竜は褒美を求めなかった
宮廷の寵愛は、竹林に棲む幼竜の歌声から、宝石で鱗を飾ったからくり竜へと移ろっていく。疎まれ山へ帰った本物の竜が再び窓辺に舞い戻るのは、死神の忍び寄る夜のことだった。
一 竹林の歌声
祥国の都に瑞雲宮という宮殿があった。白壁は朝霧に洗われ、甍は夕焼けに濡れ、そのどれもが評判どおりに美しかったが、宮殿の本当の宝物は、庭の奥、誰も足を踏み入れぬ碧竹林の暗がりにあることを、宮廷の誰ひとり知らなかった。
宮殿の庭は幾重にも造り込まれていた。池のほとりには四季の花が絶やされることなく咲き誇り、築山には異国から運ばせた奇石が配され、訪れる客人はみな一様にその贅を尽くした眺めに感嘆の声を漏らす。だが、その庭の最も奥まった一角――手入れのされていない、鬱蒼とした竹林だけは、庭師たちですら好んで近づこうとはしなかった。昼でも薄暗く、風が抜けるたびに竹がざわめき、どこか人を寄せつけない気配が漂っていたからだ。
知っていたのは、下働きの園丁見習いである阿月(あげつ)ただひとりだった。阿月は薪拾いのついでにいつも竹林の際まで入り込み、そこで夜ごと聞こえる歌声に耳を澄ませるのを、何よりの楽しみにしていた。声の主は、人の膝ほどの背丈しかない幼い竜だった。鱗は若竹のような緑を帯び、喉を震わせるたびに、まるで玉を転がすような、澄んだ共鳴の音が竹林いっぱいに広がる。阿月はその竜を、心の中でひそかに玲(れい)と呼んでいた。
「今日も歌ってくれるの、玲」
「歌うとも。誰かに聞かせるためではないがな」
玲は素っ気なく答えるが、阿月が竹林の縁に腰を下ろすと、決まって少しだけ声を張るのだった。歌に言葉はない。ただ喉の奥から生まれる音の連なりが、風にざわめく竹の葉の音と混じり合い、夜露に濡れた地面にまで沁み込んでいくようだった。阿月は薪の束を抱えたまま、いつまでもそれを聞いていたかった。
「玲は、どうしてここに隠れて棲んでいるの。都には竜を崇める廟だってあるのに」
「崇められるのと、飼われるのとは違う。私はただ、好きなときに好きなだけ歌いたいだけだ」
阿月には、その答えの深さがまだよくわからなかった。ただ、玲の声が誰かに命じられたものではなく、竜自身の内側から自然にあふれ出るものだということだけは、幼いなりに感じ取っていた。
阿月は薪拾いの娘で、両親は都の外れで小さな畑を耕していた。宮殿での仕事は決して楽ではなかったが、日暮れどきに竹林へ立ち寄り、玲の歌を聞くことだけが、阿月にとって一日の終わりの何よりの慰めだった。誰にも語ったことのない秘密を、阿月は竹林の暗がりにひとつだけ持っていた。
「玲は、何年くらいここにいるの」
「さあ、数えたことがない。竜にとって、歳月というのは、人間が思うほど重いものではないのでな」
「私が大きくなっても、まだここにいてくれる?」
玲はそれには答えず、ただ喉の奥を小さく震わせただけだった。それが肯定なのか、はぐらかしなのか、阿月には判じかねたが、その日はそれ以上尋ねずに、薪の束を抱えて宮殿へと戻っていった。
その年の秋、都には妙な噂が流れ始めていた。異国から来た商人や旅の楽師たちが、口を揃えてこう語るのだという。「祥国の都には、この世のものとも思えぬ美しい歌声を持つ竜が棲んでいる」と。噂は都の外へ外へと広がり、やがて隣国の書物にまで記され、遠い異国の宮廷でまで語り草になっているらしいという話が、行商人の口から阿月の耳にも届いた。
「不思議なものだね。誰も見たことがないのに、遠くの国のほうがよっぽど詳しく知っているなんて」
阿月がそう言うと、玲はわずかに首を傾げた。
「人間というのは、そういうものなのだろう。近くにあるものより、遠くの評判のほうを、よほど大事に扱う」
その言葉が、まさか自分自身の身の上を言い当てることになるとは、玲もまだ知らなかった。
宮殿の中では、当代の皇帝・昭明帝が、異国の使者から献上された書物を読みふけっていた。若くして即位したこの皇帝は、書を愛し、詩を愛し、美しいものすべてを深く愛していたが、その多くを自らの目や耳で確かめるのではなく、書物や家臣の報告を通して知ることに慣れきっていた。幼くして父帝を失い、政務のいろはを重臣たちから学びながら育った昭明帝にとって、宮殿の奥深くに広がる庭園ですら、実際に歩き回るよりも、絵図や報告書の上で眺めるもののほうが馴染み深かった。書物にはこう記されていた。「祥国の庭には、世にも麗しい歌声を持つ竜が棲むという。かの国の民は、日々その恩恵に浴していることであろう」
昭明帝は眉をひそめ、傍らに控える侍中の康公(こうこう)を呼び寄せた。
「康よ、これはまことか。わが庭に、さような竜が棲んでいるとは、朕は聞いたためしがない」
「恐れながら、臣も存じませぬ。さっそく調べさせましょう」
康公は如才ない男だった。皇帝の機嫌を損ねることを何より恐れ、命じられたことは寸分の遅滞もなくやってのける。彼はただちに宮廷の役人たちに触れを出し、庭に棲むという竜を探し出すよう命じた。役人たちは池のほとりを、築山の陰を、あらゆる場所を歩き回ったが、竹林の奥までは、なかなか誰も踏み込もうとはしなかった。
その夜も、玲はいつものように歌っていた。阿月は薪の束を抱えたまま、竹林の縁で耳を澄ませていた。何かが変わろうとしている、その予兆だけを、阿月はまだ言葉にできないまま、ただ胸の奥に感じ取っていた。
二 黄金の止まり木
役人たちが竹林の奥にまで踏み込んだのは、それから十日ほど後のことだった。康公は方々に人を出し、庭のすみずみを歩かせたが、初めのうちは誰も竹林の暗がりにまでは踏み込もうとしなかった。しかし皇帝の催促が日ごとに厳しさを増すにつれ、ついに康公自らが松明を掲げ、しぶる兵たちを叱咤して竹林へと分け入らせるに至った。阿月が普段どおり竹林を訪れると、すでに数人の兵が松明を掲げて茂みをかき分けていた。
「いた、あそこだ! 皇帝陛下の御前へお連れせよ!」
阿月は声を上げようとしたが、下働きの少女の言葉など、誰の耳にも届かなかった。玲は逃げようとすれば逃げられたはずだが、暴れる阿月を巻き込むまいとしてか、あるいは長らく人目を避けてきた末の諦めからか、ただ静かに、差し出された籠の中へ身を委ねた。連れ去られる間際、玲の目が一瞬だけ阿月を捉えた。
「大丈夫だ、阿月。歌うだけなら、私にはたやすいことだ」
その声には、怒りも恨みもなかった。ただ、どこか遠くを見るような静けさだけがあった。
玲は瑞雲宮の大広間に運ばれ、皇帝の御前に据えられた。昭明帝は、想像していたよりもはるかに小柄なその姿に一瞬戸惑ったが、玲が喉を震わせ、最初のひと声を発した瞬間、その場の空気が一変した。玉を転がすような、それでいてどこか切なさをはらんだ音色が、大広間の隅々にまで満ちていく。並み居る家臣たちは息を呑み、皇帝の目には、いつしか涙が浮かんでいた。
「なんと美しい。これほどの声を、朕はこれまで聞いたことがない」
昭明帝はいたく感激し、玲のために黄金の止まり木を用意させ、「お抱えの歌い竜」という格別の地位を与えた。鎖でつなぐことこそしなかったが、宮廷の奥深くに囲われ、望むと望まざるとにかかわらず、毎晩の演奏を求められる身の上になったことに変わりはなかった。
阿月は、玲の世話係に取り立てられた。餌を運び、止まり木の周りを整え、誰よりも近くで玲に接することを許されたのは、せめてもの救いだった。康公は当初、下働きの小娘ひとりに歌い竜の世話を任せることに難色を示したが、玲が阿月以外の誰にも心を開かず、餌にすら口をつけようとしなかったため、やむなくその配置を認めた。
「窮屈ではない、玲」
「窮屈でないと言えば嘘になる。だが、悪いことばかりでもない」
玲は夜ごと、皇帝のために歌った。皇帝は政務の疲れも忘れ、涙を流しながらその声に聞き入った。玲の歌声は、皇帝の心の奥深く、誰にも見せたことのない孤独や迷いにまで届くようだった。ある夜、演奏が終わったあと、皇帝は珍しく人払いをして、玲にだけ語りかけた。
「朕は、幼くして即位した。周りの誰もが朕を敬うふりをするが、本心では朕を試しているのだと、いつも感じている。お前の歌を聞いているときだけ、朕は誰かに試されているという気がしない」
「私はあなたを試してなどいない。ただ、あるがままに歌っているだけだ」
「それが、何よりありがたいのだ」
そのやり取りを、部屋の隅で控えていた阿月は静かに聞いていた。皇帝と玲との間に、地位や身分を超えた、ある種の信頼が芽生えつつあることを、阿月は誰よりも近くで見ていた。
毎晩の演奏は、日が沈むと同時に始まる決まりになっていた。大広間には燭台が幾つも灯され、居並ぶ家臣たちは息を殺して玲の第一声を待つ。玲が喉を震わせるその瞬間だけ、宮廷という場所を覆う駆け引きや猜疑の気配がふっと薄れ、誰もがただの聞き手に戻るのだった。演奏が終わると、拍手の代わりに、束の間の沈黙が広間を満たす。誰も先に口を開こうとしない、その静けさこそが、玲の歌への何よりの賛辞だった。だがそれと同時に、玲の歌声に、日ごとにわずかな翳りが差していくことにも、阿月だけが気づいていた。
「玲、疲れているの」
「歌うこと自体は苦ではない。ただ……好きなときに歌えないというのは、思っていたより、喉の奥が重くなるものらしい」
玲はそう言って、小さくため息のような息を吐いた。その息づかいの中に、竹林で自由に歌っていたころの玲の面影を、阿月は探そうとしたが、うまく見つけられなかった。
宮廷の噂は、しかし、竜の歌声にとどまらなかった。隣国・銀華国が、祥国との誼を深めるべく、とびきりの贈り物を用意しているという話が、康公の耳にも届き始めていた。
三 からくり竜、宝鳴
その贈り物が瑞雲宮に到着したのは、玲が宮廷に迎えられてから一年ほど経った、よく晴れた冬の日のことだった。銀華国の使者は、大きな漆塗りの箱を恭しく運び込み、皇帝の御前でその蓋を開いた。中から現れたのは、宝石をちりばめた鱗を持つ、精巧な機巧仕掛けの竜だった。
「これなるは、当国が誇る名工が三年をかけて拵えました『宝鳴(ほうめい)』にございます。ぜんまいを巻けば、寸分違わぬ美しい調べを、いつでもお望みのままに奏でまする」
使者がぜんまいを巻くと、宝鳴は喉元の小さな弁を震わせ、澄んだ、しかしどこか硬質な音色を奏で始めた。狂いのない正確な旋律に、居並ぶ家臣たちはどよめいた。
「これは見事な。しかも疲れを知らぬというのですから」
「いつでも、思い立ったときに歌わせられるとは、まことに重宝でございましょう」
康公は真っ先に膝を打った。彼にとって、宝鳴の何よりの美点は、その音色そのものよりも、扱いやすさにあった。生身の竜のように機嫌をうかがう必要もなく、疲れたと訴えることもない。命じれば命じただけ、望んだとおりに応じてくれる。康公はさっそく、宝鳴を玲の隣に据えるよう手配した。
「これからは、急な宴にも困りませぬな。歌い竜の気分ひとつで座を白けさせられることも、もはやございますまい」
康公が満足げにそう言うのを、阿月は少し離れた柱の陰で聞いていた。玲がこれまで、体調が優れぬ日でも精一杯声を絞り出してきたことを、阿月はよく知っていた。だがその努力は、宝鳴の「疲れを知らぬ正確さ」の前では、まるで数えられることさえないもののように扱われていった。
初めのうち、昭明帝は二頭の竜――生身の玲と、機巧の宝鳴――に交互に歌わせては、その違いを楽しんでいた。だが宮廷という場所は、目に見える確かさを好む人間が多く集う場所でもあった。宝鳴は求められればいつでも同じ調べを違わず奏でるが、玲の歌声は、その日の気分や体調によって、わずかに揺らぎがあった。ある夜、玲がわずかに声を掠れさせたことをとらえて、康公が声高に言い立てた。
「陛下、ご覧くださいませ。生身の竜の歌など、所詮このように当てにならぬもの。宝鳴であれば、かような乱れは決して起こりませぬ」
「いかにも。宝鳴はまこと重宝な代物よ」
昭明帝がそう笑って応じたとき、玲の中で何かが静かに冷えていくのを、阿月だけが見ていた。それからというもの、宮廷の寵愛は、日に日に宝鳴へと傾いていった。宝鳴には位が与えられ、宴の主役の座を与えられ、遠来の客人をもてなす際にも、真っ先に呼ばれるのは宝鳴のほうになった。玲は次第に、求められることさえ少なくなっていった。
宮廷を訪れる客人をもてなす順番も、いつしか宝鳴が先になっていた。かつては真っ先に呼ばれた玲は、宴の終わり近く、客人が席を立とうとする頃合いになってようやく声をかけられることが増えていった。それでも玲は、求められれば断ることなく喉を震わせたが、広間の空気はすでに宴の熱を失っており、その歌に耳を傾ける者は数えるほどしかいなかった。
「玲、悔しくないの」
阿月が尋ねると、玲はしばらく黙り込んでから、静かに答えた。
「悔しいという気持ちが、まったくないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、寂しいのだ。あの方は、私の歌の何を聞いていたのだろうと」
ある夜、久方ぶりに玲へ歌うよう命が下った。玲は精一杯、喉の奥から声を絞り出したが、長らく歌わずにいた喉は思うように震えず、旋律はところどころで乱れた。広間に控えていた康公が、待っていたとばかりに口を開いた。
「陛下、この体たらく。もはや宝鳴にお任せになったほうが、よろしいのではございませぬか」
昭明帝は何も答えなかったが、その沈黙こそが、答えだった。玲は静かに止まり木を降り、誰に見送られることもなく、その夜のうちに瑞雲宮を去った。阿月だけが、宮殿の裏門までその後を追った。
「玲、待って。私はどうすれば」
「お前のせいではない、阿月。お前は、私の歌をいつも本当の意味で聞いてくれた、ただひとりの人間だった。それだけで、私には十分だ」
「また会える?」
「わからない。だが、竹林に帰ったからといって、お前を忘れることはない」
玲はそう言い残すと、翼を広げ、月明かりの下、山の方角へと飛び去っていった。その姿が見えなくなるまで、阿月はいつまでも裏門に立ち尽くしていた。
四 沈黙の宮殿
それから幾年もの月日が流れた。宝鳴は相変わらず宮廷の寵児として、宴のたびに正確な調べを奏で続けていたが、精巧な歯車も、無限に動き続けるわけではなかった。ある年の初め、宝鳴の喉元からいつもの澄んだ音の代わりに、耳障りな軋みが漏れるようになった。宮廷お抱えの匠が幾人も呼ばれ、蓋を開けて中の歯車を検分したが、誰ひとりとして、あの精巧な仕掛けを完全に元通りにすることはできなかった。銀華国の名工でなければ直せぬと知らされたときには、すでに両国の間を隔てる山道は雪に閉ざされ、使者を送ることもままならなかった。
「歯車がひとつ、擦り切れておりまする。これを新しく打ち直すには、当代随一の腕を持つ者でなければ叶いませぬ」
匠がそう申し出るたび、康公は苛立ちを隠さなかった。かつて生身の竜の「当てにならなさ」をあれほど嘲っていた康公自身が、今では宝鳴の沈黙を前にして、なすすべもなく立ち尽くしていた。
「陛下、まことに申し訳ございませぬが、これ以上の修復は……」
「もうよい。下がれ」
昭明帝の声には、かつての張りがなかった。宝鳴が沈黙して以来、宮廷には目に見えて活気が失われていた。そしてそれと時を同じくして、皇帝自身も重い病の床に臥すようになっていた。日ごとにやせ細っていくその姿を前に、御典医たちも、ただ首を振るばかりだった。
「もはや手の施しようがございませぬ。あとは陛下のご寿命次第かと」
その報せは、都じゅうを暗い沈黙で覆った。かつて玲の世話係を務め、今では奥向きに仕える身となっていた阿月も、その報せを聞いて胸を痛めていた。だが今の阿月には、皇帝の寝所に近づくことすら許されなかった。
その晩、皇帝の寝所には異様な気配が忍び寄っていた。窓の隙も、扉の隙もないはずのその部屋の暗がりに、いつの間にか、ひとつの人影とも影とも知れぬものが座っていた。それは死神だった。冠を戴き、玉座さながらに皇帝の胸の上に腰を下ろし、部屋のそこかしこに、皇帝がこれまでの治世で成した善き行いと、見て見ぬふりをしてきた悪しき行いの記憶を、朧げな影の顔として次々と呼び出していく。
「昭明よ、お前は覚えているか。飢饉の年、お前が贅を凝らした宴を続けている間に、都の外で飢え死んだ民のことを」
「お前は覚えているか。忠言を呈した老臣を遠ざけ、耳に心地よい言葉ばかりを好んだ日々のことを」
影の声のひとつひとつが、鋭い針のように昭明帝の胸を刺した。皇帝は声にならない声で助けを求めたが、寝所の外に控える近臣たちの耳には、何も届かなかった。
「お前は覚えているか。歌い竜の声が乱れたというだけの理由で、長年お前に忠実だった者を、あっさりと遠ざけたことを」
その声は、これまでの影の中でも、ひときわ鋭く昭明帝の胸を刺した。皇帝は寝台の上で身をよじり、両手で顔を覆おうとしたが、指先ひとつ動かすことすら、もはや思うようにはならなかった。
「宝鳴を、呼べ……宝鳴の歌さえあれば……」
譫言のようにそう呟いても、宝鳴はすでに沈黙したまま、宮殿の一角で埃をかぶっている。死神は皇帝の胸の上で、ゆっくりと重みを増していくようだった。
「昭明よ、もう十分だろう。歌も、宴も、栄華も、すべてはお前のもとを去っていった。あとはただ、静かに眠るがいい」
そのとき、寝所の窓の外、庭の暗がりから、かすかな物音がした。誰の耳にも留まらぬほどの、羽ばたきに似た音だった。
五 窓辺の歌
窓の外に降り立ったのは、小柄な一頭の竜だった。長い歳月を経て、鱗の緑は以前よりも深みを増していたが、その佇まいには見覚えがあった。玲だった。竹林に帰ってなお、都の噂には耳を傾け続けていたのだろう。皇帝が重い病に臥しているという報せを、風の便りに聞きつけ、誰に命じられるでもなく、ここまで飛んできたのだった。
玲は窓の隙間からするりと入り込み、寝台の傍らに舞い降りた。死神は初め、その小さな竜など意にも介さぬ様子だったが、玲が喉を震わせ、歌い始めたその瞬間、部屋の空気が変わった。
歌には言葉がなかった。ただ、玲がかつて竹林で気ままに紡いでいた旋律よりも、ずっと切実に、ずっと力強く、喉の奥から絞り出されるような音の連なりが、部屋いっぱいに満ちていく。影の顔たちがひとつ、またひとつと薄れて消えていった。皇帝を責め続けていた過去の記憶が、玲の歌声によって、静かに鎮められていくかのようだった。
死神は、初めて玲のほうへ顔を向けた。
「小さき竜よ、なぜ歌う。この者のために、お前が涙する義理などなかろうに」
玲は歌う手を止めず、ただ声だけを絞り出すようにして答えた。
「義理などない。ただ、あの方が私の歌に流した涙を、私は忘れていないだけだ」
死神はしばらく黙って玲の歌に耳を傾けていた。長い長い時のうちに、数えきれぬ命を刈り取ってきたはずのその存在も、玲の歌声の前では、どこか戸惑うように身じろぎした。
「不思議なものだ。宝石で鱗を飾った、あの正確な調べの竜のほうが、よほど私の心を動かすと思っていたが」
「あれは、あれで美しい音だったのだろう。だが、涙を流させることまではできなかったはずだ」
玲がそう答えると、死神は皇帝の胸の上から、わずかに身を浮かせた。その拍子に、部屋の隅に浮かんでいた影の顔がひとつ、またひとつと薄れていく。
「その歌を、私にもうしばらく聞かせてくれるなら――今宵だけは、この者を連れていくのをやめておこう」
玲は答える代わりに、いっそう声を張った。夜が白み始めるころ、死神はいつの間にか、寝所の暗がりからその姿を消していた。あとに残されたのは、深く眠りに落ちた皇帝と、疲れ果てながらもまだ歌い続けている玲の姿だけだった。
朝方、昭明帝はゆっくりと目を覚ました。体は羽根のように軽く、あれほど重くのしかかっていた息苦しさが、嘘のように消えていた。傍らの止まり木に止まる小さな竜の姿を認めた瞬間、皇帝の目に、涙があふれた。
「玲……お前なのか。朕を、見捨てなかったのか」
「見捨てたことなど、一度もない。私はただ、好きなときに、好きな場所で歌っていただけだ」
「褒美を取らせよう。かつての地位も、黄金の止まり木も、望むだけ与えよう」
玲は静かに首を振った。
「褒美なら、とうにもらっている。あなたが、私の歌に流したあの涙こそが、私への何よりの褒美だった。それ以上のものは、何もいらない」
「では、これからも、朕のそばに」
「いや。私は誰にも囚われぬまま、気の向いたときにだけ、窓辺に舞い戻る。それが、私にとっていちばん自然な姿だ」
そう言い残すと、玲は朝の光の中へ飛び立っていった。皇帝はその後、体力を取り戻すにつれて政務に復帰したが、以前のように書物や評判ばかりを頼りにすることは、少なくなったという。宝鳴の顛末について多くを語ることもなく、ただ静かに、朽ちるに任せて庭の隅に置かせた。
阿月は、その後も長く宮廷で働き続けた。ある夜、庭仕事の合間に竹林のほうへ足を向けると、遠く、かすかに玉を転がすような歌声が聞こえてくることがあった。それが玲の声だと、阿月にはすぐにわかった。姿を見せることは滅多になかったが、声だけは、気まぐれに、けれど確かに、竹林の奥から届き続けた。
誰に強いられるでもなく、誰かに褒美を求めるでもなく、ただそこにあるだけの歌声。阿月はそれを聞くたびに、玲が竹林で自由に鳴いていた、あの最初の夜のことを思い出すのだった。
あとがき
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「小夜啼鳥(ナイチンゲール)」は、中国の宮廷で美しい声で鳴く一羽の鳥が、皇帝の寵愛を一身に受けながらも、異国から贈られた機械仕掛けの人工の鳥にその座を奪われ、疎まれて宮殿を去っていくものの、皇帝が死の床に臥した夜、死神を追い払うために舞い戻り、褒美も地位も求めずに去っていくという、本物の芸術と献身の価値を問う童話である。
本作では、鳥を、竹林に隠れ棲む共鳴音のような美しい声を持つ幼竜「玲」に置き換え、宮廷の寵愛が本物から精巧な模造品「宝鳴」へと移ろっていく構図をそのまま活かしながら、玲と皇帝との間を取り持つ園丁見習いの少女・阿月という独自の視点人物を配することで、竜の心情がより丁寧に伝わるよう構成した。原作における死神の場面は、皇帝自身の善悪の記憶が影の顔となって責め立てるという形に翻案し、玲の歌がそれらを鎮め、死神との対話の末に皇帝を救う流れとした。
登場人物名・国名・宮殿の名・からくり竜の名(宝鳴)などはすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に執筆した。
本作はハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)著『小夜啼鳥(ナイチンゲール、NATTERGALEN)』を参考にした翻案作品です。