物語雳
← 小説一覧へ
·読了目安 15分脇役

竜は屋根裏を望まなかった

家庭教師イレーヌは、フォンレーヴ館の主エヴラールに惹かれてゆく。だが婚礼の日、一族が代々隠してきた誓約――屋根裏に潜む竜の存在が教会で暴かれ、館は炎に包まれる。

一 フォンレーヴ館の灯

秋も深まった頃、イレーヌ・ヴァレは辻馬車を降り、霧に沈むフォンレーヴ館を見上げた。灰色の石壁は蔦に覆われ、北の塔だけが不釣り合いに高く、夕闇の中で他の棟を見下ろすように聳えていた。街道からここまで、御者は一言も口を利かなかった。ただ館が見え始めた辺りで、手綱を強く握り直しただけだった。

村を抜ける道すがら、宿場で馬を替える間、老婆が一人、イレーヌの旅装を見て眉をひそめた。

「フォンレーヴへ行きなさるのかい。あそこは、行くものではないよ。北の塔からは、夜な夜な、この世のものとも思えぬ声が聞こえるというからね」

老婆はそれだけ言うと、逃げるように背を向けた。イレーヌは気にすまいとしたが、その言葉は、馬車が霧の道を進むあいだ、耳の奥に小さく残り続けた。

孤児院で育ち、行儀作法と語学とを叩き込まれて世に出たイレーヌにとって、住み込みの家庭教師という仕事は、初めて手にする自分だけの居場所だった。恩着せがましい施しにも、恩人面をする遠縁にも縛られず、自分の腕一本で暮らしを立てる。その心細さと引き換えの自由を、イレーヌは何よりも大切にしていた。

出迎えたのは、恰幅のよい家政婦のオルタンス夫人だった。ランプを掲げたその顔には、歓迎の笑みの下に、隠しきれない疲労の色があった。

「よくいらっしゃいました、ヴァレ先生。セレストお嬢様がお待ちかねですよ。長旅でお疲れでしょう、まずは温かい食事を」

セレストは館の主エヴラール・ロシュフォールの姪で、両親を早くに亡くし、この館に引き取られていた。利発だが人見知りの強い少女で、初対面のイレーヌをじっと上目遣いに窺うばかりだった。だが持参した絵本の頁を開いて見せると、ようやく硬い表情がゆるみ、小さな指がそっと挿絵をなぞった。

「先生は、いつまでここにいるの」

セレストの問いに、イレーヌは少し考えてから答えた。

「あなたが、私を必要としなくなるまで、ずっと」

その答えに、セレストは初めて小さく笑った。館に着いたその晩、イレーヌは久しく忘れていた温かさを、確かに感じた。

館の暮らしは静かだったが、どこか張り詰めてもいた。使用人たちは日暮れとともに口数を減らし、北の塔へ続く階段の前を通るときだけ、決まって足を速めた。厨房の下働きの娘は、夕餉の膳を運ぶたびに、必ず胸元で小さく指を組んでから廊下を歩いた。イレーヌが理由を尋ねると、老齢の執事ジョフロワは箒を握る手を止め、少し思案してから答えた。

「あの上には、古い書庫と、傷んだ部屋がいくつかあるだけでございます。床が抜けかけておりますゆえ、危のうございますよ。旦那様がお留守の間は、殊に立ち入りを禁じられております」

その口ぶりには、隠し事をする者特有の、必要以上に丁寧な響きがあった。イレーヌは深く追及はしなかったが、以来、北の塔の輪郭を、窓越しに幾度も目で辿るようになった。

その晩、寝室に灯りを消して間もなく、イレーヌは天井の向こうから、低く長い唸りのような音を聞いた。獣の声にも、風が煙突を抜ける音にも似ていたが、そのどちらとも違う、奇妙な重みを伴った響きだった。音は一度きりではなく、夜が更けるにつれ、二度、三度と繰り返された。壁に耳を寄せると、規則正しい重い足音のようなものが、遠く頭上を行き来しているのが分かった。

翌朝、オルタンス夫人にそれとなく尋ねると、夫人は手にした鍵束を無意識に握りしめ、「古い館ですから、風の悪戯でしょう」とだけ答えて、それ以上は取り合わなかった。だがその指先の白さに、イレーヌは夫人自身もまた、あの音の正体を知らないわけではないのだと悟った。

館の主エヴラールが長い外遊から戻ったのは、イレーヌが着任して半月ほど経った、ある嵐の晩のことだった。狩猟服に泥をはねさせ、馬を引いて霧の中から現れた彼は、四十がらみの、日に焼けた精悍な顔立ちの男だった。粗野な物言いの奥に、どこか用心深い光を宿した目をしていた。

「新しい先生か。セレストの手綱を握るのは骨が折れるだろう」

初対面の彼はそう言って、値踏みするようにイレーヌを見た。無遠慮ではあったが、慇懃な社交辞令よりも、イレーヌにはよほど誠実に感じられた。

「お嬢様は聡明な生徒でいらっしゃいます。手綱は要りません」

イレーヌが臆せずそう答えると、エヴラールは片眉を上げ、初めてかすかに口の端をゆるめた。

その夜以降、館の空気はさらに張り詰めた。北の塔の窓には、日暮れとともに厚い鎧戸が下ろされるようになり、エヴラール自身が毎晩、誰にも付き添わせずにあの階段を上っていくのを、イレーヌは自室の窓から幾度も見た。手には決まって、大きな鍵束と、布に包んだ何かを提げていた。何を守り、何を恐れているのか。館の誰もがその答えを知りながら、口を閉ざしているように、イレーヌには思えてならなかった。

二 屋根裏のささやき

冬が近づくにつれ、イレーヌとエヴラールが言葉を交わす時間は少しずつ増えていった。夕食後の書斎で、彼は旅先で見た遠国の話をし、イレーヌは孤児院で学んだ古典の一節を諳んじた。身分も来歴も違う二人だったが、飾らぬ物言いを好む点で、驚くほどよく似ていた。

「君は、僕を恐れないのだな」エヴラールはある晩、暖炉の炎を見つめながら呟いた。「誰もが、この館には何か曰くがあると思っている。使用人たちも、村の者たちも。君もそう思うだろう」

「思います」イレーヌは正直に答えた。「夜ごと、天井の向こうから物音がしますもの。けれど、曰くを知らぬまま人を恐れるのは、公平ではありません。あなたが話したくなるまで、私は待つつもりです」

エヴラールは驚いたように目を上げ、それから初めて、疲れの滲んだ笑みを見せた。

「待つ、か。この館では、誰もがそれをする羽目になる。ジョフロワもオルタンスも、もう何十年も待たされている」

「何を、待っているのですか」

「――いつか、この重荷を下ろせる日を、だろうな」

エヴラールはそう言ったきり、それ以上は語らなかった。だがその夜も、彼は結局、北の塔の話をしなかった。イレーヌもまた、無理に問い詰めることはしなかった。急いて聞き出した答えに、大した値打ちはないと知っていたからだ。

そのかわり、二人の間には、言葉にせずとも通じ合うものが、少しずつ積み重なっていった。セレストの誕生日には、エヴラールが照れくさそうに庭で花火を上げ、イレーヌはその隣で、久しぶりに声を上げて笑った。雪の朝には、二人で連れ立って凍った池を眺めながら、互いの生い立ちを、ぽつりぽつりと語り合った。

その頃、セレストは夜ごとうなされるようになっていた。眠りの浅い夜、少女は決まって同じ夢を見るのだと、震える声で打ち明けた。

「大きな影が、天井の上を歩いているの。怖くはないの。ただ、とても寂しそうなの」

イレーヌは少女を抱き寄せ、灯りを消さずに眠らせた。自分でも説明のつかないことだったが、その言葉を聞いて以来、天井の向こうの物音を、以前ほど恐ろしいとは感じなくなっていた。むしろ、その重い足音の主もまた、誰かに寄り添ってもらう夜を、待ち望んでいるのではないかと思うようになった。

村の秋祭りに連れ立って出かけた日、露店の並ぶ広場で、イレーヌは村人たちがこそこそと交わす噂話を耳にした。フォンレーヴ家の当主は、代々ある呪いに憑かれているのだという。ある者は、それを一族の狂気だと言い、ある者は、遠い先祖が異国で犯した罪の報いだと言った。誰も真実を知らぬまま、噂だけが尾ひれをつけて広まっていた。イレーヌはその晩、エヴラールに祭りの話を語りながら、噂のことにはあえて触れなかった。彼の表情に、束の間よぎった翳りを、見なかったふりをした。

事件が起きたのは、そんなある深夜のことだった。イレーヌは廊下の焦げ臭さに目を覚まし、寝間着のまま部屋を飛び出した。エヴラールの居室の扉の隙間から、赤い光が漏れている。駆け込むと、寝台の帳に火が燃え移りかけ、エヴラールは煙を吸って咳き込みながら、半ば意識を失いかけていた。イレーヌは水差しの水を浴びせ、なんとか火を消し止めた。

「蝋燭が倒れたにしては、火の気があまりに強すぎます。それに、この部屋の鍵は、内側からかかっていたはずでは」

肩で息をしながらイレーヌが言うと、エヴラールは応えず、ただ天井――北の塔へ続く方角を、長く見つめていた。その沈黙が、何よりも雄弁だった。

翌日から、館の中で「灰色の客人(はいいろのきゃくじん)」という言葉を、イレーヌは幾度か耳にするようになった。使用人たちが声を潜めて交わす、古い言い習わしらしかった。洗濯場の隅で、下働きの娘たちが「客人がまたお目覚めなのね」と囁き合うのを、イレーヌは物陰から聞いてしまったこともある。

書庫の片隅で埃を被った家系記録を繰っていたイレーヌは、ある夜、震える筆致で記された一文を見つけた。

――この地に灰色の客人を迎え入れ、決して外の目に晒さぬ限り、ロシュフォールの家に安寧あれ。

数代前の当主ゴーティエ・ロシュフォールが記したという誓約の言葉だった。それが人を指すのか、獣を指すのか、記録は多くを語らなかった。だがイレーヌには、あの唸り声と、あの夜の不自然な火の気とが、初めて一本の線でつながった気がした。

その夜、イレーヌは眠れぬまま窓辺に立ち、北の塔を見上げていた。厚い鎧戸の隙間から、ほんの一筋、青みがかった光が漏れているのに気づいた。目を凝らすと、光の向こうに、微かに何かが動く気配があった。恐ろしさよりも、憐れみに近い感情が、イレーヌの胸を満たした。誰かが、あるいは何かが、何十年もこの屋根裏で、外気にも陽の光にも触れず、ただ息を潜めて生きているのだとしたら――それはあまりに、孤独な生だった。

「あなたは、誰なのですか」

答える声はなかった。ただ、光が一瞬だけ強く瞬き、それきり鎧戸の奥へ沈んでいった。

それから幾晩か、イレーヌは同じ時刻に窓辺へ立つことを、密かな習慣にした。声をかけても答えは返らなかったが、ある晩、鎧戸の隙間から、低く長い響きが漏れてきた。唸り声とも、吐息とも取れる、奇妙に穏やかな音だった。まるで、誰かがようやく耳を傾けてくれたことに、無言で応えているかのようだった。イレーヌはその夜、初めて安らかな気持ちで眠りについた。

書庫通いを重ねるうち、イレーヌは家系記録の続きに、もう一つの記述を見つけた。ゴーティエの筆跡の後、代替わりごとに書き加えられた、短い一文の連なりだった。「客人、今宵も静かなり」「客人、雷雨の夜に一度、声を上げる」――それは、いかに客人を厳重に隠すかではなく、いかに客人の様子を見守り続けてきたかという、地味で気の長い記録だった。ロシュフォールの当主たちは、恐れながらも、誰一人としてその存在を見捨てはしなかったのだと、イレーヌはそこに気づいた。だからこそ、エヴラール一人にすべてを背負わせるには、あまりに重すぎる誓約なのだとも思った。

春先、エヴラールはついにイレーヌに求婚した。庭の梅の木の下、まだ冷たさの残る風の中で、彼は柄にもなく緊張した面持ちで言葉を選んだ。

「僕には隠し事がある。それを話す日が、いつか必ず来る。だが今はまだ、僕一人の肩に乗せておかせてくれないか」

イレーヌは彼の手を取りながら、小さく頷いた。

「いつか話してくださると信じます。ただ――誓約とやらのために、あなたご自身が壊れてしまわないように」

その言葉に、エヴラールは驚いたように顔を上げた。彼女がどこまで知っているのか、彼には測りかねる様子だった。彼は何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を呑み込んだ。結局、その夜も、彼は真実を打ち明けはしなかった。婚礼の日取りだけが、静かに、しかし確かに近づいていった。

三 婚礼の鐘が壊れた日

婚礼の朝は、抜けるように晴れていた。村はずれの小さな石造りの教会に、館の使用人たちと近隣の家々が集い、鐘楼の鐘が澄んだ音を響かせた。白い衣装に身を包んだイレーヌの隣で、エヴラールは珍しく緊張した面持ちで誓いの言葉を待っていた。オルタンス夫人は涙ぐみながら最前列に座り、セレストは花籠を抱えて誇らしげに胸を張っていた。

司祭が誓約の文言を読み上げ、異議の有無を問うたその時、後方の席から一人の男が立ち上がった。エヴラールの遠縁にあたるアドリアン・ヴェスクだった。相続をめぐって長年ロシュフォール家と反目してきた彼は、勝ち誇ったような、それでいてどこか青ざめた声で叫んだ。

「この婚礼は成り立たぬ! ロシュフォール家は、数代にわたり恐るべき秘密を隠してきた――北の塔に、竜を飼っているのだ!」

教会中がざわめいた。誰かが小さく悲鳴を上げ、老人たちが十字を切った。アドリアンは懐から古い覚書の写しを取り出し、声高に読み上げた。それは書庫の家系記録と同じ、ゴーティエの誓約の一文だった。

「誓約が破られれば、家に安寧はない。だが誓約を守るということは、化け物を人里に隠し続けるということだ! この男は、自らの体面のために、村人すべてを危険に晒してきたのだ! 私はただ、真実を明らかにしに来ただけだ!」

その声には、正義を気取る響きの奥に、長年の妬みと恨みが滲んでいた。だがそれを聞いた誰の耳にも、真偽の判断をつける余裕はなかった。

エヴラールは蒼白になったが、その場で否定はしなかった。イレーヌの手を握る指先が、かすかに震えていた。

「本当なのですか」

イレーヌが小声で問うと、エヴラールは長い沈黙の後、ただ一言だけ答えた。

「本当だ。だが、あれは化け物ではない」

その一言だけで、教会中の視線がイレーヌに集まった。囁き声と、憐れむような視線とが、波のように押し寄せた。イレーヌは何も言えぬまま、震える足で教会の外へ駆け出した。裏切られたと思ったわけではなかった。だが、これほど重い秘密を、最後まで独りで抱え続けようとしたエヴラールの頑なさに、深い悲しみを覚えずにはいられなかった。

教会の外で、イレーヌは石段に座り込み、長いこと動けずにいた。追ってきたセレストが、花籠を抱えたまま、無言でその隣に腰を下ろした。少女は何も問わず、ただイレーヌの手をそっと握った。その小さな手のぬくもりだけが、崩れ落ちそうな心を、かろうじて繋ぎ止めていた。

館へ戻ったイレーヌは、旅行鞄に荷物をまとめながら、幾度も手を止めた。窓の外には、北の塔の輪郭が、いつもと変わらぬ姿で夕闇に沈んでいた。あの重い足音の主が、今この瞬間、教会での騒ぎをどんな思いで聞いているのかを思うと、荷造りの手はなおさら鈍った。

その夜、館は異様な騒がしさに包まれた。アドリアンの告発を聞きつけた村人の一部が、松明を手に館へ押しかけたのだ。怒声と足音、割れる窓ガラスの音――何十年ものあいだ守られてきた沈黙の誓約は、たった一日で粉々に砕けた。

北の塔では、その物音と怒声の全てを聞いていた竜が、ついに限界を迎えていた。何十年もの孤独な幽閉のあいだ、竜は決して自ら鎖を破ろうとはしなかった。それは、この地に安寧をもたらすという誓約を、竜自身もまた律儀に守り続けてきたからだった。だが、外の目に晒されぬという誓約の片方がすでに崩れ去った今、竜を押しとどめるものは、もう何一つ残っていなかった。

苦悶の咆哮とともに、竜は錆びついた鉄格子を打ち破った。羽ばたきの風が燭台を薙ぎ倒し、乾いた木材にたちまち火が回った。

館の外れに身を寄せていたイレーヌは、夜空を焦がす炎の色に気づき、迷わず駆け戻った。

「セレストを、召使いたちを外へ!」

エヴラールは燃え盛る館へ駆け戻った。イレーヌもまた、悲しみを忘れて彼の後を追った。煙の充満する廊下で、二人は手分けして使用人たちを外へ導いた。オルタンス夫人を、下働きの娘たちを、震えるセレストを、一人また一人と、夜気の中へ送り出した。最後まで館に残ったのは、崩れかけた北の塔に取り残された竜だった。

執事ジョフロワもまた、老いた体を押して館に留まり、井戸端から幾つもの水桶を運び続けていた。オルタンス夫人が止めるのも聞かず、「何十年もこの館に仕えて、最後に何もせぬまま逃げるわけにはまいりません」とだけ言って、煙の中を行き来した。その姿に、イレーヌは胸を突かれる思いがした。

エヴラールは炎の中、崩落する梁を避けながら塔を駆け上がった。そこには、燃え広がる火に怯え、破れた翼を庇いながら蹲る竜の姿があった。灰色の鱗は煤にまみれ、その目には、長年の孤独と、今この瞬間の恐怖とが、混じり合って揺れていた。

「もう、隠れなくていい」

エヴラールは震える声で、竜に向かって言った。

「お前を人目から隠すことが、お前を守ることだと思い込んでいた。だが違う。俺はただ、俺自身の体面を守っていただけだ。すまなかった」

崩れ落ちる天井の下、エヴラールは自らの上着で竜の目を庇いながら、破れた壁の穴から夜空の下へと導いた。落ちてきた梁が彼の肩と頬を焼き、深い傷を残した。それでも竜は、ようやく外気に触れた翼を大きく広げ、燃え盛る館から夜の丘へと、重い羽音とともに飛び去っていった。

四 灰の中の誓い

火は明け方近くに鎮まった。北の塔はほとんど崩れ落ち、館の半分が黒く焼け焦げていた。エヴラールは肩と頬に深い火傷を負い、しばらくは片目に包帯を巻いて過ごすことになったが、命に別状はなかった。セレストも使用人たちも、幸い全員が無事だった。

イレーヌはその夜のうちに館を去り、遠縁の伝手を頼って隣町の小さな学校で働き始めた。裏切られたという思いは薄れていたが、あれほど大きな秘密を最後まで独りで背負おうとした彼の頑なさを、すぐには許せずにいた。それでも夜ごと、瞼を閉じるたびに、崩れゆく塔の中へ迷わず駆け戻った彼の背中が、繰り返し思い出された。

三月ほどが過ぎた頃、隣町の新聞に、フォンレーヴ館の火災と、当主が村人と使用人を救うため炎に飛び込んだという記事が載った。竜については、混乱の中で見た者たちの証言が食い違い、いつしか「巨大な鳥のような怪物」という曖昧な噂として片付けられていた。記事の隅には、当主が長年一人で抱えてきた一族の誓約を、村の寄合で自ら明かし、詫びたとも記されていた。アドリアンはその後、村人たちの同情がエヴラールに集まるのを見て、静かに町を去ったという。

その記事を読んだ夜、イレーヌは久方ぶりにフォンレーヴ館への道を歩いた。焼け跡には仮の小屋が建てられ、エヴラールはそこで、片目に眼帯をしたまま、焼け残った書庫の記録を整理していた。

「戻ってきたのか」

彼は驚いたように顔を上げた。イレーヌは頷き、灰の匂いの残る小屋の中を見渡した。

「隠すべき恥だと、あなたはずっと思っていらしたのでしょう。でも違います。ただ、一人で背負うには重すぎる責任だっただけです」

エヴラールは長い沈黙の後、静かに頭を垂れた。

「お前の言う通りだ。ゴーティエの誓約を、俺は一族の誇りとして受け継いだつもりでいた。だが本当は、ただ厄介事から目を逸らし、竜を屋根裏に押し込めていただけだった。あれほど長く独りにさせておいて、詫びる言葉すら知らなかった」

小屋の外で薪を割っていたセレストが、二人の声に気づいて駆け寄ってきた。少女はイレーヌの姿を見るなり、花籠の代わりに小さな野花の束を差し出した。

「先生、もう夜にうなされなくなったの。だから、戻ってきてくれると思ってた」

その屈託のない言葉に、イレーヌとエヴラールは思わず顔を見合わせ、久しぶりに、どちらからともなく笑みをこぼした。

二人はその後、村の古老たちを説き伏せ、ゴーティエの代からのしきたりを正式に廃止した。竜を再び屋根裏に迎え入れることはせず、遠いグリザン山地の懐へ、その姿を見送ることにしたのだ。館の再建にあたっても、北の塔だけは、あえて建て直さないことに決めた。

誓約が解かれた日の夕暮れ、イレーヌとエヴラールは、灰色の丘に立って山の稜線を見上げていた。松林の向こうから、大きな影がゆっくりと弧を描き、茜色の空を横切っていくのが見えた。それはもう、誰かに隠される必要のない、堂々とした飛翔だった。

「あれで、良かったのでしょうか」

イレーヌが呟くと、エヴラールは静かに首を振った。

「良いも悪いもない。ただ、あるべき姿に戻っただけだ。俺たちも、そうありたいと思う」

イレーヌは彼の焼け跡の残る手を取った。地位も財産も、もはや以前ほどの意味を持たなかった。ただ、隠し事のない、対等な二人として、これから先を歩んでいく。それだけが確かなことだった。

婚礼は、その年の終わりに、焼け跡に建て直されたばかりの小さな礼拝堂で、ごく内輪の顔ぶれだけを招いて執り行われた。式のさなか、開け放たれた窓の外を、一頭の竜の影が静かに横切っていったのを見た者は、後にも先にも、イレーヌとエヴラールの二人だけだった。

あとがき

シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』は、孤児として育った家庭教師ジェーンが、屋敷の主ロチェスターと惹かれ合いながらも、婚礼の当日に彼の秘密の妻バーサの存在を知らされ、絶望のうちに屋敷を去る物語である。のちに火事でバーサが命を落とし、ロチェスターも重傷を負ったと知ったジェーンが、自ら望んで彼のもとへ帰り、対等な伴侶として結ばれる結末を、本作でも大きな軸とした。

本作では、屋根裏に幽閉された「秘密の妻」を、数代前の当主が交わした誓約により、一族が代々ひそかに守り続けねばならない一頭の竜に置き換えた。誓約の重さと醜聞への恐れから婚約者に真実を打ち明けられずにいた当主、婚礼の場での秘密の暴露、火災による破局と再生という原作の骨格はそのまま活かしつつ、竜には復讐心も悪意もなく、ただ長年の孤独な幽閉に耐えてきただけの存在として描いた。最終的に隠すのではなく解き放つという結末に置き換えることで、原作の核心である「秘密の告白と身分を超えた対等な結びつき」というテーマを、異なる形で描き直すことを試みた。

館の名や登場人物の名、誓約の文言や地名はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はシャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë)著『Jane Eyre(ジェーン・エア)』を参考にした翻案作品です。

本作はシャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë)の『ジェーン・エア(Jane Eyre)』を参考にした作品です。原典