竜は身の潔白を語らなかった
旱魃に苦しむ国を救うため、老いた龍神は寒村の娘・藻の姿を借りて宮中に上がり、玉藻の前として上皇に仕える。密かな治水の策も、陰陽師の卜占によって「人ならぬ者」の証にされ、彼女は身の潔白を語らぬまま、那須野で自ら凶兆を引き受け石に変わる。
一 旱魃の里、淵の龍
その年の夏は、雨がひと粒も降らなかった。
藻(みく)が生まれ育った里は、山ふところの小さな盆地にあって、代々、山から流れ落ちる細い川の水だけを頼りに稲を育ててきた。だがその年は、田植えを終えたひと月ほどのちから空が乾いたまま張りつき、川はみるみる痩せていった。井戸の底には泥ばかりが残り、桶を下ろすたびに乾いた音が返ってくる。夜になっても涼しい風は吹かず、里の者たちは口々に、これは只事ではない、と囁き合っていた。
藻の家は貧しい百姓で、父はすでに亡く、母と二人で細々と畑を耕していた。器量のいい娘だと里では評判だったが、器量など日照りの前では何の役にも立たない。藻は毎朝、水瓶を抱えて涸れかけた川まで歩き、わずかに残った水を掬っては持ち帰る日々を送っていた。稲の葉は日に日に色を失い、畦道には干からびた蛙の骸がいくつも転がっていた。子供たちの遊び声も、いつからか聞こえなくなっていた。
「山の奥の淵にだけは、まだ水が絶えぬそうだ」
隣家の老婆がそう言ったのは、日照りが四十日を数えた頃だった。誰も踏み入ったことのない、深い森の奥にある淵の話だった。そこには古くから、里を見守る龍が棲んでいるという言い伝えがあり、子供の頃から恐ろしい昔話として聞かされてきた場所でもあった。荒ぶれば嵐を呼び、機嫌を損ねれば干魃をもたらすという、得体の知れない存在として。祭りの夜に大人たちが語る龍の話はいつも、逆らった村が一夜にして水を失った、という結末で終わるのが常だった。
けれども、水がなければ里そのものが死んでしまう。藻は幼馴染の千代松にだけそのことを打ち明け、二人で山に分け入ることにした。千代松は木こりの家に生まれた、藻よりひとつ年上の少年で、物心つく前から兄妹のように育った仲だった。藻の父が亡くなったとき、まだ幼かった千代松が黙って薪を運んでくれたことを、藻は今でも覚えている。
「本当に龍がいたら、どうする」
道中、千代松が不安げに尋ねた。手にした鎌の柄を、何度も握り直しながら。藻は答えられなかった。ただ、里の田が干上がっていく光景よりも恐ろしいものなど、もはやこの世にないような気がしていた。
半日ほど分け入った森は、下るほどに湿り気を帯び、やがて苔むした岩肌のあいだから、涼やかな水音が聞こえてきた。切り立った岩に囲まれた淵は、噂に違わず澄んだ水をたたえていた。水面は不思議なほど静かで、周りの木々の緑を鏡のように映し込んでいる。里の乾いた景色とはまるで別の世界のようだった。藻が岩の上から水を掬おうと身を乗り出したとき、淵の底から、ゆっくりと巨大な影が浮かび上がってきた。
千代松が悲鳴に近い声を上げて藻の腕を引いたが、藻はなぜか、その影から目を離せなかった。浮かび上がった龍は、里で語られてきたような荒々しい姿ではなかった。深い緑がかった鱗は所々が色褪せ、長い髭には白いものが混じっている。眼窩の奥に光る瞳だけが、若い獣のように澄んでいた。何百年も生きてきたのだろうと思わせる、老いた静けさをまとった龍だった。
「そなたたちの里が、水に困っておるのだろう」
低く、しかしどこか穏やかな声だった。藻はうなずくことしかできなかった。千代松は鎌を構えたまま、一歩も動けずにいた。
「わしはこの山より外へ出ることを禁じられておる。永く昔、人と交わした約定ゆえにな。じゃが、このまま日照りが続けば、そなたらの里だけでは済まぬ。国そのものが渇きに倒れる。それだけは、わしにもわかる」
龍はそう言うと、藻の目をじっと見つめた。値踏みするような視線ではなく、何かを見極めようとするような、深い眼差しだった。
「お前には、まだ知らぬ役目がある。その役目を果たす気があるなら、わしの力の一部を分けてやろう。ただし、代償のないものではないぞ。人であることの多くを、そなたは失うことになる」
「それでも構いません」
藻は迷わず答えた。里が救われるのなら、自分の何が失われても構わない、と本気でそう思っていた。龍はその即答に、わずかに目を細めた。それは笑ったようにも、哀しんだようにも見えた。
「よい返事だ。だが、覚えておくがよい。この先そなたが何をしようと、それを本当の意味で理解してくれる者は、この世にほとんどおるまい」
龍はゆっくりと目を伏せ、藻の額に鼻先をそっと触れさせた。冷たいような、それでいて奥に熱を持つような、不思議な感触だった。千代松はただ、その一部始終を、声も出せずに見つめていることしかできなかった。
その夜、藻は熱を出して寝込んだ。三日三晩うなされたのち、ようやく目を覚ましたとき、母は安堵の涙を流したが、藻自身は、自分の中に何か大きなものが宿ったような、落ち着かない気配を感じていた。手のひらを見つめても何も変わってはいなかったが、遠くの川音や、風に揺れる葉音までもが、以前よりずっと鮮やかに耳に届くようになっていた。
それから幾日か経ったある夜、藻は誰にも告げずに姿を消した。里では神隠しだと噂され、母は毎晩、涸れた川辺に立って娘の名を呼び続けたという。ただ一人、千代松だけが、あの淵で見た光景を忘れられずにいた。彼は誰にも本当のことを話さなかった。話したところで、正気を疑われるだけだと分かっていたからだ。
二 玉藻の前、宮中の灯
それから幾年かが過ぎた。
都では、鳥羽の上皇の御所に、類い希な美貌と学識を兼ね備えた女房が上がったという評判が広まっていた。名を玉藻の前という。和歌に秀で、書にも通じ、一度目にした者は誰もがその美しさに息を呑んだと語られた。上皇は彼女をことのほか寵愛し、政の合間にもその局へ足を運ぶことが幾度となくあったという。都大路では、玉藻の前を一目見ようと牛車を止める公卿の姿すら噂されるほどだった。
千代松がその都に上ったのは、里を出て木こりの技を頼りに宮中の造作を手伝う雑色として雇われたのがきっかけだった。日々の仕事は、御所の修繕や庭木の手入れといった地味なものだったが、それでも都の暮らしは里とは比べ物にならぬほど賑わっていた。ある日、御所の廊下で女房たちの列とすれ違ったとき、その中の一人と目が合った瞬間、千代松は息を止めた。あの淵で見た娘の面影が、成熟した美しさの奥に、確かに残っていたからだった。
「藻――」
思わずこぼれた名を、玉藻の前は視線ひとつで制した。人目のある廊下でその名を口にすることがどれほど危ういか、千代松にもすぐに悟れた。その夜、人払いをした局に呼ばれ、千代松は久方ぶりに藻と向き合った。灯明の明かりの下で見る藻は、里にいた頃よりずっと大人びて、けれどその瞳の奥には、あの日淵のほとりで見た、まっすぐな光が変わらず宿っていた。
「あの日から、わたしはもう、ただの藻ではなくなった」
玉藻の前――藻はそう静かに語り始めた。淵の龍から力を分けられて以来、彼女の内には、龍そのものの意識と力が宿るようになっていた。人の姿を保ちながら、その実、龍の眼をもって世を見ることができる。里を救うためにはこの都で力を振るうしかないと悟り、龍の導きのままに都へ上ったのだと言う。
「けれど、それは誰にも明かせぬ。人ならぬ者と知れれば、たちどころに討たれよう。今は上皇の寵を得て、傍にあることだけが、わたしにできる唯一のことなのだ」
千代松には、その言葉の重さがすぐには飲み込めなかった。ただ、幼馴染の瞳の奥に宿る孤独だけは、痛いほど伝わってきた。
「怖くはないのか。ずっと、誰にも本当の姿を明かせぬまま生きるということが」
千代松がそう尋ねると、藻はしばらく黙り込んでから、ようやく口を開いた。
「怖くないと言えば嘘になる。だが、里の田が実る様を、わたしはこの目で見たいのだ。あの日、龍が言った通りだった。人であることの多くを、わたしはもう失いつつある。それでも、これだけは譲れぬ」
それから、藻は夜ごと人払いをした御前で、上皇にひそかな進言を重ねるようになった。表向きは和歌や物語を語る寵姫にすぎなかったが、その実、諸国の水利の乱れ、旱魃に備えた蓄えの薄さ、堤の弱った箇所を、まるで見てきたように言い当てては、改めるべき策を静かに説いた。
「近頃の玉藻は、政にも詳しいようだな。まるで諸国を歩いてきたかのようだ」
上皇はそう言って笑ったが、まさかそれが人ならぬ知恵によるものとは、露ほども疑っていなかった。藻の進言のいくつかは実際に諸国へ通達され、堤の普請が進み、備蓄の蔵が新たに設けられた。旱魃の兆しはすでに国のあちこちに現れ始めていたが、藻の働きによって、被害はまだ最小限に食い止められていた。夜半、藻が局でひとり書き物をしている姿を、千代松は幾度も見かけたことがある。灯芯の油が尽きるまで筆を動かし、東の空が白み始める頃になってようやく手を止める。その背中は、寵姫の華やかさとは程遠い、ただひたすらに国のことだけを考える者の姿だった。
千代松は雑色として御所に留まりながら、藻の様子をそっと見守り続けた。時折、人目を忍んで言葉を交わすことはあっても、藻の表情には日に日に、人ならぬものの翳りが濃くなっていくように見えた。
「力を使うたびに、人の心が薄れていくような心地がする。この頬に触れる風の冷たさも、この身にまとう絹の手触りも、以前ほどには感じられぬのだ」
ある晩、藻はそう漏らしたことがあった。庭先の池に映る月を見つめながら、その声はどこか遠いところから響いてくるようだった。千代松は何も言えなかった。ただ、寵姫として華やかに振る舞う藻の裏側に、こうまで重いものが積み重なっているとは、誰も知らなかった。
「それでも、な」
藻は続けた。
「この身がどれほど人から遠ざかろうとも、里の田が実る様や、子らが水を汲む姿を思えば、まだ耐えられる。わたしはこの国から、渇きを退けたいだけなのだ」
その横顔には、里にいた頃と変わらぬ、まっすぐな強さが残っていた。千代松はただ、その強さを守る術もないまま、都の日々を重ねていくしかなかった。時折、藻が疲れ果てた様子で局の廂に座り込んでいるのを見かけると、千代松は言葉もかけられず、ただ遠くから見守ることしかできなかった。二人のあいだには、いつしか、口には出さぬまま互いを案じ合う、静かな絆だけが残されていった。
三 安倍泰成の卜占、崩れる寵
異変が上皇の身に現れたのは、その年の秋のことだった。
にわかに床に伏せった上皇は、食も細り、夜ごとうなされるようになった。典薬寮の医師たちがあらゆる手を尽くしても、病の因は一向にわからない。宮中では不吉な噂がひそやかに広がり始めた――このところの上皇の寵愛の偏りが、何か禍いを招いたのではないか、と。女房たちのあいだでも、玉藻の前を妬む声はもとより少なくなかったから、その噂はまたたく間に御所の隅々にまで広がっていった。
そこで召し出されたのが、当代随一と謳われた陰陽師、安倍泰成だった。泰成は御前に召されるなり、上皇の脈を診るまでもなく、まず御所に満ちる気の乱れを鋭く読み取った。白木の八卦盤を前に、幾度も筮竹を繰りながら、その眉間には次第に険しいものが刻まれていった。
「これは尋常の病にあらず。人ならぬものの気配が、この御所の内に潜んでおります」
泰成はそう断じると、卜占の道具を持ち出し、幾日もかけて宮中のあらゆる気を読み解いていった。夜ごと、灯明の下で経文を唱えながら方位を測る泰成の姿は、御所の者たちに底知れぬ恐れを抱かせた。そしてついに、玉藻の前が伺候する局の方角から、他のいずこよりも強い、異形の気が立ち上っていることを突き止めた。
「玉藻の前――あの女こそが、上皇のお命を蝕む禍いの根に相違ございませぬ」
泰成の言葉に、御所は騒然となった。藻はその時、局で一人、卜占の気配が自分に迫っていることをすでに察していた。龍としての力をもってすれば、泰成の占いを晦ますことも、あるいは真実を語って弁明することもできたはずだった。だが、そのどちらも、藻は選ばなかった。
力を使えば、これまで積み上げてきた治水や備蓄の策そのものが、人ならぬ者の企みとして疑われ、覆されてしまう。真実を語れば、正体を明かすことになり、国を騒がせるだけの咎人として、これまでの進言もろとも葬られるだろう。どちらの道も、藻が命がけで守ろうとしてきたものを、根こそぎ崩してしまう。
「わたしが何を語ろうと、もはや誰も、旱魃から国を守るための策だとは信じまい」
局を訪れた千代松に、藻は静かにそう告げた。窓の外では、庭の木々が夜風に揺れる音だけが響いていた。
「ならば、何も語らぬ方がまだよい。せめて、これまでの進言だけは、生きたまま残るように」
千代松は言葉を失った。抗弁すれば助かるかもしれぬ道を、藻は自ら閉ざそうとしている。それがどれほど恐ろしい決断か、千代松にも痛いほどわかった。
「馬鹿な。お前が命がけで守ってきたことを、誰も知らぬまま終わらせてよいのか」
「よいのだ、千代松。堤は残る。蓄えの蔵も残る。それがあれば、来る旱魃にも、里の者たちは飢えずに済む。わたしの名がどう語られようと、それだけで十分だ」
その声には、悲愴さよりも、むしろ静かな覚悟が満ちていた。千代松は、真意を知る自分に何ができるわけでもない現実を、噛みしめるしかなかった。ただ黙って、藻の傍らに立ち尽くすことしかできなかった。
泰成は式神を用いた卜占をさらに重ね、御前にて銅鏡に映る玉藻の前の影を人々の前に示した。鏡の面には、几帳の陰に伏す彼女の姿とともに、うっすらと獣めいた輪郭が揺らいで見えたという。それを目にした公卿たちのあいだに、どよめきが走った。泰成はついに、玉藻の前が人ならぬ者――しかも古よりこの国を悩ませてきたという妖しの化生に他ならぬと結論づけた。上皇の病はすべて彼女の仕業とされ、御所には追討の評定が開かれることとなった。
藻は一切の弁明をせぬまま、御簾の内でその沙汰を聞いていた。かつて里を救うために都へ上った日々のことを思い返しながら、彼女はただ一つのことだけを確かめていた――これまでの進言によって築かれた堤や蓄えは、自分がこの先どうなろうとも、国のうちに残り続けるだろうということを。評定の声がやむ頃、藻はすでに、逃げるべき道筋を静かに思い描き始めていた。
四 那須野、追討の軍
追討の宣旨が下るとともに、玉藻の前――藻は都を逃れ出た。人ならぬ力をもってすれば、いかようにも身を隠すことはできたはずだったが、藻はあえて足の遅い人の身のまま、那須野の広野を目指して落ち延びていった。都を出るとき、藻は誰にも見送られることなく、夜明け前の暗い門をひとり抜けた。
「なぜ、力を用いて逃げ延びようとなさらぬのです」
追いついた千代松が、息を切らせながら問うた。都から幾日もかけて後を追い、ようやく那須野の手前で藻に追いついたのだった。藻は広い夜空を見上げたまま、静かに答えた。
「わたしがここで力を振るえば、それこそ泰成殿の占いが正しかったことの証になろう。せめて最期まで、人として振る舞いたい」
那須野には、すでに追討の軍勢が幾重にも布陣していた。枯れすすきの原が月明かりに白く浮かび、遠く篝火の連なりが、まるで地を這う蛇のように見えた。逃げ場を失った藻は、その只中で、静かに足を止めた。千代松だけが単身、その傍らに追いついていた。
「藻、いや……玉藻の前様。今からでも遅くはございませぬ。真のことをお話しくだされば」
千代松の声は震えていた。藻はゆっくりと振り返ると、幼馴染だけに向ける、あの淵で出会った頃と変わらぬ穏やかな眼差しを向けた。
「千代松。お前だけには、本当のことを話しておこう」
藻は静かに語り始めた。あの日、淵の龍から力を分け与えられたこと。里を、そして国を旱魃から救うために都へ上ったこと。上皇を害する気など、一片たりともなかったこと。そのすべてを、千代松は涙をこらえながら聞いた。
「わかっていた……お前がそんなことをする人ではないと、ずっとわかっていた。それなのに、俺には何ひとつ、お前を助けることができなかった」
「よい。お前が真実を知ってくれている。それだけで、わたしは十分だ」
藻はそう言うと、ふと空を仰いだ。その時、藻の内に宿る龍の意識が、遠く国の奥深くから迫りくる、途方もなく大きな凶兆を感じ取っていた。都で防いできた小さな旱魃どころではない、幾年にも渡って国土を焼き尽くすほどの、大旱魃の気配だった。空の色すら変わって見えるほどの、乾いた重みが、遥か西の空から静かに押し寄せてきていた。
「千代松。わたしはこれより、討たれるつもりはない」
藻は静かに、しかしはっきりと告げた。
「討たれれば、ただの妖しの化生が調伏された、という話で終わるだろう。だが、この身にはまだ、なすべきことが残っている」
「待て、藻。何をするつもりだ」
千代松が問うより早く、遠くから矢音が響いた。追討の軍勢が包囲を狭め、篝火の向こうに弓を構える兵たちの影が浮かび上がる。藻は千代松の手をそっと取り、最後にひとつだけ微笑んだ。
「里へ帰ったら、母上に伝えてくれ。わたしは、恥じることなど何もしていない、と」
千代松が止める間もなく、藻の体は淡い光を帯び始めた。追討の軍勢がどよめきながら弓を構える中、藻は龍の姿に戻ることもせず、その場に静かに膝をついた。
五 殺生石、遠い龍の記憶
藻の体を包んだ光は、彼女自身の内に眠っていた龍の力そのものだった。しかし彼女は、その力を武器としてではなく、迫りくる大旱魃の凶兆をわが身に引き受けるためだけに用いた。
国じゅうを焼き尽くすはずだった渇きの気は、那須野の枯野に集められ、藻の体へと吸い込まれるように収斂していった。悲鳴も、咆哮もなかった。ただ静かに、藻の体は白く固まっていき、やがて夜明けとともに、そこには人の形をした、ひとつの石だけが残された。千代松は膝をついたまま、その一部始終を、声も出せずに見届けることしかできなかった。
追討の軍勢はそれを、妖狐調伏の証と受け取った。都に戻った将兵たちは、恐るべき化生を討ち果たしたと誇らしげに語り、那須野に残された石は、近づく者を病に倒すという噂とともに「殺生石」と呼ばれ、恐れられるようになった。石に近づいた鳥や獣が次々と力を失って倒れると噂され、その話はやがて都にまで広まり、玉藻の前の悪名はますます確かなものとして語り継がれていった。
千代松だけが、その石の本当の意味を知っていた。だが、それを語ったところで、誰も信じはしないだろうことも、彼にはわかっていた。妖しの化生を都から遠ざけた、という物語の方が、人々にはよほど納得のいくものだったから。彼はしばらくのあいだ、石の傍らに留まり、誰に語るでもなく、藻の名を静かに口にし続けた。
千代松は程なくして都を離れ、故郷の里へと戻った。あの日、藻とともに分け入った山の淵には、老いた龍の姿はもう見当たらなかった。おそらく、藻に力を分け与えたその日から、龍自身の命もまた、静かに終わりに近づいていたのだろう。里の田は、藻が都で進言した治水の策のおかげか、以前よりずっと日照りに強くなっていた。誰もその由縁を知らぬまま、里は静かに実りを重ねていった。
晩年、千代松は里の子供たちに、龍と娘の昔話をせがまれることがあった。彼はそのたびに、殺生石の言い伝えとは違う、本当の話をそっと語って聞かせた。旱魃から国を守ろうとした娘がいたこと、彼女が最後まで、誰かを恨むことも、己の潔白を声高に叫ぶこともなかったこと。
子供たちはその話を、ただの昔話として聞き流すことが多かったが、稀に、じっと聞き入る子もいた。そんな夜には、千代松は決まって、あの淵で初めて龍と出会った日の、水面に映る緑の静けさを思い出すのだった。年老いた手で茶碗を包みながら、彼は幾度も同じ言葉を繰り返した。あの娘は、誰よりも国を思っていたのだ、と。
那須野の殺生石は、今も語り継がれる。近づく者を祟るという言い伝えとともに。だが、その石の内に眠るのが、国を守るために自らの潔白さえ語らなかった、ひとりの龍の記憶であることを知る者は、もはや誰もいない。乾いた風だけが、今も枯野の上を静かに吹き渡っている。
あとがき
岡本綺堂の『玉藻の前』は、鳥羽上皇の寵愛を受けた絶世の美女が、実は古来国々を乱してきた妖狐の化身であったと陰陽師・安倍泰成に見抜かれ、那須野で追討されて殺生石になるという伝奇物語である。本作では、この「正体を暴かれ追討される寵姫」という骨格を保ちながら、彼女の正体を、旱魃に苦しむ国を救おうと人の姿を借りた老いた龍神に置き換えた。
原作最大の眼目である「寵愛から一転して断罪される悲劇」の構図は本作でも核に据えつつ、竜が己の潔白を語れば守ってきた治水の策そのものが崩れてしまうために沈黙を選び、討たれる代わりに自ら国を覆う凶兆を引き受けて石になる、という新しい軸を加えている。藻と千代松の関係、宮中での進言の描写、那須野での顛末など、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作は岡本綺堂著『玉藻の前』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card480.html)を参考にした翻案作品です。