竜は謝礼に売られなかった
森辺の集落で祖母と暮らす少女モイラは、銀の鱗を持つ幻の竜を探す旅の採集家と出会う。謝礼と淡い憧れに揺れながら、夜明けの巨木の上でただ一度竜と目を合わせた少女が選んだのは、沈黙だった。
一 パインコーヴの朝
モイラがパインコーヴの森はずれに越してきたのは、去年の春のことだった。それまで暮らしていた谷向こうの紡績町では、朝から晩まで機械の唸る音が絶えず、狭い裏路地には煤けた煙が低く垂れ込めていた。窓を開けても見えるのは隣の建物の煉瓦壁ばかりで、空を仰ぐには、首を痛くなるほど反らさねばならなかった。母を早くに亡くし、父も工場の事故で片腕を痛めてから、モイラの暮らしはますます狭苦しいものになっていった。だから、見も知らぬ祖母のもとへやられると聞かされたときも、モイラは寂しさよりも先に、ぼんやりとした解放感を覚えたのを、今でもよく覚えている。
祖母のティリーが迎えに来てくれた日、二人は乗合馬車を乗り継ぎ、日が傾く頃にようやくパインコーヴにたどり着いた。馬車を降りたモイラが最初に目にしたのは、地平線いっぱいに広がる、途方もなく高い松の梢だった。空はどこまでも青く、遠くから潮の匂いを含んだ風が吹き渡ってくる。モイラは思わず足を止め、いつまでもその眺めに見入っていた。それは九歳の少女にとって、見知らぬ国の言葉のように新しく、そしてすぐに、体の芯になじむ確かなものになった。
祖母と二人で住む家は、森の際にぽつりと建つ小さな丸太小屋だった。裏には粗末な牛小屋があり、そこには一頭の牝牛デイジーが繋がれている。モイラの一日の仕事は、朝に牛を放牧地へ連れ出し、夕暮れにまた家へ連れ戻すことだった。デイジーは気まぐれな牛で、日によっては森の奥深くまで気ままに歩いていってしまう。そのたびにモイラは、丈の高い羊歯をかき分け、湿った倒木を跨ぎ、追いかけていかねばならなかった。素足の裏に触れる苔の冷たさや、木漏れ日が頬をかすめる感触を、モイラはいつしか一日のうちで最も好きな時間として数えるようになっていた。町にいた頃には、こんなふうに一人で自由に歩き回れる場所など、どこにもなかったからだ。
けれどモイラはその仕事を厭うどころか、誰よりも待ち望んでいた。森の奥へ踏み込むたび、自分だけが知っている道が少しずつ増えていくのが、たまらなく嬉しかった。苔むした岩の裏に隠れた小さな泉、風に倒れた古木の根元にできた洞、野いちごの群生する陽だまり――それらは誰かに教えられたものではなく、モイラ自身の足で見つけ出した、彼女だけの秘密の地図だった。祖母は多くを語らない人だったが、時折モイラが夕食の席でその日見つけたものを話すと、静かに微笑みながら耳を傾けてくれた。それだけで、モイラは十分に満たされていた。
この森には、古くから語り継がれる噂があった。ごくまれに、夕暮れの梢の上を、銀色に光る小さな竜が飛び過ぎるのを見た者がいる、というのだ。人の背丈にも満たない小柄な竜で、鱗は磨いた銀貨のように白く輝き、羽ばたきの音さえほとんど立てないという。祖母のティリーは「あれは滅多なことでは姿を見せない、森の奥にだけ棲む内気な竜だよ」と、炉端で繰り返し語って聞かせた。誰かに捕まったという話も、誰かに害をなしたという話も、この集落には一つも伝わっていない。ただ時折、木々の隙間を銀の光がすっと過ぎるのを見たという者がいるだけで、それきり誰もその竜の棲み処を知らなかった。年寄りたちの間では、その竜を追いかけようとする者には森が道を隠すのだ、という言い伝えさえあった。
モイラは、その話を聞くたびに胸の奥がざわめくのを感じた。紡績町にいた頃には、噂話といえば給金の遅配や工場主の機嫌の話ばかりだった。それに比べて、この森の言い伝えはどこまでも静かで、どこか神々しくさえあった。デイジーを追って森を歩きながら、モイラは梢の隙間に目を凝らす癖がついていた。銀の煌めきなど、まだ一度も見たことはなかったけれど、いつかきっと自分の目で確かめてみたいと、心の奥でひそかに願っていた。時には木の根元に座り込み、竜がどんな声で鳴くのだろう、どんな眼をしているのだろうと、あてもなく思い巡らせることもあった。
集落の子供たちの中には、モイラを森育ちの変わり者と呼んで距離を置く者もいた。学校のある日、モイラが朝露で濡れた裾のまま教室に入ると、女の子たちがくすくすと笑いを交わすこともあった。けれどモイラは、彼女たちが放課後に連れ立って向かう浜辺の遊びよりも、たった一人で森の奥へ分け入っていく時間の方が、はるかに満たされていることを知っていた。誰にも急かされず、誰にも笑われることもなく、ただ自分の呼吸と、木々のざわめきだけに耳を澄ませていられる。それだけで、モイラの胸のうちは十分に賑やかだった。
その晩も、モイラはデイジーを追って、いつもより遠くまで足を延ばしていた。夕闇が松の幹の間に青く沈み始め、湿った空気に混じって、どこか遠くで低く、笛のような音が響いた気がした。モイラは足を止め、しばらく耳を澄ませたが、その音はすぐに風の音にまぎれて消えてしまった。何かの前触れのような、説明のつかない胸騒ぎだけが、しばらく胸の底に残った。空にはまだ夕焼けの名残がにじんでおり、その赤とも金ともつかない光の中を、モイラはデイジーの尻を軽く叩きながら家路をたどった。振り返ると、暮れなずむ森の輪郭が、まるで大きな生き物の背のように、ゆっくりと呼吸しているように見えた。
二 旅人の頼みごと
デイジーの姿は、林の奥のくぼ地でようやく見つかった。手綱代わりの縄を引きながら家路をたどり始めたとき、行く手の茂みから、疲れた足取りの若い男が姿を現した。旅装は埃をかぶり、背には大きな革の背嚢を負っている。男はモイラの姿にほっとしたように表情を緩めた。
「すまないが、道に迷ってしまってね。この森の外れに宿はあるだろうか」
モイラは見知らぬ大人と口をきくのに慣れておらず、しばらく答えられずにいた。男の声は思いのほか柔らかく、疲れの滲んだ笑みにはどこか人懐こい響きがあった。デイジーが不安げに身じろぎしたので、モイラはその背をそっと撫でてから、小さく頷いて祖母の家までの道を示した。二人は無言のまま、暮れなずむ森の道を並んで歩いた。男は時折、頭上を仰いでは、何かを探すように梢の間に目を凝らしていた。
ティリーは見慣れぬ旅人を見ても驚く様子もなく、当然のことのように囲炉裏端に席を勧め、余りものの豆と塩漬け肉で夕食をこしらえた。この森の作法では、日暮れに行き会った旅人を追い返すことはしない。男はジョナス・ドレイクと名乗り、遠い港町から出て、珍しい生き物の標本を集めて回っているのだと語った。
「都会の紳士方は、見たこともない生き物の剥製を書斎に飾りたがるものでね。私はその手配をして回っているのですよ」
ジョナスはそう言うと、背嚢から丁寧に布に包んだ小さな標本箱を取り出し、羽の色鮮やかな鳥や、見たこともない甲虫の標本を見せて聞かせた。モイラは瞬きも忘れてそれらに見入った。硝子越しに並ぶ翅の一枚一枚が、ランタンの灯りを受けて虹色に光っている。彼の語る町の様子――石畳の広場や、ガラス張りの店先、汽笛を鳴らして走る汽車――は、モイラがかつて暮らした紡績町よりもさらに遠く、さらに眩しいものに思えた。「いつかその町を、この目で見てみたいものです」とモイラが呟くと、ジョナスは目を細めて「なら、いつか案内してあげよう」と笑った。その一言だけで、モイラの胸は温かく高鳴った。
食事が終わる頃、ジョナスはふと声を落として切り出した。
「実はこの森に、めったに人目に触れない銀色の竜がいるという噂を聞いてね。もし本当にいるのなら、それこそ私の探し求めていたものだ。一頭でも仕留めることができれば、剥製と鱗だけで一財産になる。この一帯を三日も歩き回っているのだが、手がかり一つ見つけられずにいるのですよ」
その言葉に、ティリーの目がわずかに光ったのをモイラは見逃さなかった。冬を越すための蓄えは心もとなく、雨の日に水滴の落ちる屋根板の傷みも、もう何年も直せずにいる。ジョナスは、もし棲み処への手がかりを教えてくれれば、相応の謝礼を払うと約束した。懐から取り出した革袋の口を緩めると、中から幾枚もの金貨が現れ、囲炉裏の火影の中で鈍く輝いた。
「これだけあれば、屋根の修理どころか、冬の間の食い扶持にも困らないでしょう」
モイラは黙ってそれを見つめながら、初めて出会ったこの若い男への漠とした憧れと、目の前の金貨がもたらすだろう暮らしの変化とを、同時に思い描いていた。祖母の節くれ立った指先が、無意識のように膝の上でそっと握りしめられるのを、モイラは横目で見ていた。その夜、寝床に入ってからも、モイラは金貨の輝きと、遠い町の話と、そしていつか見てみたいと願っていた銀色の竜の姿とが、順序もなく胸の内を巡り続けるのを感じていた。
三 森を歩く日々
翌朝からモイラは、ジョナスの森歩きに付き添うようになった。朝露の残る道を歩きながら、彼は町の話や、これまで訪れた遠い土地の景色を語って聞かせた。海を渡る大きな船のこと、夜でも灯りの絶えない大通りのこと、見世物小屋に並ぶ珍しい獣たちのこと。モイラはその言葉の一つひとつを、大切な貝殻でも拾い集めるように胸にしまい込んだ。誰かにこんなふうに、自分だけを相手に語りかけてもらったことは、これまで一度もなかったからだ。ジョナスはまた、モイラが指し示す木の名前や鳥の声の聞き分け方に、驚いたように感心してみせることもあった。「君は私よりも、よほどこの森のことをよく知っているようだ」と言われるたび、モイラの頬はほんのりと熱くなった。
けれど森を歩くうちに、モイラの胸にはもう一つの感情が芽生え始めていた。ジョナスの背嚢の中には、標本箱のほかに、頑丈な網と折り畳み式の檻、それに鋭利な小刀が一式収められている。ある夕方、彼が檻の骨組みを手入れしている様子をふと目にしたとき、モイラは初めて、竜を「見つける」ことの本当の意味を悟った。噂の中の竜は、誰の記憶の中でも常に遠く、傷つけられることのない存在だった。だがジョナスが求めているのは、その竜を生け捕るか、さもなくば射止めて剥製にすることだった。錆一つない小刀の刃が夕日を弾くのを見て、モイラは思わず目を逸らした。
「怖がらせるつもりはないんだ」ジョナスはモイラの表情の翳りに気づいたように言った。「ただ、こういう仕事でしか私は生計を立てられない。それに、こんな珍しい生き物を町の人々に見せてやることは、決して悪いことばかりではないだろう。誰も見たことのないものを、多くの人の目に触れさせる。それもまた、一つの意義のある仕事だと私は思っている」
モイラは頷きながらも、うまく言葉を返せなかった。彼の言い分にも一理あるように思えたし、何より、彼に失望されたくないという気持ちが強くあった。二人は幾日も森の奥を歩き回ったが、竜の姿はおろか、確かな痕跡すら見つからなかった。ただ一度、湿った岩場に小さな三本指の足跡らしきものを見つけたとき、ジョナスは声をあげて喜び、モイラの肩を軽く叩いた。「さすがだ、君のおかげでずいぶん近づいた気がするよ」その温かい手の感触と褒め言葉に、モイラの心はいっそう揺れ動いた。
日が暮れて宿に戻るたび、ジョナスは疲れた様子も見せず、地図を広げてはその日歩いた道筋を丹念に書き記していった。モイラはその横顔を眺めながら、彼がどれほど遠くから、どれほどの執念を持ってこの森までやってきたのかを、あらためて思い知らされた。同時に、彼の地図の上に描かれる線が、少しずつ竜の棲み処へと迫っていくようにも見えて、モイラの胸には言いようのない焦燥がくすぶり始めていた。見つけてほしいという気持ちと、見つけさせたくないという気持ちが、日を追うごとに拮抗していった。
六日目の朝、ジョナスはついに滞在を切り上げる素振りを見せ始めた。朝食の席で、彼は地図を丸めながら、ぽつりと呟いた。
「明日にはこの森を発たねばならない。もう他に頼れる手がかりもなさそうだ。残念だが、諦めるほかなさそうだね」
その言葉を聞いた瞬間、モイラの胸は千々に乱れた。彼が去ってしまえば、もう二度と、あの遠い町の話も、あの温かい笑みも、自分に向けられることはないのだろう。かといって、竜の居場所を教えることには、どうしても踏み切れずにいた。相反する二つの思いに引き裂かれるようにして、モイラはその日一日、ろくに言葉も発せずに過ごした。
その夜、寝床に入ってからも、モイラはなかなか寝つけなかった。森の奥には、かつて祖母と一緒に眺めた一本の巨大な松の木がある。集落の誰よりも高く、その梢に登れば森全体を見渡せると言われている老木だった。もしあの木のてっぺんまで登ることができれば、竜の棲み処のありかを、自分の目で確かめられるかもしれない。モイラの胸には、謝礼への未練と、ジョナスに喜んでほしいという願いと、そしてそれ以上に、竜そのものをこの目で見てみたいという、抑えがたい好奇心とが渦を巻いていた。窓の外では、風が松の梢を揺らす音が、まるで誰かの寝息のように低く続いていた。モイラは幾度も寝返りを打ちながら、自分でもまだ、確かめた後にどうするつもりなのかを決めかねていた。ただ、この目で見てみたいという気持ちだけが、他のどんな思いよりも強く胸を占めていた。
四 暁、大樹の頂で
まだ星の残る暗いうちに、モイラはそっと寝床を抜け出した。誰にも告げず、素足のまま森へと踏み入る。夜明け前の森は昼間とはまるで違う顔をしていて、木々の輪郭はただの黒い塊のようにしか見えなかったが、モイラの足はもう迷うことなく、あの巨木のもとへとたどり着いていた。冷たい夜気が肌を刺し、湿った下草が足首にまとわりついたが、モイラは一度も歩みを緩めなかった。
見上げると、木の幹は途方もなく太く、下枝までの高さも並みではない。だがモイラは、隣に寄り添うように立つ細い松を足がかりにして、まずそちらへよじ登った。細い幹はしなり、モイラの重みで大きく揺れたが、それでも彼女は歯を食いしばって登り続けた。掌に走る木の皮の粗さと、胸の高さで波打つ心臓の音とが、次第に一つに重なっていくのをモイラは感じていた。やがて枝と枝が触れ合うあたりまで達すると、モイラは息を止めて体を投げ出し、隣の巨木の太い枝へと飛び移った。樹皮は固く、指先に食い込むほど粗い。掌はすぐに擦り傷だらけになり、腕は震え始めたが、モイラは一度も下を見なかった。
登るにつれて、松脂の匂いが濃くなり、風が肌を刺すように冷たくなっていく。途中、太い枝が思いのほか脆く、足を乗せた瞬間にみしりと軋んだことがあった。モイラは心臓が凍りつくのを感じながら、とっさに隣の太い枝へ体を投げ出し、事なきを得た。手のひらには血がにじみ、腕は鉛のように重くなっていたが、ここで引き返せば、これまでの苦労がすべて無駄になる。その一念だけが、少女の体を支えていた。時折、枝を握りしめる手が滑りかけ、そのたびにモイラは息を詰めて幹に体を押しつけた。恐怖よりも、あと少しで頂に届くという確信の方が、少女の背中を押し続けていた。梢の隙間から、東の空がわずかに白み始めているのが見えた。モイラは最後の力を振り絞り、ようやく木のてっぺん近くまでたどり着くと、太い枝の股に体を預けて、大きく息をついた。全身が汗ばみ、風にさらされた肌がひりひりと痛んだが、それすらも今のモイラには心地よかった。
そこから見える景色は、これまでモイラが知っていた世界とはまるで違っていた。眼下には森の梢が波のように連なり、その向こうに、朝靄の中でかすかに輝く海の帯が見えた。さらに遠くには、青灰色の稜線がいくつも折り重なっている。紡績町の煙突も、狭い裏路地も、ここからは見えない。ただ広々とした世界だけが、静かに夜明けを待っていた。太陽がまだ姿を見せない空は、藍色から淡い橙へと、刻一刻とその色合いを変えていく。モイラはこれほど大きな景色を、生まれて初めて目にした。
不意に、下方の谷間から、低く澄んだ音が響いた。モイラが息をひそめて目を凝らすと、深い谷底の岩陰から、銀色の光がすっと立ち上がるのが見えた。翼を大きく広げたその竜は、朝日を浴びてまばゆく輝きながら、ゆっくりと弧を描いて舞い上がった。人の背丈ほどの小さな体に不釣り合いなほど優雅な羽ばたきだった。羽の一枚一枚が、光を弾くたびに白銀から淡い金色へと色を変え、まるで空そのものが呼吸しているかのようだった。竜はモイラのいる巨木のすぐそばまで近づき、一瞬、宙に静止するようにしてこちらを見た。
その目は、恐れているようでも、威嚇しているようでもなかった。ただ静かに、モイラを見つめ返していた。モイラもまた、身じろぎ一つせず、その眼差しを受け止めた。言葉を交わすことのできない二つの生き物の間に、確かに何かが通ったのを、モイラは感じた。それは友情とも呼べず、庇護とも呼べない、ただ互いの存在を認め合うだけの、一瞬の静かな交感だった。竜はやがてゆるやかに向きを変え、朝靄の彼方へと飛び去っていった。その姿が完全に見えなくなるまで、モイラはずっと目で追い続けていた。太陽が稜線から顔を出し、森全体が金色に染まっていくのを、モイラは木の股に座ったまま、いつまでも眺めていた。
五 沈黙のあとに
日が高く昇った頃、モイラは擦り傷だらけの手足を抱えるようにして家に戻った。祖母は驚いて駆け寄ったが、モイラはただ「大丈夫」とだけ答えた。戸口の外では、ジョナスが落ち着かない様子で待っていた。彼はモイラの姿を見るなり、期待に満ちた笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「どこへ行っていたんだ。ずいぶん探したんだよ。――もしや」
ジョナスの視線が、モイラの擦り傷だらけの手と、興奮の名残がまだ抜けきらない頬に注がれた。彼の手には、約束の金貨がすでに用意されていた。
「どうだった。何か見つけられたかい」
その重みのある輝きを見た瞬間、モイラの胸は激しく波打った。教えてしまえば、祖母は屋根板を直せるだろう。ジョナスはきっと喜び、モイラのことをいつまでも覚えていてくれるだろう。喉元まで、谷の場所を告げる言葉がせり上がってきた。あの朝の光景を、彼にも見せてやりたいという気持ちすら、一瞬だけ胸をよぎった。
けれどモイラの脳裏には、夜明けの空に静止して自分を見つめ返した、あの銀色の眼差しが浮かんでいた。あの一瞬の静けさを、金貨の音で汚してしまうことなど、モイラにはどうしてもできなかった。竜は誰かを傷つけたことも、誰かに何かを求めたこともない。ただそこに在り、朝の光の中で羽ばたいていただけだった。それを、標本箱の中に閉じ込めてしまうことを、モイラは想像しただけで胸が締めつけられた。彼を失望させるかもしれないという恐れよりも、あの竜の眼差しを裏切ることの方が、はるかに耐えがたく思えた。
「何も、見つけられませんでした」
モイラは静かにそう答えた。声はかすかに震えていたが、その目はまっすぐにジョナスを見返していた。ジョナスはしばらくモイラの顔を見つめていたが、やがて小さくため息をつき、それ以上は何も問わなかった。彼はその日のうちに荷をまとめ、丁重に礼を述べて集落を後にした。門口でモイラに向かって片手を上げ、「もし気が変わったら、いつでも港町を訪ねてくるといい」とだけ言い残して、彼は森の道を去っていった。その背中が木々の向こうに消えるまで、モイラは戸口に立ったまま見送っていた。
祖母は謝礼を逃したことを惜しむようなことは一言も口にせず、ただ黙って擦り傷の手当てをしてくれただけだった。手当てが終わると、ティリーはモイラの頭をそっと撫でて、「お前がそう決めたのなら、それでいい」とだけ言った。その一言に、モイラはようやく、張り詰めていた何かがほどけていくのを感じた。
それから幾つもの季節が巡った。モイラは相変わらずデイジーを追って森を歩き、梢の隙間に目を凝らす日々を送っている。学校の女の子たちは相変わらずモイラを森育ちの変わり者と呼んだが、モイラはもう、それを気に留めることさえなくなっていた。誰にも打ち明けられない秘密を胸の奥に抱えていることが、かえって彼女の背筋を静かに伸ばしてくれるように感じられたからだ。ジョナスの語った町の話を、ふと懐かしく思い出すこともあったが、後悔だけが胸に残ることは一度もなかった。
祖母のティリーは、あの晩以来、竜の話をすることも、ジョナスの名を口にすることもなかった。ただ、冬支度の折に屋根板の傷みをぼやくとき、その声にはどこか穏やかな諦めが滲んでいて、モイラはそのたびに、自分の選んだ沈黙の重みを、あらためて噛みしめるのだった。それでも祖母は、モイラを責める言葉を一度もかけなかった。
時折、夕暮れの空をふと見上げると、遠い梢の向こうを銀色の光がすっとよぎることがある。誰にもその意味を語らないまま、モイラはただ静かにその光を見送るのだった。あの夜明けに交わした一瞬の眼差しだけが、これからもずっと、モイラだけの胸の内にしまわれたままだろう。竜は、誰の懐にも、誰の言葉にも、ついに売られることはなかった。