竜は渡りの道を忘れなかった
小さきものを弄んだ罰で掌ほどに縮められた悪童・千弥は、雁の群れにさらわれ空の回廊を旅することになる。幾千年にわたり渡りの道を守り続けてきた老竜・渡守との出会いが、傲慢だった少年の心に小さきものへの慈しみを芽生えさせていく成長の物語。
一、悪童と小さき者
蘆原(あしはら)郷は、北の山々から続く湿地の際に開けた小さな村だった。秋の初めと春の終わり、村の空を渡り鳥の大群が幾日も通り過ぎていく。村人たちはその道筋を「空の回廊」と呼び、鳥たちが列を乱さず飛び続けるさまを、遠い昔から変わらぬ恵みのしるしとして眺めてきた。老人たちは口を揃えて言った。あの道には、目には見えぬ守り手がいる、と。誰も本気にはしていなかったが、誰も本気で疑いもしなかった。
その年の秋は、渡りの気配がどこか妙だった。まだ稲刈りも済まぬうちから、北の空に幾筋もの雁の影がちらつき、村の古老・与平(よへい)は縁側で腕を組んでは首を捻った。「例年よりひと月は早い。何かが道を急がせておるのかもしれん」その呟きを気に留める者はほとんどいなかったが、与平の飼う老犬だけは、その夜以来、夜ごと北の空に向かって低く唸り続けていた。
その郷で、千弥(せんや)ほど手のつけられない悪童はいなかった。鶏小屋の閂を外して笑い、蛙の後ろ脚に藁を結んで跳ねる様を眺め、隣の畑の案山子を倒しては何食わぬ顔で通り過ぎる。叱られても悪びれる様子はなく、次の日にはまた別の悪さを企んでいた。
つい先日も、千弥は隣家の飼い猫の尻尾に鈴縄を結びつけ、猫が驚いて逃げ惑うさまを腹を抱えて笑っていた。猫はその晩とうとう戻らず、隣家の老婆は三日も戸口に立って呼び続けた。千弥はそれを見ても、悪いことをしたとは微塵も思わなかった。むしろ、自分の仕掛けがそれほどまでに効いたことが誇らしくさえあった。父に叱られれば首をすくめ、母に叱られれば口を尖らせる。だがそのどちらも、右から左へと通り抜けていくだけだった。
「あの子は、そのうち痛い目を見るよ」
近所の女たちはそう囁き合ったが、千弥自身は聞く耳を持たなかった。彼にとって世界とは、自分より小さく、弱く、逆らえないものが詰まった遊び場のようなものだった。
千弥の家では、白斗(はくと)という名の白い雁を飼っていた。二年前の秋、片翼を痛めて群れから落ちたのを千弥の父が拾い、癒えるまで庭先で育てたのが始まりだった。翼はすっかり治ったが、白斗は野に帰されることなく、そのまま家禽として庭に留め置かれた。渡りの季節が近づくたびに、白斗は落ち着きなく首を伸ばし、北の空を見上げては細く鳴いた。その声には、千弥にはまだわからない何かが滲んでいた。
ある夕暮れ、千弥は田の畦を歩いていて、小さな人影を見つけた。掌に載るほどの背丈で、藁束を編んだような姿をした、畦守(あぜもり)と呼ばれる田の精だった。年寄りたちは、畦守を見た者には豊作が約束されると言い伝えていたが、千弥にとってそんな話はどうでもよかった。彼はただ、珍しいものを見つけた興奮のままに飛びつき、あっという間に畦守を素焼きの壺に閉じ込めてしまった。
「明日、みんなに見せてやる。田の精を捕まえたぞって」
壺の中で、畦守は身じろぎもせず、ただ静かに千弥を見上げていた。その目には、恐れよりも、深い落胆の色があった。
「お前は、験す者になろうとしている」畦守の声は、乾いた葉の擦れる音に似ていた。「小さきものを弄ぶ者は、いつか自らが弄ばれる番になる。それが理の均衡というものだ」
千弥は鼻で笑った。「藁人形が偉そうに」
彼は壺を無造作に傾け、畦守を田の泥へと転がり落とした。運悪くその拍子に、苗の一列が踏み荒らされた。畦守は泥にまみれながら身を起こすと、千弥をまっすぐに見上げ、最後にひとことだけ告げた。
「お前がそのように小さきものを慰み物とするならば、次にお前自身が、慰み物にされる番だ」
その声が消えると同時に、畦守の姿もまた、夕闇に溶けるようにかき消えた。千弥はそれを気にも留めず、口笛を吹きながら家路についた。
その夜、千弥は妙な息苦しさに目を覚ました。布団が、これまでにない広さで自分を包んでいる。手足を動かそうとして、彼は自分の指がひどく小さいことに気づいた。掌の上に乗るほどの、豆粒のような体になっていたのだ。悲鳴を上げようとしたが、喉から出たのは蚊の羽音のような、頼りない音でしかなかった。
パニックのまま布団の間を這い出し、開け放たれた戸口から庭へ転げ出た千弥の目に映ったのは、夜明けの空を渡っていく雁の群れだった。庭の柵の中では、白斗が羽をばたつかせ、何かに応えるように鳴き続けている。今年はいつもより早い渡りだった。千弥が助けを呼ぼうと声を張り上げた、その時だった。柵の隙間から、白斗が勢いよく飛び立った。とっさに伸ばした千弥の手は、白斗の首の羽毛をつかんでいた。振り落とされまいと必死にしがみつくうち、体は宙に浮き、蘆原郷の屋根も畑も、みるみる遠く小さくなっていった。
二、空の回廊、老竜との邂逅
風は冷たく、耳元で唸りを上げた。千弥は白斗の羽毛にしがみついたまま、生まれて初めて鳥の目で世界を見下ろしていた。畑は継ぎ接ぎの布のようで、川は光る細い糸のようだった。恐ろしさと同時に、これまで感じたことのない眩暈に似た昂りが、胸の奥から込み上げてくる。
群れを率いるのは、銀翅(ぎんし)という名の老いた雌雁だった。人間の子が紛れ込んでいると知るや、彼女は鋭い声で咎めた。
「お前のような重荷を、なぜ乗せねばならぬ。振り落とせと言うなら容易いことだ」
「待ってくれ、銀翅」白斗が羽ばたきながら答えた。「この子はおれの育て親の子だ。おれが目を離した隙にしがみついたのだ。責めるなら、おれを責めてくれ」
銀翅はしばらく千弥を睨めつけていたが、やがて短く息を吐いた。「次の宿り木まで、だ。それ以上は約束できぬ」
その日の昼下がり、群れは麓の草地で羽を休めることになった。千弥が白斗の背から降り、慣れない小さな体で草の間を歩いていると、赤茶けた毛並みの狐が茂みの奥からじっとこちらを窺っているのに気づいた。狐は舌なめずりをしながら、眠りこける若い雁の群れに向かって、音もなく身を低くしていく。かつての千弥なら、それを面白い見世物として眺めていたかもしれない。だが今の彼の体では、狐にとって自分もまた恰好の獲物でしかなかった。震える声を振り絞り、精一杯の大声で叫んだ。
「狐だ! みんな、逃げろ!」
蚊の鳴くような声だったが、近くにいた一羽が異変に気づいて羽ばたき、それが次々と伝播していった。群れは慌てて飛び立ち、狐は虚しく空を見上げるだけに終わった。銀翅は千弥を一瞥したが、何も言わなかった。それでも、その目に浮かんでいた敵意が、わずかに和らいだのを千弥は感じ取っていた。
夜が更け、群れは山あいの峠を越えようとしていた。折悪しく濃い霧が這い上がり、月の光さえ届かなくなった。冷え切った風が谷底から吹き上げ、羽毛の隙間にまで染み込んでくる。先頭を行く若い雁が、方角を見失って高度を崩す。慌てふためく羽音が連鎖し、群れ全体が乱れ始めた。千弥は白斗の首にしがみついたまま、切り立った岩肌がすぐ下に迫るのを目にし、恐怖で声も出せずにいた。このまま群れごと岩壁に叩きつけられるのではないか――そんな想像が、頭の中を駆け巡った。
そのとき、闇の底から低い響きが伝わってきた。地鳴りのような、それでいてどこか歌に似た音だった。霧の向こうに、途方もなく大きな影が浮かび上がる。鱗は星明かりを吸い込んだような深い藍色に輝き、両の眼だけが、遠い篝火のように静かに燃えていた。竜だった。それも、千弥がこれまで想像したどんな竜よりも大きく、そして古く見える竜だった。
竜は低く唸ると、翼を広げて群れの前方をゆっくりと旋回した。その動きに導かれるように、乱れていた雁たちの隊列が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。やがて一同は、峠の中腹に張り出した岩棚へと安全に降り立った。
雁たちは一様に首を垂れ、静かに頭を下げた。何十世代にもわたって語り継がれてきた敬意の作法であるらしかった。竜はその礼を当然のことのように受け流し、それから初めて、千弥の存在に気づいたように目を細めた。
「人の子が、なぜここにいる」
声は低く、腹の底に響いた。千弥は震える体で、精一杯虚勢を張った。「た、たまたま乗っていただけだ。文句あるか」
竜――鳥たちは彼を渡守(わたりもり)と呼んだ――は、しばらく無言で千弥を見つめていた。その眼差しには、怒りよりも、底の見えない諦観のようなものが滲んでいた。
「お前のような驕った目に、この道の尊さがわかるはずもない」渡守は静かに言った。「だが今この場で振り落とせば、お前は間違いなく死ぬ。次の宿りまでは、連れて行くがよい」
それは慈悲というより、ただの計算に聞こえた。千弥は反発を覚えながらも、口を噤むしかなかった。
三、幾千の渡りの記憶
旅は幾日も続いた。湖のほとりで羽を休めた夜、千弥は人間の仕掛けた網が、休む雁たちの群れに向けて張られているのを見つけた。声を上げても誰にも届かない体では、飛んで逃げるよう促すことすらできない。千弥は小さな体を活かし、暗闇に紛れて網の結び目まで這い進むと、渾身の力で紐を噛み切った。仕掛けが崩れる音に驚いた狩人たちが灯りを掲げる頃には、群れはすでに空高く舞い上がっていた。
銀翅は、その夜初めて千弥に礼を述べた。「小さな体でよくやった。お前を見くびっていたようだ」
渡守もまた、そのことを黙って見ていたらしかった。翌晩、岩棚で羽を休める群れのかたわらで、渡守はぽつりと問うた。
「なぜ、あのようなことをした。お前には関わりのないことだったろうに」
「わからない」千弥は正直に答えた。「ただ、あの網にかかる雁たちを見たら、いつか自分がやったことを思い出した。小さいものを、面白半分に痛めつけてきたことを」
渡守は初めて、わずかに眼を伏せた。「お前がここに流れ着いた経緯を、雁たちから聞いた。田の精を壺に閉じ込めたそうだな」
千弥は答えられなかった。渡守は続けた。
「私はこの道を、数えるのも億劫になるほど長く見守ってきた。かつて、ひどい渇水の年があった。人が川の上流に堰を築き、水を独り占めしようとした年だ。下流の湿地は干上がり、休むはずだった何千という鳥たちが、力尽きて落ちていった。羽ばたく力さえ残らぬまま、干からびた泥の上に折り重なっていく光景を、私は幾夜も幾夜も、ただ見ていることしかできなかった。鳴き声が一つ、また一つと絶えていくたび、この身の大きさも力も、何の役にも立たぬのだと思い知らされた。あの日から、私はこの道を守ると決めた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、二度と同じ過ちを、見過ごしたくなかっただけだ」
その声には、千弥がこれまで聞いたどんな大人の言葉より、深い重みがあった。星空の下で語られるその記憶の断片は、渓谷を渡る風のように千弥の胸を通り抜けていった。小さきもの、弱きものの命の重さが、初めて実感として体の内側に落ちてくる。
翌々日、群れは崩れかけた古い塔の跡地で羽を休めた。かつて渡り鳥を祀る社があったという場所だった。渡守は苔むした石段に身を横たえ、幾つもの季節を通り過ぎていった鳥たちの名を、独り言のように数え上げた。「この石が積まれた頃、まだ人はこの道の名すら知らなかった。だが鳥たちは知っていた。命をつなぐ道として、迷わずここを選び続けてきた」
「あなたは、寂しくないのか」千弥は思わず尋ねた。「誰にも気づかれず、ずっとここにいて」
渡守はしばらく黙り、それから喉の奥で小さく笑うような音を立てた。「寂しいと思う暇があれば、次の嵐の兆しを探す。もっとも――お前のような騒がしい人の子が転がり込んでくるのは、幾百年に一度のことだが」
その言葉に、千弥は思わず頬を緩めた。硬く冷たいだけだと思っていた渡守の声に、確かな温もりが混じっていることに、彼は気づき始めていた。振り返れば、蘆原郷では誰も彼の話に本気で耳を傾けてはくれなかった。ここではじめて、千弥は誰かに真正面から向き合われている心地がした。同時に、蘆原の田で壺に閉じ込めた畦守の、落胆した眼差しがふと脳裏をよぎった。あの小さな精霊もまた、誰にも気づかれぬまま、ただ黙々と畦を守り続けてきたのだろう。帰ったら真っ先に詫びよう――千弥は星空の下、そっとそう心に決めた。
その数日後の夜更け、寝ずの番をしていた千弥は、闇の中に音もなく滑空してくる大きな梟の影に気づいた。狙いは、群れの端で眠りこける最年少の雛だった。声を上げる間もない。千弥はとっさに小石を拾い、渾身の力で梟の顔めがけて投げつけた。狙いは外れたものの、思いがけない不意打ちに梟がひるんだ隙に、雛は悲鳴のような声を上げて飛び起き、難を逃れた。騒ぎに気づいて舞い降りてきた渡守が、逃げていく梟の背を見送りながら、千弥を見た。
「石ひとつで竜の真似事とは、大した度胸だ」
「あなたが来るまでの、間つなぎだよ」千弥は照れ隠しにそう答えたが、その声には、これまでになかった落ち着きが宿っていた。
それから幾晩か、千弥は自分の食い扶持を惜しまず、傷ついた若い雁に分け与えるようになった。名も知らなかった一羽一羽の名を覚え、夜番を買って出て、疲れた仲間の代わりに周囲を見張った。渡守は多くを語らなかったが、時折、千弥の傍らに降りてきては、遠い星座の名や、かつてこの道を渡った鳥たちの物語を、ぽつりぽつりと聞かせてくれるようになっていた。その硬い声の奥に、これまで気づかなかった穏やかさが滲んでいることに、千弥はようやく気づき始めていた。
四、道を売る者たち
群れが海を渡る前、最後の宿りとするはずだったのが、南の沼だった。幾千の水鳥がそこで羽を休め、力を蓄えてから、長い海路に挑む。しかし辿り着いた沼のほとりには、見慣れぬ人足の群れと、水を抜くための杭や堰が幾つも打ち込まれていた。
「郡代様のご命令だ。この沼を埋め立て、新しい田と道をお造りになる」
人足の一人がそう怒鳴るのを、千弥は物陰から聞いた。指図をしているのは、恰幅のよい侍烏帽子の男だった。その顔に、千弥は見覚えがあった。蘆原郷を幼い頃に出て、郡代にまで上り詰めたという噂の男――鴫原重蔵(しぎはらじゅうぞう)だった。
「この沼が涸れれば、渡りの鳥は死ぬ」渡守が低く唸った。「海を越える前に力尽きる者が、幾千と出るだろう」
千弥は闇に紛れて重蔵の陣屋に忍び寄り、普請の絵図を覗き見た。そこには、沼の全域を埋め立てて新田とし、街道を通す計画が細かく記されていた。傍らで算盤を弾く手代が、重蔵に囁くのが聞こえた。
「郡代様、渡りの鳥の宿り場だという古い言い伝えもございますが」
「戯言だ」重蔵は絵図から目も上げずに答えた。「腹を空かせた民に、鳥の都合を構っている余裕などない。工期を早めよ。刈り取った葦は、今夜のうちに火を入れて片づけてしまえ」
その口ぶりには、迷いも呵責も見えなかった。かつて自分もまた、同じような迷いのなさで小さきものを踏みにじってきたのだと、千弥は苦い思いで悟った。
その夜、乾ききった葦原に火が放たれた。刈り取りを早めるための火入れだったが、風向きが変わり、炎はまだ幼い若鳥たちが眠る一角へと這い広がっていった。パチパチと弾ける音と共に、赤い舌のような炎が瞬く間に葦原を舐め尽くしていく。逃げ遅れた雛を庇おうと、渡守は自らの体で炎の壁に飛び込んだ。硬い鱗さえ焼け焦げるほどの熱が、老いた竜の翼を炙る。それでも渡守は退かず、幾羽もの雛を鉤爪でかき集め、水辺へと運び続けた。
千弥は、その背に無数の火傷が刻まれていくのを見た。かつて誰よりも大きく、揺るがぬ存在に見えた渡守が、今は苦しげに息を切らしている。煙にむせながらも鉤爪を止めない渡守の姿に、千弥の胸は締めつけられた。この竜は、幾千年もの間、こうして名も知らぬ命のために傷を負い続けてきたのだ。恐怖よりも先に、体が動いていた。
「堰を切れば、水が炎を止める!」
千弥は葦の間を駆け抜け、人足たちが組んだばかりの堰へと辿り着いた。小さな体には途方もなく重い水門の閂だったが、渾身の力で押し続けるうち、堰はわずかに軋み、やがて大きく開いた。堰き止められていた水が一気に押し寄せ、燃え広がる炎を呑み込んでいく。
騒ぎに気づいた鴫原重蔵が駆けつけたのは、火勢がほぼ収まった頃だった。彼は焼け残った葦原と、疲れ果てて羽を休める雁の群れ、そしてその奥にうずくまる巨大な竜の姿を見て、しばらく言葉を失っていた。
「これが……蘆原の、空の回廊の……」
幼い頃、祖母から聞かされた昔語りが、記憶の底からよみがえったのかもしれなかった。重蔵は焼け跡に立ち尽くし、震える羽で懸命に立ち上がろうとする若い雁たちを、しばらくの間ただ見つめていた。腹を空かせた民のため、そして自らの手柄のためだけに突き進んできた日々が、急に色褪せて見えた。重蔵は無言のまま、傍らの人足に何事かを命じた。堰の普請は、その場で中断された。
五、道を継ぐ者
朝を迎える頃には、火はすっかり鎮まっていた。沼のすべてが守られたわけではなかったが、群れが海を渡るに足るだけの水面は、かろうじて残された。渡守は深い傷を負いながらも、静かに息をしていた。千弥はその大きな鼻先にそっと寄り添い、初めて涙をこぼした。
「僕のせいで、こんな目に」
「違う」渡守は掠れた声で答えた。「お前は、小さきものを守るために動いた。それは、かつてのお前とはまるで違う姿だ」
その言葉が終わるのと同時に、千弥の体を淡い光が包んだ。指先から、腕から、少しずつ体が元の大きさへと戻っていく。畦守の呪いは、慰み物にした心そのものへの罰だった。その心が真に入れ替わったとき、呪縛が解けるのは、あるいは当然の理だったのかもしれない。人としての姿を取り戻した千弥は、傷ついた竜の隣に、ただ静かに座っていた。
数日の後、傷が癒えるのを待って、渡守は再び空へと舞い上がった。「私はまた、誰の目にも映らぬ守り手に戻る。それが私の選んだ道だ」
「僕は、もう小さきものを笑いものにしない」千弥は空を見上げて言った。「畦守にも、必ず詫びる。そして、毎年この沼に来る。あなたの代わりにはなれないけれど、僕にできることを探しながら」
渡守は答える代わりに、低く長く一声鳴いた。それは、群れへの合図でもあり、千弥への別れの言葉でもあったのかもしれない。
蘆原郷に戻った千弥は、まず田の畦へと向かった。人目を忍んで小さな声で詫びを口にすると、しばらくして風もないのに稲穂がさやりと揺れた。それが返事なのかどうかは、確かめようがなかった。それでも千弥は、以前のように誰かをからかう気には、もう二度となれなかった。重蔵の普請は縮小され、沼の主だった部分は元のまま残されることになったと、その年の暮れに郷まで知らせが届いた。
それから幾年もの間、千弥は秋と春のたびに南の沼を訪れ、堰の様子を確かめ、休む鳥たちを見守り続けた。かつて彼が虐げた蛙や猫を思い出しては手を合わせ、傷ついた小さな生き物を見つけるたび、迷わず手を差し伸べる青年になっていった。村の者たちは、彼をどこか変わり者と見るようになったが、悪童と呼ぶ者はもういなかった。空を渡る雁の群れの向こう、時折よぎる大きな影に気づく者はいない。ただ千弥だけが、その気配に小さく頭を下げ、誰にも聞こえない声で呟くのだった。
「今年も、道を忘れずにいてくれて」
風が答えるように、葦原をさやさやと揺らして過ぎていった。遠く霞む山並みの向こうへ消えていく雁の列を見送りながら、千弥はふと、幼い頃に見た夕焼けよりも、この光景の方がずっと美しいと思った。誰に見せるでもなく、誰に褒められるでもない。それでも守り続けるに値するものが、この世にはあるのだと、彼は今なら胸を張って言うことができた。渡守の名を知る者は、今も郷にはほとんどいない。だが道は、確かに続いている。