竜は正体を明かさなかった
銀山の坑道を広げ続ける町にネズミの大群が溢れ、まだらの外套の旅人が退治を買って出る。約束を破った町から子どもたちが消えた夜、足の悪い少年だけが山の扉の前に取り残される。
一 灰色の谷、揺れる坑道
グラウバッハは、灰色の岩肌が両側から迫る谷間に開けた、銀山で栄える町だった。朝も晩も、山腹の坑道からは鑿の音と男たちの掛け声が絶えず、谷を渡る風にはいつも、掘り出されたばかりの土と鉄錆の匂いが混じっていた。石畳の広場には銀細工師の店が軒を連ね、日暮れには坑夫たちが酒場になだれ込み、疲れを紛らすように歌を歌った。よそから来た者は、この谷を「銀の懐に抱かれた町」と呼んで羨んだが、地元の年寄りたちの多くは、その呼び名を素直には喜ばなかった。
ルーカスは、その谷でも指折りの旧い家系の生まれだったが、十二になるこの少年の暮らしは、けして楽なものではなかった。五つの年、納屋の梁から落ちて右足を痛めて以来、彼の歩みは同年代の誰よりも遅く、駆けっこの輪にも半ばから加われなくなっていた。杖代わりの木の枝を握りしめ、石畳の窪みに足を取られないよう、いつも一歩ずつ確かめるように歩く癖がついていた。
それでも幼馴染のマルタをはじめ、谷の子どもたちは彼を仲間はずれにはしなかった。マルタは鍛冶屋の娘で、口は悪いが情には厚く、遅れがちなルーカスに気づくと、いつも歩調を合わせて隣を歩いてくれた。ただ、坑道の見える丘まで駆け上がる遊びのときだけは、ルーカスがいつも最後に着くのが、当たり前の光景になっていた。息を切らして丘の頂に着く頃には、他の子どもたちはとっくに次の遊びに興じている。それでもルーカスは、丘の上から見下ろす谷の景色――夕陽に染まる坑道の入り口、赤く光る屋根瓦、遠くに霞む山並み――が好きだった。追いつけない悔しさより、その眺めのほうが、いつも彼の心を静めてくれた。
その年の初め頃から、坑道はいっそう山の奥深くへと掘り進められていた。銀の鉱脈を追い、坑夫たちは代々誰も踏み入れなかった層にまで鑿を入れているのだと、大人たちは誇らしげに語った。フォークト町長は議会のたびに、「今年こそ谷始まって以来の豊作ならぬ豊鉱になろう」と胸を張り、坑夫たちも新しい鉱脈を掘り当てるたびに祝杯をあげた。
だが同じ頃から、夜半にふと目が覚めるような、低い地鳴りが増えていることに気づいている者は少なかった。ルーカスは、その地鳴りのたびに、うなじのあたりがざわりと粟立つのを感じていた。そして地鳴りの後は決まって、山の方角から生温かい風が吹き下ろしてくるのだった。ある晩など、その風に混じって、獣とも人ともつかない、低く長い唸りのようなものを聞いた気がしたが、朝になって誰に尋ねても、「そんなもの、風の音に決まっている」と笑われるだけだった。
ある朝、グラウバッハは悲鳴で目覚めた。一晩のうちに、坑道の奥からとも知れぬ夥しい数のネズミが町へ溢れ出し、食料庫という食料庫を食い荒らし、井戸という井戸を汚していったのだ。灰色の小さな影が石畳を覆い尽くし、パン屋の店先も、教会の祭壇の下も、赤子の眠る揺り籠の傍らでさえも、逃げ場を求めて右往左往する鼠の群れで埋まった。女たちは箒を振り回して悲鳴をあげ、犬たちは狂ったように吠え立て、それでも鼠の数はいっこうに減る気配を見せなかった。
「昔もこんなことがあった」
ルーカスの祖父ヨーゼフは、火のない暖炉の前でそう呟いた。彼は若い頃、坑夫としてこの山に入っていた最後の世代だった。節くれ立った指で杖を握りしめ、遠くを見るような目をしていた。
「もう五十年も前になるか。町がまだ坑道を今ほど広げていなかった時分、賃金の約束を反故にされた坑夫の何人かが、山の奥で消えたことがあった。誰も戻らなんだ。あれ以来、山の奥には手を出すなと年寄りたちは言い伝えてきたが……近頃の若い衆は、そんな話、迷信だと笑うばかりでな」
祖父の声は掠れていたが、そこには単なる懐古以上の重みがあった。ルーカスは黙って聞いていたが、居合わせた大人たちの多くは、鼠の始末に追われるあまり、老人の繰り言に耳を貸す余裕を持たなかった。「昔話より今の鼠をどうにかしてくれ」と誰かが吐き捨て、それきり話は打ち切られた。
その晩、ルーカスは寝床の中で祖父の話を反芻していた。五十年前、山へ入ったまま戻らなかった坑夫たちは、いったいどこへ消えたのだろう。単に事故で命を落としたのだとしたら、なぜ遺体のひとつも見つからなかったのか。窓の外では、相変わらず低い地鳴りが続いていた。ルーカスは布団を頭までかぶりながらも、なぜかその音が、恐ろしいというより、どこか悲しげに聞こえてならなかった。
翌朝には、鼠の被害はさらに広がっていた。牛小屋の飼料は食い尽くされ、教会の聖典まで齧られる始末で、司祭は蒼白な顔で祈りの言葉を唱え続けていた。子どもたちも外に出ることを禁じられ、ルーカスとマルタは家の窓越しに、右往左往する灰色の群れを眺めるほかなかった。
「このままじゃ、冬を越せないって、父さんが言ってた」
マルタが不安げに呟いた。ルーカスも頷くしかなかった。町議会が招集され、フォークト町長は苛立たしげに拳で机を叩いた。
「誰でもいい、この災厄をどうにかできる者を探せ。金に糸目はつけん」
その言葉が、まだ谷の外まで届いてもいないうちに、一人の旅人が町の門をくぐろうとしていた。
二 まだらの外套の客
その男が最初にグラウバッハの広場に姿を見せたとき、人々は一様に足を止めて振り返った。継ぎ接ぎだらけの、赤や緑や黄土色の布切れを縫い合わせたような、まだらの外套。腰には古びた骨の笛を提げ、日に焼けているのか元からそうなのか判然としない浅黒い肌に、灰がかった瞳をしていた。歳の頃合いさえ、見る者によって判断が分かれるような、奇妙な佇まいの男だった。子どもたちは物珍しさに集まってきたが、犬だけは決まって彼を避け、遠くから低く唸って距離を取った。
「鼠を残らず片づけて差し上げよう。ただし、片づいたのを見届けてから、相応の代価をいただく」
男はそれだけを言った。名を尋ねられても、「旅の者とだけお呼びください」と柔らかく躱すばかりで、素性を語ろうとはしなかった。フォークト町長は疑わしげに眉をひそめたが、鼠の害があまりに深刻だったこともあり、結局は男の申し出を受け入れた。「相応の代価とは、いかほどか」と町長が尋ねると、男は微笑んだだけで答えなかった。「片づいたのちに、ご相談いたしましょう」――その一言に、議会の面々は多少の不安を覚えながらも、鼠の惨状の前では贅沢を言えなかった。
夕刻、男は坑道の入り口近くに立ち、骨の笛を口に当てた。低く、地の底から響くような旋律が谷いっぱいに広がると、町中の鼠という鼠が、誘われるように穴という穴から這い出し、隊列を成して男の後に従った。男はゆっくりと歩を進め、谷の外れの崖まで鼠たちを導くと、そのまま崖下を流れる急流へと落としていった。灰色の奔流が瞬く間に川面を覆い、やがて一匹残らず、渦の中へ飲み込まれて消えた。見物に集まった町人たちは、遠巻きにその光景を眺めながら、歓声とも溜息ともつかない声を漏らした。
町は歓喜に沸いた。酒場では男の噂で持ちきりになり、子どもたちは彼の後をついて回りたがった。だが男はすぐには代価を求めず、しばらくグラウバッハに留まった。宿代わりに滞在を許された鍛冶屋の納屋で寝起きしながら、彼は日中、坑道の見える丘をよく一人で歩いていた。
ルーカスがその男と言葉を交わすようになったのは、偶然だった。丘の上で足をひきずりながら追いつけない仲間たちを見送っていたルーカスに、男はふと隣に腰を下ろし、こう言ったのだ。
「急がずとも、この丘の眺めは変わらんよ」
その一言から、二人は幾度となく丘の上で語らうようになった。初めのうちルーカスは口数少なく、ただ隣に座って景色を眺めるだけだったが、日を追うごとに、少しずつ言葉を交わすようになっていった。男は坑道の灯りが夕闇に瞬くのを眺めながら、ぽつりぽつりと、遠い山奥にあるという場所の話をした。
「誰も他人のものを奪わず、誰にも奪われることのない庭がある。実りは分けるだけあって、誰も独り占めにしようとしない。そういう場所を、私は知っている」
「そんな場所が、本当にあるの」
「あるとも。ただ、そこへ辿り着ける者は、多くはない」
「僕みたいに、足の遅い者でも?」
男はその問いに、しばし黙って答えなかった。やがて、風に混じる坑道の匂いを吸い込むように大きく息をつくと、静かに答えた。
「あの場所では、足の速さなど誰も気にかけはしない。奪おうとする心を持たぬ者ならば、誰でも迎え入れられる」
その言葉に、ルーカスは何かとても大切なことを言われたような気がして、しばらく胸の奥が熱くなるのを感じた。ある日は、坑道の話になった。男は坑道を見下ろしながら、「この山は、随分と痩せてきているようだ」とだけ呟いた。ルーカスが意味を尋ねても、男はただ首を振るばかりで、それ以上は語らなかった。
別の日、丘を上る途中でルーカスが足をもつれさせ、転びかけたことがあった。とっさに手を伸ばした男の腕は、見た目よりもずっと硬く、まるで石のように揺るぎなかった。支えられて体勢を立て直しながら、ルーカスは礼を言おうとしたが、男は何事もなかったかのように、また丘の頂を目指して歩き出すだけだった。その背を追いながら、ルーカスはふと、この人は自分のような遅い歩みに合わせて、いつも半歩ほど速度を落としてくれているのではないかと思い当たった。誰もそんなことを口にしたことはなかったが、確かにそうだったのだろうと、今になって腑に落ちた。
また別の夕暮れには、男が坑夫たちの働く様子を遠く眺めながら、ぽつりとこう漏らしたこともあった。
「奪うことに慣れた者は、自分が奪っていることにさえ気づかなくなる。恐ろしいのは、悪意ではなく、その鈍さのほうだ」
ルーカスにはまだ、その言葉の重みを十分に理解することはできなかった。だが、なぜかその声の響きだけは、長く耳の奥に残った。
夕陽を受けたその瞳が、一瞬、金色にも似た光をたたえたように見えたが、ルーカスはまばたきひとつでそれを見失い、深く気に留めることはなかった。片足の遅れを厭わず、対等に言葉を交わしてくれるこの奇妙な旅人を、ルーカスは次第に、誰よりも気安く思うようになっていった。マルタにそのことを話すと、「変わった人だけど、悪い人には見えないね」と笑っていた。
坑道の奥からは、あの日以来、地鳴りが止んでいた。谷は久方ぶりの静けさを取り戻し、誰もが安堵していた。男が代価を求める日が近づいていることも、忘れかけているかのように。
三 二度目の笛
約束の日、男は議会の広間に立ち、静かに告げた。
「鼠は片づいた。代価として、山の南側、坑道が食い込んでいる斜面をこれ以上掘らぬこと。そして、これまでの働きに見合うだけの銭を、いただきたい」
フォークト町長は一瞬言葉に詰まったが、すぐに愛想笑いを取り繕った。
「山を掘らぬというのは承知した。しかし銭のほうは……なにぶん鼠の被害で蔵も傷んでおってな。当初申し出た額の、十分の一もあれば十分ではないか」
広間にざわめきが走った。議員の何人かは気まずげに目を伏せ、何人かは町長に同調するように頷いた。ルーカスの祖父ヨーゼフが杖をつきながら立ち上がり、震える声で割って入った。
「町長、それはいかん。五十年前と同じ過ちを、また繰り返す気か。あのときも、坑夫たちへの約束を反故にして、山で何人も戻らなくなったのだぞ」
「爺さん、それはもう昔語りだ。今はそんな迷信に構っている暇はない」
フォークトは苛立たしげに手を振り、老人の言葉を退けた。議員の一人が控えめに、「せめて申し出の半分ほどは」と口を挟んだが、フォークトは即座にそれを遮った。
「馬鹿を言うな。相手は素性も知れぬ旅の芸人ではないか。銭さえ払えば、それで済む話だ。値切って何が悪い」
その言い分に、何人かは渋々ながらも頷いた。誰も、老いた坑夫の言葉に本気で耳を傾けようとはしなかった。フォークトは鼻先で笑い、旅の男へ、はした金の入った袋を投げるように差し出した。
男はその袋を、ただじっと見下ろしていた。表情はほとんど動かなかったが、灰がかった瞳の奥に、それまで誰も見たことのない翳りが差した。しばしの沈黙の後、男は静かに口を開いた。
「承知した。相応の代価は、いずれこちらで定めさせていただこう」
その物言いに、何人かの議員が不穏なものを感じ取って顔を見合わせたが、フォークトは勝ち誇ったように鼻を鳴らすだけだった。男は袋を拾い上げもせず、ただ静かに一礼すると、広間を後にした。
その夜、ルーカスは寝苦しさに何度も寝返りを打っていた。窓の外から、あの骨の笛とはまるで違う、もっと高く、もっと切ない旋律が流れてくるのに気づいたのは、真夜中を過ぎた頃だった。誘われるように、隣の部屋からマルタの弟の足音が消えていく。窓の下の通りを、寝間着のまま裸足で歩いていく子どもたちの影が、次々と山の方角へ向かっていくのが見えた。
「マルタ……!」
ルーカスは弾かれたように寝台を飛び出し、痛む足を引きずりながら外へ駆け出した。石畳は夜露に濡れて冷たく、素足に食い込む砂利の痛みも構わず、彼はただ夢中で坂を上った。だが、まっすぐに山へ向かう子どもたちの歩みに、彼の遅れた足はどうしても追いつけなかった。息を切らし、幾度も石に躓きながら、それでも歯を食いしばって坂を上り続けた。喉の奥が焼けるように痛み、心臓が耳の裏で鳴り響いていたが、ルーカスは足を止めなかった。
山肌にたどり着いたとき、目の前で信じがたい光景が起きていた。かつて坑道が食い込んでいたはずの岩壁に、これまで誰も見たことのない大きな扉が、音もなく口を開けていたのだ。扉の奥からは、これまで嗅いだことのない、青草と清水の匂いに似た風が吹き出していた。まだらの外套の男が、その扉の前に立ち、子どもたちを一人また一人と、優しく手招きしながら中へと導いていく。
「待って……!」
ルーカスの声は、風にかき消されるように届かなかった。最後の一人、マルタが扉をくぐろうとした、その瞬間だった。男が振り返り、扉の傍らでルーカスを見つめた。逆光の中、外套の下からわずかに覗いたものに、ルーカスは息を呑んだ。折り畳まれた、途方もなく大きな翼の輪郭。夜目にも鈍く光る、灰色の鱗。それは紛れもなく、竜の姿だった。
だが、その巨躯から放たれるものに、恐怖はなかった。ルーカスの目に映ったのは、我が子を寝床へ促す親のような、静かで穏やかな仕草だけだった。竜は――男は――一度だけ、ルーカスに向けて小さく頭を垂れた。まるで詫びるように、あるいは、いつか分かってくれと願うように。その眼差しに、ルーカスは不思議と、憎しみも恐れも湧いてこないのを感じた。
「連れていって……」
掠れた声で、ルーカスは呟いた。だが竜はゆっくりと首を振るだけだった。届かぬ願いだと分かっていながら、ルーカスはそれでも一歩、また一歩と、扉に向かって足を引きずった。
そして扉は、深い吐息のような音を残して、ゆっくりと閉じた。ルーカスがようやくそこへたどり着いたときには、岩肌はもう、ただの岩肌に戻っていた。継ぎ目ひとつ見当たらぬ、冷たい灰色の壁だけが、そこに残されていた。ルーカスは冷たい岩に額を押し当てたまま、しばらく声もなくその場にうずくまっていた。
四 開かれなかった扉
夜が明けると、グラウバッハは半分の子どもを失った町として、深い喪に沈んだ。家々の戸口には、消えた我が子の名を呼び続ける親たちの声が絶えず、教会の鐘は一日中鳴り続けた。マルタの両親は、幾日も山肌を爪で掻きむしるようにして探し続けたが、扉のあった場所を見つけることさえできなかった。フォークトは職を追われ、二度と表舞台に立つことはなかった。誰もが山を恐れ、坑道は永久に封鎖されると決まった。あの旅人の名を知る者は、最後まで一人もいなかった。
ルーカスは幾晩も、あの夜の光景を夢に見た。目覚めるたびに、なぜ自分だけが取り残されたのかを考え、時には理不尽さに拳を岩へ叩きつけたこともあった。だが拳から血が流れても、岩肌はただ冷たく、何も応えなかった。それでも彼は、山を憎むことだけはできなかった。あの夜、竜が自分に向けて垂れた頭の仕草が、憎しみを抱くことをどうしても許さなかったのだ。
ルーカスだけが、幾度となく山肌の前に立ち続けた。扉があった場所を指で探っても、継ぎ目ひとつ見つからない。それでも彼は、季節が巡るたびにそこへ通い、野の花を一輪、岩の根元に供えるのをやめなかった。祖父のヨーゼフは、その姿を見るたびに何も言わず、ただ隣に立って共に頭を垂れることがあった。
年月は静かに流れた。ルーカスは大人になり、鍛冶屋を継いだマルタの父の下で働きながらも、その習慣だけは変わらなかった。恋をし、所帯を持ち、自分の子を持つ歳になっても、月に一度は必ずあの岩肌の前に足を運んだ。町の若い者たちは、いつしか彼を「山の番人」と呼ぶようになっていたが、彼自身は、ただ約束を思い出させる者でありたいと願っていただけだった。子や孫にせがまれるたびに、彼はあの夜の出来事を、包み隠さず語って聞かせた。「あれは化け物ではなかった」と、彼は決まって最後にそう付け加えた。
白髪の増える歳になっても、その習慣だけは変わらなかった。ある年の同じ夜――子どもたちが消えたあの晩からちょうど四十年目にあたる夜、老いたルーカスがいつものように岩肌の前に膝をついたとき、根元の苔の間に、小さな灰色のかけらが埋もれているのに気づいた。指先で掘り出してみると、それは掌に収まるほどの、一枚の鱗だった。触れると、まだ微かに温もりが残っているような気がした。
ルーカスはそれを長い間、じっと見つめていた。あの夜、扉の向こうへ消えていく我が子を寝かしつけるように子どもたちを導いた、あの穏やかな仕草を思い出す。彼はようやく、心のどこかで得心した。あれは町を呑み込む怪物などではなかった。奪われることのない場所を、まだ何も知らぬ子どもたちのためだけに用意した、名も知れぬ何者かだったのだと。
友を失った悲しみは、生涯消えることはなかった。マルタの笑い声も、共に丘を駆け上がった仲間たちの姿も、決して戻ってはこない。だが同時に、彼らがどこかで、誰にも奪われず、誰も奪おうとしない場所で、笑って過ごしているのだと信じることだけが、ルーカスの支えになった。鱗は元の苔の下に、そっと戻された。
その夜を最後に、山からはもう二度と、地鳴りが聞こえることはなかった。ルーカスはその後も年老いてなお、可能な限り岩肌の前に通い続けたが、二度とあの温もりに出会うことはなかった。それでも彼は、通うことをやめなかった。約束を、忘れないために。
あとがき
ロバート・ブラウニングの詩『ハーメルンの笛吹き男』は、ネズミの害に悩まされた町がまだらの衣の笛吹き男に退治を依頼しながら約束の報酬を出し渋り、怒った男が二度目の笛で町中の子どもたちを連れ去ってしまうという、有名な伝承詩である。取り残された足の悪い少年が、開くことのなかった山の扉を思い続けながら生涯を終えるラストは、原詩の中でも特に胸に残る一節として知られている。
本作では、笛吹き男の正体を人間に姿を変えた竜として描き直した。銀山の坑道が山奥へ食い込むにつれ、地中で眠りを妨げられた竜の気配に怯えた鼠たちが地上へ逃げ惑う、という因果を新たに設けている。竜が求めたのは報酬そのものではなく、山を掘り荒らした代償として町が誠実さを示すかどうかの試金石であり、町が過去と同じ過ちを繰り返した瞬間、竜はまだ強欲に染まっていない子どもたちだけを、奪われることのない山奥の棲み処へと連れ去っていく。竜自身は最後まで名を明かさず、人前でその正体を晒すこともなく、物語の外へと静かに消えていく構成とした。
町の名、登場人物、坑道や五十年前の逸話などの設定はすべて独自に創作したものであり、原詩の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はロバート・ブラウニング(Robert Browning)著『The Pied Piper of Hamelin(ハーメルンの笛吹き男)』を参考にした翻案作品です。