物語雳
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·読了目安 13分主役

竜は詩を綴れなかった

詩業への誇りゆえに官を辞した俊才は、屈辱に耐えかね山へ逃げ込み、竜となって姿を変えた。旧友との一夜の再会が、憧れた偉大さの代償と、己を喰った誇りの正体を暴き出す。中島敦『山月記』を翻案した変身の悲劇。

一 星を統べる誇り

楼(ろう)の都に、高柳蒼一郎(たかやなぎそういちろう)という若者があった。二十歳を待たずして官吏登用の試に主席で通り、都の誰もが「あれほどの俊才は久しく見ぬ」と口を揃えた。蒼一郎の文机には、常に書きかけの詩箋が積まれていた。役所の勤めを終えて屋敷に戻ると、灯りを落とすのも忘れ、明け方近くまで筆を走らせていることも珍しくなかった。だが蒼一郎自身は、己の値打ちを役所の文書仕事などに置いてはいなかった。彼が真に望んでいたのは、詩によって名を残すこと、それだけだった。

「役人の位など、詩人が身過ぎ世過ぎのために纏う衣に過ぎぬ」

蒼一郎は妻の冬乃(ふゆの)にそう言って笑うことがあった。冬乃は幼い娘の手を引きながら、夫のその笑い方――胸を反らし、視線をわずかに宙へ逃がす、あの誇らしげな癖――を、好ましくも、どこか危ういものとして見ていた。蒼一郎の詩は、なるほど巧みだった。韻律は乱れず、語彙は華麗で、若くしてこれだけの技量を持つ者は都広しといえど数えるほどしかいない。しかしその巧みさの底に、何か人の胸を掴んで離さない生々しいものが宿っているかといえば、冬乃には正直、よくわからなかった。わからぬなりに、彼女は夫の才を信じることにしていた。信じることが、妻としてできる唯一のことのように思えたからだ。

「あなたの詩は、いつか都じゅうの誰もが諳んじるようになりますよ」

冬乃がそう言うと、蒼一郎は満足げに頷きながらも、どこか物足りなさそうな顔をした。都じゅうの誰もが、では足りない。後の世の幾百年もの間、己の名だけが燦然と語り継がれる――蒼一郎の望みは、そこまで途方もないものだった。

蒼一郎の屋敷には、若い書生たちが折に触れて出入りしていた。彼らは蒼一郎の詩を写し取り、諳んじ、時には師と仰いで教えを乞うた。蒼一郎はそのたびに満足げに頷き、己の詩論を滔々と語って聞かせた。だが、書生たちが自分の言葉に感じ入るほどに、蒼一郎の胸の内では、別の声が囁くこともあった。この者たちが讃えているのは、俺の詩か、それとも俺の位か――その問いを、蒼一郎は自ら封じ込め、深く考えることを避けていた。

その年の秋、都では奇妙な噂が語られていた。都の北に連なる天巌嶺(てんがんれい)という山嶺に、己を恃むあまり人であることを厭うた者を、天へ引き上げて竜に変えてしまう神威が棲むという。年老いた祐筆(ゆうひつ)が、宴の席でその話をした。「昔、ある文人が、己の詩才を天下無双と信じて疑わず、他人の評をことごとく撥ねつけたそうな。ある夜、山に迷い込んだきり戻らず、それきり誰も姿を見た者はない。ただ、嵐の晩には、天巌嶺の空に金色の竜影が渡るのを見た者があるという」

居合わせた若い官吏たちは一様に笑い飛ばした。

「誇りだけで竜になれるなら、この役所は竜だらけだ」

誰かがそう混ぜ返し、酒宴はどっと沸いた。蒼一郎もその輪の中で笑っていたが、笑いながら、胸の奥にちりりと小さな熱が走るのを感じていた。もし本当に、誇りの深さで竜になれるというのなら――自分こそがまっさきに天へ召されるべき人間ではないか。そんな不遜な考えが、酔いの底からふと顔を覗かせ、蒼一郎は自分でもその考えに戸惑い、慌てて杯を干して忘れようとした。窓の外では、既に色づき始めた庭木の梢が、宵闇の中で風に揺れていた。

冬が来る前に、蒼一郎は官を辞した。詩業に専念する、というのが表向きの理由だったが、本当のところは、日々の勤めの中で同輩たちに交じり、その凡庸さに己を合わせていくことに耐えられなくなっていたのだった。彼らの中にいれば、自分もいずれ彼らと同じ顔になる。そう思うと蒼一郎は夜も眠れなくなった。辞表を出した日、蒼一郎は久方ぶりに晴れやかな顔をしていた。冬乃は何も言わずに、荷物をまとめる夫の背を見つめていた。娘はまだ、父が何を選び取ろうとしているのか、知る由もなかった。

二 越えられなかった一線

都を離れ、山里に居を移してからの数年は、蒼一郎にとって最も充実した日々であるはずだった。朝は近くの渓流のほとりを歩きながら着想を練り、昼は詩箋に向かい、夜はそれを何度も推敲する。誰にも邪魔されず詩とだけ向き合える暮らしを、蒼一郎は望み通りに手に入れたはずだった。だが実際には、書いても書いても、詩は都の文人たちの目に留まらなかった。蒼一郎は自分の詩集を幾つかの書肆に持ち込んだが、色よい返事はついぞ得られなかった。「巧みではあるが、これといった心に響くものがない」――ある老いた書肆の主人がそう漏らした一言を、蒼一郎は聞かなかったことにして席を立った。

蓄えは底をつき、冬乃の機織りの内職と、幼い娘の着物を売った銭とで、どうにか糊口をしのぐ有様になっていった。夜、粥だけの膳を前にした娘が「お腹がすいた」と小さく呟くのを聞くたび、蒼一郎の胸には言いようのない後ろめたさが差し込んだが、その後ろめたさすら、彼は詩業への糧に変えようとするような、奇妙な意地を張り続けていた。

「あなた、少しの間だけでも、都で口を糊する道を探してはいただけませんか」

冬乃がそう切り出したのは、娘が続けて二晩も高い熱を出した後のことだった。薬代にも事欠く暮らしを、それでも冬乃は夫を責める調子ではなく、静かに、努めて穏やかに告げた。蒼一郎は長い沈黙の後、詩箋を握りしめたまま、絞り出すように「わかった」とだけ答えた。その一言を口にした瞬間、蒼一郎の中で何かが音を立てて折れるのを、彼自身、はっきりと感じていた。

そんな折、かつての同期であった沢井久馬(さわいきゅうま)が、監察使という要職に就いたという報せが届いた。久馬は蒼一郎ほどの詩才を持たず、登用の試でもいつも蒼一郎の後塵を拝していた男だった。だが久馬は、地道な実務の一つひとつを疎かにせず、上役の信を篤く得て、着実に位を昇っていった。その久馬が、今や自分よりずっと高い場所にいる――その事実は、蒼一郎の胸に、詩の不出来以上の深い傷を残した。

生活のため、蒼一郎は再び官に戻ることを選ばざるを得なかった。だが戻った先で彼を待っていたのは、よりにもよって久馬の配下として働くという屈辱だった。かつて自分が指導する側だと信じて疑わなかった男の下で、書類を整え、指図を仰ぐ。廊下ですれ違う若い官吏たちが、蒼一郎の背に向けて交わす小さな囁きも、蒼一郎には手に取るように聞こえた。「あの人が、あの高柳殿が」――憐れみとも侮りともつかぬその声を浴びるたび、蒼一郎の自尊心は日ごとに削られていった。

ある晩、久馬は蒼一郎を役所の一室に招き、酒を勧めながら静かに切り出した。灯火のもと、久馬の顔には、旧友を案じる素直な色が浮かんでいた。

「蒼一郎、お前の詩には確かな技量がある。だからこそ言うのだが……一度、都で名のある詩宗のもとに身を寄せ、教えを乞うてみてはどうか。技量の上に、まだ足りぬ何かを、学べるやもしれぬ」

久馬に他意はなかった。むしろ、旧友の才を惜しむ、心からの言葉だった。だが蒼一郎の耳には、それはまるで「お前はまだ半人前だ」という宣告のように響いた。教えを乞う――それは、己より劣ると見なしていた人間たちの前に膝をつくことだと、蒼一郎には思えてならなかった。

「久馬。俺の詩に、他人の手を借りる必要があると、お前は本気で思っているのか」

声が震えていた。久馬が何か言いかけるのを遮るように、蒼一郎は杯を叩きつけて席を立った。器の割れる音が、静まり返った一室に鋭く響いた。

「俺は、俺だけの力で名を残す。誰の弟子にもならぬ」

その夜のうちに、蒼一郎は屋敷を飛び出し、行く当てもないまま夜道を歩き続けた。冷たい夜風が頬を打ち、樹々の梢が獣のようにざわめいていた。歩けば歩くほど、胸の中では羞恥と、それを覆い隠すための怒りとが渦を巻き、蒼一郎はほとんど何も考えられぬまま、闇の奥へ奥へと分け入っていった。気づけば足は都の北、天巌嶺へと続く山径を辿っていた。

やがて力尽き、蒼一郎は苔むした岩の傍らに崩れ落ちるように座り込んだ。荒い息の下で、己の喉から、これまで聞いたことのない低い唸り声が漏れているのに気づいたのは、そのときだった。両の掌を見れば、月明かりの下で、指のあわいに薄く硬い鱗のようなものが芽吹き始めている。蒼一郎は悲鳴を上げようとしたが、口から出たのは、もはや人の声とは思えぬ、地を這うような咆哮だった。全身を焼け付くような熱が駆け巡り、骨の軋む音とともに、背が、腕が、見る間にその形を変えていく。恐怖に見開いた目に映る己の影は、もはや人のものではなかった。

三 山径にて

それから一年が過ぎた。沢井久馬は監察使として、天巌嶺を越える官道の視察に赴いていた。夜明け前に発ち、まだ薄暗い山径を、供の者数名を連れて進む。霧が谷を這い、木々の隙間から漏れる白い光が、道をおぼろに浮かび上がらせていた。馬の蹄の音と、供の者たちの小声の会話だけが、静まり返った山中に響いていた。

不意に、道の脇の茂みが大きく揺れた。供の者たちが色めき立ち、腰の剣に手をかける。茂みの奥に、金色にも見える巨きな影が蟠っているのが見えた。誰かが「竜だ」と叫び、一同は色を失って後退る。馬たちも脚を止め、激しく鼻を鳴らした。

だが、その巨影は襲いかかってくることなく、ただ低く唸り続けていた。そして、その唸りの隙間から、途切れ途切れに、確かに人の言葉が漏れ聞こえてきたのだった。

「……久馬……そこにいるのは……久馬か」

供の者たちは耳を疑ったが、久馬にはその声に聞き覚えがあった。忘れようもない、旧友の声だった。久馬は震える声を抑え、供の者たちを下がらせると、一人で茂みの前に膝をついた。朝露に濡れた下草が、久馬の膝を冷たく湿らせた。

「蒼一郎、なのか」

「近づくな」茂みの奥から、押し殺したような声が返ってきた。「この姿を、これ以上、お前の目に晒したくはない」

久馬は、その場に留まったまま、旧友の話に耳を傾けた。蒼一郎は、あの夜、山中で己の身に何が起きたかを、ぽつりぽつりと語り始めた。獣の唸りと人の言葉とが入り混じる、聞き取るだけでも骨の折れる語りだったが、久馬は一言も聞き漏らすまいと、身を乗り出して耳を澄ませ続けた。

「目覚めれば、この姿だった。最初は夢かと思った。だが川面に映る己の顔を見て、悟った。俺は、竜になったのだと」

蒼一郎の声には、恐怖よりも、むしろ乾いた諦めの色が滲んでいた。人であった頃の記憶は薄れることなく残っている。だが日が高くなるにつれ、次第に獣としての本能が頭をもたげ、気づけば見知らぬ谷でうずくまり、獣の血肉を貪っている己に気づく。そういう朝が、幾度もあったのだという。

「なぜ、俺なのだ」蒼一郎は、久馬にというより、自分自身に問うように呟いた。「山の神威が、誇り高き者を竜に変えるという。だが久馬、俺は本当に、天から罰を受けるほど、誇り高き人間だったのだろうか。それとも、ただの臆病者が、誇りという皮を被っていただけなのか」

答えの出ぬ問いを抱えたまま、夜はしらじらと明け始めていた。久馬は、蒼一郎の姿がはっきりと見えることを恐れて視線を伏せながらも、この一夜の再会を、決して疎かにするまいと心に決めていた。

「蒼一郎、お前の妻子は、都でどうしているか、知っているか」久馬が尋ねると、茂みの奥で、蒼一郎の気配がわずかに強張るのがわかった。

「知らぬ。知る術もない。だが……それを聞くために、お前を呼び止めたのだ」

久馬は、供の者たちが遠巻きに見守る中、旧友の声にだけ神経を集めていた。山鳥の鳴く声が谷にこだまし、朝靄が徐々に薄れていく。竜の巨躯の輪郭が朝の光の中で次第にはっきりとしていくのを見るたび、久馬の胸には、旧友への懐かしさと、その姿への畏れとが、同時にせり上がってきた。かつて役所の廊下ですれ違うたび、皮肉めいた微笑を交わした男が、今、こうして獣の姿で己の半生を語っている。その隔たりの深さに、久馬はめまいにも似た感覚を覚えた。

四 爪の詩、失われる声

「久馬」蒼一郎は、茂みの奥から低く呼びかけた。「頼みがある。俺の生涯の詩業を、書き残してやってはくれまいか」

久馬は驚いて顔を上げた。「詩業を……お前が、書けばよいではないか」

「見ろ、これを」蒼一郎が茂みの端からそっと差し出したのは、鋭い鉤爪の連なる前肢だった。「この爪では、筆の一画すら引けぬ。それに――」蒼一郎の声が、ふいに震えを帯びた。「人の言葉を話せる時が、日を追うごとに短くなっている。今宵、こうしてお前と話せているのも、いつまで続くか、俺自身にもわからぬのだ。頼めるのは、今、この時をおいて他にない」

かつて誰よりも人間離れした偉才を望んでいた男が、いざ人間離れした身と力を得た途端、その手からは筆を、喉からは詩を紡ぐ言葉そのものを失いつつある。その皮肉の重さに、久馬は言葉を失った。だが今は嘆いている暇はない。久馬は懐から矢立と紙を取り出し、蒼一郎が諳んじる詩を、一字一句、書き取り始めた。

蒼一郎は、これまで詩箋にすら記さず胸の裡だけに留めていた数十篇の詩を、次々と語り出した。若き日に都の月を詠んだもの、官を辞した朝の高揚を詠んだもの、山里の困窮の中で書いた望郷の詩。中でも一篇、蒼一郎が特に声を張って諳んじたものがあった。

「――天を摩する誇り高き身、地に伏す凡夫を嗤う。されど誰ぞ知らん、その心の裡、獣にも劣る臆病を宿すことを」

久馬は夜露に濡れながら、その一句一句を丁寧に紙へ移していった。筆先が紙を滑る音だけが、明け方の静けさの中に小さく響いた。すべてを書き終え、久馬は白み始めた空の下で、記した詩篇をひと通り読み返した。読みながら、久馬の胸には、言いようのない当惑が広がっていった。確かに、韻律は乱れなく整い、語彙は華麗だった。だが、そこには何か、決定的に欠けているものがあった。詩を通して立ち上がってくるはずの、生身の人間の痛みや戸惑いや喜び――それが、どの詩にも見当たらない。技巧という磨き抜かれた殻の中に、蒼一郎自身の心が、ついぞ入っていなかったかのようだった。

久馬はその感想を、口にすることができなかった。せめて一言、称える言葉をかけてやりたいと思ったが、口を開きかけては、その言葉が偽りになることを恐れて、幾度も飲み込んだ。だが茂みの奥で、蒼一郎は自ら読み上げられていくその詩を聞きながら、久馬よりも先に、その欠落に気づいてしまっていた。

「……そうか」蒼一郎の声が、掠れて低く沈んだ。「俺は、ずっと、技を磨くことばかりに逃げていたのだな。己の詩才が、まことに人の胸を打つほどのものかどうか――それを世に問い、拙いと嗤われる恐れに、俺は耐えられなかった。だから師にも就かず、誰にも見せず、ひとり殻に籠って、磨くことだけを続けていた」

蒼一郎は、堰を切ったように語り続けた。役人の身分を厭うたのも、久馬の助言を撥ねつけたのも、根は同じところにあったのだと。人より優れていたいという怠惰な誇りと、劣っていると露見することを恐れる臆病な羞恥心。その二つが、蒼一郎という人間の輪郭のすべてを、いつしか食い尽くしていたのだ。天巌嶺の神威は、罰として竜の姿を与えたのではない。ただ、蒼一郎が誰よりも望み、誰よりも恐れていた「人間を超えた何か」に、その身を近づけてやっただけに過ぎなかった。かつて夢見た偉大さの姿を、今、この身をもって手に入れた。だがその代償として、詩人であるための手も、声も、根こそぎ奪われていく。

「久馬。頼みがもう一つある」蒼一郎の声に、獣の唸りが混じり始めていた。「冬乃と娘を、頼む。俺には、もう……」

言葉が、そこで不意に途切れた。人の言葉を紡いでいた喉から、代わりに低い唸りだけが漏れ出す。蒼一郎は懸命に何かを言おうとするように喉を震わせたが、それはもう、久馬の耳に届く言葉の形を成さなかった。

五 天を裂く咆哮

「蒼一郎」久馬は思わず立ち上がり、茂みへ一歩踏み出した。「まだ、行くな。まだ話せることが」

茂みの奥で、巨きな影がゆっくりと身を起こした。朝焼けの淡い光の中に、全身を覆う金色の鱗が、初めてその輪郭のすべてを現した。長い首、天を突くような角、そして人であった頃の面影をどこかに残す、深い色をした双眸。竜となった蒼一郎は、しばらくの間、久馬をじっと見つめていた。それは別れを惜しむ人の目だったのか、あるいはもはや獣となった目だったのか、久馬には判じることができなかった。

久馬は、懐に収めた詩篇の束を握りしめながら、旧友の巨躯を見上げた。かつて役所の廊下で肩を並べて歩いた男が、今、天を突くほどの巨きさで目の前に蟠っている。その隔たりの大きさに、久馬は胸を締めつけられるような思いがした。供の者たちは遠く木陰に控えたまま、誰一人として声を発することができずにいた。朝の光が谷を満たしていくにつれ、竜の鱗はいよいよ鮮やかな金色に照り輝き、その荘厳さは、もはや人が言葉で言い表せる域を超えていた。

やがて竜は、大きく喉を反らし、山々を震わせるほどの咆哮を一声、天へ向けて放った。その声には、もはや人の言葉のかけらもなかった。だが久馬には、その咆哮の奥底に、詩よりもなお雄弁な、何か切実なものが響いているように思えてならなかった。

翼にも似た背の隆起がひらめいたかと思うと、竜の巨躯は地を蹴り、朝霧を切り裂いて天巌嶺の空高くへと舞い上がっていった。久馬は、その姿が雲間に紛れて見えなくなるまで、ただその場に立ち尽くしていた。手には、一晩かけて書き取った詩篇の束だけが残されていた。

都へ戻った久馬は、誰にも山中での出来事を語らなかった。ただ、旧友の妻子のもとを密かに訪ね、陰から暮らしを支え続けた。冬乃は、久馬の心遣いの奥に何かただならぬ事情があると察していたが、あえて多くを尋ねようとはしなかった。ある日、久馬がふと持参した菓子を娘に手渡しながら、「お父上は、遠い山で、大きな仕事をしておいでだ」とだけ告げると、娘は無邪気に頷き、それ以上は何も聞かなかった。蒼一郎の書き置きも遺言もない失踪を、冬乃は彼女なりの静かな形で、胸の裡に納めていったのである。

久馬は、書き取った詩篇の束を、生涯誰にも見せることはなかった。詩才の欠落を暴くためではない。ただ、あの一夜、旧友が最後にすべてを注ぎ込んで語ったその言葉を、他人の評に晒すことだけは、どうしてもできなかったのだ。文机の抽斗の奥に仕舞われたその紙束を、久馬は幾年経っても、時折そっと取り出しては読み返した。読み返すたび、久馬の胸には、あの朝の霧の匂いと、旧友の掠れた声とが、ありありと蘇るのだった。

それから幾年か過ぎ、天巌嶺のふもとに嵐が来るたび、雲間に金色の竜影を見たという旅人の噂が、都でひそかに語られるようになった。その竜は誰も襲わず、ただ雲の切れ間を独り悠然と渡っていくのだという。ある夜、耳を澄ませた者は、その竜の咆哮に、どこか人の慟哭に似た響きを聞き取ったとも伝えられている。

娘が年頃になった頃、久馬は請われるままに、幼い日の父の思い出を、いくつか語って聞かせたことがある。だが、あの霧の朝に山径で交わした言葉だけは、最後まで口にしなかった。娘が「父はどんな詩を書いていたのですか」と尋ねたときも、久馬はただ「お前の父は、誰よりも高いところを見ていた人だった」とだけ答え、それ以上は目を伏せて黙した。娘は、その答えに込められた重みを知らぬまま、どこか誇らしげに微笑んだ。

真偽のほどは、誰にも確かめようがない。ただ、久馬の文机の奥深くには、今もなお、あの朝書き取った詩篇の束が、静かに眠り続けている。

あとがき

中島敦『山月記』は、詩業への妄執と、それを妨げた「臆病な羞恥心」「怠惰な自尊心」という二つの心の動きが、人を虎に変えてしまうという寓意の鋭さに核がある。本作では虎を竜に置き換え、地を這う獣ではなく天を翔ける存在――主人公自身がまさに憧れていた「人間を超えた偉大さ」そのものの姿――に変えることで、その代償の皮肉をより際立たせることを試みた。爪では詩を書けず、人語を話せる時間そのものが失われていくという設定は、手にした瞬間に最も大切なものを失うという、本作独自の悲劇として書き加えたものである。

原作で李徴が旧友・袁傪に自らの半生と羞恥を語り、詩業を託し、最後は虎の姿で咆哮とともに去っていく構成は、本作でも大きな軸として踏襲した。一方で、書き取られた詩そのものに主人公が――他者の評を待つまでもなく――自らその欠落を悟ってしまう場面を新たに設け、竜という「主役」の変身が、天罰ではなく彼自身の誇りが招き寄せた必然であったことを、より色濃く描くよう改めている。


本作は中島敦『山月記』を参考にした翻案作品です。

本作は中島敦の『山月記』を参考にした作品です。原典