物語雳
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竜は死の刹那にしか翼を見せなかった

橋を落とそうとして囚われた男は、絞首台の上で見知らぬ竜の幻に救われ、家路を飛ぶ。しかし妻に手を伸ばした瞬間、光景は消え、彼はまだ橋の上に吊るされたままだったと知れる。

一 屋敷の朝、遠い橋の伝説

灰陽橋(かいようばし)の名を、ガレン・アシュフィールドが初めて耳にしたのは、まだ乳母のミラに抱かれて眠っていた幼い頃のことだった。

「あの橋の下にはね、家路を見失った者を運ぶ竜が棲んでいるんだよ」

ミラはいつも、暖炉の火が小さくなる時分にそう語った。戦で命を落とした兵士たちの魂を、その竜が背に乗せて、生まれ育った家の軒先まで送り届けてくれるのだという。竜は誰にも姿を見せず、ただ月のない夜、川面を渡る風の音に紛れて、目当ての者の名を一度だけ呼ぶのだと言い伝えられていた。呼ばれた者だけが、その背に乗ることを許される。誰も本物を見た者はいない。それでも領地の子供たちは皆、その話を信じて育った。ガレンもまた例外ではなかった。かつては寝物語として聞くたび胸を高鳴らせ、ミラの膝の上でその名を呼ばれる自分を思い描いたものだった。

三十を過ぎたいま、彼はその伝説を半分だけ覚えている大人になっていた。半分だけ、というのは、竜という生き物そのものへの敬意は失っていなかったからだ。王家の軍に仕える竜騎兵団が、灰色の空を編隊で横切っていくのを見るたび、ガレンは畑仕事の手を止めて空を仰いだ。あの巨大な翼が風を切る音は、遠くにいてもなお、腹の底に響くような重みを持っていた。土埃の匂いに混じって、時折、鱗の焦げたような硫黄に似た匂いが風に乗って届くこともあった。それを嗅ぐたび、ガレンは幼い頃の畏怖をそのまま思い出すのだった。

領地は、王国と自由州連合の内戦の境界線からそう遠くない丘陵地にあった。灰陽橋は、その境界を流れる川に架かる唯一の橋であり、同時に、王国軍の竜騎兵団が長距離の哨戒飛行の合間に羽を休める中継の宿(しゅく)でもあった。橋のたもとには竜が翼を畳んで休めるよう組まれた高い櫓があり、遠目にはまるで巨大な鳥籠のように見えた。夜になると、櫓に灯された篝火が川面に映り込み、まるで橋そのものが静かに息をしているように見えることもあった。

ガレンの家は、代々この土地を治めてきた郷士の家柄だった。彼自身は兵として戦列に加わったことはなかったが、心情としては自由州連合に強く与していた。畑を耕し、小作人たちの暮らしを守るのが自分の役目だと分かっていながらも、境界の向こうから聞こえてくる戦況の報せを耳にするたび、彼の胸には言いようのない焦燥が募った。自分だけが安全な場所に留まり、他の者たちだけが血を流している。そんな引け目が、深いところで彼を苛んでいた。妻のノラは、そんな夫の胸中を知りながらも、いつも同じ言葉で釘を刺した。

「あなたは戦う人じゃないわ、ガレン。畑を守り、私たちを守る人よ」

その朝も、ガレンは屋敷の露台に立って、遠く霞む灰陽橋の櫓を眺めていた。橋を守る竜騎兵の姿は、今日は見当たらない。哨戒に出払っているのだろう。ただ、橋そのものが持つ静かな威圧感だけが、朝靄の中に沈んでいた。庭先では幼い頃から飼っている老犬が欠伸をし、厩舎からは馬の蹄が藁を踏む音が聞こえてくる。いつもと変わらぬはずの朝が、その日に限って、どこか薄い膜を一枚隔てたように遠く感じられた。

「今日は妙に静かね」

ノラが隣に並んで言った。彼女の視線もまた、橋の方角に向けられていた。

「静かすぎるくらいだ」とガレンは答えた。「ミラの話を思い出すよ。竜が誰かを迎えに来る夜は、決まってこんな風に静かだったと」

ノラは小さく笑ったが、その笑みにはどこか翳りがあった。近頃、境界の哨戒は厳しさを増していた。橋を狙う破壊工作の噂が、あちこちの村で囁かれ始めていたからだ。噂は日を追うごとに具体性を帯び、王国軍が竜宿の警備を増強しているという話も、逆に薄手になっているという話も、入り交じって流れてきた。ガレンはその噂を聞くたびに、胸の奥で何かが疼くのを感じていた。それが義憤なのか、それとも別の何かなのか、彼自身にもまだ判然としていなかった。

夕刻、畑仕事を終えたガレンが井戸端で手を洗っていると、空の高みを一群の竜が悠然と横切っていった。翼の影が地面を滑るように過ぎ、彼はしばし手を止めてそれを見送った。あの影の下を、いったいどれほどの兵士たちが、生きて、あるいは死んで通り過ぎていったのだろう。そんな取り留めのない考えが、その晩、なかなか寝つけない彼の頭の中を、いつまでも巡り続けていた。

二 焚火の夜、旅の男の誘い

その男が屋敷の裏木戸を叩いたのは、満月に近い夜のことだった。

自由州連合の斥候だと名乗る男は、灰色の外套に身を包み、疲れた笑みを浮かべていた。名をダレンと言った。旅の途中で腹を空かせているのだと言う彼を、ガレンは無下にできず、厩舎の裏手にある焚火の傍らへ案内し、パンと干し肉を分け与えた。ダレンは火にあたりながら、境界の戦況を語り、あちこちの戦線で自由州連合が劣勢に立たされていることを、抑えた声で語った。話が一区切りついたところで、彼は声を低くして本題を切り出した。

「灰陽橋の櫓の下には、乾いた流木が積まれたままになっている。竜騎兵団が羽を休める宿の柱そのものが、実は古い木材で組まれているのを知っているか」

ガレンは知らなかった。ダレンは続けた。橋の警備は、先の哨戒任務の増加で手薄になっている。流木に火を放てば、櫓は焼け落ち、宿としての機能を失う。竜たちは長距離を休みなく飛ばねばならなくなり、王国軍の哨戒網に大きな穴が開く――そう彼は身振りを交えながら熱心に説いた。焚火の炎がその頬を赤く照らし、目の奥には何か焦りにも似た光が揺れていた。

「あんた一人でもできる。火種と、度胸さえあれば。あの橋さえ落とせれば、境界の戦況は大きく傾く」

ガレンの胸の内で、義憤と、竜という存在への畏れとが、複雑に絡み合った。彼は幼い頃から、竜を恐ろしいものとしてではなく、どこか神聖なものとして見てきた。その竜たちが休む場所を、自らの手で燃やす。それは単なる破壊工作以上の、何か大きな一線を越える行為のように思えた。

「本当に、私のような素人にできることなのか」

「橋の下の流木さえ燃え始めれば、あとは風が仕事をしてくれる。竜たちは火を嫌う。宿が焼ければ、二度とあそこには降りてこない」

男の言葉には、妙な確信があった。ガレンが重ねて問うと、ダレンは自分もかつて似たような任務をこなしたことがあると語り、危険はさほど大きくないのだと繰り返した。焚火が燃え尽きる頃、ダレンは礼を言って闇の中へと去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ガレンはなぜか、彼の足取りがあまりに軽やかであることに、かすかな違和感を覚えた。だがその違和感は、胸の内で燃え上がり始めた決意の炎に、すぐさま呑み込まれてしまった。

その夜、ガレンは一睡もできなかった。ノラの寝息を聞きながら、彼は幾度も己に問うた。畑を守り、家族を守るだけの人生でいいのか。それとも、境界の向こうで戦う者たちのために、一度だけでも動くべきなのか。天井の木目を見つめているうちに、幼い頃にミラから聞いた「家路の竜」の話が、なぜか脳裏に蘇った。呼ばれた者だけが、その背に乗ることを許される――もし自分がこの一夜で何か大きな行いを成し遂げたなら、あの竜はいつか自分の名を呼んでくれるだろうか。埒もない考えだと分かっていながら、その空想は、なぜか彼の背を静かに押した。

夜明け前、ガレンは誰にも告げずに屋敷を出た。火種の入った小さな壺を懐に抱き、川沿いの道を灰陽橋へと向かった。霧の立ち込める川面は、まるで竜の吐く息のように白く揺らめいていた。橋のたもとに近づくにつれ、ガレンの足取りは重くなった。あの高い櫓を見上げるたび、幼い頃にミラから聞いた「家路の竜」の話が、繰り返し脳裏をよぎった。

流木の山に火種を近づけた、まさにその瞬間だった。闇の中から、王国軍の哨戒兵が三人、音もなく現れた。ガレンは手を掴まれ、地面に組み伏せられた。壺は転がり落ち、火種は虚しく川面に消えていった。

「橋の破壊工作か。竜宿を焼こうとするとは、良い度胸だ」

哨戒兵の隊長らしき男が、ガレンの顔を覗き込みながら低く言った。ガレンは何も言い返せなかった。捕縛された両手首に食い込む縄の感触が、やけに生々しく感じられた。連れて行かれる道すがら、彼はあのダレンという男の姿を思い出そうとしたが、闇の中に消えていったその輪郭は、もう記憶の中でひどく曖昧なものになっていた。

三 橋上の裁き、竜宿の沈黙

囚われの身となったガレンは、橋のたもとにある竜宿の柵の中に、一夜留め置かれた。

すぐ頭上の櫓には、哨戒から戻った竜たちが翼を畳んで休んでいた。ガレンは生まれて初めて、これほど間近に竜を見た。巨大な体躯からは、想像していたよりもずっと穏やかな寝息が漏れていた。鱗の一枚一枚が篝火の光を鈍く照り返し、呼吸のたびに脇腹がゆっくりと上下するのが見えた。時折、片方の竜が薄目を開けて、囚われの人間をじっと見下ろすことがあった。その瞳には、怒りも敵意も浮かんでいなかった。ただ静かに、値踏みするような色だけがあった。

ガレンは柵の隙間から、その瞳を見上げ続けた。奇妙なことに、恐怖よりも先に、ある種の親しみに似た感情が湧いてきた。自分はこの生き物たちが休む場所を焼こうとした。それなのに、竜は彼を憎んでいる様子もなく、ただそこに在るだけだった。その静かな存在感が、かえってガレンの胸を締め付けた。夜が更けるにつれ、彼は柵越しに、竜たちの規則正しい寝息の音だけを聞いていた。それは奇妙なことに、幼い頃、ミラの語りを聞きながら眠りに落ちていったあの安らかな時間を、どこか思い出させた。

翌朝、簡易の軍法会議が橋の上で開かれた。裁きは早かった。破壊工作の現行犯として、ガレンには絞首刑が言い渡された。しかも刑の執行場所は、彼が焼こうとした、まさにその橋の上と定められた。

「竜宿を狙った者は、竜宿の橋の上で裁かれる。それが軍の定めだ」

隊長はそう告げた。ガレンは抗弁する気力も失っていた。ただ、遠くで自分を見つめる竜たちの瞳だけが、妙に脳裏に焼き付いていた。周囲に集まった数人の兵士たちの顔にも、勝ち誇った様子はなく、むしろどこか職務的な、乾いた無関心だけが浮かんでいた。

刑の執行を待つあいだ、ガレンは橋の欄干に括りつけられ、眼下を流れる川を見下ろしていた。朝靄がまだ川面に残っていた。彼はふと、幼い頃にミラから聞いた話を思い出した。家路を見失った者を運ぶ竜。あれは兵士たちのための話だったはずだ。破壊工作に失敗し、絞首台に立つ自分のためのものではない。それでも、あの高い櫓で休んでいた若い竜の瞳の色だけは、なぜか記憶の中で鮮やかに残り続けていた。

それでも、ガレンは目を閉じて、その伝説にすがるように念じた。もし本当にそんな竜がいるのなら、今この瞬間、自分を迎えに来てはくれないだろうか。ノラの顔が、脳裏に浮かんでは消えた。朝食の匂い、彼女の笑い声、露台から並んで橋を眺めたあの朝のこと。走馬灯というにはあまりに静かな記憶の連なりが、次から次へと胸の中を流れていった。

ふと、隊列の間から歩み出てきた隊長が、縄の結び目を確かめながら、独り言のようにこぼした。

「情報屋の話じゃ、貴様の他にもう一人、手引きをした男がいるはずだったんだがな。逃げ足の速いことだ」

その一言に、ガレンの胸の奥で、焚火の夜のダレンの顔が、遅れて鮮明に浮かび上がった。あの男の足取りの軽さ、危険はさほど大きくないという妙な確信に満ちた口ぶり――今になってようやく、それが誰かを試すための、あるいは誰かを差し出すための言葉だったのではないかという疑いが、冷たく胸を刺した。だが、その疑いを確かめる術は、もはやどこにも残されていなかった。

執行の刻限が近づき、兵士がガレンの首に縄をかけた。麻の縄は、幼竜の首輪を編むのに使うのと同じ太さと編み方をしていることに、ガレンはどこか場違いな冷静さで気づいた。橋板の一部が跳ね上げ式の踏み板になっており、それを外せば、彼の体は川面まで一息に落下する仕組みだった。ガレンは最後に、櫓で休む竜たちの姿を見た。一頭の若い竜が、こちらをじっと見つめていた。まるで、これから起こることの一部始終を見届けるかのように、その金色の瞳は微動だにしなかった。

踏み板が外れる音を、ガレンは自分の意識の外側で聞いたように思った。

四 絞首台からの落下、翼の記憶

落下の衝撃と共に、縄が首の骨ではなく、何か別のものを断ち切る音がした――少なくとも、ガレンにはそう感じられた。

冷たい川の水が全身を包み、意識が一瞬、白く塗りつぶされた。次に彼が感じたのは、水の重みではなく、風だった。気がつくと、彼は川面すれすれを飛んでいた。いや、飛んでいるのは彼自身ではなく、彼を背に乗せた何かだった。振り仰いだ先に、見たこともない鱗の輝きがあった。灰陽橋の櫓で休んでいた、あの若い竜だ。首に食い込んでいたはずの縄はいつのまにか消え、代わりに逞しい竜の首筋が、ガレンの手のひらの下にあった。鱗の一枚一枚がひんやりと冷たく、しかしその下から確かな鼓動と体温が伝わってくる。

「掴まっていろ」

竜が言葉を発したのか、それとも風がそう聞こえさせただけなのか、ガレンには分からなかった。ただ、背後から追いすがる哨戒兵たちの叫び声と、続けざまに放たれる銃声だけが、はっきりと耳に届いていた。銃弾は次々とガレンめがけて飛んできたが、そのすべてが、竜の広げた翼と、しなやかに揺れる尾によって弾かれていった。硬い鱗に当たった弾丸が、火花を散らしながら虚しく川面に落ちていく音まで、彼の耳にははっきりと聞こえた。まるで、竜の体そのものが盾となって彼を守っているようだった。

川を下り、森の梢すれすれを抜けていく飛行は、恐ろしいはずなのに、不思議なほど心地よかった。木々の緑が矢のように後方へ流れていく。頬を打つ風の冷たさと、鼻先をかすめる木々の匂いとが、彼にこれが確かに現実であるという奇妙な確信を与えた。遠くで大砲の音が轟き、着弾の水柱が川面に上がったが、竜はそのたびに巧みに軌道を変え、爆風の届かない高みへとガレンを運び上げた。翼が一打ちされるたび、彼の体は宙に浮くような浮遊感に包まれ、胃の底がふわりと持ち上がった。

「もう少しだ。お前の家は、もう近い」

竜の声――あるいはそう感じられる何か――が、再びガレンの耳元で響いた。彼は生まれて初めて、竜という生き物に対して、恐れではなく、深い信頼を覚えていた。焼こうとした竜宿の主が、こうして自分を救い出してくれている。その巡り合わせの不思議さに、ガレンは声もなく涙を流した。頬を伝う涙は、飛行の風にすぐさま攫われて消えていった。

追撃の銃声が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる頃、あたりは夕暮れの茜色に染まり始めていた。竜は一度だけ大きく旋回し、追っ手が完全に見えなくなったことを確かめるように後方を見やってから、再び真っ直ぐに、家路の方角へと機首を戻した。ガレンはその慎重な仕草に、まるで長年連れ添った友のような、不思議な安心感を覚えた。見覚えのある丘陵地が見えてきた。見慣れた畑と、その向こうに建つ屋敷の輪郭が、夕焼けに染まりながら浮かび上がってくる。畑を縫う小川の煌めきも、井戸端の古びた石組みも、何もかもが記憶にある通りの姿でそこにあった。竜は高度を落とし、屋敷の庭先へと滑るように降り立った。翼を畳む音が、静かな夕暮れの空気を柔らかく震わせた。露台に立つノラの姿が見えた。彼女はこちらに気づき、驚いたように目を見開き、そして駆け出してきた。

「ガレン!」

ノラの声が、風に乗って届いた。ガレンは竜の背から滑り降り、震える脚で彼女に向かって走り出した。土を踏む足の感触、頬にあたる夕風の温もり、その一つ一つが、これまでの人生で味わったどんな瞬間よりも鮮やかだった。両腕を大きく広げ、彼女の名を呼びながら――。

五 家路の光、覚めぬ静寂

指先が、ノラの肩に触れる、そのはずだった。

けれど彼の手のひらが掴んだのは、彼女の温もりではなく、ただの虚空だった。視界の端で、屋敷も、竜も、夕焼けに染まる丘陵地も、すべてが薄い霧のように崩れて消えていった。光が急速に収縮し、代わりに訪れたのは、深く、重く、どこまでも静かな闇だった。音も、匂いも、風の感触も、そのすべてが一瞬にして引き剥がされ、あとにはただ、重力だけが残った。

ガレンの体は、灰陽橋の欄干から、依然として吊り下げられたままだった。踏み板が外れたその瞬間から、彼の意識は、もう一度も現実に戻ってはいなかったのだ。首にかけられた縄は最後まで断ち切れることなく、彼の体は朝靄の晴れた川面の上で、ゆっくりと、ただゆっくりと揺れていた。飛行の記憶も、追撃の銃声も、家路の温もりも――そのすべては、命が尽きるまでのほんの数拍のあいだに、絶命しつつある意識が紡ぎ出した、あまりに精巧な幻に過ぎなかった。

橋のたもとの櫓では、哨戒から戻った竜たちが、いつもと変わらぬ様子で羽を休めていた。処刑を見届けた兵士たちは既に持ち場へと散り、橋の上には誰もいなくなっていた。あの若い竜だけが、一度だけ首をもたげ、揺れる人影の方角へと、静かな金色の瞳を向けた。それが何を思っての仕草だったのか、知る者は誰もいなかった。やがてその竜も、興味を失ったかのように首を巡らせ、いつもと変わらぬ眠りへと戻っていった。

数日後、屋敷に届いた報せを受け取ったノラは、露台に立ち尽くしたまま、長いあいだ言葉を発することができなかった。使者が去った後も、彼女はしばらくその場を動くことができず、ただ遠くに霞む灰陽橋の櫓を見つめ続けていた。彼女の脳裏には、幼い頃にミラから聞いたという「家路の竜」の話が、なぜか繰り返し浮かんでは消えた。夫は本当に、その竜に導かれて、最後の一瞬だけでも家路を辿ることができたのだろうか。それとも、あれはただ、死にゆく者の脳が最後に紡いだ、優しい嘘に過ぎなかったのだろうか。

その晩、すでに年老いたミラが、杖をつきながらノラの部屋を訪れた。二人はしばらく黙って向き合い、やがてミラが震える声で切り出した。

「あの子には、幼い頃から幾度も同じ話を聞かせました。呼ばれた者だけが、竜の背に乗ることを許されると。あんな話、所詮は年寄りの寝物語だと、自分でもどこかで思っていました。それでも今は、あの子が最後に見たものが、私の話した竜であってほしいと、そう願わずにはいられないのです」

ノラはその言葉に、静かに頷くことしかできなかった。窓の外では、遠く灰陽橋の方角に、竜騎兵団の哨戒灯がいくつも小さく瞬いていた。その灯りを見つめながら、ノラは幼い頃の自分のように、暖炉の火を見つめながら、誰にともなくミラの語り口を真似て呟いてみた。竜は月のない夜、川面を渡る風の音に紛れて、目当ての者の名を一度だけ呼ぶのだと。もしそうならば、あの日、ガレンの名を呼んだ声を、自分だけが聞き逃してしまったのかもしれない。そう思うと、悲しみの底に、ほんのわずかだけ、慰めに似た何かが差し込むような気がした。

答えを知る者は、もうどこにもいなかった。灰陽橋の櫓では、今日もまた竜たちが翼を休め、境界の空を哨戒に発っては、静かに帰ってくる。誰かを迎えに来ることも、誰かを運び去ることもなく、ただそこに在り続けるだけの、変わらぬ日々が続いていた。

あとがき

アンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋の一事件』は、南北戦争下、橋の破壊工作の廉で絞首刑に処される寸前の男が、縄が切れて奇跡的に生還し、銃撃と砲撃をかいくぐりながら家路を辿るという幻想を、絶命の刹那に見るという構成を持つ短編である。実際には彼は最初から橋の上で絶命しており、生還の物語はすべて死にゆく意識が生み出した幻影だったことが、末尾で明かされる。

本作では、この構造をそのまま保ちながら、「生還と逃避行」という幻想の中身を、絶命寸前の主人公ガレンの脳裏に一瞬だけ現れる竜の幻影に置き換えた。橋を落下する刹那、彼を救い出し家路まで運んでくれる竜の背に乗っている想像――銃弾も砲撃も竜の翼と鱗が防ぎ、川面すれすれを飛翔しながら故郷へと運ばれていく描写は、原作にはない要素として独自に創作したものである。竜は物語内の現実には一度も実体として登場せず、あくまで死の間際に意識が生み出した「最後の希望」の象徴としてのみ機能する構成も、原作の骨格を踏まえた上での翻案である。

登場人物名、灰陽橋という舞台、竜宿の設定、「家路の竜」という伝説、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はAmbrose Bierce著『An Occurrence at Owl Creek Bridge』(https://www.gutenberg.org/ebooks/375)を参考にした翻案作品です。

本作はアンブローズ・ビアスの『An Occurrence at Owl Creek Bridge(アウル・クリーク橋の一事件)』を参考にした作品です。原典