竜は隻眼を閉じなかった
代々続く堂守りの務めを継いだ「私」は、同居する老竜の白く濁った隻眼にだけ、説明のつかない恐怖を募らせていく。ある夜ついに手を下し、亡骸を床下に隠すが、静まったはずの鼓動が、なぜか耳の奥で鳴りやまない。
一 澄んだ谷の合図
正気だと、まず断っておきたい。あのときの私は、これから語ることのすべてを、恐ろしいほど冷静に、恐ろしいほど丁寧に成し遂げた。狂った人間に、あれほどの手順を踏むことができるだろうか。できはしない。だからこそ聞いてほしい。私がどれほど正気であったか、そしてなぜ、たった一つの目だけが私を狂わせたのかを。
隠谷村の外れ、杉林を抜けた先の谷あいに、蔵守り堂という古い堂宇がある。屋根は苔むし、柱は雨風に灰色を帯びているが、村の者たちはそこを、谷でもっとも清らかな場所だと信じていた。私の家は、五代にわたってその堂を守り、堂に棲む一頭の老竜の世話をしてきた家系だった。物心つく前から、私はこの薄暗い堂の匂いを、実の親の匂いよりも先に覚えていた気がする。
村の者たちはその竜を「翁」と呼び、姿を見ることも許されぬ神域の主として敬っていた。田植えの前には堂の前に米を供え、実り祭の晩には遠く杉林の向こうから、堂に向かって手を合わせる。誰も翁の姿を直に見たことはない。見てよいのは、代々の堂守りだけだった。
その務めを、私は父から継いだ。父が病でこの世を去る前夜、床の傍らに呼ばれ、こう言われたことを覚えている。
「翁様の鼓動は、谷の水そのものだ。乱してはならぬ。何があっても、驚かせてはならぬ。それだけを守れば、あとは何も難しいことはない」
その言葉を、私は忠実に守ってきたつもりだった。少なくとも、あの目を持て余すようになるまでは。
翁は、私が生まれるよりずっと前からそこにいた。大型の犬ほどの背丈しかない、老いさらばえた竜だった。翼はとうに萎え、飛ぶどころか羽ばたく力さえ残っていない。鱗は乾いた木の皮のように色を失い、爪も丸く磨り減っている。動きは緩慢で、日がな一日、堂の奥の藁床にうずくまっているだけの、ただの年老いた生き物にしか見えなかった。言葉も持たず、低い息の音と、耳を澄ませば床板越しに伝わってくる静かな鼓動だけが、その存在を語っていた。
世話をするのは苦にならなかった。朝には水桶を運び、昼には堂の隙間から差し込む光の角度を見て藁の位置を整え、夕刻には傷んだ鱗にそっと油を塗ってやる。翁は私の手に鼻先をすり寄せ、喉の奥で満足げな低い音を鳴らした。むしろ私は、この寡黙な同居人に、家族以上の情のようなものすら感じていたのだと思う。ただ一つを除いては。
翁の右目は、白く濁っていた。歳月のせいで膜が張ったのか、あるいは生まれつきなのか、瞳孔の形すら定かでない、乳白色の靄のような目だった。左目はとうの昔に閉じたまま二度と開かない。つまり翁は、事実上の隻眼だった。
その隻眼が、私を見るたびに、腹の底から得体の知れない怖気が這い上がってくるのだ。憎しみではない。翁の性根に含むところなど何もない。財産を欲したこともなければ、危害を加えられたこともない。ただ、あの白く濁った目そのものが――まるで人ならぬものの眼窩に嵌め込まれた、こちらの内側の一切合切を見透かしてしまう何かのように思えて、耐えられなかったのだ。
はじめのうちは、目を合わせぬように振る舞うだけで済んでいた。餌をやるときは俯き、油を塗るときは鱗のほうだけを見る。それだけで、日々の務めは滞りなく続いていくはずだった。
だが、ある晩を境に、それだけでは足りなくなった。
その夜、私は水桶を運びながら、ふと顔を上げてしまった。灯りに照らされた翁の隻眼が、じっと私を見つめていた。瞳の芯があるのかどうかも判然としないその目が、まるで私の企みも、私の恐れも、私の弱さのすべてを、とうに見抜いているかのように感じられた。私は水桶を取り落としそうになり、慌てて堂を出た。
それからというもの、夜、堂の見廻りをしながら、私はその目のことばかり考えるようになっていた。あの目さえこの世からなくなれば、私は二度と怖気に苛まれずに済むのではないか。そんな考えが、初めは霧のように淡く、しかし日を追うごとに輪郭を濃くしていった。
殺そうと思った。老いた翁を、苦しめずに、ただ静かに終わらせてやろうと。それは怒りでも欲でもなく、あの目から自分を解き放つための、いっそ慈悲にも似た決意のつもりだった。私はその考えを胸の奥深くにしまい、表向きはこれまでと変わらぬ丁寧さで、翁の世話を続けた。誰にも気取られてはならない。私は正気なのだから、なおのこと、慎重に事を運ばねばならなかった。
それから幾晩か、私はただ考え続けた。急いてはならない。焦りは必ず綻びを生む。私は堂の間取りを頭の中で幾度もなぞり、藁床までの歩数を数え、床板の継ぎ目の位置を指先で覚え込んだ。灯りをどこまで絞れば足元だけを照らせるか、扉をどれだけ開けば軋まずに済むか。そうした些末な段取りに没頭しているあいだだけは、あの目のことを考えずに済んだ。皮肉にも、殺意そのものよりも、その手はずを整える作業のほうが、私の心をいくらか凪がせてくれた。
二 隻眼の夜ごと
決行までの七晩、私は毎夜、子(ね)の刻を過ぎた頃に堂の奥へ忍び込んだ。灯りを絞った小さな手燭を提げ、扉をほんのわずかに開き、隙間から翁の寝顔を覗き込む。その七晩、私がどれほど注意深く、音を立てず、影さえも動かさぬように振る舞ったか、狂人にそれができるはずがないと重ねて言っておく。蝶番の軋みひとつ、床板の軋みひとつにも、私は自分の心の臓が跳ねるのを感じた。
翁は決まって藁床の隅で丸くなり、瞼を閉じて眠っていた。閉じた瞼の下に、あの忌まわしい隻眼が隠れている限り、私の手は動かなかった。殺したいのは翁ではなく、あの目だけだった。眠っている翁に手を下すことは、なぜか私の中の道理が許さなかった。目を覚まし、あの濁った瞳がこちらを見た瞬間にこそ、私は決着をつけるべきだと思い定めていた。
七晩とも、翁は目を開かなかった。手燭を吹き消し、忍び足で自室に戻るたび、私は妙な満足を覚えていた。今宵もまた、あの目に見咎められることなく、務めを果たせたのだと。むしろ翁への情は、その頃いっそう深まっていたようにさえ思う。昼のあいだ、私は普段以上に丁寧に藁を替え、普段以上に長く鱗を撫でてやった。まるでこれから訪れるものへの、せめてもの詫びであるかのように。
昼のあいだは、努めて普段通りに振る舞った。堂に上がり込んでは世間話をしていく村の老婆――幼い頃から私を見てきた、たよという名の女――が、ある日、茶をすすりながらぽつりと言った。
「近頃、少し顔色がお悪いようだね」
「疲れているだけです。夜回りが増えたもので」
「夜回り、ねえ。……坊、いいかい。この堂の務めはね、翁様のお世話だけじゃあないんだよ」
たよは湯呑を置き、私の顔をまっすぐに見た。
「翁様の鼓動が、いつか静かに止まるその日まで、何一つ乱さずお守りすることが、代々の役目なんだ。翁様が天寿を全うされたとき、鼓動は谷じゅうに響き渡り、次の卵が山の底で目を覚ますという。……でももし、その務めを果たせぬ者があれば」
「果たせぬ者があれば?」
「翁様の鼓動が、正しくない形で止まったなら。谷にはよくないことが起こると、昔から言い伝えられている。水が濁るとも、実りが痩せるとも聞くが、本当のところは誰も知らない。誰も、そんな不心得を働いた者を見たことがないからねえ」
たよは笑いながらそう言い、それ以上は何も語らなかった。私は曖昧に頷きながら、心の中でその言葉を鼻先で笑っていた。年寄りの戯言だ。私が終わらせようとしているのは、老いさらばえた獣の生でしかない。谷にどんな祟りが降りようと、あの目さえ消えれば、私はもう夜ごとの怖気に苛まれずに済むのだ。
それでも、たよが帰った後の堂は、いつになく静かに感じられた。翁の藁床のほうから、低く規則正しい音が、床板を通してかすかに伝わってくる。あれが鼓動というものなのだろうかと、私はそのとき初めて、意識してその音に耳を澄ませた。
とくん、とくん。
ゆったりとした、大地の底から響くような音だった。心地よくすらあるその律動が、しかし私の中では、あの隻眼の記憶と分かちがたく結びついていた。目を閉じていても、私にはあの白い靄のような瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。眠ろうとするたび、その音と、その目とが、代わる代わる私の意識の底に浮かび上がってきた。
その合間、村では実り祭を控えた子どもたちが、堂の遠く手前まで来ては、獅子舞の稽古の太鼓を打ち鳴らしていた。とん、とん、と規則正しく響くその音を耳にするたび、私は思わず身を強張らせた。太鼓の律動が、あの床下の鼓動と重なって聞こえるような気がしたからだ。子どもたちの無邪気な笑い声さえ、今の私には遠い世界の出来事のように感じられた。
七晩目の朝、私は寝不足のまま堂に上がり、いつも通り翁に水を与えた。翁は私の手に鼻先をすり寄せ、いつも通り喉を鳴らした。その温かさに、一瞬だけ迷いが差した。この寡黙な同居人を、本当に手にかけるつもりなのか。だが顔を上げた拍子に、あの隻眼と目が合った瞬間、迷いは霧散した。あの目さえなければ。あの目さえ、この世になければ。
三 深まる翳
八晩目の夜、私はいつもよりわずかに大胆だった。手燭の灯りを、ほんの一寸だけ長く扉の隙間に留めてしまったのだ。それがいけなかった。
藁床の翁が、ふ、と身じろぎをした。私は息を止め、影に同化するように動きを止めた。だが翁は完全に目を覚ましてしまっていた。緩慢な動きで首をもたげ、こちらへ顔を向ける。
そして、隻眼が開いた。
白く濁った瞳が、闇の中でぼんやりと光を宿しているように見えた。焦点が合っているのかどうかもわからない、あの靄のような目が、まっすぐに扉の隙間、私が立つ場所へ向けられている。私は動けなかった。恐怖のためではない――いや、恐怖もあった。だがそれ以上に、ようやく訪れたこの瞬間を、逃してはならないという焦燥が、私の全身を縛りつけていた。
そのとき、床板の底から響く鼓動が、にわかに速さを増したように聞こえた。とくん、とくん、とくとくとくと――老いた翁の胸の内で、何かが怯えているのだと、私にはわかった。私の存在に気づき、恐れているのだと。皮肉なことに、その怯えの律動こそが、私自身の胸の鼓動と重なり合い、耳の奥で分かちがたく反響し始めた。
私はそのまま扉に手をかけたが、廊下の奥から足音が聞こえ、思わず手燭を懐に隠した。夜這いにでも来たかのように振る舞う自分の滑稽さに、後になって苦笑したが、そのときは全身が凍りついていた。足音は堂の別の間で止まった。米蔵の様子を見に来ただけの、下働きの者だった。私はその夜、決行を諦め、自室に戻った。あと一歩のところで踏みとどまった自分に、安堵と苛立ちの両方を感じながら。
翌日は、来月に控えた実り祭の準備で、堂の周りが慌ただしくなった。村長の使いが訪れ、供物の段取りについて確認していく。使いの若者は堂の様子を見回しながら、何気なく尋ねた。
「翁様は、お変わりありませんか」
「息災です。歳のせいで、床から離れることも減りましたが」
「それは重畳。……こういう務めをなさる方は、大変ですなあ。誰にも代われぬのでしょう」
その何気ない一言が、妙に私の胸に重くのしかかった。誰にも代われぬ務め。誰にも打ち明けられぬ企み。私はこの堂に、たった一人、翁とともに閉じ込められているのだと、そのとき初めてはっきりと自覚した。使いの若者が帰ったあとも、私はしばらく堂の入り口に立ち尽くし、杉林のざわめきに耳を傾けていた。
その晩――九晩目の夜、私は再び堂の奥へ忍び寄った。もう七晩、八晩の逡巡は必要ないはずだった。だが扉に手をかけた瞬間、なぜか足がすくんだ。昨晩、決行を諦めたことが、私の中の何かを緩めてしまったのかもしれない。私は扉の隙間からもう一度、翁の様子を窺った。
翁は目を閉じ、静かに眠っていた。その安らかな寝顔を見つめているうちに、私の中に、これまでとは違う感情が湧き上がってきた。憐れみだったのか、それとも未練だったのか、自分でもわからない。だが、その感情はすぐに、あの隻眼の記憶によって塗りつぶされた。眠っていようと、瞼の下には、あの白く濁った目が確かに存在している。それを思うだけで、私の腹の底は再び冷たく凍りついた。
もう躊躇っている暇はない。次に目が開いたそのときこそ、必ず終わらせる。私はそう心に誓い、その夜は静かに扉を閉じた。
自室に戻ってからも、私はしばらく眠れなかった。父の言葉が、幾度も頭の中で繰り返された。翁様の鼓動は、谷の水そのものだ。乱してはならぬ。何があっても、驚かせてはならぬ。あの言葉を口にしたとき、父は自分の子が、いつかその鼓動そのものを止める側に回るなどとは、露ほども思っていなかっただろう。私は布団の中で膝を抱え、自分がこれから成そうとしていることの重さを、初めて正面から見つめた。それでも、瞼の裏に浮かぶあの白い靄のような瞳を思うと、迷いはすぐに冷たい決意へと戻っていった。
四 床板の下
十晩目の夜、私は懐に、堂の奥にしまわれていた古い祭具の敷布を忍ばせて、いつものように扉に近づいた。手燭の灯りを絞り、隙間からそっと中を窺う。翁は藁床の隅にうずくまっていたが、私の気配を察したのか、緩慢な動きで首をもたげた。
そして、隻眼が開いた。
もう迷いはなかった。私は音もなく扉を開き、藁床へと歩み寄った。とくん、とくん――床下から響く鼓動が、私の足音に合わせるように速さを増していく。私自身の胸の鼓動も、それに呼応するように高鳴っていた。もはやどちらの音か、私にも判別がつかなかった。
一息に、私は布を翁の頭から覆いかぶせた。老いた体は驚くほど軽く、抵抗らしい抵抗もなかった。ただ喉の奥から、くぐもった一声の呻きだけが漏れた。それが、あの寡黙な同居人が、生涯でただ一度だけ私に向けて発した、意思のようなものだったのかもしれない。
私は布の上から力を込め続けた。長くはかからなかった。やがて藁床の下から響いていた鼓動が、ゆっくりと間遠になり、そして完全に止まった。
静寂が堂を満たした。私は布を剥がし、翁の顔を確かめた。閉じられることのなかったあの隻眼が、白い靄をたたえたまま、虚空を見つめて動かなくなっていた。それでもなお、私を見ているような気がしてならなかった。慌てて手燭で顔全体に影を落とし、その目から視線を逸らした。
老いた翁の体は小柄とはいえ、そのままでは隠しようがなかった。私は堂の奥、翁が長年うずくまっていた場所の床板を一枚一枚、丁寧に剥がしにかかった。木は古く脆く、案外あっさりと外れた。土を掘り、亡骸を横たえ、上から板を戻す。継ぎ目に埃をなすりつけ、藁床を元通りに敷き直す頃には、夜も白み始めていた。誰の目にも、そこに何があったかなど分かるはずがなかった。
私はそう信じていた。実際、その日の朝、堂を訪れた三人の男――村長と、村役の二人――を出迎えたとき、私の声はいつもと変わらず落ち着いていた。
「昨夜、堂のほうから、妙な物音と声が聞こえたという者がおりましてな。念のため、様子を伺いに参った」
「翁様が、夜中に少し暴れられただけです。歳のせいで、時折そういうこともあるのですよ」
私は男たちを堂の中へ招き入れ、床板の上――まさに翁が眠る、その真上に座を勧めた。茶を淹れ、実り祭の段取りについて世間話まで交わした。自分でも、その落ち着きぶりに満足していたほどだ。村長は米の出来について語り、村役の一人は堂の屋根の葺き替えの相談まで持ちかけてきた。私は如才なく相槌を打ちながら、心のどこかで、これでもう終わったのだと安堵していた。
だが、話が半ばを過ぎた頃、私は妙な音を聞いた気がした。
とくん。
最初は、自分の耳の錯覚だと思った。だが茶を注ぐ手を止め、耳を澄ませると、確かにそれは聞こえた。床板の下、私の座る場所のすぐ足元から、低く、規則正しい音が響いてくる。
とくん、とくん。
まさか。翁の鼓動は止まったはずだ。私はこの手で、確かに止めたはずだ。それなのに、その音は次第に速さを増していく。とくとく、とくとくとくと。私の胸の内で暴れる自分自身の心の臓の音と、それはやがて見分けがつかなくなった。私は湯呑を握る手に力を込め、平静を装おうとしたが、指先が小刻みに震えているのを止められなかった。
「……どうかされましたかな。顔色がすぐれぬようだが」
村長が怪訝な顔で尋ねた。私はことさら明るく笑ってみせようとしたが、声が思うように出なかった。床の下の音は、もう誰にでも聞こえるほど大きくなっているように、私には感じられた。なぜ、この三人には聞こえないのか。なぜ平然と茶をすすっていられるのか。彼らは私を試しているのではないか。とうに気づいていながら、私が音を上げるのを、この座敷で待っているのではないか。
とくとくとくとくとくとくとく――
もはや耐えられなかった。あの隻眼の記憶と、この鼓動と、村長たちの穏やかな視線とが、渾然一体となって私の頭の中で渦を巻いた。
「聞こえないのか、あなた方には!」
気づいたとき、私は立ち上がり、床を指差して叫んでいた。三人が驚いて腰を浮かせるのも構わず、私は座の下へ膝をつき、震える指で床板をこじ開け始めた。爪が割れ、木片が肌を裂いても、止められなかった。
「翁様の――鼓動が、鳴りやまないのです。私が、この手で止めたはずなのに」
板が一枚、また一枚と外れ、土の下から、あの白く濁った隻眼が現れた。夜明けの薄明かりの中でも、それはまだ、こちらを見ているように見えた。
三人の男は言葉を失い、後ずさった。私はその場に座り込んだまま、崩れ落ちた床の穴を見つめ、これまでの七晩、八晩、九晩、そして十晩目の夜、今朝までのすべてを、問われるままに語り始めていた。もはや隠す気力も、その必要も、残ってはいなかった。
五 止まぬ鼓動
その後のことは、あまり多くを語る気になれない。私は村の者たちに引き渡され、蔵守り堂には二度と足を踏み入れることを許されなかった。堂の務めは、遠縁の者が急遽継ぐことになったと、風の噂で聞いた。私を連れ出すとき、村長は一度も私の顔を見なかった。それが、五代続いた家系への、最後の礼儀だったのかもしれない。
谷に祟りが下ったかどうか、私には知る由もない。ただ、私を送り届けた村役の一人が、去り際にぽつりと漏らした言葉だけは、今でも耳に残っている。
「あの朝から、堂の裏を流れる沢の水音が、心なしか細くなった気がしてならんのです」
気のせいだろうと、私はそのとき答えた。あるいは、本当に気のせいだったのかもしれない。谷の言い伝えなど、しょせんは年寄りたちの戯言に過ぎないと、今でも半分はそう思っている。実り祭がどうなったのか、次の卵とやらが本当に山の底で目覚めたのか、私には確かめる術もない。
けれど、もう半分の私は知っている。あの夜以来、どれほど静かな場所にいても、耳の奥に、あの律動が消えずに残っていることを。とくん、とくん――老いた翁の、止まったはずの鼓動。あるいは、私自身の、罪を数え続ける心の臓の音。今となっては、その二つを区別することさえできない。
白く濁ったあの隻眼は、瞼を持たなかった。生きていたときも、土の下に横たえられてからも、あれは一度として閉じることがなかった。私はどれほど目を背けようとしても、あの目がどこかで自分を見ていると感じずにはいられない。夜、目を閉じるたびに、瞼の裏にあの靄のような瞳が浮かび、その向こうから、あの律動が響いてくる。
正気だと、私は今も思っている。この手で何をしたか、順を追って、誰にでも語ることができる。震えることなく、淀むことなく。ただ、正気であることと、あの鼓動から逃れられることとは、どうやら別の話であるらしい。誰かがこの話を最後まで聞き終えたなら、どうか教えてほしい。この耳の奥で今も鳴り続けているものが、本当に、もう止まっているのかどうかを。
あとがき
エドガー・アラン・ポー「告げ口心臓」は、同居する老人の白く濁った目にのみ執拗な嫌悪を募らせた語り手が、ある夜ついに老人を手にかけ、遺体を床下に隠すものの、幻聴として響き始める心臓の鼓動に耐えかね、駆けつけた警官の前で自ら犯行を告白してしまうという、良心の呵責を音として可視化した心理ホラーの古典である。
本作では、老人を、村の言い伝えの中で神域の守護者として敬われる、隻眼の老竜「翁」に置き換えた。翁は台詞を持たず、ただ存在すること――濁った隻眼と、床下に響く静かな鼓動――によってのみ語り手を追い詰める狂言回し的な脇役として設計し、原作における「動機なき殺意」と「幻聴による自滅」という骨格を保ちながら、堂守りの家系や谷の言い伝えといった独自の背景を加えることで、罪の意識が個人の内側にとどまらず、共同体の信仰そのものを裏切る行為として響くように翻案した。原作の展開・文章表現の直接的な翻訳や逐語引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、人物名・地名・伝承はすべて独自に創作した。
本作はエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)著『The Tell-Tale Heart(告げ口心臓)』を参考にした翻案作品です。