竜は何も裁かなかった
強欲な高利貸しのもとへ、クリスマスイブの夜、時を超える古竜が音もなく舞い降りる。裁く言葉も罰もなく、ただ過去と現在と未来を見せるだけの竜の沈黙が、凍りついた心を静かに溶かしていく改心譚。
一 影を吞む屋敷
港町コルダの冬は、潮風そのものが凍りついているのではないかと思うほど、骨の髄まで冷たい。石畳の路地には霜が降り、軒先に吊るされた干し鱈が硬く白く光っていた。クリスマスイブだというのに、街の空気にはどこか浮かれた気配が乏しく、行き交う人々は襟を立て、足早に家路を急いでいる。
その街の一角、金貸しと質株を営む「グリム帳場」の窓には、今夜も灯りが一つきりしか灯っていなかった。主のサイラス・グリムは、痩せた指で帳簿をめくりながら、暖炉の火を最低限まで絞らせていた。
「トビアス。石炭はまだ半分残っているだろう」
帳場の隅で、震える指先に息を吹きかけながら書き物をしていた書記のトビアス・フェンが、顔を上げずに答えた。
「もう三日、これだけでやりくりしております、旦那様」
「三日でこれだけ持つのなら、あと三日は持つということだ。無駄に燃やすものではない」
グリムはそう言うと、羽根ペンの先を吸って、また帳簿に目を落とした。トビアスは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。この主人に何を言っても無駄だということを、彼はもう十五年も前から知り尽くしている。
夕暮れ、扉を叩く音がした。入ってきたのは、グリムの甥にあたるネイサンだった。頬を赤くし、雪のかけらを外套につけたまま、彼はいつも通りの明るさで声をかけた。
「叔父さん、メリークリスマス。今夜はうちで晩餐会をやります。ぜひいらしてください」
「メリークリスマスだと」グリムは鼻を鳴らした。「お前の父親が死んでもう二十年になる。あの男が遺したのは借金と、お前という厄介の種だけだった。祝う理由がどこにある」
「僕は毎年同じことを言われて、毎年同じように誘いに来ますよ。いつか叔父さんの気が変わると信じているので」
「無駄なことだ。帰りなさい」
ネイサンは肩をすくめ、それでも嫌な顔ひとつせずに立ち去った。入れ違うようにして、施し金を募る二人の紳士が顔を出したが、グリムは彼らにも一言で応じた。「うちには施す金など一文もない」。二人が諦めて出ていったあと、帳場には再び、ペンの音と暖炉の弱い爆ぜる音だけが残った。
帳場を出た帰り道、教会の前で、赤子を抱いた女が震えながら手を差し出してきた。
「どうか、今夜だけでも。この子に温かい物を食べさせてやりたいのです」
グリムは足を止めもせず、女の脇を通り過ぎた。
「働かぬ者に恵む金など、私には一文もない」
女は何も言わず、ただ雪の積もった石段に力なく座り込んだ。その姿を、グリムは一度も振り返らなかった。教会の窓からは賛美歌が漏れ聞こえ、路地の向こうでは子どもたちが雪玉を投げ合って笑っていたが、その明るさは彼の足取りを少しも緩めることはなかった。
その晩、グリムが店じまいをして自宅の扉に鍵を差し込もうとしたとき、ふと、扉についた真鍮の把手に目を留めた。祖父の代から使われているという、竜を象った古い把手だった。長年の手擦れで丸くなったその竜の目に、今夜はなぜか、月明かりとは違う仄かな赤い光が灯って見えた気がした。近づいてよく見ようとすると、把手の表面が呼吸でもするようにかすかに脈打った気がして、グリムは思わず後ずさった。
グリムは瞬きをした。もう一度見ると、把手はただの古びた金物に戻っていた。
「霜のせいだ」
彼は独りごちて、扉を開けた。家の中は外よりもなお冷え切っていた。彼はろくに火も入れず、外套も脱がぬまま寝室へ上がり、震える手で毛布にくるまった。若い頃はこの寒さも気にならなかったはずなのに、と思いながら、いつしか浅い眠りに落ちていった。
コルダの古老たちの間には、昔からひとつの言い伝えがあった。幾百年に一度、この街でもっとも心の凍りついた者のもとへ、時そのものを渡り歩くという古竜が舞い降りる、という話だ。竜は何も言わず、何も奪わず、ただその者自身の人生を、その者自身に見せて回るのだという。信じる者はほとんどいなかったし、グリム自身もその晩まで、鼻で笑って聞き流していた話のひとつに過ぎなかった。
夜半、風が急に強くなった。窓の外で、何か途方もなく大きなものが月を横切り、星々をひとつ残らず影に呑み込んでいくのを、グリムは眠りの底でぼんやりと感じていた。
二 灰色の刻
目を覚ましたとき、寝室の空気が変わっていた。凍った金属と、燃え尽きた灰と、遠い雪山の匂いが入り混じったような、これまで嗅いだことのない冷気が、部屋いっぱいに満ちていた。
グリムが身を起こすと、寝室の壁も天井も、いつのまにか闇に溶けて消えていた。かわりに、そこにいたのは――途方もなく巨きな竜だった。
灰と銀の混じった鱗が、月光さえない虚空でなお鈍く光っていた。畳んだ翼は、寝室ひとつをまるごと覆うほど大きく、それでいて何一つ壊してはいない。ただ在るだけで空間そのものが竜のために譲られているようだった。長い首の先で、二つの瞳が熾火のように静かに燃えていた。竜は何も言わなかった。唸り声すら上げなかった。
グリムは悲鳴を上げようとして、喉が凍りついたように声が出ないことに気づいた。逃げようにも足がすくみ、ただその巨躯を見上げることしかできなかった。
だが、しばらくすると、恐怖の底に別のものが混じり始めた。竜の瞳には、獲物を狙う獣の光ではなく、山を見上げたときに覚えるような、圧倒的でありながら敵意のない静けさがあった。竜はゆっくりと首を垂れ、片翼を寝台のそばまで下ろした。招くでも急かすでもなく、ただそこに翼を差し出しただけだった。
「お前は……あの言い伝えの竜か」
グリムは掠れた声で問うた。竜は答えなかった。目を細め、じっと彼を見つめ返しただけだった。その沈黙が、なぜか嘘や脅しよりもずっと重く、グリムの胸に響いた。
震える足で、彼は翼に乗った。次の瞬間、部屋も街も夜そのものも、渦を巻くように後方へ流れ去っていった。
気づけば、二人――いや、一人と一頭は、灰色に色褪せた古い港町の路地に立っていた。今よりずっと小さく、貧しかった頃のコルダだった。粗末な外套を着た少年が、震えながら質屋の店先で薪を売ろうとしている。誰も買わない。少年は諦めて、凍った石段に腰を下ろし、膝を抱えた。
「あれは……私だ」
グリムは呟いた。父を早くに亡くし、母と二人、その日の食い扶持にも困っていた頃の自分だった。竜は何も言わず、ただ隣に佇み、その光景を見つめ続けていた。
やがて場面は、狭い屋根裏部屋へと移った。痩せ細った母が、咳き込みながらも息子に最後のパンを差し出している。少年は首を振って拒むが、母は無理やりその手に押しつけた。
「お前だけは、ひもじい思いをしてはいけないよ」
その冬の終わりに、母は静かに息を引き取った。少年は誰にも看取られぬまま横たわる母の傍らで、二度と飢えでは死ぬまいと、声にならない誓いを立てた。今のグリムは、その誓いの重さを、初めて客観の目で見つめた。あの誓いは、彼を守ると同時に、彼から多くのものを奪う楔にもなっていったのだと。
場面は移ろい、少年はやがて商家ホリス爺の帳場で働く見習いとなっていた。年老いた主人は厳しくも情のある人物で、クリスマスイブには使用人たちを集めて質素な宴を開いてくれた。若きグリムは、そこで一人の娘と出会った。名をエリンといった。糸紡ぎ職人の娘で、笑うと目尻に小さな皺ができる娘だった。
「いつか、二人で小さな店を持とう」
若き日のグリムがそう囁く声を、今のグリムは竜の隣で聞いた。エリンは頷き、彼の手を握った。あの頃の自分には、まだ誰かと分かち合う心が残っていたのだと、グリムは思い知った。
だが場面はさらに移ろう。ホリス爺が世を去り、店を継いだ若きグリムは、次第に「二度と貧しさに戻らない」という一念に取り憑かれていった。ある日、長年連れ添った古参の使用人が、病に倒れた妻のために前借りを頼みに来た。若きグリムは帳簿を指でなぞりながら、冷ややかに答えた。
「規則は規則だ。給金日より前に一文でも渡せば、他の者にも示しがつかん」
使用人は肩を落として去っていった。その後ろ姿を見送ったエリンが、悲しげな顔でグリムに詰め寄った。
「あなたが恐れているのは、貧しさそのものよりも、誰かに情けをかけて損をすることではないの」
「損得の話ではない。商いには筋というものが要る」
そう言い返す若きグリムの声には、かつての少年の面影はもう薄れていた。金を惜しみ、人を疑い、エリンとの約束をひとつまたひとつと先延ばしにしていく。とうとうある雪の夜、エリンは静かに彼のもとを去った。
「あなたの心には、もう私の入る場所がない。あなたが選んだのは、私ではなく、金貨の重みだった」
そう言い残して去っていく娘の背中を、若きグリムはただ黙って見送っていた。今のグリムは、竜の翼にすがりつくようにして、声を殺して泣いた。
「見せないでくれ。もう、これ以上は」
竜は答えなかった。ただ、静かな瞳で彼を見つめ続けていた。裁く色も、蔑む色も、その目にはなかった。ただ、あったことを、あったままに映し出しているだけだった。その沈黙の中で、グリムは初めて、自分が誰かに本当の意味で「見られている」と感じた。裁かれることより、何も裁かれずにただ見つめられることのほうが、よほど胸に堪えるのだと、彼はこの夜、初めて知った。
三 灯る食卓
灰色の過去が薄れ、竜の翼は再び夜気を裂いて滑空した。今度たどり着いたのは、今宵のコルダ――トビアス・フェンの小さな借家だった。
狭い食卓に、痩せた鵞鳥が一羽、湯気を立てていた。決して豊かな食卓ではなかったが、暖炉には申し訳程度の火が灯り、子どもたちの笑い声が部屋を満たしていた。妻のマーガレットが皿を並べながら、少しだけ苦い顔をした。
「今年も、あの方に免じて乾杯するの? あんなに冷たい仕打ちを受けているのに」
「それでも、うちに給金をくれているのはあの人だ。トム、お前はどう思う」
末の息子トムが、小さな松葉杖を脇に立てかけながら、明るく答えた。片脚が生まれつき弱く、歩くのに杖が要る子だった。
「僕は、グリムさんのことは嫌いじゃないよ。だって、あの人だって、誰かに優しくされたことがあるはずでしょう」
上の子どもたちがくすくすと笑った。「トムはいつもそう言うね。だって嫌われる理由がいっぱいある人なのに」
「嫌う理由を探すより、好きになる理由を探すほうが、ずっと楽しいだけだよ」
トムはそう言って、痩せた鵞鳥の肉を、自分の分から一切れ、こっそり犬の皿に分けてやった。マーガレットがそれを見て、たしなめるでもなく、ただ目を細めて微笑んだ。
トビアスはグラスを掲げた。「では、この宴の元を作ってくれた、グリムさんに」
「グリムさんに」子どもたちが声を揃えた。
透明な姿となったグリムには、その声が痛いほど響いた。手を伸ばしても、誰にも触れられない。声をかけても、誰の耳にも届かない。それでも、彼らが自分に向ける言葉には、恨みよりも、奇妙な祈りに似た温かさがあった。トムは食後、窓の外の雪を見つめながら、小さく呟いた。
「今年も、みんなが笑えますように」
その一言が、グリムの胸の奥深くに、棘のように刺さった。竜はその隣で、何も言わずにただ佇んでいた。
透明なグリムは、トムの傍らにしゃがみ込み、その小さな手にそっと自分の手を重ねようとした。指はすり抜け、何の感触も残らなかった。それでも、彼はその場を動けなかった。誰にも見えず、誰にも触れられない自分が、これほどまでに誰かの温かさに焦がれる日が来るとは、思ってもみなかった。
竜がゆっくりと部屋の隅から彼を見つめていた。急かすでもなく、ただ彼がその光景を胸に刻み終えるまで、静かに待っているようだった。
場面はまた移ろい、今度はネイサンの家だった。暖かな灯りの下、大勢の客が集い、歌い、笑っていた。暖炉には惜しみなく薪がくべられ、テーブルには果物や菓子が山と積まれている。子どもたちは輪になって歌合わせの遊びに興じ、大人たちはワインを片手に、今年一年の出来事を語り合っていた。話題がふと、グリムのことに及んだ。
「君の叔父さんは、本当に変わり者だな。あんな冷たい人と、よく縁を切らずにいられるものだ」
客の一人がからかうように言うと、ネイサンは苦笑しながらも、真面目な顔で言葉を返した。
「僕は叔父を嫌ってはいないよ。ただ気の毒に思っている。あの人の冷たさは、生まれつきのものじゃない。何かを失って、それきり心を閉ざしてしまっただけなんだ。だから僕は毎年誘い続ける。いつかまた、あの人が笑える日が来ると思って」
ネイサンはグラスを掲げた。「叔父さんに。彼の心がどこから凍りついたのだとしても」
透明なグリムは、その乾杯の言葉を聞きながら、床に崩れ落ちそうになった。憎まれているとばかり思っていた。だが目の前にあるのは、憎しみではなく、辛抱強く差し出され続けている手だった。
竜がゆっくりと首を巡らせ、グリムを見た。その瞳の奥で、灰の粒子のようなものが渦を巻き始めていた。景色が滲み、夜の色が急速に冷たさを増していく。過去でも現在でもない、まだ見ぬ何かへ、二人は運ばれようとしていた。
四 名もなき墓標
たどり着いた先は、色を失った未来のコルダだった。灰色の空の下、街は静まり返り、グリム帳場の扉には板が打ちつけられ、埃をかぶっていた。通りを行く商人たちが、事もなげに噂話をしていた。
「聞いたか、あの高利貸しが死んだそうだ」
「ほう。誰か悲しむ者はいるのか」
「さあな。あれだけ人に冷たくしていたんだ、せいせいしている者のほうが多いだろうよ。遺した金目の物は、もう質屋や道具屋に流れているという話だ」
誰も彼の死を悼んではいなかった。それどころか、彼の持ち物を安く買い叩こうと集まる者たちの声だけが、通りに響いていた。グリムは震えながら、竜の隣でその光景を見つめていた。
道すがら、竜はグリムをネイサンの家の前にも立ち寄らせた。窓越しに見えるネイサンは、以前より髪に白いものが増え、暖炉の前で古い手紙の束を静かに整理していた。手紙の一枚を手に取り、彼は独り言のように呟いた。
「叔父さん、結局最後まで、あなたの心には届かなかったな」
その声には怒りも失望もなく、ただ諦めにも似た寂しさだけがあった。グリムはその横顔を見つめ、胸を締めつけられる思いがした。まだ何も返せていない相手に、これほどまでに気を長く向けられていたという事実が、今になって重くのしかかってきた。
竜は次に、フェン家の戸口へと彼を導いた。中は静まり返り、暖炉の火は消えかけていた。壁際には、小さな松葉杖が一本、主を失ったまま立てかけられていた。マーガレットが、その杖にそっと手を添えて、声を殺して泣いていた。トビアスが、力なく彼女の肩を抱いていた。
「あの子の脚を診てもらう金さえあれば……」
「あなたのせいではないわ、トビアス。あなたはできる限りのことをした」
「わかっている。わかっているんだ、マーガレット。それでも、あと少しの余裕さえあれば、と考えずにはいられない」
その一言だけで、何が起きたのかをグリムは悟った。膝から崩れ落ちそうになる体を、竜の翼がそっと支えた。それは彼が初めて感じた、竜からの明確な介入だった。裁くためではなく、ただ倒れる彼を支えるためだけの、静かな仕草だった。
最後に竜が彼を連れて行ったのは、街外れの荒れた墓地だった。雑草に覆われ、訪れる者とてない一角に、ひとつだけ真新しい墓標が立っていた。花も供物もなく、ただ苔むした石が、冬の風に晒されているだけだった。
グリムは震える足で近づき、刻まれた名を読んだ。
自分の名前だった。
「違う……まだ、間に合うはずだ」
彼は墓標にすがりつき、振り返って竜を見上げた。
「教えてくれ。これは、もう変えられない未来なのか。それとも、私がまだ選び直せるものなのか」
竜は答えなかった。裁く言葉も、赦す言葉も、ついに一度も発しなかった。ただ、熾火のような瞳で、彼をまっすぐに見つめ続けるだけだった。その沈黙こそが答えだった。竜は最初から、彼を罰しに来たのではない。彼がこれまで選び続けてきた道の果てを、ただ見せに来ただけなのだ。この先をどう選ぶかは、竜にではなく、彼自身の手の中にあるのだと、グリムはようやく悟った。
「頼む……もう一度だけ、やり直させてくれ」
彼は竜の首にすがりつき、鱗に額を押し当てて泣いた。冷たいと思っていた鱗は、思いのほか静かな温もりを帯びていた。竜はそれを拒まず、ただ大きな翼で、崩れ落ちる彼をそっと包み込んだ。
視界が白く塗りつぶされ、意識が遠のいていく。
五 竜の見えない空
目を覚ますと、そこは自分の寝室だった。窓の外では朝の鐘が鳴り、雪の積もった屋根の向こうに、澄んだ青空が広がっていた。
グリムは寝台から飛び起き、窓を開け放った。凍えるはずの朝の空気が、なぜか今日はどこか懐かしく、心地よく感じられた。
「今日はクリスマスの朝か。まだ、間に合うのか」
通りを行く少年に声をかけ、彼は街で一番大きな鵞鳥を買い、匿名でフェン家に届けさせた。それだけでは足りない気がして、彼は自ら医者のもとへも足を運び、往診の手筈を整えた。その足で自ら帳場へ向かい、石炭を惜しみなく暖炉にくべ、驚いて駆けつけたトビアスに深く頭を下げた。
「今日からお前の給金を上げる。トムの脚を診せる医者にも、私が話をつけよう。今まで、すまなかった」
トビアスは目を丸くしたまま、しばらく言葉を失っていた。やがて震える声で「旦那様、どうか、からかっておられるのではないと言ってください」と呟くのへ、グリムは初めて、心からの笑みを返した。
「からかってなどいない。お前の息子に、直接詫びを言いに行ってもいいだろうか」
その日の昼過ぎ、グリムはフェン家を訪れ、驚くトムの前に膝をつき、小さな手を両手で包んだ。
「今年も、みんなが笑えますように――お前がそう言ったのを、私は忘れない」
トムは戸惑いながらも、やがてはにかんだ笑顔を見せた。その笑顔ひとつに、グリムはこれまでの人生で得たどんな金貨よりも大きな価値を見出した。
その日の午後、グリムはネイサンの家の扉を叩いた。長年閉ざしていたその扉を、自分から開けたのは初めてのことだった。
「まだ席は空いているだろうか」
ネイサンは驚きに目を見張ったあと、満面の笑みで叔父を招き入れた。「もちろんです。僕はずっと、この日が来るのを待っていました」
暖かな灯りと歌声の中で、グリムは久しぶりに、誰かと共に笑った。
その夜遅く、宴を終えて家路をたどりながら、グリムはふと夜空を見上げた。雲の切れ間、月を横切るようにして、灰と銀の巨きな影が一瞬だけ翼を広げるのが見えた気がした。瞬きをする間に、影はもうどこにもなかった。
竜は礼を求めなかった。名乗りもしなかった。ただ在るだけで、裁くこともなく、赦すこともなく、彼の選び続けてきた道の果てを見せただけだった。それだけで、どんな法廷の判決よりも深く、グリムの心を撃ち抜いていた。
グリムは誰もいない夜空に向かって、静かに頭を下げた。それが、二度と姿を見せることのない竜への、たった一つの返礼だった。
あとがき
チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、強欲な高利貸しスクルージが、過去・現在・未来のクリスマスの精霊に導かれて自らの生き方を顧み、一夜にして改心する物語である。本作では、三人の精霊を一頭の古竜に置き換え、竜が言葉を発することなく、ただ主人公を過去・現在・未来の情景へ連れて回るだけの存在として描いた。
原作の骨格(守銭奴的な主人公、心優しい甥、貧しくも温かい書記の家庭、体の弱い末子、若き日に失った恋、孤独な死の未来)は保ちながら、人物名・地名・エピソードの細部はすべて独自に創作した。特に竜については、「裁かず、罰せず、ただ見せるだけ」という一貫した造形を保つことを意識し、改心の主体があくまで人間自身の内側にあることを強調するよう努めた。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。
本作はチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)著『A Christmas Carol(クリスマス・キャロル)』を参考にした翻案作品です。