竜は荒野の声を拒まなかった
南国の商家で愛玩竜として飼われていた琥珀は、ある夜攫われ、極寒の鉱山で橇を引かされる。仲間との縄張り争いと非情な仕打ちの中で野生の血が目覚め、心優しい採掘人・灯至との絆を得るが、その死が竜を人の世から解き放つ。
一 陽だまりの庭
陽詠(ひえい)の里は、一年の大半を穏やかな海風に包まれた、南の入り江の町だった。白壁の家々が緩やかな坂に連なり、庭先には蜜柑や枇杷の木が実をつける。潮の香りと、干し魚を焼く煙とが、いつも路地に漂っていた。その里でもっとも大きな屋敷、廻船問屋・初穂家の奥庭に、琥珀(こはく)はいた。
生まれて三月と経たぬうちに、琥珀は初穂家に迎えられた。当主の帯刀(たてわき)は里でも指折りの分限者で、竜を飼うことこそ家の格式を示す何よりの証だと考えていた。琥珀の鱗は陽に透かすと蜜色に輝き、まだ幼い体には不釣り合いなほど立派な二対の翼が畳まれていた。その翼には、物心つく前から、飾り紐のついた革帯がきつく巻かれていた。
「危ないからね。おまえはまだ、飛び方を知らないんだから」
帯刀の孫娘である小夜(さよ)は、幼い琥珀の首筋を撫でながら、繰り返しそう言い聞かせた。琥珀はその言葉を、一度も疑ったことがなかった。屋敷の暮らしは満ち足りていた。朝には温い乳粥を椀いっぱい与えられ、昼は蔵の前に伏せて来客を出迎える役目をこなし、実りの季節には里の祭りの先導役として、綺羅を纏って通りを練り歩いた。里の子どもたちは琥珀を見るたびに歓声をあげて駆け寄り、老いた漁師たちは深々と頭を垂れた。愛されること、敬われること。それが琥珀の知るすべてであり、それ以上の何かを望んだことは一度もなかった。
夏の宵など、小夜は縁側に琥珀を横たえ、その脇腹に頬を寄せて絵草紙を読んで聞かせた。琥珀は文字の意味など解さなかったが、少女の声の抑揚だけで、物語の悲喜がなんとなく伝わってくるのが好きだった。そんな夜は、翼の付け根の革帯すら、ただの温かい重みにしか感じられなかった。
秋の実り祭では、琥珀は綺羅を纏って通りの先頭を歩き、里の者たちが投げる紙吹雪を浴びた。帯刀は誇らしげに胸を反らし、集まった商売敵たちに向かって「これぞ初穂家の証」と繰り返した。琥珀にとって、その言葉の意味は分からなかったが、大勢の視線と喝采の中を歩くことは、悪い気分ではなかった。誰も彼を傷つけようとはしない。誰もが彼の前で頭を垂れる。それが世界のすべての姿だと、琥珀は疑いもせず信じていた。
けれど、年に幾度か、琥珀は妙な夢を見た。見渡す限りの白い山稜、耳をつんざく吹雪、そしてそのずっと奥から響いてくる、低く長い咆哮。目覚めてもなお胸の奥がざわめき、縛られた翼の付け根が、痛いほど疼いた。琥珀はその疼きに名前をつけられなかった。ただ、庭の松の梢が北風に鳴る夜だけは、なぜか眠りが浅くなり、暗い蔵の奥から誰かに見られているような気がしてならなかった。
「琥珀、また魘されていたのかい」
小夜がそう尋ねるたび、琥珀はただ喉を鳴らして応え、彼女の膝に頭を預けた。それで十分だった。屋敷の外で何が起きているかなど、考える必要もない日々だった。
屋敷には、庭師として長く仕える茂助(もすけ)という初老の男がいた。寡黙で仕事は丁寧だったが、この頃は町外れの賭場に通い詰め、抱えきれぬ借金を重ねているという噂が、下働きの間でひそひそと囁かれていた。帯刀に暇を出されるのも時間の問題だと言う者もいたが、琥珀はそんな噂とは無縁の場所で、ただ日々を温かく過ごしていた。屋敷を出たことなど、生まれてこのかた一度もなかったのだから。
秋も深まったある夜、帯刀が湊町へ大きな商談に出かけ、屋敷の警戒が薄くなった。使用人たちも祝いの酒に緩み、庭の奥までは目が届かない。その隙を、茂助は見逃さなかった。北の山々から流れてきた竜買いの一団が、里はずれの宿に逗留していることを、彼は数日前から知っていた。琥珀がまどろんでいた敷藁のそばに、彼は音もなく忍び寄った。
「すまねえ。おまえを売った金で、俺は首がつながるんだ」
囁くような声とともに、太い縄が琥珀の首にかけられた。驚いて身をよじった瞬間、猿轡が口に噛まされ、四肢は次々と縛められていく。もがけばもがくほど縄は肉に食い込み、抗う力も虚しく、琥珀は荷馬車の荷台へ転がされた。遠ざかる屋敷の灯りを、霞む視界の端にただ見送るしかなかった。小夜の声を呼ぼうとしても、猿轡越しの唸り声にしかならなかった。
荷馬車は夜通し北へ走り、朝には見知らぬ湊で、鎖に繋がれたまま暗い船倉へと運び込まれた。潮の匂いは陽詠の里のものとよく似ていたが、そこに温もりは欠片もなかった。温かな陽だまりの庭は、その夜を境に、二度と戻らぬ遠い記憶になった。
二 極寒の谷
幾つもの手から手へと売り渡され、幾晩も荷台や船倉に揺られたのち、琥珀が連れて来られたのは、白牙山地(はくがさんち)と呼ばれる北の険しい山々だった。数年前に銀の鉱脈が見つかって以来、猫の額ほどの採掘地に、一攫千金を夢見る者たちが押し寄せていた。荷を運ぶ竜の需要はいくらでもあり、南から攫われてきた琥珀のような若い竜は、二束三文で買い叩かれては働かされていた。
初めて見る雪に、琥珀は足の裏を焼かれるような痛みを覚えた。吐く息は瞬く間に白く凍りつき、屋敷の乳粥の温もりなど、もはや思い出すことさえ難しかった。
琥珀を競り落としたのは、鉱山の元締めから橇引きの差配を任されている猿渡(さるわたり)という男だった。
「毛並みはいいが、根性はなさそうだな。まあいい、根性はここで叩き込んでやる」
猿渡は初日から、鞭の使い方を琥珀の背中に教え込んだ。翼はもう飾り紐で縛る必要もないと判断されたのか、代わりに重い挽き具が肩に食い込むほど固く括りつけられた。凍える朝、氷を割って作られた坑道までの道を、鉱石を積んだ橇を引いて何往復もする。休むことは許されず、少しでも足を緩めれば、猿渡の鞭が飛んだ。夜になれば、雪を掘っただけの穴蔵に押し込められ、他の橇引き竜たちと肩を寄せ合って眠るしかなかった。
橇の一団を率いるのは、黒曜(こくよう)という名の老練な竜だった。漆黒の鱗を持つ黒曜は、群れの誰よりも力があり、誰よりも冷酷だった。新入りの琥珀に対しても、隙あらば喉笛を狙うような威嚇を繰り返し、餌の椀を奪い、穴蔵の暖かい場所を独り占めした。他の橇引き竜たち――片耳の欠けた灰吼(かいこう)や、まだ若い双牙(そうが)――も、逆らえば同じ目に遭うと知っていて、見て見ぬふりをするしかなかった。
「南の坊ちゃんが、まだこの谷の道理を知らんようだな」
黒曜は夜ごと、些細な理由をつけては琥珀を打ちのめした。初めのうち、琥珀はただ耐えることしか知らなかった。屋敷では誰も、拳を上げるという行為の意味すら教えてくれなかったのだから。だが日を追うごとに、蜜色の若竜の裡に、何か別のものが目を覚ましていくのを感じていた。殴られれば、殴り返す力の入れ方を体が覚えていった。餌を奪われれば、奪い返す隙を窺うようになった。凍った雪の下に隠された干し肉の匂いを嗅ぎ分ける術も、誰に教わるでもなく身についていった。誰も教えてはくれなかったが、凍てついた谷の空気そのものが、琥珀の裡に眠っていた古い血を、少しずつ呼び覚ましていくようだった。
ある朝、氷の割れ目に片脚を取られて動けなくなった灰吼を、猿渡は容赦なく打ち据えた。歩けぬなら用はないと言わんばかりに、縄を解いてその場に置き去りにしようとする猿渡の前に、琥珀は初めて、自分の意思で立ちはだかった。牙を剥き、低く唸る若竜の姿に、猿渡は一瞬たじろぎ、それから舌打ちをして灰吼を橇に乗せることを許した。その夜、灰吼は何も言わず、ただ琥珀の隣にそっと身を寄せて眠った。
そうした小さな出来事が積み重なるたび、琥珀の中で何かが確実に変わっていった。屋敷にいた頃の琥珀なら、目の前で誰かが打たれても、ただ怯えて目を伏せるだけだっただろう。だが今の琥珀は、痛みも、恐怖も、それを飲み込んでなお相手に立ち向かう術を、体の奥に刻みつつあった。それは屋敷で愛でられていた蜜色の若竜の消滅であり、同時に、まだ名づけようのない何かの誕生でもあった。
鉱山の町そのものが、飢えた獣のような場所だった。掘っ立て小屋が斜面に並び、酒場からは夜通し怒声と喧嘩の音が響き、銀の粒を求めて流れ着いた男たちは、誰もが目を血走らせていた。竜たちは彼らにとって、道具以上の意味を持たなかった。倒れれば売られ、売れなければ捨てられる。琥珀は幾度となく、雪の中に打ち捨てられた仲間の亡骸を、橇を引きながら見送った。そのたびに、屋敷での日々がいかに特別なものだったかを、痛いほど思い知らされた。
だが、特別だったからといって、それが正しかったとは限らない。琥珀はぼんやりと、そんなことを考えるようになっていた。あの陽だまりの庭でも、自分の翼は結局、誰かの都合で縛られていたのだから。谷の暮らしは残酷だったが、少なくともここでは、力を示せば序列が変わるという理屈だけは、誰にでも公平に働いた。
夜、疲れ果てて倒れ込むように眠るとき、琥珀はまたあの夢を見た。白い峰々の彼方から響く咆哮。もう疑いようもなく、それは自分と同じ竜の声だった。だが、あまりに遠く、あまりに高い場所から聞こえるその声に、応える術を、琥珀はまだ持たなかった。ただ耳を澄ませ、翼の付け根の疼きに耐えるだけの夜が、幾度も過ぎていった。
三 牙を持つ夜
雪解けを間近に控えたある夜、事件は起きた。橇の一団が谷の細い崖道で立ち往生し、猿渡が苛立たしげに鞭を振るう中、飢えと疲労の限界にあった双牙が、荷を放り出して逃げようとした。統率を乱されたと見た黒曜が、見せしめとばかりに双牙へ牙を剥いた。悲鳴が谷にこだました。
止めに入ったのは、琥珀だった。自分でもなぜそうしたのか、うまく説明できなかった。ただ、目の前で繰り広げられる理不尽に、初穂家の庭で教わった、名前も知らぬ優しさの記憶が、ふいに疼いたのだ。
黒曜の矛先は、たちまち琥珀に向いた。二頭の竜は崖道の狭い足場で、牙と牙を、爪と爪を打ち合わせた。雪が紅く染まるほどの長い戦いだった。琥珀は幾度も投げ出され、幾度も食らいつかれた。だが、極寒の谷で鍛え上げられた四肢は、屋敷にいた頃とは比べ物にならぬほど強くなっていた。最後には、黒曜の喉元に牙を突き立て、群れの中での序列を、力ずくで覆した。黒曜は牙を引っ込め、腹を見せて後ずさった。それきり、二度と琥珀に歯向かうことはなかった。
その夜以来、橇の一団を率いるのは琥珀になった。灰吼も双牙も、迷わず琥珀の後ろに続くようになった。だが、序列の頂に立ったところで、猿渡の非情さが和らぐわけではなかった。むしろ働き手として値打ちが上がったと見た猿渡は、以前にも増して過酷な仕事を琥珀に課すようになった。
ある雪の夜、疲労のあまり膝をついた琥珀に、猿渡は容赦なく鞭を打ち下ろし続けた。もはや起き上がる力も残っていないと見えたとき、通りがかった一人の男が、猿渡の腕をつかんで止めた。
「もう十分だろう。その竜、売る気があるなら俺が買おう。生きたままでだ」
灯至(とうじ)という名の、独りで山を渡り歩く採掘人だった。飾り気のない声で値を切り、猿渡から半ば死にかけの琥珀を引き取ると、灯至は自分の外套を脱いで、雪の上に横たわる琥珀にかけてやった。
「大丈夫だ。もう鞭は振るわせない」
それから幾日も、灯至は谷を外れた小さな丸太小屋で、傷ついた琥珀を寝ずに看病した。傷口を洗い、干し肉を柔らかく煮て口元まで運び、凍えた夜には自分の体温で竜の脇腹を温めた。誰かにこれほど無心に世話をされるのは、初穂家を出て以来、初めてのことだった。もっとも、その世話のされ方は、屋敷での日々とはまるで違っていた。あそこで受けたのは飾りとしての愛情であり、ここで受けているのは、命そのものへの手当てだった。
体が癒えてからも、琥珀は灯至のそばを離れなかった。二人は谷の外れ、まだ誰も踏み入っていない渓流沿いに小さな住処を移し、灯至が長年探し続けている幻の銀脈を求めて、静かな日々を送るようになった。灯至は決して鞭を持たず、決して縄で縛らなかった。焚き火を挟んで語りかける声は、いつも穏やかだった。
「おまえの故郷は、ずいぶん暖かい場所らしいな。その鱗の色を見ればわかる。俺にも、遠い南に、帰りたい場所がある。銀脈さえ見つかれば、いつか戻れると思ってな」
琥珀はただ喉を鳴らして応えた。灯至の声を聞いていると、翼の付け根の疼きも、いくらか和らぐ気がした。
冬の終わり、氷の張った渓流を渡ろうとした灯至が、割れた氷の下に落ちたことがあった。凍りつく流れに引き込まれかけた灯至の外套を、琥珀は無我夢中で咥え、渾身の力で岸まで引き上げた。震えながら焚き火にあたる灯至の傍らで、琥珀は一晩中、彼の体温が戻るまで寄り添い続けた。
「おまえがいなけりゃ、俺はとうに、この谷のどこかで凍って終わっていた」
灯至は濡れた琥珀の鱗を布で拭いながら、そう呟いた。それからというもの、灯至は日暮れになると決まって、南の海辺の町で育った幼い日々のことを、琥珀に語って聞かせるようになった。父の小さな漁船のこと、母が作った塩魚の味のこと、いつか銀を手に、その海辺へ戻って小さな宿を開きたいという夢のこと。琥珀には言葉の意味の半分も分からなかったが、灯至の声には、いつも遠い場所を懐かしむような、柔らかな響きがあった。
そんな夜は、琥珀もまた、陽詠の里の潮風を思い出した。もう二度と嗅ぐことのない匂いだと分かっていながら、灯至の声を通せば、その記憶がわずかに温かさを取り戻すような気がした。人と竜という隔たりを越えて、二つの孤独が寄り添っているのだと、琥珀は言葉にできぬまま、確かにそう感じていた。それでも夜ごと、山の奥から響いてくる咆哮を耳にするたび、琥珀の胸の奥は、行ったこともない場所への渇きに、抗いがたく疼いた。応えたい。だが、灯至を置いて行くことは、どうしてもできなかった。
四 灰の詠う夜
雪がようやく緩み始めたある晩、山の奥から響く咆哮は、これまでになく近く、これまでになく強く琥珀を呼んだ。灯至は焚き火のそばで静かに眠っており、琥珀はただ少しだけ、声の方角へ歩いてみるつもりだった。すぐに戻るつもりだった。
森の奥、月明かりだけが差す開けた場所で、琥珀は初めて、夢でしか知らなかった同胞たちと出会った。灰色の鱗を持つ野生の竜の群れが、彼を取り囲み、匂いを確かめ、やがて招くように咆哮を上げた。琥珀もまた喉を反らし、生まれて初めて、腹の底からの声で応えた。氷の谷でも、陽だまりの庭でも味わったことのない、骨の髄まで震えるような解放だった。群れと共に月下の斜面を駆け、雪原を蹴立てて宙を舞い、その夜だけは、すべてを忘れて野生に浸った。
だが、東の空が白み始める頃、琥珀の脳裏に灯至の穏やかな寝顔がふいに浮かび、彼は群れに背を向け、渓流沿いの住処へと引き返した。仲間の一頭が、名残惜しげに長く尾を引く声で琥珀を呼び止めたが、琥珀は振り返らなかった。
小屋に近づくにつれ、異様な静けさが琥珀を襲った。焚き火の煙が上がっていない。物音一つしない。駆け込んだ先で琥珀が見たのは、荒らされた小屋と、雪上に散らばった荷、そして――冷たくなった灯至の姿だった。銀脈の噂を嗅ぎつけた山賊たちが、夜のうちに小屋を襲い、抵抗した灯至を手にかけて、乏しい蓄えを奪い去っていったのだと、残された足跡と、まだ新しい馬の蹄の跡が物語っていた。
琥珀は声も出さず、ただ灯至の傍らに伏せ、冷たくなった手に鼻先を押し当てた。悲しみという言葉すら、その時の琥珀には追いつかなかった。少しでも早く戻っていれば。声になど応えなければ。そう思う端から、腹の底から込み上げてきたのは、これまで感じたことのない昏い炎だった。
昨夜、月明かりの下で味わった解放の記憶が、今は鋭い棘となって琥珀を刺した。あの一夜の自由と引き換えに、たった一人、自分を人として扱わず、竜として扱ってくれた相手を失ったのだ。屋敷の飾りとしての生も、谷の道具としての生も、そのどちらでもない生き方を教えてくれたのは灯至だけだった。その灯至が横たわる小屋の中で、琥珀は初めて、野生の血と、灯至への想いとが、決して矛盾するものではなかったのだと悟った。ただ、それに気づくには、あまりに遅すぎた。
蹄の跡を辿り、琥珀は三日三晩、休むことなく山賊たちを追い続けた。谷を越え、凍った川を渡り、彼らを見つけたとき、もはや躊躇いはなかった。人の掟も、里の慣わしも、その一夜だけは琥珀の裡から消え失せていた。夜明け、雪原に静寂が戻った頃、そこに立っていたのは、返り血に濡れた一頭の竜だけだった。
追跡の間、琥珀の頭にあったのは、ただ灯至の声だけだった。「もう鞭は振るわせない」と言ってくれた、あの静かな声。その声を裏切ったのは、他でもない自分自身だという思いが、牙を突き立てるたびに、琥珀の胸を焼いた。復讐を終えても、失われたものは何一つ戻らない。それだけは、荒んだ頭の片隅で、琥珀にもはっきりと分かっていた。
五 遠雷の王
琥珀は灯至の亡骸を、渓流を見下ろす丘の上に葬った。土を掘り、亡骸を横たえ、灯至がいつも懐に入れていた小さな火打石を、傍らにそっと置いた。それから長い間、丘の上に伏せたまま、遠い雷鳴のような、あの咆哮に耳を澄ませていた。
灯至との日々は、琥珀にとって紛れもない真実だった。人の世で受けた愛情のうち、あれだけは決して飾りではなかった。だが、その絆を繋ぎ止めていた最後の人が、もうこの世にいない。琥珀は首元に残っていた、灯至が旅の記念にと巻いてくれた古い革紐を、牙で静かに噛み切り、火打石の隣にそっと添えた。それが、人の世との最後の結び目だった。革紐を噛み切る感触は、想像していたよりずっと軽く、そしてずっと重かった。
丘を発つとき、琥珀はもう一度だけ、来た道を振り返った。氷の谷も、鞭の記憶も、陽だまりの庭の温もりも、すべてが遠く小さくなっていく。かつて縛られていた翼は、もう誰の手も借りずに、風を切ることができた。それから翼を大きく広げ、月明かりの下、白い峰々の彼方へと飛び立った。
それから幾年か経った頃、白牙山地の麓の町では、こんな噂がまことしやかに語られるようになった。雪深い山奥に、灰色の竜の群れを率いる、蜜色に輝く鱗を持った一頭の王がいるという。里から迷い込んだ猟師や、道に迷った旅人が、危うい目に遭いかけたとき、その王だけは決して人を襲わず、ただ遠くから見届けるようにして姿を消すのだと。鉱山の跡地に今も暮らす老いた採掘人たちの間では、灯至という男の名と共に、その噂が語り継がれているという。
そして、雪解けの季節が巡るたび、渓流を見下ろす小さな丘に、一頭の巨大な竜が舞い降り、しばらくの間、土の下に眠る何かに寄り添うようにうずくまっている姿を、幾人かが遠目に見たと伝えている。それが本当かどうか、確かめた者は誰もいない。ただ、白牙山地に吹く風だけが、今もその答えを知っているのかもしれない。
遠い南の陽詠の里でも、初穂家の庭に、蜜色の竜がいたことを覚えている者は、もう数えるほどしかいない。年老いた小夜だけが、時折縁側に腰掛け、北の空を見上げては、幼い頃に読んで聞かせた絵草紙の一節を、誰に言うでもなく口ずさむことがあるという。それが琥珀に届いているかどうか、確かめる術は、誰にもなかった。
あとがき
ジャック・ロンドン「野性の呼び声」は、南国の屋敷で穏やかに暮らしていた犬バックが、誘拐されてクロンダイクの橇犬となり、過酷な労働と仲間との縄張り争いを経て眠っていた原始の血を呼び覚ましていく物語である。心優しい主人ジョン・ソーントンとの絆を経て、その死をきっかけに人の世との最後の絆を断ち切り、野生の狼の群れを率いる伝説の存在となる結末は、「飼い慣らされたものが暴力と喪失を経て本来の自分を取り戻す」という力学を描いた冒険小説の古典として知られている。
本作では、主人公の犬を、南の里で愛玩用に育てられ、翼を革帯で縛られていた竜「琥珀」に置き換えた。攫われて極寒の鉱山で酷使される展開、序列を巡る争い、心優しい採掘人・灯至との出会いと死別、そして人の世を離れ野生の竜の群れを統べる王となる結末まで、原作の骨格をそのまま竜の物語として移植しつつ、地名・人物名・道具立てはすべて独自に創作した。原作の展開・文章表現の直接的な翻訳や逐語引用は行わず、あらすじと構図のみを参照している。
本作はジャック・ロンドン(Jack London)著『The Call of the Wild(野性の呼び声)』を参考にした翻案作品です。