかった、面倒見のいい暮らしだった。ドスなどは、水浴びを嫌がる幼竜を追いかけ回して小川に転げ落ち、全身びしょ濡れのまま戻ってくる始末で、俺はそれを見て久々に腹の底から笑った。

「なあ、ジェド。俺はもう、こいつに名前をつけてやりたい気分だよ」

三日目の明け方近く、疲れ果てたドスがぽつりと言った。

「馬鹿を言うな。金を取ったら返す相手だぞ」

「わかってるさ。だが……見ろよ、この鱗の色。夜明けの空みたいな赤だ。緋色ってやつだな。緋丸、ってのはどうだ」

俺は呆れたが、口にしてしまえば案外しっくりくる名前だった。「緋丸」と呼びかけると、幼竜はぱっと顔を上げ、まるでその名を最初から知っていたかのように、嬉しそうに尻尾を振った。その仕草に、俺の中の何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

四日目には、緋丸はようやく短い距離なら飛べるようになっていた。もっとも、着地の加減はまだわかっておらず、俺たちの頭や肩に無遠慮に降り立っては、その都度悲鳴を上げさせていた。夜になれば相変わらず眠らせてはくれず、俺たちは交代で見張りならぬ「子守り」をする羽目になった。ドスが先に見張りを買って出た晩、俺はつかの間の眠りに落ちたが、ふと目を覚ますと、ドスが焚き火の傍らで、緋丸を膝に乗せたまま、覚えたての妙な子守唄を口ずさんでいるのを見た。声を上げるのも野暮な気がして、俺はそのまま狸寝入りを決め込んだ。

五日目の昼、麓へ食料を調達に下りた折、俺たちは行商人らしき男とすれ違った。男は俺たちの焦げた身なりを見て眉をひそめたが、それより先に、岩屋の方角から立ち上る細い煙に気づいて顔を強張らせた。

「あんたら、あの山に住んでるのか。近頃、あの辺りで妙な唸り声だの、光る煙だのが出るという噂でな。悪いことは言わん、早いところ引っ越した方がいい」

俺たちは曖昧に頷いて男をやり過ごしたが、道々、ドスがぼそりと呟いた。

「妙な唸り声ってのは、俺たちの寝言か、それとも緋丸の鼻息か、どっちだろうな」

「さあな。どっちにしろ、この調子じゃ、そのうち村中に俺たちの隠れ家が知れ渡るぞ」

冗談のつもりで言った言葉だったが、その予感は、思っていたよりずっと早く現実になろうとしていた。

「身代金が入ったら、こいつはどうする」

ある晩、焚き火の傍らで、ドスがぽつりと聞いてきた。俺は答えられなかった。金のことしか考えていなかったはずが、いつの間にか、緋丸を村に「返す」という言葉に、妙な後ろめたさを覚えるようになっていた。

「……村に、返すさ。当たり前だろう」

そう答えながらも、俺の声はどこか力を失っていた。その晩も緋丸は俺の膝の上で丸くなって眠り、寝息のたびに小さな火の粉を鼻先からこぼしていた。俺はその火の粉が焚き火に落ちて小さく爆ぜるのを、いつまでも見つめていた。ドスも黙り込んだまま、同じ火を見つめていた。

数日後、ようやく村からの返事が届いた。俺たちが指定した木の根元に、小さな包みが結びつけられていたのだ。俺とドスは、これでようやく苦労が報われると、逸る気持ちを抑えながらその包みを開いた。

四 灰麦村からの返り火

包みの中身は、金貨ではなかった。折り畳まれた一枚の手紙だけだった。丁寧な字で、こう記されていた。

「山の御方へ。貴殿らのお申し出、確かに拝見いたしました。さて、率直に申し上げます。当村では、竜の子――村では『緋の悪童』とすら呼んでおりました――が孵化して以来、鶏小屋を五度焼かれ、井戸を三度詰まらせられ、屋根を二軒潰されております。夜通し鳴き騒がれて眠れぬ日々が続き、村の者は皆、内心では誰かがこの子を連れ去ってくれることを望んでおりました。つきましては、貴殿らが引き続きあの子の面倒を見てくださるのであれば、村としては謝礼として金貨三十枚をお支払いする用意がございます。灰麦村長 ネストル」

俺は手紙を二度、三度と読み返した。何かの間違いではないかと、行間に別の意味でも隠れていないかと目を凝らしたが、書いてあることは変わらなかった。ドスが横から覗き込み、同じ箇所を読んで、間の抜けた声を上げた。

「……向こうが、金を、払うって?」

「……そう、書いてある」

俺たちが誘拐したはずの、村の「宝物」。てっきり長老が大慌てで金貨を用意すると信じ込んでいた相手が、まさかその竜を厄介払いできて清々している、というのだ。思い返せば、あの晩、幼竜を連れ去った時に見張りの一人もいなかったことも、村人たちがどこか他人事のような顔をしていたという噂も、すべて辻褄が合う。俺たちは、誰も欲しがらない子竜を、わざわざ苦労してさらってきていたのだった。

「馬鹿な。俺たちはこの数日、寝る暇もなく、家財道具を焼かれ、井戸まで焦がされて――」

「それを、村はとっくに経験済みだったってことだ」

俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。ふと目をやると、緋丸がきょとんとした顔で、俺とドスの間で交互に視線を往復させている。人間たちの深刻な顔つきの理由など、まるでわかっていない様子だった。その屈託のなさが、かえって俺たちの間抜けさを際立たせた。

「もう一度、掛け合ってみるか。金貨二百枚は無理でも、せめて百枚くらいは」

俺は最後の意地でそう言ってみたが、口にしながら、自分でもその言葉に力がないのがわかった。ドスは黙って首を振った。

「よせ、ジェド。俺たちがここでこれ以上粘ったところで、村は痛くも痒くもないさ。むしろ、こっちが根負けするだけだ」

「どうする、ジェド」

ドスの声には、もう最初のような欲も気負いもなかった。ただ、ひどく疲れた男の声だけがあった。俺は焦げ跡だらけの岩屋を見回し、割れた壺の欠片を踏みしめ、そして俺の足元にすり寄ってくる緋丸の温かい鱗に触れた。指先に伝わるその熱は、この数日で、もう恐ろしいものではなくなっていた。

「……正直、もう限界だ。金貨二百枚もらったところで、こいつと暮らし続けたら、その前に俺たちの命の方が持たん」

「だよな。俺もそう思ってた」

俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。それは悔しさよりも、むしろ何か憑き物が落ちたような、軽い笑いだった。

五 竜を届けて

翌朝、俺たちは緋丸を連れて灰麦村へと下りていった。誘拐した時とは逆に、今度は隠れる必要もなく、堂々と村の門をくぐった。村人たちは遠巻きに俺たちを見ていたが、その顔にあったのは恐れではなく、むしろ同情に近い色だった。すでに緋丸の悪名は、村中に轟いていたらしい。畑仕事の手を止めた老婆が、俺たちとすれ違いざま、労うように小さく頭を下げてきたほどだった。

村長ネストルは、思っていたより小柄な、穏やかな顔つきの老人だった。俺たちを出迎えると、まず深々と頭を下げた。

「よくぞ、これまでお世話くださいました。正直、あの子が孵ってからというもの、村中がずいぶんと振り回されておりましてな」

「こちらこそ、正直に申し上げれば……こちらが振り回された側です」

俺が焦げた袖口を見せながら答えると、ネストルは声を上げて笑った。

「なるほど、それはお互い様というものですな。しかし、こうして無事に育てて戻していただいたこと、村としては感謝しかありません。おふた方がいらっしゃらなければ、あの子は今頃どこの畑を焼いていたことか」

約束通り、金貨三十枚の入った袋が差し出された。数日前の俺なら、その重みに小躍りしていただろう。だが今、袋を受け取る手はどこか鈍く、素直に喜べない自分がいた。

別れ際、緋丸は俺の足に体を擦りつけ、名残惜しそうに喉を鳴らした。俺はしゃがみ込んで、その額を軽く撫でてやった。

「もう、火加減には気をつけろよ。誰彼構わず甘噛みするのもやめておけ」

まるで言葉がわかったかのように、緋丸は小さく鼻を鳴らした。ネストルが横で目を細めながら、緋丸の背を優しく撫でる。

「大丈夫でしょう。あなた方が数日で仕込んでくださったおかげか、この子は前よりずいぶんと大人しく――」

そう言いかけた矢先、緋丸は嬉しさのあまり尻尾を大きく振り、傍らに積んであった薪の山を勢いよく崩した。崩れた薪が音を立てて転がり、驚いた鶏たちが一斉に鳴き騒ぐ。ネストルは苦笑いを浮かべ、途中まで出かかった言葉を、静かに呑み込んだ。

俺とドスは顔を見合わせ、今度は声を出して笑った。大人しくなるどころではない。あの竜は、これから先もずっと、あの調子で村中を振り回し続けるのだろう。そう思うと、なぜだか胸のどこかが軽くなるような気がした。

金貨三十枚を懐に、俺たちは灰麦山への道を戻った。焼け焦げた岩屋を、少しはましな宿でも借りられる金で建て直すか、それとも思い切って堅気の仕事でも探すか。道々、そんな話をしながら歩くドスの声は、これまでどの計画を語る時よりも、ずっと明るかった。

「なあ、ジェド。俺たち、案外このまま真っ当な仕事に就いた方がいいのかもな」

「馬でも売るか。今度は盗んだやつじゃなく、ちゃんと自分の金で買った馬をな」

冗談交じりにそう答えながら、俺は自分でも、その未来が案外悪くないもののように思えてくるのを感じていた。振り返ると、村の入り口で、緋丸がこちらに向かって小さな火を一つ、ぽっと吐き上げるのが見えた。まるで別れの挨拶のつもりらしい。俺たちは顔を見合わせ、また笑った。あの赤い悪童は、きっとこの先も誰の言うことも聞かず、大人しくなることなど一度もないまま、灰麦村の空を焦がし続けるのだろう。それでいい、と俺は思った。少なくとも、俺たちの懐には、久しぶりに温かい金貨の重みがあったのだから。

あとがき

オー・ヘンリーの『赤い酋長の身代金』は、資産家の一人息子を誘拐した二人組の小悪党が、手に負えない悪童に振り回され尽くした挙句、身代金を要求するどころか、逆に「引き取ってくれるなら金を払う」と申し出る羽目になる、因果応報の滑稽譚である。本作では、誘拐される「少年」を、火加減も飛び方もわからない「幼竜」に置き換え、誘拐の動機と展開そのものは原作の骨格――金に困った小悪党二人組、あっけない誘拐の成功、その後の想像を絶する苦労、そして立場が逆転する手紙の返答――を保ちながら、山賊と幼竜という独自の書き下ろしとして再構成した。

原作最大の眼目である「誘拐した側が疲弊し、最終的に金を払う側に回る」という逆転の構図は、本作でも中核に据えている。一方で、原作の少年が悪意を持って大人をやり込める快活さを軸にしているのに対し、本作では幼竜が悪意なく、ただ火加減も加減も知らないがゆえに周囲を巻き込んでいく無垢さを軸に据え、山賊たちとの間に芽生えるほのかな情も独自に加えた。灰麦山・灰麦村という地名、登場人物の名や台詞、細部の出来事はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はオー・ヘンリー(O. Henry)著『The Ransom of Red Chief(赤い酋長の身代金)』を参考にした翻案作品です。

本作はオー・ヘンリー(O. Henry / 本名: ウィリアム・シドニー・ポーター)の『The Ransom of Red Chief(赤い酋長の身代金)』を参考にした作品です。原典