物語雳
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·読了目安 14分悪役

灰都の夜、竜は戦わずして斃れた

鉾ヶ岳の封印が破れ、地の底に眠っていた古竜の群れが阿久多の里を焼き尽くす。書役の伊織は妻とはぐれ、老神官と猟師とともに灰都を目指すが、迎えた最後の夜、竜たちは人の手を借りず、次々と斃れていく。それは勝利ではなく、あまりに小さな理由による、圧倒的な者の終焉だった。

一 鉾ヶ岳の書役

阿久多(あくた)の里は、鉾ヶ岳(ほこがたけ)という険しい山の裾に、身を寄せ合うようにして広がる小さな町だった。田畑は乏しく、人々の多くは山を敬いながらも山に頼って暮らしていた。木を伐り、炭を焼き、山菜を摘む。晴れた日には、山の稜線が里のどこからでも見え、夕暮れには、その稜線が茜色に染まり、里の屋根瓦を淡く照らした。そうした慎ましい営みの傍らに、山頂近くの鎖竜社(さりゅうしゃ)という古い祠があった。

里見伊織(さとみいおり)は、その鎖竜社に代々仕える書役(かきやく)の家に生まれた。書役といっても、神職のように祈りを捧げる役目ではない。祠に伝わる古い巻物や木簡を写し、傷んだものを新しい紙に書き移し、蔵に納める。ただそれだけの、地味な仕事である。伊織自身、幼い頃はこの仕事を退屈に思っていたが、算術と暦学を修めるうちに、古い記録の中に潜む数字や年代の連なりに、ひそかな面白みを見出すようになっていた。

「太古、地の底より這い出でんとする竜あり。これを鎖(とざ)し、山の内に封ず」

伊織が幼い頃から諳(そら)んじるほど読んだ由緒書きには、そう記されていた。曰く、この山の奥深く、あるいはこの世ならざる場所に、無数の竜が眠っている。人の身では到底測り知れぬほどの太古、名も知れぬ行者がこの地に祠を建て、竜の群れを鎖し封じたのだという。その封印を保つために、毎年秋、神官たちが山頂で祭祀を執り行う。伊織はその一部始終を記録するのが役目だった。

正直に言えば、伊織はこの伝承を半ば眉唾だと思っていた。二十六年の人生で、竜の姿など一度も見たことがない。地鳴りや山崩れが起これば「竜が身じろぎした」と里の年寄りたちは口を揃えるが、それは単に、地震や落石を語るための古い言い回しに過ぎないと、伊織は考えていた。学問所で暦学と算術を修めた身としては、竜よりも、日照りや長雨の周期の方がよほど確かな脅威だった。

とはいえ、今年の秋祭りには、伊織自身もいささか胸騒ぎを覚えていた。祭祀を執り行うべき神官の数が、この十年で目に見えて減っていた。老いた神官たちは次々と亡くなり、後を継ぐ若者は都会へ出て戻らない。今年の祭祀は、簡略な形でしか行われなかった。

「昔は七日七晩かけて祝詞を上げたものだが、今年は一晩で終わりだ」

祭祀を取り仕切った老神官・弦斎(げんさい)は、祭壇を片付けながら、疲れた声でそう呟いた。伊織はその言葉を記録に書き留めながら、ふと山頂を振り仰いだ。雲一つない秋の空に、鉾ヶ岳の頂だけが、なぜか薄い靄に包まれているように見えた。長年この山を見て育った伊織にも、それがただの雲なのか、それとも別の何かなのか、判じることはできなかった。

その日を境に、里ではいくつかの小さな異変が続いた。井戸の水にわずかな濁りが混じるようになった。山の獣たちが、まるで何かに追われるように、里へと下りてこなくなった。猟師たちは「今年は獲物の足取りが読めん」とこぼし合った。夜、鉾ヶ岳の奥から、地の底を這うような低い音が響くことがあった。年寄りたちは眉をひそめ、若者たちはそれを笑い飛ばした。伊織は、そのどちらでもなく、ただ静かに記録帳へと書き加えるだけだった。「十月十二日、山中に地鳴りあり。原因不明」と。

夜、伊織は妻の阿弥(あみ)と、小さな囲炉裏を囲んで夕餉をとっていた。阿弥は機織りの仕事をしながら、伊織の書役の仕事をいつも面白がって聞いてくれる。二人が所帯を持ってまだ二年、子はまだいなかったが、貧しいなりに、穏やかな暮らしだった。

「今日はどんな古い話を写したの」

「太古の竜の話さ。何度写しても、内容は変わらない」伊織は苦笑しながら答えた。「本当にいるなら、一度でいいから見てみたいものだが」

「見たら腰を抜かすくせに」阿弥は笑いながら、機織りの手を止めずに言った。「それより、今年の祭祀が短くなったって、本当なの。母様が心配していたわ」

「神官様の数が足りないだけさ。竜が怒ったわけじゃない」伊織はそう言って、妻を安心させるように微笑んだ。だが、口にしたその言葉が、自分でもどこか空々しく響くのを感じていた。

その夜も、ありふれた、何でもない夜だった。ただ、床に就いてからも、伊織の耳の奥には、山の奥から響いてくる、あの低い地鳴りの音がいつまでも残っていた。眠りに落ちる間際、伊織はふと、由緒書きの最後の一行を思い出した。「封の緩む時、竜は再び地を覆わん」――その一文を、伊織はこれまで、単なる修辞として読み流してきた。

二 山開く

その夜半、伊織は轟音で目を覚ました。

最初は雷かと思った。だが窓の外に走った光は、稲妻のような一瞬のものではなく、山の稜線そのものが赤く発光しているような、異様な明るさだった。次いで、地面そのものが跳ね上がるような衝撃が里を襲い、屋根瓦が滑り落ち、土壁に亀裂が走った。棚から落ちた甕が割れ、水が土間に広がっていく音を、伊織はどこか遠くのことのように聞いた。

「伊織さん!」

阿弥の悲鳴じみた声に、伊織は跳ね起きた。戸口を開けた瞬間、伊織は言葉を失った。

鉾ヶ岳の頂が、まるで卵の殻のように内側から砕けていた。砕けた山肌の裂け目から、幾筋もの黒い影が、絡み合いながら這い出してくる。月明かりに照らされたその輪郭は、伊織が写本の中で何百回と目にした竜の姿そのものだった。ただし、それは一頭や二頭ではなかった。裂け目という裂け目から、数え切れぬほどの竜が、次々と地上へと溢れ出てきていたのだ。鎖竜社は、その裂け目のちょうど真上にあったはずだった。祠がどうなったのか、確かめる術はもうなかった。

竜たちは咆哮すら上げなかった。ただ、風を叩き割るような羽ばたきの音と、地を這う鱗の擦れる音だけが、里全体を包んだ。一頭が翼を広げ、里の中心に向けて息を吐いた瞬間、木造の家々が瞬く間に炎に包まれた。熱風が伊織の頬を焼き、鼻の奥に焦げた匂いが染みついた。剣も鉞(まさかり)も、その鱗の前では意味を成さないだろうと、伊織は本能的に悟った。

「逃げるんだ、阿弥!」

伊織は妻の手を引いて、里の裏手にある山道へと駆け出した。夜道は逃げ惑う人々でひしめき、誰もが方向も定まらぬまま、ただ炎から遠ざかろうと足を動かしていた。子を背負った母親、杖をついた老爺、泣きながら親の名を呼ぶ子供――その波に押し流され、二人の手は、ある一瞬、あっけなく離れた。伊織が振り返った時には、阿弥の姿は炎と煙と人波の向こうに消えていた。何度も名を呼んだが、応える声はなかった。人波に押し戻され、伊織は何度も転びながら、それでも山道の方へと流されていった。

伊織は炎の熱に追われながら、里外れの畑まで転がるように逃げ延びた。そこで見たものを、伊織は生涯忘れないだろう。一頭の竜が、逃げ遅れた老爺の背に前脚をかけ、そのまま宙に浮かび上がった。老爺は声もなく、ただ手足を力なく揺らしていた。竜の喉元がわずかに脈打つように光ると、老爺の体から、白い靄のようなものが、ゆっくりと竜の口へと吸い込まれていった。それが何であるのか、伊織には分からなかった。ただ、それを見た瞬間、体の芯が凍りつくような恐怖を覚えた。老爺の体は、糸の切れた人形のように地に落ち、二度と動かなかった。

竜たちは、意志を持って人を狩っているようには見えなかった。憎しみも、興奮も感じられない。まるで、朝に水を飲み、夜に眠るのと同じ、当たり前の営みとして、人の生気を刈り取っているだけのようだった。その没交渉な無関心さこそが、伊織にとって何よりも恐ろしかった。人に敵意を向けられるのなら、まだ理解のしようがある。だが竜たちは、人を憎んでさえいなかった。ただ、そこにあるものを、当然のように摘み取っていくだけだった。

畑の畦道でうずくまっていた伊織は、背後から肩を掴まれ、危うく声を上げるところだった。振り向くと、そこには弦斎と、猟師の丈助(じょうすけ)がいた。弦斎の白い装束は煤で黒く汚れ、丈助は右腕に浅い火傷を負っていた。

「伊織、生きていたか」弦斎の声は震えていた。「これは……これは山神の怒りだ。我らの祭祀が疎かになったゆえの……」

「祭祀の話は後だ」丈助が短く遮った。「今は山を下って灰都(かいと)へ向かう。あそこには城壁がある。ここに留まれば、遅かれ早かれ喰われるだけだ」

「阿弥が……妻が、まだ里の中に」伊織は炎の方角を振り返りながら言った。

丈助は一瞬、伊織の肩に手を置き、それから静かに、しかし迷いなく言った。「今戻れば、お前も竜の餌になるだけだ。灰都に着けば、他にも逃げてきた者がいるだろう。そこで探す方が、まだ見込みがある」

伊織は拳を握りしめた。理屈では丈助が正しいと分かっていた。だが、体の奥底から突き上げてくる衝動は、その理屈をあっさりと押し流しそうになった。それでも伊織は、震える足を山道へと向けた。三人は、燃え落ちる阿久多を背に、山道を駆け下りた。伊織は何度も振り返り、妻の名を呼びたい衝動に駆られたが、そのたびに丈助に腕を掴まれ、前へ前へと引き摺られた。

三 竜のいる道

灰都へと続く街道には、伊織たちと同じように故郷を追われた人々の列が、蟻の行列のように延びていた。老いも若きも、荷物一つ持たずに、ただ背後を振り返りながら歩いていた。誰もが、家族の誰かを、あの炎の中に置き去りにしていた。誰も多くを語らなかった。語る言葉が、すでに尽きていたのかもしれない。

道中、三人の竜への向き合い方は、はっきりと分かれていった。

弦斎は、日を追うごとに言葉を失っていった。かと思えば、突然立ち止まり、空を見上げて「我らが至らぬゆえに、竜は怒りて封を破ったのだ」と繰り返す。ある夜など、遠くに竜の影を見つけるや、両手を合わせて地に伏し、許しを乞うように呟き始めた。伊織はその姿に、かつて共に祭祀を記録した、あの落ち着いた老神官の面影を見出すことができなかった。弦斎にとって、竜は今や単なる脅威ではなく、自らの生涯を懸けた信仰そのものを揺るがす存在になっていた。

「弦斎殿、竜は祈りに応えたりはしません」伊織はある夜、たまらずそう口にした。

「では、何に応えるというのだ」弦斎は虚ろな目で問い返した。「祈りが届かぬのなら、この世に、我らの声が届く相手など、どこにもいないではないか」

伊織には、その問いに答えられなかった。

一方の丈助は、恐怖よりも先に、竜という存在を観察することに執着していた。

「奴らは夜になると動きが鈍る。日が高いうちほど活発だ」丈助は焚き火の傍らで、乾いた声で言った。「それに、川や湖には決して近づこうとしない。何か理由があるはずだ」

「それが分かったところで、どうにもならんだろう」伊織は疲れた声で返した。

「分からんぞ。理由が分かれば、隙も分かる」丈助は薪を折りながら、独り言のように続けた。「灰都で持ちこたえられなくても、山に潜んで、奴らの目を盗んで生き延びる術はあるはずだ。俺はまだ諦めちゃいない。人はな、伊織、剣で敵わぬ相手には、知恵で立ち向かうしかないんだ」

伊織は、丈助の実利的な粘り強さに、幾分か救われる思いがした。だが同時に、その言葉の端々に滲む、人を人とも思わぬ竜への理解不能な執着を、どこか危ういものとしても感じていた。丈助は竜を憎んではいなかった。むしろ、憎むことすら贅沢だとでも言うように、ただ淡々と、竜という現象そのものを解き明かそうとしていた。

伊織自身は、書役としての性分から逃れられなかった。逃避行の道すがら、伊織は懐に忍ばせた帳面に、目にしたことを記録し続けた。竜が里を焼く様、人を攫う様、そして――竜たちが決して、互いに争ったり、群れの中で優劣を競ったりする素振りを見せないこと。それぞれの竜には、名も、表情も、意志の揺らぎも感じられなかった。まるで一つの巨大な意志の断片が、無数の体に分かれて地上を覆っているかのようだった。書くことは、伊織にとって、目の前の惨状から自分を守るための、唯一の術だった。文字にすることで、初めて、その出来事を自分の外側に置くことができた。

道中、伊織は幾度も、竜に捕らわれた人々の姿を目にした。ある村では、生気を半ば奪われたまま、虚ろな目で竜の足元にうずくまる人々がいた。彼らは逃げようとも、助けを求めようともしなかった。ただ、糸の切れかけた操り人形のように、緩慢に手足を動かすだけだった。伊織はその光景に、言いようのない無力感を覚えた。妻の阿弥も、今頃どこかで、あのような姿になっているのではないか――その想像を振り払うように、伊織は帳面に文字を書き続けた。

五日目の朝、三人は焼け落ちた宿場町の跡で、井戸の水を求めて彷徨う一団に出会った。その中の一人の老婆が、伊織の顔をじっと見つめて言った。

「あんた、書役だろう。その手つき、その帳面の持ち方で分かる」

「……はい」

「なら、書き残しておくれ。ここで死んだ者たちの名を。誰も覚えていてくれる者がいないなら、せめて紙の上にだけでも」

伊織は、震える手でその場に集った人々の名を書き留めた。誰一人、伊織の知る者ではなかった。それでも、その一つ一つの名前を書き記すことだけが、今の伊織にできる、ささやかな抵抗のように思えた。

七日目の朝、伊織たちはようやく灰都の城壁を望む丘に辿り着いた。しかし、そこに見えたのは、安息の地ではなかった。灰都を囲む城壁の外側にも、既に幾つもの黒い影が、旋回するように飛び交っていた。都は、既に包囲されつつあった。

四 灰都、最後の夜

灰都の城内は、避難してきた人々と、迎え撃つ支度をする兵とで、ごった返していた。伊織は書役としての経験を買われ、負傷者の名簿を作る仕事に回された。丈助は迷わず義勇兵の列に並んだ。弦斎は、当初は寺院で祈祷を手伝っていたが、日が経つにつれ、様子がおかしくなっていった。

伊織は名簿を作りながら、灰都に辿り着いた人々一人一人に、故郷の名と、失った者の名を尋ねて回った。阿久多から来た者はいないかと聞き続けたが、阿弥の名を知る者には、ついに出会えなかった。それでも伊織は、名簿を作る手を止めなかった。誰かの名を、誰かが覚えている限り、その人はまだ完全には失われていない――そう自分に言い聞かせながら。

決戦の夜、城壁の向こうに無数の竜の影が集結しているのが望楼から見えた頃、弦斎は突如として大手門へと駆け出した。

「開けよ! 開けて竜をお迎えするのだ! さすれば竜も、我らの恭順を認め、矛を収めよう!」

門番たちが弦斎を取り押さえる騒ぎの中、伊織はその場に駆けつけ、老神官の肩を強く掴んだ。

「弦斎殿、目を覚ましてください。あれは、恭順も反逆も見分けはしない」

弦斎は虚ろな目で伊織を見上げた。「ならば、我らはどうすればよいのだ、伊織。剣も祈りも通じぬ相手に、人はどう向き合えばよいのだ」

伊織には、答えられなかった。ただ、老神官の手を引いて、門から遠ざけることしかできなかった。弦斎は抵抗する力も失せたのか、そのまま地に膝をつき、声もなく泣き始めた。伊織はその背を、言葉もなくさすった。

その夜、竜の大群が、ついに灰都の城壁へと殺到した。炎が城壁の一角を舐め、石造りの櫓が崩れ落ちた。矢も投石も、鱗の表面を滑り落ちるだけで、何ら効を奏さなかった。丈助の隊も次々と後退を余儀なくされ、伊織は負傷者を奥の蔵へと運びながら、いよいよこれで終わりかと、覚悟を決めかけていた。運ばれてくる者たちの傷は増える一方で、蔵の中はうめき声で満ちていた。

そのときだった。城壁の上で竜と対峙していた兵の一人が、素っ頓狂な声を上げた。

「……止まった? なぜ止まる」

伊織が声のする方へ目をやると、城壁に取りついていた一頭の竜が、翼を痙攣させながら、体をよじらせていた。その口の端から、黒い液体がどろりと零れ落ちる。次の瞬間、竜は低い呻きを一つ上げ、そのまま城壁の外へと崩れ落ちた。

一頭だけではなかった。周囲の竜たちが、次々と同じように動きを止め、痙攣し、体をくねらせては、地に伏していった。松明の明かりの下、竜たちの鱗の間から、暗紫色の斑点が、まるで根を張るように広がっていくのが見えた。呼吸は乱れ、翼は力なく地に垂れ下がり、やがて動かなくなった。城壁の上に集まった人々は、誰も声を発しなかった。刃を構えたまま、ただ呆然とその光景を見つめていた。

夜明けにかけて、包囲していた竜の群れは、目に見えて数を減らしていった。人の放った矢一本、剣一振りも、その崩壊には関わっていなかった。ただ、竜たちは、まるで見えない手に薙ぎ払われるように、次々と斃れていったのだ。倒れることのなかった竜たちも、力なく翼を垂らし、地を這うようにして、どこか彼方へと飛び去っていった。

丈助は、崩れ落ちる竜の骸を城壁の上から見下ろしながら、呆然とした声で呟いた。

「……俺たちが、倒したわけじゃない」

「ああ」伊織は隣で頷いた。「俺たちは、何もしていない」

丈助は、それまで積み重ねてきた竜の習性についての読みを、まるで無に帰されたかのように、しばらく黙り込んでいた。そして、ようやく口を開いた。「俺は、隙を突いて生き延びる算段ばかりしていた。だが結局のところ、俺たちの命運は、俺たちの手の届かぬところで決まっていたわけだ」

伊織もまた、その光景から目を離せなかった。太古よりこの世ならざる場所に封じられていた竜たちは、この土地の風にも、水にも、そして目に見えぬ何かにも、免疫を持たなかったのだろう。人知の及ばぬ場所からやってきた者たちは、人知の及ばぬ小さきものによって、静かに滅びていった。その事実は、勝利というにはあまりにも空虚で、そしてあまりにも皮肉だった。

弦斎は、城壁の下に横たわる竜の骸を見つめたまま、長い間、一言も発しなかった。天罰でもなく、恭順の証でもなく、ただの、あまりにも呆気ない終わりだった。やがて弦斎は、掠れた声で言った。「これが、山神の怒りの正体だったのか。……いや、違う。これは、怒りですらなかった。ただの、巡り合わせだったのだ」

五 骸の街で

夜が明けると、灰都の周囲には、幾百とも知れぬ竜の骸が、折り重なるように横たわっていた。生き残った者たちは、恐る恐る城壁の外へと出て、その光景を歩いた。勝鬐(かちどき)の声は、どこからも上がらなかった。誰もが、ただ黙って、竜の骸の間を縫うように歩いていた。あれほど恐れられた鱗も牙も、今はただの、朽ちていく亡骸に過ぎなかった。

伊織は、その骸の群れの中を、妻の名を呼びながら歩き続けた。声は掠れ、喉は焼けるように痛んだ。半ば諦めかけた頃、瓦礫の陰にうずくまる人影を見つけた。痩せ細り、頬はこけていたが、それは間違いなく阿弥だった。生気を刈り取られる寸前で、逃げ込んだ小屋の陰に身を潜め、命を拾ったのだという。伊織は言葉もなく、ただその体を抱き寄せた。阿弥の体は驚くほど軽く、そしてかすかに震えていた。

「生きていたのね」阿弥は掠れた声で、それだけを言った。

「ああ」伊織はそれ以上、何も言えなかった。ただ、妻の温もりを確かめるように、長い間、その体を抱きしめ続けた。

竜の骸を焼く煙が、幾筋も鉾ヶ岳の方角へと立ち昇っていくのを、伊織は阿弥の肩を抱きながら眺めていた。丈助は、生き残った義勇兵たちと共に、黙々と骸の始末に当たっていた。もう、竜の習性を語る声は聞かれなかった。弦斎は、寺院の片隅で、誰に語るでもなく、竜の骸のために経を上げ続けていた。

伊織は懐から帳面を取り出し、震える手で最後の一文を書き加えた。

「我らは竜に勝ちたるにあらず。ただ、生き延びたるのみ」

それは、勝利の記録ではなかった。人の意志も、剣の力も及ばぬところで、圧倒的な力を持つ者が、あまりにも小さな理由によって滅び去った、その一部始終の記録だった。伊織は、これから先も書役として、この顛末を書き継いでいくつもりだった。誰に読まれるとも知れぬ帳面に、ただ、あったことをあったままに記す。それだけが、伊織にできる、竜の骸に対する、そして命を落としたすべての人々に対する、唯一の弔いだった。

数日後、阿久多の生き残りの何人かが、灰都に落ち延びてきているという報せが届いた。伊織と阿弥は、彼らと共に、いつか山を再び登る日のことを、まだ声には出さずに思い描いていた。鎖竜社は、もう跡形もないだろう。だが、あの由緒書きの最後の一行――「封の緩む時、竜は再び地を覆わん」――の、その先を書き継ぐ者が、もういないわけではなかった。

立ち昇る煙の向こうに、鉾ヶ岳の頂は、今はただ静かに、何事もなかったかのように朝日を浴びていた。

本作はH・G・ウェルズ(Herbert George Wells)の『The War of the Worlds(宇宙戦争、1898年刊)』を参考にした作品です。原典