竜は申し開きをしなかった
旱魃に苦しむ国を救うため、老いた龍神は「玉藻の前」として宮中に上がり、密かに治水と祈雨を進言する。だが異能を危ぶんだ陰陽師の卜占により妖狐と断じられ、真意を語ることも許されぬまま追討の身となる。
一 旱の郷、淵の主
その年で三度目の夏が来ても、山あいの村に雨はろくに降らなかった。田は罅割れ、稲は穂を結ばぬまま黄ばみ、井戸の水嵩は日に日に下がっていく。畦道に立てば、乾いた土埃が風に舞い上がり、村の者たちは朝な夕なに空を仰いでは、雲の切れ端一つにさえ胸を騒がせるようになっていた。年貢の取り立ては容赦なく、痩せた稲穂を前に頭を抱える百姓たちの姿は、もはや珍しくもなかった。
藻(みく)は、そんな寒村の外れで育った娘だった。父母を早くに亡くし、機織りの婆の家に引き取られて育ったが、貧しさは村じゅう変わらず、誰も彼女だけを憐れむ余裕はなかった。婆の織る粗末な布を町へ売りに出す道すがら、藻は痩せた田を眺めては、いつも同じことを思った。せめて、あと少しだけでも雨が降ってくれたら。
ただ一人、幼馴染の千代松だけは、幼い頃から藻のそばを離れなかった。二人でよく、村の裏山にある淵まで水を汲みに行った。深く昏い色をたたえたその淵には、大昔から「淵の主」が棲むという言い伝えがあり、日照りが続くと村の年寄りたちは、その主に向かって藁で編んだ供物を捧げ、雨乞いの祈りを捧げるのが習わしだった。
「主様が本当にいなさるなら、いい加減、雨を降らせてくれてもよさそうなものだがな」
千代松が水桶を担ぎながら悪態をつくと、藻はいつも困ったように微笑んだ。
「罰当たりなことを言わないで。主様だって、きっと何かお考えがあるのよ」
「藻はいつも主様の肩を持つな。まるで、じかに会ったことでもあるみたいに」
冗談交じりの千代松の言葉に、藻は曖昧に笑うだけで答えなかった。実のところ、藻は幼い頃から、淵のほとりに立つと不思議と心が凪ぐのを感じていた。誰に教わったわけでもないのに、水面に映る雲の形から、幾日か先の天気を言い当てることができた。村の年寄りたちはそれを「藻は主様に気に入られているのだろう」と半ば本気で噂したが、藻自身はそれをただの勘だと思っていた。
「今度、都に上がる話があるんだ」
ある夕暮れ、田の畦に並んで座りながら、千代松がぽつりとそう漏らした。年貢の取り立てに来た役人の伝手で、都の屋敷に下働きとして奉公できるかもしれないという。
「行ってしまうの」
藻の声が、思いのほか小さくなった。千代松は言い淀んでから、思い切ったように続けた。
「まだ決まった話じゃない。それに――もし本当に行くことになったら、いつか必ず迎えに来る。今はまだ、お前に何一つやれるものがないけれど、都で身を立てたら、この村に雨を呼ぶ祈祷師でも、水利に明るい役人でも、何にだってなってみせる」
大それた夢を語る千代松の横顔を、藻は黙って見つめていた。二人の間に交わされたのは、それだけの、たわいもない約束だった。それでも藻は、その約束を胸の内で幾度も繰り返し、大切にしまい込んだ。
その晩、藻は一人で淵まで水を汲みに出た。月のない夜で、淵の水面はただ黒々と沈黙していた。水を汲もうと屈み込んだ拍子に、藻はふと、水底から自分を見つめる二つの光に気づいた。悲鳴を上げる暇もなかった。水面が大きく盛り上がり、老いた龍の顔がぬっと浮かび上がったのだ。龍の双眸は、ひどく穏やかで、そして深い疲労を湛えていた。
「怖がらずともよい。おまえに害をなす気はない」
低く、地の底から響くような声だった。藻はその場に凍りついたまま、辛うじて頷くことしかできなかった。
「わたしは、この国の水を長く見守ってきた者だ。だが、わたしの力ではもう、この旱魃を鎮めることができぬ。人の世の政が乱れ、堤も水路も朽ちるに任されているのでな。天の巡りだけがどれほど整おうとも、人の手が入らねば、水は田畑には行き渡らぬ」
龍は静かに続けた。古い龍神の力だけでは、もはやこの国の渇きを癒すことはできない。人の政の中に入り込み、人の言葉で人を動かさねば、この災いは終わらない――そう龍は語った。
「頼みがある。おまえの姿を、しばし借りたい。案ずるな、おまえの魂に害は及ばぬ。ただ、おまえがこの先歩むはずだった道を、わたしが代わりに歩ませてもらう。おまえの村を、わたしは必ず救ってみせる」
藻は答えるより先に、意識が水底に引き込まれるような感覚に襲われた。気づいたときには、村外れの草叢に一人横たわっていた。慌てて村に駆け戻ろうとしたが、足はもつれ、視界は霞み、やがて藻の意識そのものが、深い眠りに落ちるように遠のいていった。
翌朝、村の者たちが見つけたのは、藻の草履が淵のほとりに揃えて置かれているという、それだけの光景だった。千代松は幾日も淵のほとりを探し回ったが、藻の行方は杳として知れなかった。「主様に召された」と噂する年寄りもいれば、「町へ出て身を売ったのだろう」と口さがなく言う者もいた。千代松はそのどちらの噂も信じたくなかったが、確かめる術もないまま、都行きの日だけが近づいていた。
二 玉藻の前、宮中に上がる
それから幾月も経たぬうちに、都では一人の女の噂で持ちきりになっていた。素性も定かならぬまま急に台頭したその女は、和歌に秀で、書にも通じ、居並ぶ公卿たちの誰もが舌を巻くほどの学識を備えていた。名を「玉藻の前」といった。鳥羽上皇はたちまちその聡明さと美貌に心を奪われ、幾人もの寵姫を差し置いて、彼女を最も近くに召し出すようになった。
誰もその素性を深く詮索しようとはしなかった。都に生きる者たちにとって、玉藻の前はただ「上皇に見初められた稀代の美女」でしかなかったからだ。だが玉藻の前自身は、寵愛を受ける身でありながら、夜ごと文机に向かい、堤の絵図や過去の水損の記録を読み漁っていた。灯芯の油が尽きるまで書物を繰り、時には自ら諸国の郡司から届く報告書にまで目を通した。
「上皇様、恐れながら申し上げます。この国の日照りは、天の気まぐれだけではございませぬ。堤が朽ちるに任せ、水路が塞がったままでは、たとえ雨が降ろうとも田畑には行き渡りませぬ。まずは近国の堤の普請を急ぎ、水路の目詰まりを取り除くべきかと存じます」
玉藻の前がそう進言すると、上皇は初め怪訝な顔をしたものの、彼女の語る理路の確かさに、次第に耳を傾けるようになっていった。堤の普請を命じる宣旨が下り、荒れていた水路にも修復の手が入り始めた。表向きは、上皇が寵姫の願いを聞き入れたという形をとりながら、その実は、玉藻の前が国の渇きを癒すために描いた道筋そのものだった。
「そなたは、まことにただの女子か。時折、齢を重ねた学者のごとき物言いをする」
上皇が冗談めかしてそう言うと、玉藻の前は静かに微笑んで答えた。
「幼き頃より、水のことばかり考えて育ちましたゆえ」
その言葉に嘘はなかった。ただ、その「幼き頃」が誰の記憶なのかを、彼女は語ることができなかった。
そんな折、都の下働きとして召し出された者たちの中に、千代松の姿があった。かつて交わした約束のとおり、都に上がる伝手を得た彼は、まさか玉藻の前が藻であるとは知る由もなかった。ある日、廊下の掃除に精を出していた千代松の横を、玉藻の前が女房たちを従えて通りかかった。すれ違いざま、玉藻の前がふと足を止めた。
「そなた……見覚えがある。故郷は、どこか」
千代松は驚きながらも、生まれ育った村の名を口にした。玉藻の前の面が、わずかに揺れた。
「そうか。よい村だ。田の実りが、良くなるとよいな」
それだけを言い残し、玉藻の前は足早に去っていった。千代松は、その後ろ姿にどこか覚えのある匂いを感じたが、まさか幼馴染の藻だとは思いも寄らず、ただ胸の奥に小さな疑問だけが残った。それでも、あの短いやり取りの間、玉藻の前の目に浮かんだ翳りだけは、なぜか長く彼の記憶に留まり続けた。
三 灯火の下の龍
夏の盛りに、日照りは一段と厳しさを増した。都の井戸も涸れ始め、諸国から届く飢饉の報せが、連日のように上皇の耳に届いた。玉藻の前は表向きの華やかさとは裏腹に、夜ごと人目を忍んで庭の池のほとりに佇み、祈るように空を見上げる日々が続いていた。
ある夜、宿直の当番を終えた千代松は、渡殿の隅で物音に気づいて庭に出た。池の水面が、月もないのに淡く光を帯びている。目を凝らした先で、彼は信じがたい光景を見た。玉藻の前の輪郭が水面に映る際、そこに重なって浮かび上がったのは、灰銀色の鱗を持つ、老いた龍の姿だった。
千代松は声も出せぬまま、その場に立ち尽くした。やがて池の水が静まり、そこにはいつもの玉藻の前が、疲れ果てた様子で佇んでいるだけだった。振り返った彼女の目が、闇の中の千代松を捉えた。
「見られたか」
観念したように、玉藻の前は静かに言った。千代松は震える声で問うた。
「あなたは……藻なのか。それとも、化生の類なのか」
その問いに、玉藻の前はしばらく黙り込んだ。やがて、覚悟を決めたように、淵で交わした龍との出会いを、包み隠さず語り始めた。
「わたしは藻の姿を借りているが、藻の魂を損なってはいない。今も藻の魂は、この身の奥深くで穏やかに眠っている。わたしはただ、この国の渇きを癒すために、人の姿を必要としただけだ」
「なぜ、正直に名乗り出ないのです。あなたがしていることを、上皇様にお話しすれば――」
「信じてもらえると思うか」玉藻の前は寂しげに笑った。「龍神が人の姿を借り、政に口を出していると知れば、どれほど正しい進言であっても、それは妖しの企みとしてしか扱われまい。人は、理解できぬものを恐れる。恐れは、容易く憎しみに変わる。それに、堤の普請も水路の修復も、今の形のままであってこそ意味がある。上皇様が自らの意志で正しい政をなさった、という形でなければ」
千代松は言葉を失った。それでも、玉藻の前が村を、国を思って動いていることだけは、疑いようもなく伝わってきた。
「頼む。このことは、誰にも――」
「言いません」千代松は即座に答えた。「あなたが誰であっても、故郷の水を思うその心だけは、本物だと分かりますから。それに……藻の魂が、あなたの中で眠っているというなら、なおのこと」
その夜を境に、二人の間には誰にも明かせぬ秘密が生まれた。玉藻の前は千代松にだけ、進言の裏に隠した本当の目算を語るようになった。堤のどこを直せば下流の村々が救われるか、どの郡司が私腹を肥やして普請を怠っているか――誰にも打ち明けられぬ重荷を、玉藻の前は千代松にだけ分かち合った。千代松もまた、下働きの立場でしか動けぬ己をもどかしく思いながら、せめて夜ごとの対話だけは欠かさぬようにした。
宮中では、玉藻の前の異例な影響力を快く思わぬ者たちも増えていた。中でも陰陽師・安倍泰成は、上皇が寵姫の言葉一つで国政を左右されることに、強い危惧を抱いていた。
「近頃の上皇様のご様子、いささか気にかかる。あの女子が上皇様に取り入ってより、政のあり方までが変わってしまわれた。学もなき女子が堤の普請にまで口を出すなど、聞いたこともない話だ」
泰成は密かに、玉藻の前の身辺を調べ始めていた。玉藻の前もそれを察していたが、千代松にだけは、こう漏らしたことがある。
「案じることはない。わたしが恐れているのは、暴かれることではない。この国の渇きが、わたしの力の及ばぬところまで進んでしまうことだけだ。堤があと一年もてば、下流の村々は今年の飢饉を越えられる。それだけを見届けられれば、わたしはそれでよい」
その言葉の底に潜む静かな覚悟を、千代松はまだこの時、正しく汲み取ることができなかった。
ある夜、玉藻の前は千代松に、故郷の淵で幼い頃に見た夢の話をせがんだ。千代松が訥々と、二人で水を汲みに通った日々や、雨乞いの祭りの賑わいを語ると、玉藻の前は目を細めて耳を傾けた。
「藻という娘は、幸せに暮らしていたか」
「幸せというには、貧しすぎましたが」千代松は苦笑した。「それでも、笑うことの多い娘でした。淵のほとりに立つと、なぜか心が凪ぐと言っていました」
「そうか」玉藻の前の声が、わずかに湿りを帯びた。「その心地よさだけは、わたしにも覚えがある。おそらく、藻の魂が今も、わたしと共に息をしているからだろう」
千代松は、その言葉にどこか安堵を覚えた。藻はまだ、完全に失われたわけではないのだと。だが同時に、玉藻の前の背負う孤独の深さにも、初めて気づかされた気がした。人でありながら人でなく、龍でありながら龍でもいられない、その狭間に彼女はずっと立ち続けているのだった。
四 泰成の占、追われる身
秋を待たずして、上皇が急な病に倒れた。幾人もの典薬が手を尽くしたが、原因は杳として知れず、日を追うごとに衰弱していく上皇の姿に、宮中は騒然となった。この機を見て、泰成は上皇の病の原因を占うよう奏上した。
三日三晩の卜占の末、泰成は青白い顔で上皇の御前に進み出た。御簾の向こうに控える公卿たちが、固唾を呑んでその言葉を待った。
「畏れながら申し上げます。上皇様のご不例、これは人ならぬ者が近くに侍っているがゆえの障りにございます。かねてより疑いを抱いておりました玉藻の前――あれこそ、古来この国を惑わしてきた妖狐の化身にございましょう。夜な夜な庭の池のほとりに佇み、人ならぬ光を放つ姿を見た者もございます」
御前に控えていた玉藻の前は、静かに面を伏せたまま、何も言わなかった。あの夜、千代松の他にも誰かに姿を見咎められていたのかもしれない。あるいは、進言の的確さそのものが、人ならぬ証と見なされたのかもしれない。いずれにせよ、真の理由を語ったところで、この場では誰も信じはしないだろう。玉藻の前にはそれが分かっていた。
「申し開きはあるか」
上皇の弱々しい声が問うた。玉藻の前は顔を上げ、上皇の目をまっすぐに見返した。堤の普請のこと、水路の修復のこと、それらすべてが国を救うためだったのだと、語ろうと思えば語れたはずだった。だが、その言葉を口にした瞬間、自分がしてきたことのすべてが「妖しの企み」として塗り替えられてしまうことを、玉藻の前は誰よりもよく知っていた。それは、上皇が信じて進めてきた治水の功すら、まやかしだったと断じられ、せっかく動き出した堤の普請までもが、真っ先に取り止められることを意味した。
「……ございませぬ」
それだけを答え、玉藻の前は深く頭を垂れた。その沈黙は、罪を認めたと受け取られた。上皇の病はさらに重くなり、泰成の言葉に押される形で、追討の宣旨がついに下された。
その報せを聞いた千代松は、居ても立ってもいられず、玉藻の前の局に駆け込んだ。
「逃げてください。今すぐに」
「逃げたところで、この国の渇きは癒えぬ」玉藻の前は静かにかぶりを振った。「わたしがここに留まれば、上皇様の御名にまで疑いが及ぶ。それだけは、あってはならぬ。堤の普請も、水路の修復も、上皇様ご自身の御意志によるものとして、このまま続けられねばならぬのだ」
「では、どうするおつもりです」
玉藻の前は答えず、ただ千代松の手を取り、震える指先を強く握った。
「一つだけ、頼みがある。わたしがどこへ向かうか、誰にも言わないでほしい。そして、わたしを信じてくれたことを、忘れないでいてほしい。堤が完成し、村々に水が行き渡る日が来たなら、その時だけは、わたしのことを少し思い出してくれればよい」
その夜のうちに、玉藻の前は都を後にした。追討の軍勢は間もなく編成され、那須野の方角へ逃れたとの報せを追って、都を出立していった。千代松もまた、居ても立ってもいられず、密かにその後を追った。都を出る道すがら、彼は幾度も己を責めた。もっと早く、もっと違う形で、彼女を助けられなかったのかと。だが答えは出ないまま、荒野を目指す彼の足だけが、闇の中を急いだ。
五 殺生石
那須野に広がる荒野は、都の華やかさとは打って変わって、乾いた風だけが吹き渡っていた。玉藻の前は、追討の軍勢に追い詰められ、とうとう荒野の只中で足を止めた。彼女の背後に迫っていたのは、兵たちの槍先だけではなかった。都で溜め込まれていた大旱魃の凶兆――幾年もの間、彼女がその身一つで抑え込んできた災厄の気配が、堰を切ったように押し寄せようとしていた。
「――そこまでだ。神妙にいたせ」
将の一人が声を張り上げ、兵たちが遠巻きに取り囲む。弓に矢がつがえられ、槍の穂先が夕陽を鈍く照り返した。その輪の外れに、息を切らせた千代松がようやく追いついた。
「あなたは何も悪くない! 本当のことを話せば――」
「もう遅い」玉藻の前は静かに首を振った。その表情には、恐れよりも、深い静けさが宿っていた。「たとえ今ここで真実を話したところで、上皇様の病が癒えるわけではない。それに、わたしが人の姿のまま討たれれば、この身に溜め込んだ災いは行き場を失い、そのままこの国全土に降りかかるだろう」
千代松は言葉を失った。玉藻の前は、討たれることを恐れているのではなかった。討たれた後に起こることを、恐れていたのだ。
「千代松。おまえだけには、本当のことを知っていてほしかった。わたしは、妖狐ではない。ただ、この国の水を守りたかっただけの、老いた龍にすぎない。そして――藻の魂は、最後までわたしと共にあった。恨むなら、わたしだけを恨んでくれ。藻を恨まないでやってほしい」
そう言うと、玉藻の前はゆっくりと目を閉じた。兵たちが槍を構えるより早く、彼女の身体が淡い光に包まれ、人の輪郭が解けていく。現れたのは、灰銀色の鱗をまとった老いた龍の姿だった。だがその龍は、誰かに牙を剥くこともなく、押し寄せる兵たちを一顧だにせず、ただ静かに、己の内に溜め込んだ災いのすべてを、その身の内側へと押し込めていった。
龍の身体が、みるみるうちに白く硬い岩へと変わっていく。押し寄せていた凶兆は、その石の内へと閉じ込められ、荒野に降りかかることなく静まっていった。兵たちは、目の前で起きたことの意味を測りかね、槍を構えたまま、ただ立ち尽くすばかりだった。
千代松だけが、崩れ落ちるように石のそばに膝をついた。
「……藻」
石は何も答えなかった。だが千代松には、その表面にわずかに滲む水気が、まるで涙のように見えた。彼はいつまでもその場を動かず、日が暮れて兵たちが引き上げていった後も、ただ石のそばに座り続けた。
那須野に残されたその石は、やがて「殺生石」と呼ばれるようになった。近づく者を害する毒石であると人々は畏れ、遠巻きにその周りを避けて通るようになった。上皇の病は、玉藻の前が姿を消したのちに、ゆるやかに快方へ向かったという。堤の普請も水路の修復も、彼女が言い残した通りに続けられ、翌年、下流の村々にはようやく実りの秋が訪れた。誰もそれを、石が災いを引き受けたためだとは知らなかった。
千代松だけは、幾年経っても那須野に足を運び続けた。石の前に立つたび、彼はかつての約束を思い出した。いつか迎えに行くと言った、その約束を果たせなかったことを悔いながら、それでも彼は石に向かって語りかけた。故郷の田畑がその年もまた実りを迎えたこと、村の子らが無事に育っていること、堤の上に立つと今も遠く山並みが見渡せること――何一つ答えの返らない石に向かって、それでも彼は語り続けた。
殺生石は、今も那須野の片隅に残っているという。人々はそれを恐れ、忌み、近づくことを避け続けている。だが、その石が本当に守り抜いたものが何だったのかを、誰も語り継ぐことはなかった。
あとがき
岡本綺堂の『玉藻の前』は、平安末期を舞台に、山中で行方知れずとなった娘・藻が絶世の美女「玉藻の前」として都に上がり、鳥羽上皇の寵愛を受けるも、陰陽師・安倍泰成の占いによって国を乱してきた妖狐の化身と暴かれ、追討の末に那須野で討たれてその怨念が毒石「殺生石」になったと伝えられる伝奇小説である。幼馴染・千代松との淡い縁も、悲劇的な結末とともに閉じられる。
本作では、「妖狐」を、旱魃に苦しむ国を人知れず救おうとした老いた龍神に置き換えた。玉藻の前は表向き寵姫として振る舞いながら、実際には治水と祈雨の進言によって国を救おうとしていたが、その異能を危ぶんだ陰陽師の卜占によって「人ならぬ者」と断じられ、真の動機を語ることも許されぬまま追討される。討たれる代わりに自ら人の姿を捨て、迫っていた大旱魃の凶兆を己の身に引き受けて石に変わるという結末は原作の伝承を踏まえつつ、その石が実は民を災厄から守るための身代わりであったという真意を独自に加えた。
登場人物の心情、宮中でのやり取り、龍神の目的や那須野での顛末に至る細部の描写はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作は岡本綺堂著『玉藻の前』を参考にした翻案作品です。