物語雳
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·読了目安 14分主役

竜は剣を厭わなかった

幾世代もの間、剣を持つ若者たちを傷つけず退けてきた森の竜は、涸れかけた泉と最後の卵を守るためだけに化け物であり続けていた。泉番の娘が知った真実は、弟が剣を振るった夜、竜が自ら選び取った最期の中にあった。

一 タルジイの森のほとり

村はずれの草原が尽きるところから、タルジイの森は始まっていた。

木々は互いにもたれかかるように鬱蒼と枝を広げ、昼でさえ地面には碧がかった薄闇が澱んでいる。風が抜けるたびに梢がざわめき、その音はどこか低い唸り声にも聞こえた。村の子どもたちは縄跳びをしながら、誰に教わったともしれぬ古い数え歌を口にする。顎で嚙み、爪で捕らえる。眼はかっと燃え、忍び寄る足音は嗅ぐより先に聞こえる。歌の終わりはいつも同じ文句で結ばれた――剣を持つ者だけが、森から生きて戻る。

ノラは、その歌を聞くたびに、水桶を提げる手に力がこもるのを感じた。

十七の娘にとって、森のほとりまで水を汲みに行くのは、物心ついたときからの日課だった。祖母が生きていた頃からそうだったし、祖母が死んでからは、その役目がそのままノラに引き継がれた。村の井戸は夏の盛りになると決まって細り、ひどい年には泥しか汲めなくなる。だが森の縁、大きなタムタムの木の根元に湧く泉だけは、どれほどの日照りの年でも、絶えることがなかった。水売りたちは知らぬまま、その泉から流れ出た細い水脈が、村のいくつかの井戸の底にまで届いていることを、ノラだけが知っていた。

「今年もお前が行くのかい」

朝、水桶を担いで出かけようとするノラに、母がそう声をかけた。心配というより、もう慣れきった、確認するだけの口調だった。ノラの一家は代々、森のほとりの泉番として、村から少しばかりの敬意と、それ以上の奇異の目を向けられて暮らしてきた。子どもたちはノラの家の前を通るとき、決まって早足になる。祖母は森に近づきすぎると言われ、母はそのことにあまり触れたがらない。だがノラだけは、幼い頃から祖母の手を引かれて森の入り口まで通わされ、あるとき、ほとんど何も言わずに、こう教えられた。

「見えても、見なかったことにおし。それが、うちの仕事だからね」

その意味を、ノラは長い間わからずにいた。わかり始めたのは、もっと後のことだ。

「ベン、今日はお前も落ち着かないね」

母の声に、ノラの弟のベンが顔を上げた。十八になったばかりのベンは、今年、村の「牙祭り」の挑戦者に選ばれていた。壁に掛けられたヴォーパルの剣――刃こぼれ一つない、しかし柄には幾世代分もの手垢が沁み込んだ古い剣――を、ベンは食い入るように見つめている。剣は代々の挑戦者の家系がこもごもに受け継いできた村の宝で、今年はその管理も、儀式の順番も、すべてがベンの一家に回ってきていた。

「当たり前だろう。あと十日で、僕はあの森に入るんだ」

ベンの声には隠しきれない昂りがあった。牙祭りは、村に生まれた若者が十八になった年、村の合議によって選ばれ、森の奥に棲むという怪物ジャバウォックを討ちに行くという、遠い昔からの慣わしだった。顎で嚙み、爪で捕らえ、燃える眼で獲物を追うという怪物。父祖の代から幾人もの若者がその名を背負って森に入り、そのうちのある者は生きて帰り、村を挙げて讃えられ、ある者は――二度と戻らなかった。

戻らなかった者たちのことを、村では滅多に語らない。語られるのはいつも、生きて帰った者たちの武勇伝ばかりだった。剣を掲げ、怪物の血にまみれた姿で村に凱旋し、父に肩を叩かれ、母に抱きしめられる場面。その話は、語られるたびに少しずつ膨らんでいった。怪物の背丈は年々高くなり、牙の数は増え、討ち取るまでの死闘は長く、壮絶になっていった。ノラは、その膨張の仕方を、子どもの頃から奇妙に思っていた。祖母が生きていた頃、寝物語に聞かせてくれた話と、広場で老人たちが得意げに語る話とでは、細部がまるで違っていることに、ノラはずっと前から気づいていた。

「父さんも、行ったんでしょう。あの森に」

ベンが不意にそう尋ねた。父のトマスは、食卓の隅で黙って麦粥をすすっていたが、その手がわずかに止まった。

「ああ。行ったとも」

短く、それだけを答えた。トマスの右腕には、肩から肘にかけて、古い引き攣れた傷痕が走っている。村の誰もが、それを竜との死闘の証だと思っていた。トマス自身、その傷について多くを語ったことは一度もない。ただ、ベンが挑戦者に選ばれたと知らされた夜、トマスは誰も見ていないと思ったのか、ひどく長い間、その傷痕を指でなぞっていた。ノラはその姿を、寝室の戸の隙間から見てしまっていた。

水桶を提げて森のほとりに立つと、ノラはいつものように、木々の隙間から差し込む光の加減を確かめた。今日は風もなく、森の奥はどこまでも静かだった。獣の気配すらしない。鳥の声も、虫の羽音も、境界線を一歩越えたところでふっつりと途絶える。だが、その静けさこそが、この森の異様さだった。牙祭りの伝説が語るような、血に飢えた怪物が棲む森にしては、あまりにも穏やかすぎる。ノラは幼い頃からその静けさに慣れていたが、村の誰かにそれを話しても、決まって気味悪がられるだけだった。

泉のほとりに膝をつき、桶を沈めながら、ノラはふと、水面に映る自分の顔の向こうに、もう一つの影が揺れているのを見た気がした。

村に戻る道すがら、ノラは牙祭りの準備で浮き立つ広場を通り抜けた。旗竿が立てられ、女たちは祝いの料理の下拵えに忙しく立ち働き、老人たちは井戸端で、若かりし頃に聞いた武勇伝を得意げに語り合っていた。子どもたちはその周りを駆け回りながら、木切れを剣に見立てて振り回している。誰もが、この祭りを村の誇りとして疑わずに育ってきた。ノラだけが、その熱気の中に、どこか据わりの悪いものを感じながら生きてきた。

二 水面に映る牙

その影は、初めて見るものではなかった。

ノラが十になった年、祖母に手を引かれて初めてこの泉まで来たとき、水面の向こうから、ゆっくりと持ち上がってきた巨大な頭があった。鱗は苔むした岩のような深緑で、眼は炉の残り火のように鈍く赤かった。顎は確かに大きく、牙も鋭かったが、それを見てもノラは、なぜか歌に歌われるような恐怖を感じなかった。竜は、ただ静かにノラたちを見下ろしていた。祖母は深々と頭を下げ、持ってきた干し草の束を泉のほとりに置いた。

「ご挨拶がまだだったね。この子が、次の泉番だよ」

竜は低く喉を鳴らした。それが挨拶なのか、ただの息遣いなのか、幼いノラにはわからなかった。だがその日から、ノラは月に幾度か、祖母とともに、あるいは祖母が病みついてからは一人で、泉のほとりに通うようになった。

竜――ジャバウォックと、村の誰もがそう呼ぶ怪物は、言葉を持たないわけではなかった。人の言葉とは節回しの違う、喉の奥で転がすような響きで、途切れ途切れに話す。何年もかけて、ノラはその話し方に慣れていった。

「泉が、また少し細ったね」

ある日、ノラがそう言うと、ジャバウォックは水面に鼻先を近づけ、匂いを確かめるように長く息を吸った。

「毎年のことだ。この泉は、もう長くない。私の同族が最後に遺した卵は、この水でなければ孵らない。だから私はここを離れられない」

ジャバウォックはそう言って、泉の奥、木の根が複雑に絡み合う暗い窪みを見やった。ノラはそこに近づいたことはなかったが、竜がそこに何か大切なものを守っていることは、ずっと前から察していた。

「森に入ってくる人間を、傷つけたことは」

ノラが尋ねると、ジャバウォックは長い沈黙のあとで、ゆっくりと答えた。

「ない。剣を持って向かってくる者にも、私はまず、退くための隙を与える。牙を鳴らし、翼を広げて、大きく吼える。たいていの者は、それで腰を抜かして逃げていく。まれに、なおも向かってくる者がいれば、爪の腹で打ち、気を失わせて、森の外まで運んでやる」

「でも……帰らなかった人たちもいる」

ジャバウォックの赤い眼が、わずかに翳った。

「彼らのすべてが、私のせいというわけではない。恐怖のあまり森の奥で迷い、飢えと寒さに斃れた者もいた。逃げる途中、崖から落ちた者もいた。ずっと昔、道に迷い込んだ幼い子らを、私が抱えてこの泉のほとりまで運び、夜露をしのがせてやったこともある。朝になれば村への道を教えて帰したが、その子らが語ったのは、恐ろしい怪物に攫われかけた話だった。私にできることは、その骸を見つけたときに、せめて静かな場所に休ませてやることと、迷った者を静かに送り出してやることだけだった」

その言葉を、ノラは長いこと信じられずにいた。だが竜の眼の翳りには、噓をつく者の落ち着きのなさとは違う、深い疲労だけがあった。幾世代分もの疲労だった。

「村の話では、お前は多くの人間を喰らってきたことになっている」

「知っている。生きて帰った者たちが語る話は、帰るたびに大きくなっていった。最初はただ怖かった、と語っていた者が、次に語るときには死闘だったと言い、その子が語り継ぐときには、私の背丈は倍になっていた。人は、恐怖を語り継ぐうちに、恐怖そのものを育てていくものらしい」

ジャバウォックの声には、怒りよりも、諦めに似た響きがあった。

「私はもう、それを正そうとは思わない。正したところで、誰も信じはしないだろうし、もし信じられてしまえば、村の若者たちはこの通過の儀式を失う。それが、彼らにとって唯一つの、大人になる形なのだとしたら――私が化け物のままでいることにも、いくらかの意味はあるのかもしれない」

その言葉を聞いたとき、ノラは初めて、竜の孤独の深さに触れた気がした。竜は、ただ黙って泉と卵を守っているのではなかった。村の若者たちが胸を張って大人になっていくための舞台装置として、自ら化け物であり続けることを選んでいた。

夏が深まるにつれ、ノラは足繁く泉に通うようになった。水を汲む用事がなくても、日暮れ前のわずかな時間を見つけては、泉のほとりに座り込み、ジャバウォックの低い声に耳を傾けた。竜は問わず語りに、これまで迎えてきた挑戦者たちのことを、ぽつりぽつりと語ることがあった。剣を捨てて泣きながら逃げ帰った少年のこと、途中で足を挫き、竜に背負われて森の外まで運ばれた娘のこと、そのどちらも、村に戻れば「命がけの死闘」として語られたのだと、ジャバウォックは苦い声で付け加えた。

「お前は、それを恨まないの」

ノラが尋ねると、竜はしばらく黙り、それから静かに答えた。

「恨むという感情は、もう随分前に擦り切れてしまった。今、私の中に残っているのは、ただ、彼らが無事に村へ帰っていくのを見届けたいという思いだけだ」

ある夕暮れ、ノラは思い切って、以前から気になっていたことを尋ねた。

「祖母さんは、どうしてこの役目を受け継いだの。誰かに強いられたわけでもないでしょう」

ジャバウォックは、記憶をたぐるように、しばらく眼を細めた。

「お前の祖母は、まだ若い娘だった頃、迷い込んでこの泉に辿り着いた一人だった。怯えるでもなく、剣を持つでもなく、ただ渇きに任せて水を飲んだ。私はそのとき、何年ぶりかで、恐怖以外の眼差しを人から向けられた。彼女は帰り道、村の誰にも見たものを語らなかった。それからも、幾度となくここへ通い、いつしか、私と村との間に立つ者になった。頼んだ覚えはない。彼女が、自分でそう決めたのだ」

「じゃあ、私も」

「お前も、自分で決めればいい。継げとは言わない。ただ、この役目には、剣を握るのとは違う種類の勇気が要る」

その言葉は、長くノラの胸に残った。剣を持って森に入る勇気と、何も語らずに真実を抱え続ける勇気。どちらが重いのか、ノラにはまだ判じかねていた。

その年の夏、ベンが牙祭りの挑戦者に選ばれた。知らせを聞いたノラは、その足で森へ向かい、ジャバウォックにそのことを告げた。

「私の弟が、今年の挑戦者に選ばれた」

ジャバウォックは、しばらく何も言わなかった。夕暮れの光が水面を橙色に染め、竜の鱗の陰影を、いつもよりいっそう深く見せていた。

「お前の弟なら、私は今まで通りにする。牙を鳴らし、翼を広げて脅す。それで退けば、それでいい」

「もし退かなかったら」

「そのときは、これまでと同じように、傷つけずに気を失わせよう」

その答えに、ノラはひとまず安堵した。だが、家に帰って、父トマスがいつになく静かな声で語り始めた話を聞いて、その安堵は揺らぐことになった。

「わしがあの森に入った年のことだ」

トマスは、右腕の傷痕をなぞりながら、ぽつりぽつりと語った。囲炉裏の火が弱く爆ぜ、その明かりが父の顔に深い皺の影を落としていた。

「わしは、剣を構えて森の奥まで進んだ。だが泉のほとりで、あの竜と眼が合ったとき、体が動かなくなった。竜は吼えなかった。ただ、じっとわしを見ていた。わしは怖くて、剣を取り落として逃げた。逃げる途中、木の根に足を取られて転び、腕を鋭い岩で切った。この傷は、竜の爪の跡ではない。わしの、不甲斐なさの跡だ」

「じゃあ、村で言われている話は」

「わしは何も語らなかった。だが黙っていれば、村の者たちが勝手に、死闘の末の傷だと語り始めた。わしはそれを、否定しなかった。否定する勇気もなかった。それからずっと、わしはその噓の上に乗ったまま、お前たちの父親でいる」

トマスは深く息を吐いた。

「ベンには、本当のことを話すべきかもしれない。だが、それを話せば、あの子から何かを奪うことになる気もする。わしにはわからん。何が正しいのか」

ノラは何も言えなかった。竜が背負わされてきた孤独と、父が背負ってきた恥。その二つが、同じ一つの物語の裏表であることに、ノラはこのとき、はっきりと気づいてしまった。

三 牙祭りの夜

牙祭りの日は、澄んだ秋の朝に始まった。

村の広場には、朝早くから人が集まり、ベンを取り囲んで口々に激励の言葉をかけた。長老格のグレイヴズ翁が、代々の挑戦者の名を連ねる古い記録帳を開き、厳かな口調でベンの名を書き加えた。

「今宵、汝は森に入り、牙と爪の怪物と相まみえる。剣を取れ、若者よ。村の誇りを背負って」

グレイヴズ翁の声に、広場は歓声で沸いた。ベンは緊張しながらも、誇らしげにヴォーパルの剣を掲げた。ノラはその輪の外側から、じっとその光景を見つめていた。父トマスは、腕組みをしたまま、ひとことも発しなかった。祭りの支度をする村人たちの間を、太鼓の音と、子どもたちのはしゃぐ声が抜けていく。誰もが、これから森の奥で何が起きるのかを、正確には知らないままに、その夜を待ちわびていた。

日暮れ前、ノラはベンを引き止め、一言だけ伝えた。

「もし怖くなったら、剣を捨てて逃げていい。それは恥じゃない」

ベンは笑って、それを聞き流した。

「姉さんは心配性だな。大丈夫、僕は父さんの子だ」

その言葉に、ノラは何かを言いかけて、結局、飲み込んだ。

日が暮れて、ベンが森の入り口に立ったとき、ノラはこっそりと後を追った。人目を避け、獣道を選んで駆けたが、木々の根に何度も足を取られ、思うように進めなかった。息が上がり、頬に張り出した枝が幾度も肌を掠める。ベンの方が先に泉のほとりに辿り着いてしまう。ノラは焦りながら、暗い森の奥へと足を急がせた。

泉のほとりに、ノラが辿り着いたときには、すでに対峙は始まっていた。

ジャバウォックは、これまでと同じように、大きく翼を広げ、喉の奥から低い唸りを響かせていた。牙を剝き、眼を赤く光らせて、威嚇の姿を作っている。だがベンは、恐怖に震えながらも、剣を握る手を離さなかった。松明の炎に照らされたその顔は、蒼白で、それでいて奇妙な高揚に歪んでいた。

「退がりなさい」

ジャバウォックの声に、ベンはびくりと肩を震わせた。人の言葉を話す怪物に、心底驚いている様子だった。

「化け物が、口をきくのか……」

「退がれば、何もしない。剣を捨てて、村へ戻るがいい」

だがベンは退がらなかった。恐怖と、それ以上に、村の誰もが自分に懸けている期待の重さに突き動かされていた。父の沈黙も、母の眼差しも、広場の歓声も、すべてがベンの背を押していた。剣を握り直し、ベンは震える足でなおも前に踏み出した。

その瞬間、ノラは木陰から飛び出し、叫んだ。

「ベン、やめて! その竜は――」

だが遅かった。ベンは目を閉じたまま、無我夢中で剣を振るった。刃はジャバウォックの首筋を浅く裂いた。ヴォーパルの剣は、ただの鉄ではなかった。代々の挑戦者たちの祈りと恐れが染み込んだこの剣は、竜の分厚い鱗をも裂くだけの、本物の力を宿していた。

ジャバウォックの喉から、鈍い唸りが漏れた。傷は浅かったが、確かな痛みだった。竜は、その気になれば一瞬でベンを打ち払えたはずだった。長い爪の一振り、あるいは炎に似た息のひと吹きで、少年の細い体など容易く沈められただろう。ジャバウォックの赤い眼が、束の間、殺意にも似た光を帯びた。

だが、その光は、すぐに静かな色に戻った。

竜は、退かなかった。剣を厭わなかった。ただ、傷ついた首をわずかに傾け、ベンの二度目の一撃を、まっすぐに受け止めた。

鈍い音が、泉のほとりに響いた。ベンの手から力が抜け、剣が地面に落ちる。何が起きたのか理解できないまま、ベンはよろめき、その場に膝をついた。

ノラが泉のほとりに転がり込んだとき、目にしたのは、剣を取り落としたまま呆然と座り込むベンと、その足元に頭を横たえ、静かに息をひきとろうとしているジャバウォックの姿だった。

「なぜ……」

ノラは竜のそばに膝をつき、震える声で問うた。ジャバウォックは、力の失われていく眼を、ノラにだけ向けた。

「もし私が、本気で抗って、あの子を傷つけていたら――村は松明を掲げて、この森ごと焼きに来ただろう。泉も、卵も、何もかも」

竜の声は、もう掠れて、ほとんど聞き取れなかった。

「これで、いい。牙祭りは、ここで終わる。討たれた化け物の話は、これ以上、誰かを森に呼び込みはしない。……お前が、あとを継いでくれるなら」

ジャバウォックの眼から、赤い光が緩やかに薄れていった。ノラは、竜の頭に手を添えたまま、声にならない声で、何度もうなずいた。夜風が泉の水面を細かく揺らし、月明かりがその上で幾重にも砕けていた。

四 還らなかった真実

ベンは、竜の首の欠片――戦いの証として持ち帰った鱗の一片――を掲げて村に凱旋した。広場は歓声に包まれ、グレイヴズ翁は涙を流さんばかりにベンの肩を抱いた。誰もが口々に、若き英雄の武勇を讃えた。その夜のうちに、話はすでに膨らみ始めていた。竜は火を吐いたと誰かが言い、いや、山ほどの大きさだったと別の誰かが言い足した。ベンは戸惑いながらも、その熱狂に呑まれていった。

ノラは、その輪の中には加わらなかった。人々の歓声の向こうで、ただ一人、竜の最期の眼差しを思い返していた。

夜が更けて、村の喧騒がようやく静まった頃、ノラはベンをそっと呼び出した。焚き火の残り火のそばで、ノラは静かに口を開いた。

「あの竜は、お前を殺せた。でも、殺さなかった」

ベンは驚いた顔でノラを見た。

「あの竜が、なぜあそこで退かなかったか。なぜ、あんな傷を負ってまで、お前の剣を受けたのか。それだけは、覚えておいてほしい」

「姉さんは、何を知っているんだ」

ノラは、多くを語らなかった。竜が守っていた泉のこと、涸れかけた水源のこと、最後の卵のこと――そのすべてを語れば、ベンの中の何かが、決定的に壊れてしまう気がした。それに、竜自身が最後に望んだのも、おそらくそういうことではなかった。ただ、真実のほんの一片だけを、そっと弟の胸に置いておきたかった。

「いつか、わかるときが来ると思う。それまでは、心のどこかに留めておいて」

ベンは納得のいかない顔をしていたが、それ以上は問わなかった。傍らで、父トマスが、何も言わずにベンの肩に手を置いた。その手つきには、かつて自分が受け取れなかった何かを、せめて息子には手渡そうとするような、不器用な優しさがあった。

それから幾日か経った早朝、ノラはいつものように水桶を提げて、森のほとりへと向かった。タムタムの木の根元の泉は、竜がいなくなってもなお、涸れることなく、静かに水を湛えていた。ノラは泉のほとりに膝をつき、木の根の暗い窪みにそっと手を差し入れた。指先に触れたのは、乾いた土に埋もれた、いくつかの硬い殻の感触だった。まだ、確かに温かかった。

村では今も、牙祭りの英雄譚が、少しずつ形を変えながら語り継がれている。次の牙祭りの担い手を巡って、すでに幼い子どもたちの間で、誰が挑戦者にふさわしいかという他愛のない噂話が始まっていた。だがその森の奥で、涸れかけた泉が今日も静かに水を湛え、誰にも知られぬまま、次の世代の命を育んでいることを、知る者は村にただ一人しかいない。

ノラは、その日から毎朝、水を汲む前に、木の根の窪みにそっと手を添えるようになった。祖母がかつてそうしていたように、これからは自分がそうするのだと、誰に言うでもなく、静かに決めていた。風が梢を渡り、泉の水面に細かな波紋を広げるたびに、ノラはそこに、もういない竜の赤い眼が映るような気がして、そっと目を伏せた。

本作はルイス・キャロル(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)の『ジャバウォックの詩(Jabberwocky、『鏡の国のアリス』第一章所収、1871年発表)』を参考にした作品です。原典