竜は山を下りなかった
深山の一軒家で旅の僧が出会った女の正体は、人の心根を鏡のように映し、邪心を抱く者だけを獣に変える竜だった。僧は真実を知らぬまま山を下りるが、その静かな慈悲と孤独の気配だけを胸に刻み続ける。
一 蛭の谷
松尾宗円(まつおそうえん)は、二十三になったばかりの学僧であった。生国を離れて久しく、諸国の寺々を巡っては経を学び、書を写し、いつか一宇の寺を任されることを夢見ていた。その旅も、この夏でひとまず区切りをつけるはずだった。かつて宗円を弟子として拾い上げてくれた老師が、遠く山向こうの村で病に伏しているという報せが届いたからである。
「峠を越えれば三日で着く道もあるが、今時分はおすすめしません」
麓の宿場で、宗円はそう忠告された。声をかけてきたのは、宿の老爺だった。
「獄門峠(ごくもんとうげ)の向こうは、血沼谷(ちぬまだに)という湿地でしてな。蛭が凄まじい。旅の者が迷い込んで、生きた血をあらかた吸われて出てきたという話もある。今は遠回りでも、川沿いの道をお使いなさるのが賢いというもので」
老爺はそう言ってから、声を落として付け加えた。
「それに、あの奥には、一軒家に女が一人で暮らしているという噂もありましてな。里から出た若い衆が、その女に岡惚れして押しかけては、二度と戻ってこなかったという話が、ここ何十年かで幾度もある。獣に喰われたとも、山に迷って行き倒れたとも言いますが、真相を知る者はおりません」
宗円は僧という立場上、そうした好色ゆえの災難に取り立てて興味を持つこともなかったが、話の端々に滲む、里の者たちの得体の知れぬ怖れだけは、確かに胸の底に残った。
宗円は礼を言って聞いたが、老師の病状を思うと、遠回りの道を選ぶ気にはなれなかった。師は齢七十を超え、余命幾許もないと文には書かれていた。宗円がまだ寺に上がったばかりの頃、経文の一字も覚束なかった自分を、老師は決して見放さず、幾度も同じ箇所を根気強く説いてくれた。その恩を思えば、一日でも早く、その枕辺に辿り着きたい。宗円は翌朝、まだ夜の明けきらぬうちに宿を出て、誰にも見咎められぬよう、旧道へと続く峠道へ足を向けた。
峠に差し掛かる頃には、日はすでに高く昇っていた。木々は鬱蒼と生い茂り、道は踏み荒らされた形跡もなく、ところどころ崩れて谷底へ滑り落ちていた。宗円は錫杖代わりの樫の杖を頼りに、慎重に足を運んだ。峠を越えた先に広がっていたのは、老爺の言った通りの湿地だった。灰色の霧が地を這い、腐葉土の匂いが重く立ち込めている。一歩踏み出すたびに、足首に何かがまとわりつく感触があった。見れば、脚絆の内側に、黒々とした蛭が幾匹も食い込んでいる。
宗円は声にならぬ声を上げながら、それを引き剥がした。傷口から流れる血は止まらず、着物の裾を赤黒く染めていった。日が傾きかけても、湿地はどこまでも同じ景色を繰り返すばかりで、抜け道は一向に見えてこない。焦りが募るほどに、足元はぬかるみ、体力は奪われていった。もはや引き返す気力も残っていなかった。
木々の隙間から差し込む光は次第に薄れ、湿地の奥から立ち上る霧は、まるで生き物のように宗円の足元へとまとわりついてきた。時折、朽ちた木の根に足を取られ、膝まで泥に沈むこともあった。そのたびに、宗円は経を小声で唱え、恐れを紛らわせた。腹の底では、老爺の語った噂話が、離れがたい影のようにこびりついていた。里に戻らなかった若い衆たちは、この湿地のどこかで力尽きたのか、それとも別の何かに行き当たったのか。考えても詮無いことだと分かっていながら、宗円の足取りはいっそう重くなった。
「これも、修行のうちだ」
宗円は自分にそう言い聞かせながら、なおも歩を進めた。夕闇が迫り、湿地の奥から獣とも鳥ともつかぬ低い鳴き声が響いてくる頃、ようやく一筋の水音が耳に届いた。音を頼りに藪を掻き分けると、澄んだ渓流のほとりに、古びた一軒家がひっそりと佇んでいるのが見えた。屋根は苔むし、庭先には名も知らぬ花が乱れ咲いていたが、荒れ果てた印象はどこにもなく、むしろ人里から切り離された静けさが、そこだけを別の時間の中に置いているようだった。渓流はその家の裏手で小さな淵をなしており、水面は夕焼けを映して、鏡のように凪いでいた。
宗円は最後の力を振り絞り、戸口に立って声をかけた。
二 鏡ヶ淵の家
戸を開けたのは、若い女だった。
歳の頃は宗円と大差ないように見えたが、その佇まいには年齢を超えた落ち着きがあった。黒髪を無造作に結い、粗末な木綿の着物をまとっているにもかかわらず、宗円は思わず息を呑んだ。美しいというだけでは言い表せない、何か底知れぬ静けさが、その女の目の奥に宿っていた。
「行き倒れかと思いました。お上がりなさい」
女は名を環(たまき)と名乗った。血だらけの脚を見るなり騒ぐでもなく、手早く布を裂いて傷の手当てをしてくれた。その手つきは、まるで長年こうした傷を見慣れているかのように迷いがなかった。
家の中は、外から見た印象よりもずっと整えられていた。土間には薬草を束ねたものが幾つも吊るされ、棚には古い書物や、由来の知れぬ木彫りの人形が並んでいる。囲炉裏の火は絶えず焚かれ、家の隅々にまで暖かさが行き渡っていた。奥には、初老に差し掛かった男が一人、囲炉裏端に座り込んでいた。目の焦点は定まらず、時折意味のなさぬ言葉を呟いては、庭の方角をじっと見つめている。
「主人の重蔵(じゅうぞう)です。何年か前に、心を病んでしまって。医者に見せても、良くなる兆しはありません」
環はそう言って、重蔵の口元に匙で粥を運んでやった。その手つきには、憐れみとも慈しみともつかない、深い忍耐が滲んでいた。宗円は僧としての性分から、思わず尋ねた。
「病の因は、何だったのでしょう」
「さあ。私にも、はっきりとは」
環はそう答えたきり、それ以上は語らなかった。宗円はその横顔に、踏み込んではならない領域があることを感じ取り、口をつぐんだ。
夕餉は、山菜と川魚を炊き込んだ粥だった。宗円が箸を取ろうとしたとき、それまで虚ろだった重蔵が、不意に宗円の手首を強い力で掴んだ。
「行くな……行けば、戻れぬぞ……」
かすれた声で、そう繰り返す。宗円は思わず身を強張らせたが、環はすぐさま重蔵の手をやさしく解き、その肩を抱くようにして落ち着かせた。
「ごめんなさい。時折、こうして訳の分からぬことを口走るのです。気になさらないで」
「いいえ。何か、意味のあるお言葉のようにも聞こえましたが」
「言葉の形だけが残って、意味の方は、もうどこにもないのだと思います」
環はそう言って、重蔵の背をゆっくりと撫でた。その声には、宗円の問いを静かに遮る硬さがあった。宗円はそれ以上尋ねることを控え、黙って粥を口に運んだ。囲炉裏の火の向こうで、重蔵は再び、意味を失った言葉を低く呟き続けていた。
夜が更けると、環は宗円に湯を使うよう勧めた。裏手の淵に近い岩場に、簡素な湯殿がしつらえてあるという。疲れ切った体には何よりの馳走で、宗円は遠慮なく浴びることにした。湯の中で目を閉じていると、板戸の向こうに人の気配がした。驚いて目を開けると、月明かりに照らされた淵のほとりに、環が佇んでいるのが見えた。彼女は着物の襟をくつろげ、火照った肌を夜風に晒しながら、じっと水面を見つめている。
宗円の胸に、一瞬、抑えがたい衝動が兆した。旅の垢に汚れた身では到底手の届かぬ美しさが、そこにあった。だが、その衝動は長くは続かなかった。環の横顔に浮かんでいたのは、艶めいた色香ではなく、深い疲労と、言いようのない孤独だったからだ。まるで、幾百年もの間、誰にも打ち明けたことのない重みを、たった一人で背負い続けてきたような表情だった。
水面を見つめる環の唇が、微かに動いた。何かを詫びているようにも、何かに問いかけているようにも聞こえたが、風の音に紛れて、言葉としては聞き取れなかった。ふと、淵の水面が、月の光を受けて一瞬強く光を返したように見えた。宗円の目には、それが単なる波紋の悪戯なのか、それとも何か別のものの気配なのか、判じることができなかった。環はやがて、その水面に向かって小さく一礼すると、何事もなかったかのように、家の方へ戻っていった。
宗円は目を伏せ、静かに戸を閉めた。見てはならないものを見た、という感覚よりも、触れてはならないものに触れかけた、という畏れの方が強かった。
湯から上がり、囲炉裏端に戻ると、環はすでに何事もなかったかのように、重蔵の寝床を整えていた。
「お坊様は、良い方ですね」
環はふと、そう呟いた。
「何がでございましょう」
「大抵の殿方は、私の目を見て、すぐに逸らします。あるいは、逸らさぬまでも、その奥に別の何かを探そうとする」環は微かに笑った。「お坊様の目には、そのどちらもありませんでした」
宗円は返す言葉が見つからず、ただ頭を垂れた。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。
「重蔵さんは、いつからこちらに」
「もう長いこと。この家に来る前のことは、私もあまり多くを存じません」
環はそう言って、重蔵の乱れた髪をそっと撫でつけた。その手つきには、単なる看病を超えた、何か贖罪にも似た響きがあった。
「あなたは、この山にお一人で。寂しくはありませんか」
宗円がそう尋ねると、環は少しの間、返答に迷うような素振りを見せた。
「寂しい、と感じる暇もないほど、日々やることがございます。重蔵さんの世話、家の普請、それに――」
そこで言葉を切り、環は微かに笑った。
「時折、あなたのような旅の方が、こうして立ち寄ってくださいます。それだけで、十分なのかもしれません」
その笑みの奥に、宗円は言葉にならない翳りを見た気がしたが、あえて問い返すことはしなかった。夜がさらに更け、環が寝床の支度を整えてくれた頃、宗円はその日一日の疲労にようやく身を委ねた。眠りに落ちる間際、庭先から獣の遠吠えのようなものが、幾度か低く響いてくるのを耳にした。里の獣とは違う、どこか人の呻きにも似た響きだったが、旅の疲れも手伝って、宗円はいつしか泥のような眠りに落ちていった。
三 鏡の底
夜半、宗円はふと目を覚ました。
喉の渇きを覚え、水を求めて土間へ降りたところ、裏庭の方角から、獣が地面を掻くような重い音が聞こえてきた。月明かりに誘われるまま、宗円は戸の隙間からそっと庭を覗いた。
そこにいたのは、獣だった。
大きさは猪ほどもあろうか。だが、その体には毛皮に混じって、人の着物の切れ端のようなものが絡みついている。獣は淵の水面に映る自らの姿を、まるで何かを問うように、じっと見つめていた。宗円は声を上げそうになるのを、両手で口を塞いで堪えた。次の瞬間、背後に人の気配を感じ、振り向くとそこに環が立っていた。月明かりに照らされたその顔は、いつもの静けさをまとったまま、しかしどこか覚悟を決めたような硬さがあった。
「見られてしまいましたね」
環の声は、責めるでも、脅すでもなく、ただ静かだった。
「あれは、以前この山に迷い込んだ、ある男の成れの果てです」環は淵の方角を見やりながら、ゆっくりと語り始めた。「私はこの山に、人の身では測り知れぬほど長く棲んでいます。竜、とでも呼んでいただければ、それが一番近いでしょうか。この山を訪れる者の心を、私は覗くことができます。いいえ、覗こうとせずとも、映ってしまうのです。ちょうど、あの淵の水面のように」
宗円は言葉を失ったまま、環の話に耳を傾けた。
「純粋な思いだけを抱いてここに辿り着いた者には、私は何もしません。ただの女として、道を教え、宿を貸すだけです。けれど、邪な心を、欲望を抱いてこの家に近づいた者は――その心根の重さのままに、姿を獣に変えられてしまう。私が変えているのか、その者自身の欲がそうさせるのか、正直なところ、私にも判然としません。ただ、そういう定めが、この山にはあるのです」
「重蔵さんも……」
宗円が問うと、環は静かに頷いた。
「あの人は、幾年か前、私を手篭めにしようとしてこの家を訪れました。けれど、その心の奥底に、わずかながら人としての恐れと、迷いが残っていた。だから、完全な獣にはならず、あのように、心だけが壊れた姿で留まっています。私はその者を、山に捨て置くことも、殺すこともできません。裁いたのは私自身なのですから、その成れの果てを見届ける責を負うのも、また私なのです」
環の声には、初めて明確な疲労が滲んでいた。
「幾百年、幾千年と、私はこうして山を訪れる者たちを見てきました。清い心を持つ者は、私が竜であることにすら気づかず、ただの女として山を下りていく。邪な心を持つ者は、獣となってこの山に留まる。私はその境を、ただ黙って見届けるだけの存在です。……時折、思うのです。私は本当に、正しく裁いているのだろうかと」
環は淵のほとりにしゃがみ込み、水面に指先を触れた。波紋が広がり、月影が幾重にも揺れた。
「欲というものは、厄介です。悪意から出る欲もあれば、寂しさから出る欲もある。憐れみのつもりが、いつの間にか独占欲にすり替わっていることもある。私はその重さを量っているつもりでいて、実のところ、ただ映しているだけなのかもしれません。重い欲を抱いた者は獣の重みのままに姿を変え、その事実に、私はあとから気づかされるだけなのです」
「では、あなた自身が誰かを罰したいと望んだことは」
宗円が問うと、環はしばらく黙り込んだ。
「一度も、ないと言えば嘘になります。重蔵さんを、あのように留めておくことに、私自身、幾度も心を痛めてきました。追い出してしまえば楽なのに、と思ったことも一度や二度ではありません。それでも、そうしなかったのは……多分、罰ではなく、贖いの形として、私自身がそれを望んだからなのだと思います」
宗円は、僧としての言葉を探した。裁きを許すのか、諫めるべきなのか。だが、環の孤独の深さを前にして、そのどちらの言葉も、あまりに軽々しく思えた。ややあって、宗円はようやく口を開いた。
「あなたは、裁いているのではなく、映しているだけなのでしょう。鏡は、それ自体が誰かを罰したり、裁いたりはしません。ただ、そこに立つ者の姿を、ありのままに映し出すだけです」
環は驚いたように宗円を見た。それから、長い沈黙の後、初めて、心の底からの微笑みを見せた。
「そのように言ってくださったのは、あなたが初めてです」
夜風が淵を渡り、水面に小さな波紋を描いた。獣は、いつの間にか庭の隅に丸くうずくまり、静かに寝息を立てていた。環はそれ以上、多くを語らなかった。ただ、宗円の手を取り、静かに囲炉裏端へと導いた。
「明日、山を下りるのなら、今夜のうちに休んでおきなさい。私が見た限り、あなたの心には、恐れはあっても、欲はありませんでした」
宗円は、その言葉に安堵よりも、深い畏敬を覚えた。自分がこの一夜、何かとても大きなものの前に立たされていたことを、ようやく実感したのである。同時に、もし自分の胸の内に、ほんのわずかでも環への邪な思いが巣食っていたなら、今頃どうなっていたかを想像し、背筋に冷たいものが走った。それは恐怖というよりも、人の心の危うさそのものへの、静かな畏怖だった。
「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
宗円は、消え入りそうな声で尋ねた。
「あなたご自身は、いつかこの山を下りたいと、思われたことは」
環は、しばらく淵の方を見つめたまま、答えなかった。やがて、ぽつりと呟くように言った。
「考えなかったと言えば、嘘になります。けれど、私がこの場所を離れれば、この鏡は誰も映さなくなる。重蔵さんのような成れの果ても、行き場を失う。私が山を下りることは、誰かに委ねられる役目ではないのです」
その声には、諦めというよりも、静かな覚悟が満ちていた。宗円はそれ以上、何も問うことができなかった。
四 山を下りて
夜が明けると、環は宗円に握り飯と、蛭よけの薬草を持たせ、湿地を抜ける安全な道筋を教えてくれた。
「昨夜のことは、忘れてくださって構いません。いいえ――忘れていただいた方が、あなたのためかもしれません」
環はそう言って、深く頭を下げた。宗円は何か言葉を返そうとしたが、ふさわしい言葉が見つからぬまま、ただ深く一礼し、家を後にした。
湿地を抜ける道は、環の教えた通り、拍子抜けするほど平坦だった。峠道に差し掛かる頃、宗円は一人の薬売りと行き会った。旅慣れた様子の、初老の男である。男は宗円の脚絆に残る蛭の傷を目ざとく見つけ、話しかけてきた。
「お若いの、その傷は血沼谷のものだろう。よくご無事で。実はな、あの奥に一軒家があるのを、ご存知か」
宗円は、努めて平静を装いながら頷いた。
「あそこに住む女に、邪な了見で近づいた男は、二度と人の姿に戻れず、獣に変えられて山に留め置かれるという噂がある。俺のような薬売りの間じゃ、ちょっとした語り草でな。もっとも、それを確かめに行こうなどという酔狂な奴は、そうはおらんが」
男は快活に笑いながら、そう語った。宗円は、その噂が真実の輪郭をかすかになぞっていることを知っていたが、頷くでも否定するでもなく、ただ静かに微笑んだだけだった。
「半助(はんすけ)と申す。この道を長く商いで往き来しておりますが」男は自ら名乗ってから、ふと声を落として続けた。「十年ほど前にも、隣村の若い衆が、あの女に懸想して押しかけた挙句、行方知れずになったという話がございましてな。親兄弟は随分探し回ったが、遺体すら見つからなんだ。獣に姿を変えられて山を彷徨っているのだ、と本気で言う年寄りもいるくらいで」
宗円の脳裏に、庭で見た獣の姿が過った。あれが、その若い衆の成れの果てなのか、それとも別の誰かなのか、確かめる術はもうない。だが、確かめずとも、その噂が単なる作り話ではないことだけは、宗円にはよく分かっていた。
「お坊様は、あの家に立ち寄られたのかね」
「一夜の宿を借りただけです。何も、変わったことはありませんでした」
宗円はそう答えた。それは嘘ではなかった。自分の中で何かが確かに変わったとしても、それはあの家の異様さによるものではなく、環という一人の存在に触れたことによる、静かな変化だったからだ。
薬売りと別れた後、宗円は峠道を一人歩きながら、幾度も後ろを振り返った。獄門峠の向こうに広がる山並みは、朝靄に包まれ、鏡ヶ淵の家がある方角も、もはや見分けがつかなかった。それでも宗円には、あの淵の水面が、今もどこかで静かに月や陽を映し続けているだろうことが、はっきりと感じられた。
老師の元へ辿り着いたのは、それから二日後のことだった。老師は幸い持ち直しており、宗円の顔を見て涙を流して喜んだ。宗円はその後、旅の顛末を事細かに語ったが、獄門峠の向こうで出会った女のことだけは、生涯誰にも語らなかった。語れば、何か大切なものが損なわれてしまう気がしたからである。
老師の傍らに付き添いながら過ごした日々の中で、宗円は時折、あの一夜のことを反芻した。もし自分が環に対して、ほんの少しでも下心を抱いていたなら、今頃は重蔵のように、あの家の庭で獣として朽ちていたのかもしれない。そう思うたび、宗円は己の心の脆さと、その脆さがもたらす結末の重さを、改めて噛み締めた。僧として長年学んできた戒律の言葉よりも、あの一夜に見た光景の方が、よほど雄弁に人の心の危うさを語っていた。
老師はその冬を越すことができず、翌年の雪解けを待たずして入寂した。宗円はその枕辺で経を上げながら、ふと、環もまたこうして、誰かの最期を幾度となく見届けてきたのだろうかと思いを馳せた。人の生死を見送るという務めにおいて、自分と環との間には、思っていたよりも近しいものがあるのかもしれない――そんな考えが、悲しみの中でふと浮かんでは消えた。
ただ、宗円はその後の人生において、己の心に欲や驕りの兆しを感じるたび、あの淵に映った、獣となった男の哀れな姿を思い出した。そして、あの静かな女の――竜の、疲れたまなざしを思い出した。それは戒めというよりも、ある種の道標のようなものとして、宗円の中に生き続けた。
鏡ヶ淵の家は、今もあの深い山中に、変わらず在り続けているという。人を罰するでもなく、救うでもなく、ただ訪れる者の心を、ありのままに映し出しながら。そこに棲むものは、討たれることも、山を追われることもなく、幾百年を経てなお、静かにその山を下りることはなかった。