竜は分け前を惜しまなかった
嵐で船を失った漂流者が流れ着いた無人島には、翼を折られ飛べぬ竜がすでに棲んでいた。言葉を持たぬ二人は獲物を分け合い、危険を身振りで教え合ううちに、上下のない対等な絆を結んでいく。ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の翻案。
一 難破の渚
嵐は三日三晩やまなかった。
商船アルビオン号は西インド航路の中程で北から来た暴風に捕まり、帆を裂かれ、舵を失い、最後には竜骨から真っ二つに折れた。水夫ウィル・ハーロウが憶えているのは、波間に投げ出された瞬間の冷たさと、誰かの叫び声が波音に呑まれて消えていったことだけだった。板切れにしがみつき、幾度も波にさらわれかけながら、彼はただ闇雲に藻掻き続けた。潮の匂いと血の味が口の中で入り混じり、意識は幾度も遠のいた。気がつけば彼は見知らぬ渚に打ち上げられ、口の中には塩と砂利の味が満ちていた。
ウィルは元来、港町の外れで育った鍛冶屋の三男坊だった。家業を継ぐ長兄たちの陰で、自分の居場所を見つけられずにいた彼は、十六の歳に家を出て船乗りになった。海の上でなら、生まれの順も、家督の有無も関係がない。ただ働いた分だけ、周りに認められる。そう信じて幾つもの航路を渡り歩いてきたが、いざ嵐に呑まれてみれば、これまで積み上げてきた経験も度胸も、荒れ狂う海の前ではあまりに無力だった。
半日ほど倒れたまま動けずにいたウィルは、ようやく身を起こし、渚を見渡した。仲間の姿はどこにもなかった。難破した船の残骸だけが、白い波間に黒々と浮かんでは沈み、また浮かんでいた。積み荷の樽が一つ、二つと打ち上げられているのを見つけ、彼は這うようにしてそこへ向かった。中身は塩漬けの干し肉と、水を通さぬよう蝋で封じられた火打石だった。それだけが、この島でウィルに与えられた、ささやかな元手だった。彼はただ一人、名も知らぬ島に取り残されたのだと悟った。
飢えと渇きに追われるまま、ウィルは島の奥へと踏み入った。椰子の葉陰、苔むした岩、蔓の絡んだ木々。人の手の入っていない土地特有の、息の詰まるような静けさがあたりを満たしていた。鳥の声さえ、どこか遠慮がちに聞こえた。三日目、水を求めて入り江の奥まで歩いたとき、彼はそこで異様なものを目にした。
砂浜に、見たこともない大きさの爪痕が幾筋も刻まれている。近くの岩には、焦げたような黒い跡と、鱗のような硬い破片が散らばっていた。潮騒に混じって、何か大きなものの荒い息遣いが聞こえてくる。ウィルは息を殺し、岩陰に身を隠しながらその跡を辿った。
入り江の奥、切り立った崖の下に、それはいた。
全長は小舟ほどもあろうか。灰緑色の鱗に覆われた巨躯が、波打ち際の岩場に力なく横たわっている。片方の翼は根元から折れ曲がり、破れた膜のあいだから覗く骨が痛々しく歪んでいた。竜だった。物語や酒場の与太話でしか聞いたことのない生き物が、傷ついた獣のように荒い息を吐きながら、そこに蹲っていた。周囲の岩には焦げた跡があり、暴風に煽られて幾度も雷を落としながら墜ちてきたのだろうと、ウィルは想像した。この竜もまた、あの嵐に翻弄され、空から突き落とされたのだ。
ウィルは動けなかった。逃げることも、近づくことも出来ぬまま、ただ岩陰から竜を見つめていた。竜もまた、ウィルの気配に気づいたのだろう、濁った金色の目をゆっくりとこちらへ向けた。その目には、獲物を狙う獣の光ではなく、ただ深い疲労と、警戒だけがあった。
しばらくの間、二つの生き物は睨み合ったまま動かなかった。竜は起き上がろうとしたが、折れた翼が砂を掻いただけで、苦しげな唸り声を漏らして崩れ落ちた。その音には、獣の怒りよりも、何かに追い詰められた者だけが出す響きがあった。ウィルはふと、自分がこの数日発してきた呻きと、似た調子であることに気がついた。
その日、ウィルは竜に近づくことも、島の反対側へ逃げることもしなかった。ただ少し距離を置いた岩の上に腰を下ろし、竜が自分を襲う気配のないことを確かめながら、夜まで様子を窺っていた。竜もまた、ウィルを追い払おうとはしなかった。ただ、互いの間に横たわる見えない境界線だけを、二匹の獣同士のように守り続けていた。
夜になっても、ウィルはその場を動かなかった。焚くべき火もなく、身を横たえる寝床もなかったが、不思議と恐怖はなかった。頭上には見慣れぬ星が瞬き、崖下からは竜の低く規則正しい息遣いが響いてくる。それはどこか、船の甲板で聞いた仲間たちの寝息にも似ていた。同じ嵐に打たれ、同じ渚に打ち上げられた者同士。言葉を交わす術も、そのつもりもなかったが、ウィルにはなぜか、この巨大な生き物もまた、自分と同じように何かを失い、何かに置き去りにされた漂流者であるように思えてならなかった。
二 分け合う糧
最初の数週間、ウィルは竜に近づかなかった。壊れた船の残骸から板や帆布を運び、入り江から少し離れた高台に粗末な小屋を建て、椰子の実や貝、浅瀬の魚を漁って命を繋いだ。竜は竜で、動かぬ翼を庇いながら岩場を這うようにして餌を探し、痛みに呻きながらも、じっと傷が癒えるのを待っているようだった。互いの縄張りを侵さぬよう、二人はそれぞれの生活圏を守り、ただ遠くからその姿を確かめ合うだけの日々が続いた。
転機は、ある晩訪れた。その日ウィルは運よく大魚を仕留めたが、一人では食べきれぬほどの量だった。腐らせるには惜しく、かといって干物にする道具もない。ウィルはしばらく思案した末、余った半身を竜のいる岩場の手前に置いて、そのまま小屋へ戻った。夜通し、彼は自分のしたことの意味を測りかねて、まんじりともせずにいた。もし竜がそれを罠と受け取り、怒りに任せて小屋を襲いに来たらどうしよう。そんな考えが頭を離れなかった。
翌朝、魚は跡形もなく消えていた。そして、ウィルが置いた場所には、見慣れぬ貝殻の山が積まれていた。中身の肉はすでに丁寧に抉り取られている。まるで、代わりに食えというように。
ウィルは声を上げて笑った。何日ぶりかの、笑い声だった。
それから二人――いや、二匹と呼ぶべきか――の間には、言葉によらない取り決めが少しずつ生まれていった。ウィルが多く獲れた日は魚を分け、竜が牙にかけた獲物の余りを分けてよこす。互いの縄張りを侵さぬよう、境界の岩に印を置く。やがてウィルは、竜の低い唸り方の違いに気づくようになった。喉の奥から響く長い唸りは静けさの合図、短く鋭い咆哮は近づく危険の知らせだった。
ある夕暮れ、ウィルが薪を探して森の奥まで踏み入ったとき、藪の向こうから牙を剥いた野生の猪が飛び出してきた。逃げる間もなく地面に組み伏せられかけたそのとき、崖の方から轟くような咆哮が響き渡った。竜だった。折れた翼を庇いながらも、竜は驚くべき速さで岩場を這い進み、猪の前に立ちはだかると、太い尾を一閃させて弾き飛ばした。猪は悲鳴を上げて藪の奥へ逃げ去り、ウィルはその場に尻もちをついたまま、しばらく声も出せなかった。
「……助かった」
竜は答えず、ただ荒い息をついていた。無理な動きが応えたのだろう、傷んだ翼の付け根を庇うように身を丸めている。ウィルは震える手を伸ばし、恐る恐るその傷の周りに触れた。竜は牙を剥きかけたが、すぐにその動きを止め、されるがままにしていた。その日を境に、ウィルは竜の折れた翼の手当てをするようになった。海辺に自生する薬草を揉み、傷口に塗り込める。最初は威嚇するように牙を剥いた竜も、次第にウィルの手を受け入れるようになった。竜の方も、ウィルが崖を登れず立ち往生していれば、太い尾を差し伸べて足場代わりにした。命令する者もされる者もなく、ただ互いが互いの欠けた部分を、当たり前のように補い合う日々が積み重なっていった。
ある午後、竜が珍しく苛立たしげに尾を地面に叩きつけ、ウィルのいる方角へ向かって繰り返し咆哮した。何が起きているのか分からぬまま、ウィルは慌てて崖の上へ駆け上がった。見れば、水平線の彼方に黒々とした雲の壁が迫っている。これまで経験したどの嵐よりも巨大な、島全体を呑み込みかねない暴風だった。竜の警告がなければ、ウィルは小屋の中で何も知らずに眠っていただろう。
その夜、ウィルは持てる限りの板と綱を担いで竜のいる岩陰へ走った。竜の傍らの崖の窪みは、風を遮るには格好の場所だったが、屋根代わりになるものがなかった。ウィルは震える手で板を組み、竜はその巨体で風上を塞ぐように身を横たえた。人の力では到底支えきれぬ突風のたびに、竜は歯を食いしばって踏ん張り、ウィルは飛ばされそうになる板を必死に押さえ続けた。雨は横殴りに叩きつけ、稲光が崖を白く照らすたびに、竜の目がウィルの無事を確かめるように動いた。
嵐が去った明け方、二人はしばらく声もなく、崩れかけた仮小屋の下でただ荒い息をついていた。ウィルはふと、自分の背が竜の脇腹に凭れかかっていることに気づいた。竜もまた、それを厭う素振りを見せなかった。互いの体温が、冷え切った夜の名残をゆっくりと溶かしていった。
「お前がいなければ、俺はとうに死んでいたな」
ウィルはぽつりと呟いた。竜は低く喉を鳴らし、尾の先でウィルの足に軽く触れた。答えというにはあまりに拙い仕草だったが、ウィルにはそれで十分だった。
以来、ウィルは日々の出来事を、誰にともなく竜へ語りかけるようになった。
「今日は波が高いな。魚は望み薄か」
竜は答えない。だが低く喉を鳴らし、時にウィルの言葉に合わせるように尾の先を揺らした。それが返事なのか、単なる偶然なのか、ウィルには分からなかった。それでも構わなかった。ウィルは竜に名をつけようとは思わなかった。名をつければ、どちらかがどちらかを飼い、あるいは従える関係になってしまう気がしたからだ。二人はただ、互いを互いのまま、隣人として受け入れていた。言葉が通じずとも、隣に息をする者がいるという事実だけで、島の夜は幾分か静かに更けていくのだった。
雨季が去り、乾いた風の吹く季節が来るたび、竜の翼は少しずつ元の形を取り戻していった。折れていた骨は歪んだままくっつき、以前のようにまっすぐ広げることは叶わなかったが、それでも痛みに呻く日は目に見えて減っていった。ウィルは薬草の在り処を覚え、竜は獲物の追い込み方を覚え、二人の暮らしには次第に、言葉のいらない役割分担というべきものが根付いていった。
朝、ウィルが目を覚ますと、決まって竜はすでに岩の上で東の海を見張っていた。潮の色を見て漁の当たり外れを教えるのも、竜の役目のようになっていた。海面が銀色に凪いでいる朝は、竜は入り江の浅瀬を軽く叩いて魚群の在り処を示し、逆に波が濁って荒れている朝は、決して漁に出ようとせず、ウィルの袖を吻先で軽く押し留めた。最初のうちウィルはその仕草の意味を測りかねていたが、幾度か強引に漁へ出て手ぶらで戻るうち、竜の合図の正しさを思い知らされるようになった。以来、ウィルは竜の示す方角に黙って従うようになり、竜もまた、ウィルが焚火の傍らで繕い物をする間、飽きもせずその手元を眺めているのが常だった。
言葉がない分、二人は互いの機嫌や体調の変化に、人間同士よりもよほど敏感になっていた。ウィルが熱を出して寝込んだ夜には、竜は一晩中小屋の外に蹲り、獣の唸り声が近づくたびに低く威嚇して追い払った。竜の傷が膿んで熱を持った日には、ウィルは眠る間も惜しんで海水で傷口を洗い、涼しい葉陰に竜を導いた。看病する者とされる者の立場は、幾度となく入れ替わり、そのたびに二人の間の貸し借りは、きれいに帳消しになっていった。
三 帆影の裏切り
季節はいくつも巡った。ウィルの髪は伸び放題になり、着ていた服はとうに擦り切れ、島の獣皮を繕った衣に取って代わられていた。竜の翼も、長い年月の手当てと安静によって、以前ほどの激しい痛みは訴えなくなっていたが、飛べるまでには程遠く、相変わらず岩場を這うようにして過ごしていた。
その日、ウィルが崖の上から水平線を眺めていると、いつもと違う染みが目に留まった。帆だった。船が一隻、この島に向かって近づいてくる。
心臓が跳ねた。何年ぶりかの、人の営みの気配だった。ウィルは崖を駆け下り、竜のいる岩場を横目に見ながら、渚へと走った。竜もまた異変を察したのか、低く唸りながら首をもたげ、水平線を睨んでいた。ウィルはその唸りの中に、いつもとは違う硬さがあるのを感じ取ったが、胸の高鳴りに紛れて深く気には留めなかった。
船は入り江に錨を下ろし、水夫たちが小舟でこちらへ渡ってきた。粗末な身なりの漂流者を見つけた彼らは、最初こそ驚いた顔をしたが、すぐに歓声を上げてウィルを取り囲んだ。
「生きている人間がいるとはな! さあ、船に乗れ。故郷まで送ってやろう」
指揮を執る恰幅の良い船長は、そう言って気安くウィルの肩を叩いた。長年待ち焦がれた言葉のはずだった。ウィルの胸に、故郷の匂いや、忘れかけていた人々の顔がどっと押し寄せた。誰かに背中を押されるように涙腺が緩みかけ、ウィルは何度も頷いた。だが同時に、彼の視線は自然と、崖の陰でこちらの様子を窺う竜の方へと吸い寄せられていた。
そのとき、水夫の一人が崖の岩陰に蹲る巨体に気づき、悲鳴じみた声を上げた。
「船長! あそこに、化け物が!」
船長の目の色が変わった。恐怖ではなく、欲得の光だった。
「竜だと……? 鱗も牙も、王侯貴族が幾らでも金を積む代物だ。皆、武器を持て。手負いのようだ、仕留めるのは容易かろう」
水夫たちは色めき立ち、剣や銛を手に岩場へと駆け出した。ウィルは我に返り、彼らの前に立ちはだかった。
「待ってくれ! その竜は、私を殺す気などない。何年もの間、共にこの島で生き延びてきた仲間だ」
船長は鼻先で笑った。
「仲間だと? 馬鹿げたことを。お前は長く一人でいすぎて、頭がおかしくなったのだろう。どけ、坊主。あれを仕留めれば、お前の何倍もの値になる」
「どかない」
ウィルは震える声で、しかしはっきりと言った。何年も忘れていた故郷の言葉を、今ここで、竜を守るために使うことになろうとは思っていなかった。水夫たちはウィルを押しのけようとしたが、その刹那、崖の陰から低い、地を這うような咆哮が響いた。
竜が、痛む翼を庇いながらも身を起こし、ウィルを庇うように前へ出てきたのだ。牙を剥き、喉の奥で燃えるような唸りを上げるその姿は、確かに「化け物」と呼ぶにふさわしい迫力だった。だが、ウィルにはその目の奥にある感情が分かった。恐怖ではなく、守ろうとする意志だった。
水夫の一人が銛を投げつけた。竜はそれを尾で払いのけ、体当たりで数人を弾き飛ばした。だが噛みつくことも、爪で引き裂くこともしなかった。ただ、彼らを追い払うことだけに徹していた。倒れた水夫たちが悲鳴を上げて後退る中、ウィルもまた竜の傍らに立ち続け、なおも武器を構えようとする者の腕を掴んで押しとどめた。
「見ろ、殺す気なら、とうにお前たちを皆殺しにしている! この竜は、誰も食い殺してなどいない。おれたちを傷つけたいわけじゃないんだ、ただこの島から出ていってほしいだけなんだ」
騒然とする浜辺で、船長はしばらく忌々しげにウィルと竜を見比べていたが、やがて舌打ちをして手を上げ、水夫たちを退かせた。
「正気を失った漂流者と、化け物の島か。関わり合いになるだけ損だ。おい、戻るぞ」
船長はウィルに最後の一瞥をくれた。
「乗るなら今のうちだぞ。次にこの島に船が来る保証はない」
ウィルは竜を見た。竜もまた、傷ついた体を震わせながらウィルを見つめていた。故郷への道は、目の前にあった。この機を逃せば、二度と人の世に戻れぬかもしれない。頭では分かっていた。だがウィルは、静かに首を振った。
「行かない。仲間を置いて、一人だけ帰るわけにはいかない」
船長は肩をすくめ、それ以上何も言わずに小舟へ戻っていった。船はやがて帆を張り、水平線の彼方へと消えていった。ウィルはその帆影が見えなくなるまで、渚に立ち尽くしていた。込み上げる感情が、安堵なのか後悔なのか、自分でも判じかねた。それでも、隣に竜がいる限り、選び直したいとは思わなかった。
隣に、竜が並んで蹲っていた。傷だらけの体で、それでもウィルを守り抜いた竜の脇腹に、ウィルはそっと手を当てた。
「ばかな真似をしたな、お互いに」
竜は答えなかった。だが、疲れ切った喉の奥で、低く穏やかな音を鳴らした。それは、初めて聞く種類の音だった。
四 二つの航跡
船が去ってからというもの、ウィルの中で何かが変わった。もう故郷に帰れるかもしれないという淡い期待に、心を煩わされることはなくなった。その代わり、竜の翼をどうにか癒し、いつか自分たちの力だけでこの島を出る道を探そうという、静かな決意が芽生えていた。
日々の手当ては、以前にも増して丹念になった。骨の歪みを整え、傷を洗い、腫れが引くたびに少しずつ翼を広げさせては、動きを確かめた。竜もまた、ウィルの手当てに応えるように、痛みに耐えて翼を動かす稽古を重ねた。何百回目かの、ある明け方のことだった。
崖の上で羽ばたきの練習をしていた竜が、ふいに強い風を捉え、その巨体をふわりと宙に浮かせた。ほんの数秒、それでも確かに、竜は地を離れていた。
ウィルは声も出せずに、その光景を見上げていた。長い年月の果てに、竜がついに空を取り戻した瞬間だった。着地した竜は、興奮を抑えきれぬように喉を鳴らし、崖を降りてウィルの元へ駆け寄ってきた。まるで、真っ先にこの喜びを分かち合う相手を、他に知らぬというように。
「飛べたな。お前は、もう行けるぞ」
ウィルは笑いながら、そう言った。だがその声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。竜が飛べるようになった今、この島に留まる理由はもう竜にはない。自由な空を、竜が選ぶのは当然のことだった。
しかし竜は、その日も、次の日も、島を去ろうとはしなかった。代わりに、これまでウィルが一人では動かせなかった大木を、その顎と爪で次々と切り倒し、渚まで運び始めた。ウィルはしばらく戸惑っていたが、やがてその意図を悟った。
筏だ。竜は、ウィルが海を渡るための筏の材料を、集めているのだった。
二人は幾日もかけて、流木を組み、帆布の切れ端を継ぎ合わせて帆を張った。竜は太い枝を運び、ウィルは縄を綯った。誰に教わるでもなく、互いの得意を持ち寄って、一艘の粗末な筏が渚に姿を現した。夜になると二人は焚火のそばで並んで休み、その静けさの中で、ウィルはこれまでの歳月を思い返した。言葉を交わせぬまま過ごした年月が、他の誰と交わした言葉よりも深く、自分の内側に刻まれていることに、彼は今更ながら気づかされていた。
出発の朝、ウィルは筏に乗り込む前、しばらく竜と向き合った。竜は、あの初めて出会った日と同じ金色の目で、じっとウィルを見つめていた。だがそこにはもう、警戒の色はどこにもなかった。
「一緒に来てくれるか」
竜が言葉を解したかどうかは分からない。だが、竜はゆっくりと翼を広げ、力強く一度、羽ばたいた。それは、応えのように、ウィルには思えた。
筏が波間に押し出されると、竜は崖を蹴って宙に舞い上がり、筏の頭上を旋回し始めた。ウィルは頼りない帆を操りながら、絶えず頭上を仰いだ。誰の指図も受けず、上下の隔てもなく、ただ互いの歩む先を見失わぬように、竜は風に乗って筏の航路を導き、時に急を告げるように鳴いて、迫る岩礁を教えた。
幾日かの後、ウィルの筏は見知らぬ漁村の浜に流れ着いた。人々が駆け寄り、彼を助け起こす声が、遠い潮騒のように耳に届いた。ウィルは霞む目で空を見上げた。竜は村の上空を一度大きく旋回すると、群衆のどよめきをよそに、そのまま沖へ、そして雲の彼方へと羽ばたいていった。
言葉は、最後まで交わせなかった。名前すら、竜には与えなかった。それでもウィルは知っていた。あの日、渚で睨み合った二つの漂流者は、互いに何も奪わず、何も強いず、ただ分け合うことだけを続けてきたのだと。竜が空へ帰る場所と、ウィルが陸で紡いでいく暮らしとは、これから先、二度と交わらないかもしれない。それでも構わなかった。この島で過ごした歳月は、上下も貸し借りもない、ただ対等な隣人として支え合った日々として、これから先もウィルの中で色褪せることはないだろう。
竜の飛び去った空は高く澄み渡り、いつまでも青かった。ウィルは浜に座り込んだまま、その青さが胸の奥に染み込んでいくのを、長い間、静かに感じ続けていた。