物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は夜明けを欺かなかった

許されぬ恋を抱く娘ミナと恋人トウジ、彼女の許婚サガミ、サガミを慕うスズ。四人が迷い込んだ夜の森で、悪戯好きの仔竜が撒いた「仲直りの蜜」が恋心をかき乱す。危機の刻、竜はそっと翼を広げる。

一 森影の村、閉ざされた恋

村はずれに横たわる「たそがれの森」は、日が落ちてから足を踏み入れる者のない場所だった。木々の奥から時折り橙色の灯りがゆらめき、それを見た者は道に迷って二度と戻らない、と年寄りたちは口をそろえて言う。子供の頃は怖くて仕方なかったその言い伝えも、十七になった今のミナには、むしろどこか懐かしい響きに聞こえた。夜、雨戸の隙間から森の方角を覗き見ては、あの灯りは本当に人を迷わせるためのものなのだろうか、それとも、誰かが寂しさに耐えかねて灯しているだけなのではないか、と埒もないことを考えるのが、幼い頃からの癖だった。

ミナは村長の一人娘として生まれた。物心つく前から、機織りの音と羊の匂いに包まれて育ち、村のどの家の子よりも自由に振る舞うことを許されていた。畑仕事の合間に川辺で足を浸すことも、祭りの支度を任されて村中を駆け回ることも、誰にも咎められたことがない。けれど自由に振る舞えたのは、あくまで村の内側でのことだ。外側――誰と添い遂げるかという一点においては、ミナの意志など端から数に入っていなかった。

「サガミどのとの縁組は、もう決まったことだ」

父は夕餉の席で、椀を置く音とともにそう告げた。サガミは川向こうの商家の跡取りで、悪い男ではない。むしろ物腰は柔らかく、荷運びの人足たちにさえ丁寧に声をかけるような、村の誰からも好かれている青年だった。だが、ミナの胸にはすでに、別の人の名が根を張っていた。

「私にはトウジがいます」

「猟師の倅など論外だ。お前の暮らしを守るための縁組だと、なぜ分からない」

父の声に苛立ちが滲む。母は何も言わず、ただ膝の上で手を握りしめていた。母もまた、かつて似たような立場に置かれたことがあるのかもしれない、とミナは時折り思うことがあった。だが今、この場でその胸の内を尋ねる勇気は持てず、ミナは椀を持つ手を震わせながら、それでも視線だけは逸らさなかった。

トウジと出会ったのは三年前、森の際で仕掛けた罠を見に来た彼と、迷子の子山羊を捜していたミナが鉢合わせたのが始まりだった。裕福ではないが、笑うと目尻に皺が寄る素朴な青年で、獲物より先に怪我をした動物を介抱してしまうような人だった。冬の初め、罠にかかった鳥の羽が折れているのを見つけて、半日がかりで添え木を作ってやっていた彼の背中を、ミナは今でもよく覚えている。ミナはその不器用な優しさに、いつの間にか惹かれていた。

夕餉のあと、ミナは自室の窓辺に座り、森の方角に目をやった。木々の合間に、いつものように小さな灯りがひとつ、揺れているのが見えた。あれは狐火だと村では言われているが、ミナにはどうしても、そう単純なものには見えなかった。灯りは規則正しく明滅し、まるで誰かが息をしているようだった。

「三日のうちに、サガミどのの家へ輿入れの支度をさせる」

翌朝、父は寝室の戸口でそう言い渡した。有無を言わせぬ口調だった。ミナは布団の中で拳を握りしめ、天井の木目をにらみつけながら、心に決めていた。あの森を越えた先にある隣村まで行けば、トウジと二人、誰にも縛られずに暮らせる場所があるはずだ――たとえそこが、灯りの揺れる森の向こうであったとしても。

二 夜の道行き、小さな竜との出会い

三日目の夜、ミナは荷物を小さな包みにまとめ、裏木戸からそっと抜け出した。井戸端に干してあった手拭いの匂いを最後にひとつ吸い込んで、振り返らずに歩き出す。森の入り口では、約束通りトウジが松明も持たずに待っていた。

「本当に、来てくれたんですね」

「決めたことです。もう振り返らない」

二人は手を取り合い、月明かりだけを頼りに森の小径へと踏み込んだ。頭上を覆う枝葉の隙間から差し込む光が、まるで銀の糸を織り込んだように地面に模様を描いている。木々のざわめきが、まるで見送りの拍手のようにも、警告のようにも聞こえた。

その一部始終を、物陰から見ていた者がいた。ミナの幼馴染のスズである。彼女はかねてよりサガミに想いを寄せていたが、サガミの目に映るのはいつもミナばかりだった。もっとも、荷運びで困っているスズにさりげなく手を貸してやったり、市の片隅で俯く彼女に声をかけてやったりする姿を、村の誰もが幾度となく見かけていた。サガミ自身、それが何の感情かなど深く考えたこともなかったけれど。ミナが逃げ出したと知れば、この縁談は自然消滅する。そうなれば、サガミの心にも隙間ができるかもしれない――そんな浅ましい期待を抱いて、スズはすぐさまサガミの家へ走った。

「ミナさんが、トウジさんと森へ」

サガミは事の次第を聞くと、顔色を変えて表へ飛び出した。ミナを取り戻さねば家同士の約束が反故になる。何より、幼い頃からの許婚を、みすみす他の男に奪われるわけにはいかない。そう思い込んで駆け出すサガミの背を、スズは息を切らしながら追いかけた。

こうして、たった一夜のうちに、四人の男女が同じ森の闇へと迷い込むことになった。

森の奥深く、木々の根が複雑に絡み合う古い泉のほとりでは、この森を治める王トールと妃ネリアが、珍しく激しい言い争いをしていた。発端はごく些細なこと――泉に映る月の形が満ちているか欠けているか、というだけの諍いだったが、両者とも一歩も譲らず、諍いの熱は森全体の空気までもぴりぴりと張り詰めさせていた。木々は葉を震わせ、夜風は行き場を失ったようにあちこちで渦を巻いていた。

「もうよい。仲直りの蜜を使う」

トールはついに、そう言い放った。「仲直りの花」と呼ばれるその花の蜜は、眠っている間にまぶたに一滴垂らせば、目覚めて最初に見た相手を、この上なく愛おしく思うようになるという不思議な力を持っていた。トール自身が使う気にはさすがになれず、辺りを漂っていた小さな竜に声をかけた。

「灯、頼まれてくれるか。ネリアが眠ったら、この蜜をまぶたに一滴だけ落としてほしい。目覚めた時、私の姿が最初に映るように」

灯と呼ばれたその竜は、まだ人の腕ほどの大きさしかない仔竜だった。橙色がかった鱗はところどころ幼さの残る淡い色をしており、丸い金色の瞳はいつも何かおもしろいことを探して忙しなく動いている。森の誰の従者でもなく、気の向くままに飛び回っては、道行く旅人や動物にちょっとした悪戯を仕掛けることを何よりの楽しみにしている、森の小さな厄介者だった。木の実を隠したり、川の飛び石の位置をこっそり入れ替えたりする程度の悪戯なら、森の住人たちもいつものことだと笑って見過ごしていた。

「妃さまに蜜、ね。おもしろそう。やってあげる」

灯は花の蜜を小さな竹筒に受け取ると、上機嫌で夜の森を飛び回り始めた。そしてほどなく、木の陰で身を寄せ合いながら眠りにつこうとしている見知らぬ人間の男女――ミナとトウジの姿を見つけた。

「へえ、人間がこんな夜更けに。おもしろい」

灯はその場に舞い降り、興味津々で二人を眺め回した。王に頼まれた仕事のことなど、その好奇心の前ではすっかり後回しになっていた。

三 蜜のいたずら、もつれる想い

「わっ……喋る竜?」

トウジの腕の中でうとうとしかけていたミナが、竹筒に光る小さな竜の姿に気づいて声を上げた。とっさに身を固くするトウジの前で、灯はにこりと笑うように喉を鳴らすと、警戒する様子もなく二人の周りをくるくると飛び回った。

「怖がらなくていい。ぼくは悪さはしない――たいていは、ね」

「たいてい、って」

ミナが思わず笑いを漏らすと、灯は嬉しそうに尾を揺らし、二人の傍らにちょこんと腰を下ろした。逃避行の理由をぽつぽつと語るミナの話に、灯は驚くほど熱心に耳を傾けた。父親の言いつけ、許婚のこと、森を越えた先で待っているはずの新しい暮らし――人間の悩みごとなど数えるほどしか聞いたことのない灯にとって、それは思いのほか胸に残る話だった。

「好きでもない相手と添わされるなんて、人間の掟は窮屈だな。ぼくなら、そんな決まりごとの通りにはならない」

「あなたにも、決まりごとがあるの?」

「森の秩序とか、王様との約束とか。守るのは面倒だけど、まあ、それなりに」

「うらやましいわ。あなたはきっと、好きな方へ飛んでいけるんでしょう」

ミナがぽつりと漏らすと、灯は少し困ったように鼻先を上げた。

「飛べるのと、好きに生きられるのは、また別の話だよ。ぼくは誰にも縛られてないけど、その代わり、誰にも本当に必要とされたこともない。森のみんなは、ぼくの悪戯を笑って許してくれるだけで、ぼくがいなくなっても、多分そう困りはしない」

「それは……寂しくない?」

「考えたこともなかった。でも、今こうして聞かれると、少しだけ寂しいのかもな」

思いがけず本音がこぼれたことに、灯自身が一番戸惑っているようだった。ミナは目を丸くしたあと、静かに微笑んだ。誰かに必要とされることの重さも、それに縛られることの息苦しさも、彼女自身よく知っている感覚だった。二つの孤独が、そこでほんの少しだけ触れ合ったような気がした。軽口を叩きながらも、灯はミナの瞳の奥にある不安をどこか見透かしているようだった。だが、その言葉通りには、ならなかった。ミナが疲れて先に眠りに落ちると、灯はいたずら心を抑えられず、竹筒の蜜を一滴、トウジのまぶたにもそっと垂らしてしまった。王から言いつかった仕事とは全く関係のない、ただの気まぐれだった。「二人並んで眠ってるところに、片方だけ蜜をあげるなんて、片手落ちじゃないか」――灯の理屈は、いつもそんな具合に軽やかで、そして無責任だった。

折悪しく、そこへ息を切らしたサガミが辿り着いた。木の陰に眠るミナの姿を見つけ、揺り起こそうと屈み込んだその時、ちょうど目を覚ましたトウジの視界に映ったのは、ミナではなくサガミの後ろに立っていたスズの姿だった。蜜の力はてきめんに効いた。

「ああ、なんて人だ。今まで気づかなかったなんて、どうかしていた」

トウジは寝ぼけたままそう呟き、まっすぐにスズへと歩み寄った。スズは面食らいながらも、ずっと想いを寄せていたサガミではなく、見知らぬ男に急に口説かれて混乱する。一方のサガミは、目の前で眠るミナを揺り起こし、連れ帰ろうとするうちに、灯の悪戯でこぼれた蜜がわずかに彼のまぶたにもかかってしまった。目を開けたサガミの目に映ったのは、戸惑うスズの顔だった。

「私は、今までずっと思い違いをしていたようだ。本当に見るべき人を、見ていなかった」

こうして、トウジとサガミの二人が揃ってスズに言い寄るという、奇妙な事態が出来上がってしまった。目を覚ましたミナは、隣にいたはずのトウジがいなくなり、遠くでスズに熱を上げている姿を目にして、言葉を失った。

「トウジ、どうして……」

呼びかけても、トウジの目にはミナの姿がまるで映っていないかのようだった。裏切られたと感じるより先に、ミナの胸には冷たい当惑だけが広がっていく。何が起きているのか分からないまま、森の暗がりに一人取り残されたような心地がした。

膝を抱えてうずくまるミナの傍らに、灯がそっと降り立った。先ほどまでの悪戯っぽい笑みは、いつの間にか消えていた。

「あの……大丈夫か」

「あなた、さっきのこと見てたでしょう。トウジがおかしくなったの、あなたのせいじゃないの」

鋭く問い詰められて、灯は答えに詰まった。人間の反応を試すつもりで蜜を垂らした時には、これほどの痛みが返ってくるとは思っていなかった。悪戯の結末を面白がる気持ちが、急速にしぼんでいくのを、灯自身が誰よりも戸惑いながら感じていた。

「ぼく……ちょっと、からかっただけのつもりだったんだ。まさか、こんなに」

「ちょっとで済むことと、済まないことがあるでしょう」

ミナの声は震えていたが、責める響きの中に、それでも怯えず竜と向き合おうとする芯の強さがあった。灯はその強さに気圧されながらも、初めて誰かの涙を、単なる愉快な見世物としてではなく、自分が引き起こしてしまった痛みとして受け止めていた。

一方、森の泉のほとりでは、王妃ネリアが行き違いから灯の蜜の余波を浴び、たまたま通りかかった不器用な村の木こりに、道化じみた熱を上げてしまうという一幕も起きていた。木こりの間の抜けた仕草に妃が大げさに惚れ込む姿を見て、王トールは思わず声を上げて笑ってしまい、二人の間にあった張り詰めた空気は、いつの間にか緩んでいた。だが、その陰で人間たちの想いが取り返しのつかないほどもつれ始めていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。

四 崩れる谷、竜の翼

夜が更けるにつれ、森の中の四人はますます混迷を深めていった。スズは自分をからかっているのだと思い込んでサガミとトウジに詰め寄り、二人は互いを恋敵と見なして睨み合う。ミナはただ一人、灯を伴って、誰にも顧みられぬまま暗い木立の中を当てもなく彷徨っていた。

「トウジさんは、私のことなんて、もう」

「そんなことない。多分、ぼくのせいで一時的に見えなくなってるだけだ」

灯は懸命にそう繰り返したが、自分の言葉にどれほどの説得力があるのか、灯自身にも自信が持てずにいた。涙をこらえながら歩くうちに、ミナは足元の地面が緩んでいることに気づかなかった。数日来の雨で緩んでいた谷の縁が、彼女の重みに耐えかねてぐらりと崩れ始める。

「危ない!」

その声とともに、諍い合っていたはずのサガミとスズ、そしてトウジまでもが崩落の音に振り返った。だが、崖の縁に一番近かったミナに手を伸ばすには、誰の距離も遠すぎた。

崩れゆく土の中で、ミナが覚悟して目を閉じたその瞬間、頭上から橙色の光を纏った小さな影が舞い降りた。灯だった。仔竜の身には到底不釣り合いなほどの勢いで翼を広げ、崩れる土砂の下からミナの体をすくい上げると、そのまま宙へと飛び上がる。焔混じりの息を地面に短く吹きかけて土を固め、後を追おうとしていたトウジたちの足場を守ったのも、とっさに灯がしたことだった。羽ばたきのたびに小さな鱗が土埃にまみれ、着地した拍子に翼の付け根を強くひねってしまったが、灯はそれを気に留める余裕さえなかった。

地面に降り立ったミナは、しばらく声も出せずにいた。目の前には、鱗のあちこちが土埃で汚れ、翼を庇うように少し傾いだ姿勢の小さな竜が、荒い息をつきながら佇んでいた。

「大丈夫? ……ごめん」

「今の、あなたが」

「うん。崖から助けたのも、多分、その前の厄介事も、ぜんぶぼくのせいだ」

灯は観念したように、これまでの一部始終――王に頼まれた仕事そっちのけで、興味本位に蜜を使い、恋心を引っ掻き回してしまったことを、訥々と打ち明けた。話を聞くうちに、追いついてきたトウジとサガミ、スズの顔にも、驚きと戸惑いが広がっていく。

「じゃあ僕は、蜜のせいで、スズさんに」

「ミナのことを、本当は今もちゃんと想ってる。ぼくのいたずらのせいで、それが見えなくなっていただけだ」

灯の言葉に、トウジは弾かれたようにミナへと駆け寄った。ミナは安堵と、それでも拭いきれない胸の痛みとの間で、うまく言葉を紡げなかった。それでも、傷ついた翼をかばいながらなお立ち上がろうとする灯の姿を見ているうちに、その痛みは少しずつ和らいでいくのを感じていた。

そこへ、騒ぎを聞きつけた王トールが姿を現し、灯の顛末を見て小さく息を吐いた。

「軽率な真似をしたものだ。だが……危ういところで、お前は自分の犯した過ちの分だけ、命がけで償おうとしたな」

叱る言葉と労う言葉が、同じ声の中に混ざっていた。灯は翼の先を土につけたまま、しばらく顔を上げられずにいた。

五 朝靄の中に

「夜が明けるまでに、正しい形に戻してやらねば」

トールの言葉に、灯は黙って頷いた。二人は夜露に濡れた仲直りの花から、澄んだ雫を新たに集め、それを淡い靄へと変える術を編み上げていく。人の心そのものを操るのではなく、蜜が搔き乱した一夜の記憶だけを、朝霧のように優しく溶かし去るための靄だった。作業の合間、灯はちらちらとミナの方をうかがっていた。傷ついた翼をかばいながらも、自分の蒔いた種を自分の手で刈り取ろうとするその横顔を、ミナは黙って見つめていた。

「さっきは、ひどいこと言ってごめんね」

「いや、当然だ。ぼくがしたことに、見合うだけの言葉だったよ」

短いやり取りの中に、互いを咎める気持ちよりも、認め合うような静かな温もりが生まれていた。四人が疲れ果てて眠りに落ちるのを待って、灯はその靄をそっと吹きかけて回った。トウジのまぶたに残っていた蜜の名残を洗い流し、迷わされる前の――ミナだけを想っていたはずの本当の気持ちへと、そっと立ち返らせる。一方、サガミにかけた靄が拭ったのは、蜜が呼び起こした急な熱だけだった。その底で、蜜など借りずとも静かに根を張っていた想いまでは、靄も奪いはしなかった。同じ靄でも、二人にもたらす仕事は少しだけ違っていた。何ひとつ無理に奪うわけでも作り出すわけでもなく、それぞれの中にすでにあったものへと、そっと立ち返らせるだけの、静かな仕事だった。

東の空が白み始める頃、ミナが目を覚ますと、傍らにはトウジが心配そうな顔で座っていた。目が合った瞬間、トウジの表情には迷いのかけらもなかった。

「ミナ、怖い思いをさせてすまなかった。僕の目には、ずっと君しか映っていなかったはずなのに」

「分かってる。あなたのせいじゃないもの」

少し離れた場所では、サガミがスズに向かって、ぎこちなく、けれど確かな声で語りかけていた。

「今までずっと、ミナのことばかり見ていた。でも、本当は……お前が僕を追いかけて、こんな森の奥まで来てくれたことの方が、よほど嬉しかったんだ」

スズは頬を赤らめながら、それでも半信半疑という顔つきで、サガミの言葉を聞いていた。一夜の蜜がもたらした熱ではなく、これは彼自身の言葉なのだと、少しずつ胸に落ちていくようだった。

そこへ、ミナの父が村の男衆を連れて森に駆け込んできた。娘が消えたと知って、夜通し捜し歩いていたのだ。父はまず安堵に膝から崩れ落ち、それからミナとトウジが寄り添う姿、そしてサガミがスズの手をそっと取っている光景を見比べて、しばらく言葉を失っていた。

「サガミどのが、ミナではなく、スズを……?」

「父上、私はトウジと生きていきます。サガミどのには、どうかスズと添い遂げてほしいのです」

娘の真っ直ぐな眼差しに、父はやがて長い息を吐いた。一晩の森の出来事が、頑なだった心をどこかで解きほぐしていたのかもしれない。結局その場で、父はミナとトウジの仲を認め、サガミの家との間には、スズを迎えるという形で新たな縁が結ばれることになった。

朝靄が森の木々の間を這うように流れていく中、ミナはふと、遠くの梢の陰に小さな橙色の光がひとつ揺れているのに気づいた。目を凝らすと、その光は名残惜しむようにひと際強くまたたいてから、白い靄の奥へすっと溶けて消えていった。傷ついていたはずの翼を、それでも精一杯に広げて飛び去っていくその後ろ姿を、ミナは瞬きも忘れて見送った。

「ねえ、今の――」

隣にいたトウジに尋ねかけたが、彼は気づいていない様子だった。あれが本当に竜だったのか、それとも夜の名残が見せた幻だったのか、ミナ自身にも確かめる術はなかった。ただ、崖から助け上げられた時に見た、あの申し訳なさそうな金色の瞳と、詫びる声の震えだけは、いつまでも胸の奥に焼き付いて離れなかった。

白い靄の向こうへ消えていった灯は、痛む翼をかばいながら、誰も見ていない森の梢でひとり息をついていた。これまで幾度も仕掛けてきた悪戯は、いつだって誰かを驚かせて終わるだけの、軽い遊びのつもりだった。だが今夜だけは、驚かせた後にも続きがあった。傷ついた心をどう繕うか、こぼれた涙にどう向き合うか――そういう重さを、灯は生まれて初めて知った気がした。王のもとへ戻れば、また同じように気ままに飛び回るのだろう。それでも、今夜覚えたこの胸の疼きだけは、しばらく消えずに残りそうだった。

村へ戻る道すがら、ミナは時折り森の方を振り返った。それから幾年もの間、たそがれの森の際にはささやかな花が供えられるようになったという。誰が始めたとも知れぬその習わしは、村の子供たちに、こう語り継がれている――夜更けに森で迷ったなら、悪戯好きの小さな灯りが、詫びるようにそっと道を照らしてくれるだろう、と。

あとがき

シェイクスピアの『夏の夜の夢』は、親の決めた結婚を拒む娘ハーミアが恋人と森へ駆け落ちし、それを追う青年と、その青年に片想いする娘までもが森に迷い込む中、妖精王オーベロンの従者パックが仕掛けた「恋の惑わしの花」の蜜によって、二組の恋人たちの想いが一夜のうちにもつれ合う恋愛喜劇である。本作では、パックの役割を、妖精王に仕えているわけではない森の悪戯好きな仔竜「灯」に置き換えた。

原作最大の眼目である、悪戯によって生じた恋の行き違いと、それが夜明けとともに正しい形へと戻っていく構図は保ちながら、単なる愉快犯ではなく、傷ついたミナの涙に触れて初めて自らの過ちの重さを知り、危機が迫った瞬間には身を挺して人間たちを守り、自らの手で償おうとする灯の姿を新たに加えている。村や登場人物の名、森の情景、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はウィリアム・シェイクスピア著『A Midsummer Night’s Dream』(https://www.gutenberg.org/ebooks/2242)を参考にした翻案作品です。

本作はウィリアム・シェイクスピアの『夏の夜の夢』を参考にした作品です。原典