竜は塔を砕かなかった
兄弟子を差し置いて五重塔の独り請けを願い出た「のろま」の大工は、心のこもらぬ建物だけを嵐で見定める竜の裁定に、己の身をもって挑む。幸田露伴『五重塔』を翻案した、職人の矜持と自然への畏怖の物語。
一 颪の里
黒川郷は、四方を峰に囲まれた小さな谷あいの里だった。里の中ほどに立つ龍照寺の五重塔は、去年の野分でついに三層目から折れ、いまは骨組みだけが痛々しく空を突いている。焼け焦げたような黒い断面を晒す柱を見上げるたび、里の者たちは決まって声を落とした。再建の話が持ち上がったのは、雪解けを待たずしてのことだった。
春浅い黒川郷は、朝な夕なに谷霧が這い、田畑の畦道には残雪がまだらに残っている。谷を囲む峰々は、遠くから見れば穏やかな緑の連なりに過ぎないが、里の者たちはその静けさの底に、何か底知れぬものが眠っていることを知っていた。
里には古くから、颪(おろし)という竜の伝えがある。黒川郷を囲む峰のいずこかに棲み、幾年かに一度、里に大きな建物が立つたびに、嵐となって舞い降りるのだという。心を込めずに、ただ見栄と手間賃のためだけに組まれた柱や梁は、颪の風にひとたまりもなく引き裂かれる。逆に、建てた者の魂が芯まで通った建物は、どれほどの嵐にも揺るがずに立ち続ける――そう古老たちは語った。杢平の父も、若い頃にそう聞かされて育ったという。夜語りの席では、颪の姿を実際に見たと言う者もいれば、あれはただの言い伝えに過ぎぬと笑う者もいたが、笑う者たちでさえ、嵐の晩にはきまって戸口をきつく閉ざした。
杢平は、里でも指折りの腕を持つ大工でありながら、「のろま杢平」と陰で呼ばれていた。口数が少なく、仕事の合間に軽口の一つも叩けず、仲間内の寄合でもいつも隅で鉋をかけていることが多い。だが墨壺を握らせれば、その手つきだけは誰よりも迷いがなかった。継ぎ目の合わせ、木目の読み、荷重の見立て――どれをとっても、若い頃から棟梁に仕込まれた勘は狂ったことがない。ただそれを言葉で語る術を、杢平は持ち合わせていなかった。
杢平が七つの年、隣村の造り酒屋の蔵が嵐の晩に倒れ、その下敷きになって父を亡くした。あとで聞けば、蔵の梁には節だらけの安木材が使われ、継ぎ手も間に合わせだったという。杢平の記憶に残るのは、崩れた梁の隙間から差し込む雨と、母の泣き声だけだった。剥き出しの梁の断面には、白い木肌に混じって黒く腐りかけた芯が覗いていたのを、杢平は今でもはっきりと覚えている。あれは、雨風のせいで崩れたのではない。初めから、崩れることが決まっていた建物だったのだ。それ以来、杢平は木と向き合うたび、ある一つの問いを己に投げかけるようになった。この継ぎ目は、いつか誰かの命を預かるに足るものか、と。
母は父の死からほどなくして床に伏し、杢平が十を過ぎる頃には他界した。以来、杢平は棟梁の家に住み込みで奉公に上がり、鉋屑にまみれて育った。誰に手を取って教わったわけでもなく、余った端材を拾っては夜な夜な独りで刻み方を試した。器用な口を持たぬ代わりに、杢平の指先だけは、木の声を聞くように育っていった。
その年の春先から、里にはどことなく落ち着かない気配が漂っていた。渡り鳥が例年より早く峰を越え、二度と戻ってこない。夕暮れになると、晴れているはずの西の空に、薄墨を刷いたような雲がひとところだけ低く這う。古老の一人、屋根葺きの長治が、寄合の席でぼそりと言った。
「今年は、颪の年だぞ。塔を建てるなら、生半可な気持ちでは手を出すな」
若い衆の何人かは鼻先で笑ったが、長治の目は本気だった。杢平だけは、その言葉を笑わずに聞いていた。父を奪った崩落の記憶と、里に伝わる竜の裁定とが、胸の奥でどこか一つに重なるような気がしてならなかった。
二 独り請けの願い
塔の再建にあたり、棟梁を誰に任せるかは、初めから慶蔵に決まっているようなものだった。慶蔵は杢平よりも五つ年上で、亡き先代棟梁の甥にあたり、若い頃から普請場を仕切る器量を認められていた工人だった。腕も確かだが、それ以上に弁が立ち、施主への受け答えも如才ない。誰の目にも、五重塔の棟梁は慶蔵以外に考えられなかった。
だが杢平は、寺の庫裏に一人で上人を訪ね、額を床にすりつけて願い出た。
「上人様。塔の棟梁、この杢平に独りでやらせてはいただけませんか」
円乗上人は、しばらく無言で杢平の顔を見つめていた。里の誰もが半人前扱いする男が、よりにもよって寺の顔とも言うべき五重塔を独りで背負うと言い出したのだ。驚かぬ方がおかしい。
「慶蔵という好敵手がおるというに、なぜ独りを望む」
「慶蔵さんの腕は、私もよう知っております。ですが……塔は、大勢の思案を継ぎ接ぎにして建てるものではないと思うております。継ぎ目のひとつひとつに、迷いのない一つの心が通うておらねば、あの颪に見定められたとき、持ちこたえられぬのではないかと」
上人は目を細めた。颪の名を、この男の口から聞くとは思っていなかった。長い沈黙のあと、上人は静かに問うた。
「もし手に余ると分かったら、どうする」
「そのときは、この場で腹を切ってお詫びします。ですが、やる前から手に余ると決めてかかるわけには参りません」
上人は障子の向こうに広がる庭に目をやった。雪解け水が石の樋を伝い、小さな音を立てて流れ落ちている。しばらくその音に耳を澄ませていたが、やがて静かに頷いた。
「よかろう。ただし、慶蔵にも得心してもらわねばならぬ。それに、途中で手に余ると見れば、わしの一存で棟梁を替える。それでよいか」
杢平は深く頭を下げた。それだけで十分だった。
慶蔵がこの沙汰を聞いたときの顔を、普請場に居合わせた誰もが忘れられずにいる。怒りよりも、まず呆れが先に立ったようだった。
「杢平、お前……正気か。おれを差し置いて、独りで五重塔を背負うと言うのか」
「慶蔵さんを見下しているわけじゃあ、ねえです。ただ、これだけは、おれ一人の手でやらせてもらいたい。それだけです」
要領を得ない返答に、慶蔵は舌打ちをして立ち去った。それからというもの、普請場に集う工人たちの間には、目に見えない溝が走った。慶蔵一派は杢平に手を貸そうとせず、木材の手配一つにも意地の悪い遅れが出る。用意しておくはずの心材が届かず、杢平が自ら山まで木を選びに行かねばならぬこともあった。それでも杢平は、黙々と墨を打ち、鑿を振るい続けた。
普請場でただ一人、若い見習いの佐吉だけは、杢平の下で働くことを厭わなかった。佐吉は杢平の指図をひとつも聞き漏らすまいと、いつも一番近くで鉋屑を掃きながら作業を見つめていた。
「杢平さんは、なんでそんなに丁寧に刻むんですか。誰も見ちゃいねえのに」
ある日、佐吉がそう尋ねると、杢平は手を止めずに答えた。
「誰も見てなくても、木は見てる。おれの手つきをな」
佐吉には半分もわからぬ答えだったが、それでも、杢平の刻む継ぎ目が他の誰のものより美しいことだけは、幼いなりに感じ取っていた。
塔組みが三層目に差しかかった頃、夕刻の峰にひとつの影が横切るのを見た者があった。鳥にしては大きすぎ、雲にしては速すぎる。杢平自身、ある晩、最後の一枚の板を仕上げてふと顔を上げたとき、遠い峰の稜線を、確かに何かがすべるように越えていくのを見た。長治の言葉が、耳の奥でよみがえった。
――颪の年だぞ。
杢平は恐れるより先に、思わず鑿を握り直していた。まだ見ぬ竜に見定められるとしても、恥じぬ仕事をするしかない。その夜、杢平は一人残り、灯りの下で継ぎ目を確かめ直した。
三 竜影、棟に落つ
四層目まで組み上がったある日、慶蔵が普請場に姿を見せ、五層の垂木を支える組物の継ぎ手を指して、上人の前で声を張り上げた。
「上人様、ご覧下さい。この継ぎ手は、荷重を受け流す角度が甘い。素人目にはわからずとも、これでは大風の折に軋みが出ましょう」
集まった工人たちがざわめいた。杢平は継ぎ手の前に立ち、しばらく黙って見つめたあと、静かに答えた。
「慶蔵さんの言うことは、半分は当たっとります。この角度は、確かに定石とは違う。ですが、この塔は谷風を北から受ける建ち方をしとります。定石どおりに組めば、かえって風を真正面から受けて軋む。だから、あえてこの角度にしました」
「屁理屈を並べるな。定石には定石の理由がある」
「定石は、多くの場合に当てはまるよう定められたもんです。ですが、この塔が建つのは、この場所、この風だけです。多くの場合ではなく、この一つの場合に、おれは応えたい」
上人は、二人のやり取りをじっと聞いていた。やがて、継ぎ手の角度を実際に測らせ、風の抜け方を古参の工人にも確かめさせた。結果は、杢平の見立てのほうに理があった。慶蔵は苦い顔で黙り込んだが、それでもその場を去らず、しばらく組物を見つめ続けていた。
その晩、慶蔵は珍しく一人で普請場に留まり、片付けを手伝った。多くを語らなかったが、帰り際にぽつりと言った。
「お前のその継ぎ手、なんべんも仕直した跡があるな。おれなら、あそこまでの手間はかけん」
「かけねば、気が済まねえだけです」
慶蔵はそれ以上何も言わず、闇の中へ帰っていった。溝はまだ深いままだったが、その日を境に、慶蔵一派の意地悪な遅れは少しずつ減っていった。木材の手配は元どおりに滞りなく進むようになり、佐吉などは「慶蔵さんも、ほんとは杢平さんの仕事を認めてるんですよ」と、誰にともなく得意げに言って回った。
塔組みは順調に進んだが、それでも杢平の心は休まらなかった。五層の相輪を支える心柱の据え付けが近づくにつれ、里ではまた颪の噂が頻々に交わされるようになっていた。長治は毎朝、空の色と風の匂いを確かめては、寄合の席で「まだだ」「今日もまだだ」とだけ呟いた。その言葉が里の緊張を、日ごとに張り詰めさせていった。
夜更けまで一人残る杢平のもとに、あの影はたびたび現れるようになった。月明かりの夜、塔の頂近くの梢が、風もないのに小さくざわめく。杢平は初めのうち、それを気のせいだと思おうとしたが、じきに諦めた。誰かが見ている――そう感じるようになったのだ。
「今日は、四層目の垂木を仕上げました」
ある晩、杢平は誰にともなく、闇に向かってそう呟いてみた。返る声はない。ただ、梢のざわめきがひとつ、大きく揺れただけだった。杢平はそれを、相槌のように受け取ることにした。誰にも語らなかったが、姿の見えぬ何かに仕事の首尾を語りかけることは、いつしか杢平の夜の習いになっていた。孤独だった仕事に、見えぬ立ち会い人ができたようで、杢平の胸には、恐れとは違う奇妙な安らぎが芽生えていた。
「お前は、いつになったら怖がるのだ」
ある満月の晩、闇の奥から、初めて低い声が返ってきた。杢平は鑿を取り落としそうになりながらも、声のする方角に向き直った。姿は見えない。ただ、梢の向こうの闇が、いっそう深く沈んでいるようにだけ感じられた。
「颪、様、ですか」
「お前たちがそう呼ぶものだ」
「怖くない、と言えば嘘になります。ですが、怖がって手を抜けば、それこそ颪様に見定められたとき、恥じるだけのもんが残るだけです」
闇の奥から、低い唸りとも笑いともつかぬ音が返ってきた。それきり気配は遠ざかり、杢平はしばらくその場に立ち尽くしていた。恐怖よりも、むしろ胸の奥に、何か温かいもののような手応えが残っていた。誰にも認められずとも、少なくとも一つ、確かに見ている眼があるのだと知った夜だった。
四 嵐夜の頂
塔が五層まで組み上がり、あとは屋根の仕上げと相輪を残すばかりとなった夜、空模様が一変した。西の峰から重く低い雲が押し寄せ、夕刻には里全体が息を潜めるような静けさに包まれた。長治が杖を突きながら普請場に駆けつけ、震える声で言った。
「今夜だ。颪が来る。今夜、この塔が試される」
杢平は空を仰いだ。雲の底が渦を巻き始めている。里の者たちが慌てて戸を閉ざし、灯りを吹き消していくなか、杢平は懐から手拭いを取り出し、額に固く締めた。
「杢平、お前、まさか」
駆けつけた慶蔵が、鑿を懐に塔へ向かおうとする杢平の腕をつかんだ。
「よせ。この嵐だぞ。頂に上ったところで、お前一人に何ができる」
「塔と運命を共にするのが、おれの仕事です。逃げて、塔だけが倒れるのを下から見ているなんてことは、おれにはできねえ」
慶蔵はしばらく杢平の顔を睨みつけていたが、やがて舌打ちをして手を離した。
「馬鹿野郎が……なら、おれは下で支え綱を張っておく。落ちるなら、せめてまっすぐ落ちろ」
雨が叩きつけるように降り出し、風が唸りを上げて谷を駆け抜けた。杢平は足場を伝い、五層の頂近くまで上り詰めた。眼下では、里の灯りがひとつ、またひとつと吹き消されていくのが見えた。誰もが息を潜め、この一夜が明けるのを、ただ祈るしかない夜だった。夜空を裂くように、巨大な影が雲間から舞い降りてきたのは、その直後だった。
鱗は嵐の色そのもののように黒く、翼を広げれば谷の幅ほどもあろうかという竜だった。稲光が走るたび、その巨躯の輪郭が一瞬だけ闇に浮かび上がり、また闇に呑まれた。颪は塔の周りを一巡りすると、風そのものを刃に変えたような唸りを上げ、塔に襲いかかった。杢平は柱にしがみつき、吹き飛ばされまいと歯を食いしばった。木肌を叩く雨粒が、まるで小石のように痛かった。
「お前が、この塔を建てた男か」
風の唸りの合間に、低い声が響いた。杢平は驚きながらも、声を張り上げて答えた。
「はい。おれが独りで請け負いました」
「私はかつて、この谷にもう一つの塔が建つのを見た。灰塔と呼ばれた祖堂だ。見栄えばかりを競い、継ぎ目には手間を惜しんだ建物だった。ある祭りの夜、私が試すまでもなく、ただの風でそれは崩れ、大勢の参拝者が下敷きになった。私はそれ以来、この谷に建つものを嵐で見定めることに決めた。心のこもらぬ建物を、二度と人の命の上に立たせぬために」
颪の声には、怒りとは違う、深い哀しみが滲んでいた。杢平は柱にしがみついたまま、声を絞り出した。
「なら、確かめてくだせえ。この塔の継ぎ目の一つ一つに、おれの迷いがあるかどうか。逃げも隠れもしねえ。おれはここに残る」
颪の翼が起こす風が、いっそう激しく塔を叩いた。屋根の一部が軋み、杢平の体が大きく傾いだ。下から慶蔵の叫び声が聞こえた。支え綱が張り詰め、辛うじて体を支える。それでも杢平は、頂から降りようとしなかった。
「怖くないのか」颪の声が問うた。
「怖いです。ですが、この塔を独りで請けた以上、崩れるならおれも一緒に崩れる。それだけは、初めから決めていたことです」
しばらくの沈黙のあと、颪の唸りが、わずかに和らいだ。竜の赤い眼が、間近から杢平を見つめた。そこにあったのは、驕りでも見栄でもない、ただ塔と運命を共にしようとする一人の職人の、迷いのない覚悟だった。灰塔を崩れさせたときに人々の目にあった慢心とは、まるで違う光がそこにあった。
「私が見定めてきたのは、建物の丈夫さではなかったのかもしれぬ」颪は呟くように言った。「そこに込められた覚悟の重さだったのだ」
風がふっと弱まり、渦を巻いていた雲が、ゆっくりと形を崩し始めた。颪は塔の周りをもう一度大きく旋回すると、頂すれすれをかすめるように飛び、そのまま夜空の奥へと姿を消していった。
雨音だけが、なおしばらく谷に響いていた。杢平は柱にもたれかかったまま、体中の力が抜けていくのを感じた。両手はいつの間にか血がにじむほど柱にしがみついていたが、痛みを覚える余裕すらなかった。下から慶蔵の声が、掠れながらも力強く届いた。
「杢平! 生きてるか!」
「生きて……ます」
声を返すのがやっとだった。夜明けまでの残りの刻を、杢平は頂にへたり込んだまま、ただ静まっていく空を見上げて過ごした。
五 空に刻む鱗の傷
夜が明けると、空は嘘のように晴れ渡っていた。里の者たちが恐る恐る戸を開けると、五重塔は歪み一つなく、しんと静まり返った朝の光の中に立っていた。屋根の一部が軋んだ跡はあったが、崩れた場所はどこにもなかった。
普請場に駆けつけた円乗上人は、しばらく無言で塔を見上げていたあと、杢平と慶蔵を並んで前に呼んだ。
「独りで請けたのは杢平、されど、支え綱を張り続けたのは慶蔵。この塔は、ひとりの覚悟と、もうひとりの支えとが重なって、朝を迎えたのだ」
上人は落成の銘板に、杢平の名と慶蔵の名を並べて刻ませた。慶蔵は初め黙って首を振ったが、やがて杢平の肩に手を置き、短く言った。
「お前の継ぎ目には、負けたよ」
「慶蔵さんの支え綱がなけりゃ、おれは頂から落ちてました」
二人の間にあった溝は、その一言ですべて埋まったわけではなかったが、少なくとも、二度と越えられぬ隔たりではなくなっていた。
佐吉は塔の下で、涙と鼻水を拭いながら跳び回っていた。
「杢平さん、生きてる! ほんとに、無事だったんだ!」
「お前が毎朝、木材を運んでくれたおかげだ。ありがとよ、佐吉」
杢平がそう声をかけると、佐吉はますます大きな声で泣き出した。その泣き声が、朝の谷にいつまでも明るく響いていた。
その日の昼下がり、屋根葺きの長治が、五層の軒先に残る一筋の傷を見つけた。細く鋭い、爪で引っかいたような跡だった。誰も、颪がいつそれを刻んだのか見た者はいなかったが、長治はそれを見上げ、静かに言った。
「これは、傷じゃあねえ。護り札だ」
その言葉のとおり、それから幾年たっても、龍照寺の五重塔だけは、どれほどの野分が里を襲おうと、一度たりとも傷むことがなかった。里の者たちは、いつしかその爪痕を「颪除けの鱗傷」と呼び、塔を見上げるたびに、あの嵐の一夜を語り継ぐようになった。
杢平は、それから幾つもの普請を手掛けるようになったが、変わらず口数は少なく、「のろま」の名も完全には消えなかった。それでも、かつて陰口を叩いていた者たちの声には、いつしか揶揄よりも親しみに似た響きが混じるようになっていた。佐吉は年を経て一人前の大工となり、杢平の継ぎ目の仕事だけは決して真似できぬと、後々まで誰彼となく語り草にした。
夜更けに一人、鉋屑の匂いの中で仕事を終えるたび、杢平はふと空を仰ぐ癖がついた。姿の見えぬ立ち会い人に、その日の仕事の首尾を、誰に聞かせるでもなく語りかけるために。答えが返ってくることは、もう二度となかった。それでも杢平は、語りかけることをやめなかった。
風が梢を渡るたび、杢平にはそれが、遠い相槌のように聞こえた。龍照寺の五重塔は、爪痕の護り札を頂に戴いたまま、幾世代もの後まで、黒川郷の谷を静かに見下ろし続けた。
あとがき
幸田露伴の『五重塔』は、腕は確かながら侮られてきた大工・十兵衛が、兄弟子格の源太を差し置いて五重塔の建立を独りで願い出、暴風雨の一夜に己の身をもって塔と向き合う物語である。本作では、この暴風雨そのものを、心のこもらぬ建物だけを見定めて崩す竜「颪」に置き換え、脅威として現れた竜が、人の覚悟を目の当たりにして守護者へと転じていく過程を新たな軸として加えた。
原作の骨格――侮られてきた大工が兄弟子を差し置いて塔の独り請けを願い出ること、上人による裁定、嵐の一夜に頂へ上って塔と運命を共にする覚悟、夜明けとともに無傷で立つ塔、そして双方の功を認める上人の采配――は保ちながら、人物名・地名・竜の由来と造形、爪痕が護り札として残るという後日談はすべて独自に創作したものである。竜を単なる自然の脅威としてではなく、かつての悲劇ゆえに裁定者たらざるを得なかった存在として描くことで、「自然への畏怖」と「職人の矜持」という原作のテーマを、竜の視点からも二重に描くことを試みた。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。
本作は幸田露伴著『五重塔』を参考にした翻案作品です。