物語雳
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·読了目安 14分悪役

竜は姿を見せなかった

娯楽のためだけに獣を狩り続けてきた二人の紳士は、深山の霧の奥に現れた洋風料理店で、扉ごとに続く奇妙な「注文」に導かれていく。姿を見せぬ山の主が仕掛けた宴の正体とは。宮沢賢治『注文の多い料理店』を翻案したダークファンタジー。

一 都会の狩人

荒木忠一は、獲物を撃つたびに笑った。

命中したかどうかよりも、その一発が自分の腕前を証明してくれることの方が、彼にとってはずっと大事だった。獲物が肉として食えるかどうかは二の次で、毛皮の見栄えがよいか、角が立派か、剥製にしたときに客間で誰の目を引くか、そういうことにばかり関心があった。会社を興して財を成してからというもの、荒木は狩猟をひとつの見世物として愉しむようになっていた。仕留めた獲物の写真を仲間内の会に持ち寄り、誰の獲物が一番大きかったかを競う。それが彼にとっての休日の過ごし方だった。

今日も朝から二人、鉄砲を担いで深山へ入っている。連れは桐生譲、荒木の会社で働く若い男で、上司の機嫌を損ねぬよう、常に半歩下がって歩く癖がついていた。狩りの腕はさほどでもないが、荒木の武勇伝に相槌を打つ才には長けていて、それだけで重宝されていた。

「今日はどのくらい獲れますかね、荒木さん」

「さあな。この間の狩猟会で見せた熊の敷物、あれ以上のものが欲しいところだ」

荒木はそう言って、鼻先で笑った。熊は仕留めるところまではよかったが、皮を剥ぐ段になって、案内をつけていた地元の猟師がひどく渋い顔をしていたのを、荒木は覚えている。「旦那、この熊はまだ乳飲み子を抱えてたはずだ」と、その猟師は小さく呟いていた。荒木はそれを聞き流した。獲物に事情があろうがなかろうが、撃ってしまえば同じことだ。あの時分から獲物への口出しをされるのが煩わしくて、近頃はもっぱら案内なしで山へ入るようになっていた。

そのはずが、今日にかぎって、村はずれの茶屋で一人の老人に呼び止められた。甚八という、白髪頭の元猟師である。

「旦那方、この先の谷はおよしなさい。あれは山の主の縄張りだ」

「山の主とは、また古臭いことを言う」

荒木は取り合わなかったが、甚八はなおも食い下がった。

「この山では、獲物は獲るだけ獲って、山に何も返さぬ者は迷うと決まっとります。供物のひとつも置いていく猟師は無事に帰る。娯楽のためだけに撃つ者は、二度と戻らんこともある。わしの若い時分にも、そういう男が二人おりました」

「それで、その男たちはどうなった」

桐生が興味半分に尋ねると、甚八は答える代わりに、深く皺の刻まれた顔をわずかに曇らせただけだった。

「迷信だな」

荒木がそう吐き捨て、話を打ち切った。桐生も横で愛想笑いを浮かべたが、荒木の目には、その笑いすら少し引きつっているように映った。もっとも、荒木自身は気にも留めなかった。都会に戻れば、こういう田舎じみた話は酒の肴になる程度のものだ。むしろ、山の主とやらの逸話を土産話にできれば、それはそれで面白いとさえ思っていた。

二人が連れてきた猟犬、シロとクロは、しかし妙な素振りを見せていた。いつもなら山道を先へ先へと駆けていくはずのシロが、しきりに荒木の足元にまとわりつき、低く喉を鳴らしている。クロは茶屋の前でうずくまったまま、なかなか腰を上げようとしなかった。二頭とも、深山へ続く道の方角にだけは、頑として鼻先を向けようとしない。

「どうした、行くぞ」

荒木が紐を引くと、クロはようやく渋々といった様子で立ち上がった。だがその目は、始終、深山の方角を落ち着きなく見やっていた。

谷へ分け入るにつれ、木々は次第に太く古びていき、日差しは葉の重なりに遮られて薄暗くなった。鳥の声すら次第に絶え、代わりに、どこか湿った土と獣の匂いが濃くなっていく。木々の幹には見慣れぬ苔が這い、その緑は不自然なほど濃く、まるで長い年月、誰の足も踏み入れていない場所であることを主張しているようだった。荒木はそれを、獲物が近い証だと解釈した。実際には、それが何か別の意味を持つ気配であることに、彼はまだ気づいていなかった。

このあたりの村では、山の主に関する言い伝えが、単なる子供だましの怪談としてではなく、暮らしに根付いた作法として伝わっていた。狩りに出る前には必ず山の入り口に干し肉や穀物を供え、獲った獲物は食べきれる分だけを持ち帰り、残りは山に返す。そうした慎ましい約束事を守る限り、山は猟師を迷わせることも、獣を隠すこともないのだという。荒木のような都会の狩人には、そんな作法など耳にする機会もなければ、耳にしたところで従う理由もなかった。彼らにとって山とは、獲物という商品が陳列された、無尽蔵の倉庫に過ぎなかったからだ。

道の途中、朽ちた切り株の上に、白い骨が幾つも積まれているのを桐生が見つけた。

「荒木さん、あれ」

「鹿か何かの食い残しだろう。狼か、山猫か」

荒木はそう言い捨てたが、よく見ると骨の並べ方には、妙な規則性があった。まるで誰かが意図して積み上げたかのように、大きさの順に並んでいる。しかもその頂には、小さな野花が一輪、手向けられたように置かれていた。桐生はそれ以上何も言わなかったが、背筋にひやりとしたものを感じていた。

日はすでに中天を過ぎ、谷は霧を孕みはじめていた。それでも荒木は足を止めようとしなかった。今日こそは、これまでの獲物を上回るものを仕留める。その一念だけが、彼を深山の奥へと押し進めていた。

二 消えた道と山影亭

霧は、思いのほか早く濃くなった。

先程まで見えていたはずの尾根の稜線が、いつのまにか白い帳の向こうに消えている。荒木は方角を確かめようと懐から磁石を取り出したが、針は落ち着きなく震え、一向に定まらなかった。何度叩いても、針は北を指すことをやめ、まるで見えない何かに引き寄せられるように、谷の奥ばかりを指し続けた。

「妙だな。狂ったか」

「荒木さん、そろそろ戻った方が。日も暮れかけていますし」

桐生の声には、隠しきれない怯えが滲んでいた。だが荒木は、ここで引き返すことを自分への敗北のように感じてしまう性分だった。会社の重役たちに、山を前に怖気づいて逃げ帰った男だと思われるのだけは、どうしても我慢がならなかった。

「情けないことを言うな。せっかくここまで来たんだ。あと少し進めば、開けた場所に出るはずだ」

そのとき、それまで大人しく歩いていたシロとクロが、突然、糸が切れたように地面に崩れ落ちた。荒木は驚いて紐を強く引いたが、二頭はぴくりとも動かない。慌てて桐生が駆け寄り、胸に手を当てる。

「し、死んで……いや、息はある。あるが……」

まるで深い眠りに落ちたかのように、犬たちの体は温かいままだったが、どれほど揺すっても目を覚まさなかった。瞼の下で眼球だけが忙しく動き、まるで恐ろしい夢にうなされているかのようだった。荒木はしばらく苛立たしげに舌打ちしていたが、やがて、犬などいなくとも自分の腕前で獲物は仕留められると、そう自分に言い聞かせるように呟いた。

「置いていくぞ。帰りに拾えばいい」

「このまま、放っておくんですか」

「凍え死ぬような季節でもあるまい。それより、こんな山奥で夜を明かす方がよほど危ない」

桐生は納得しきれない様子で、二頭に上着を一枚ずつ掛けてやってから、後ろ髪を引かれる思いで荒木の後を追った。振り返るたびに、霧の中に丸まった犬の輪郭が小さくなっていく。その光景は、なぜか桐生の胸に、拭いがたい不安として残った。犬たちはただ眠っているだけだと、荒木はくり返し言い聞かせたが、桐生には、あの静けさが尋常なものとは思えなかった。

その判断が、後にどれほどの意味を持つことになるか、この時の荒木にはまだわからなかった。

霧の中を二人でなおも進むと、不意に、木々の切れ間から明かりが漏れているのが見えた。近づいてみれば、そこにあったのは、深山には似つかわしくない、洋風の瀟洒な建物だった。蔦の絡まる石造りの壁に、金文字で「山影亭」と記された看板が掲げられている。窓からは暖かそうな橙色の光が漏れ、かすかに肉を焼くような香ばしい匂いが漂ってきていた。

「こんな山奥に、こんな店が」

桐生が呆気にとられて呟いた。荒木は空腹と疲労も手伝って、迷わず扉に手をかけた。

扉の脇には、真新しい木の札が下がっていた。

『どなたもどうぞお入りください。決してご遠慮はありません』

「気の利いた店だ。狩猟会にでも紹介してやろう」

荒木は上機嫌でそう言い、扉を押し開けた。中は薄暗いが手入れの行き届いた廊下が奥へと続いており、壁には見たこともないような美しい猟の絵が並んでいる。だが、よく目を凝らせば、その絵の中の獲物たちの目は、どれもこちらをまっすぐに見据えているようだった。桐生はそれに気づいて、ふと足を止めかけたが、荒木はすでに奥へと歩き出していた。

廊下の突き当たりに、もう一枚の扉があった。そこにも、先ほどと同じ筆致の札が下がっている。

『この山影亭、御用向きの多い店として名高うございます。くれぐれも、そのおつもりで』

「注文の多い店、か」

荒木は片眉を上げたが、それを裕福な客だけを選び抜くための、洒落た宣伝文句だろうと解釈した。自分たちのような身分の者にこそふさわしい店だと、むしろ気をよくしたくらいだった。桐生は何かがおかしいと感じながらも、上司の後を追う以外に選びようがなかった。振り返ると、たった今くぐったはずの扉は、もう見当たらなかった。

三 注文の多い山影亭

扉をくぐるごとに、次の扉が現れた。

『まずは足元の泥をすっかり落としてください』

そう書かれた札に従い、二人は靴についた泥を丁寧に払い落とした。次の扉には、

『猟具の類は、そちらの箱へ残らずお納めください』

とあった。荒木は一瞬眉をひそめたが、高級な店ほど武骨な道具を嫌うものだと自分を納得させ、鉄砲を箱に収めた。桐生もそれに倣った。この時にはまだ、二人とも、これが単なる格式張った作法の延長だと信じていた。

さらに奥へ進むと、

『上着と靴をお脱ぎください。当亭では、身軽な姿でこそ、真の馳走をお楽しみいただけます』

という札があった。荒木はいくらか億劫そうにしながらも、上着を脱いで壁の掛け釘に掛けた。そのまた奥には、

『この壺の中の香油を、余すところなく全身にお塗りください。当亭自慢の一品が、より美味しく仕上がります』

とある。ここまでくると、さすがの荒木も違和感を覚えずにはいられなかった。

「美味しく仕上がる、とはどういう意味だ」

「荒木さん、これは……この店の料理が、ということでは」

桐生がそう言いかけたとき、廊下の奥からふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。だがそれは食欲をそそる匂いというより、どこか焦げた獣の毛のような、不快な気配を孕んでいた。壺の中の香油は妙に生ぬるく、指先に絡みつくと、なかなか拭い落とせなかった。

さらに次の扉には、こう記されていた。

『お客様、失礼ながら申し上げます。以前、見世物のためだけに撃たれ、剥製にされて壁に掛けられた親子の鹿を、覚えておいでですか』

荒木の顔から、みるみる血の気が引いた。それは三年前、狩猟仲間に自慢するためだけに撃った鹿のことだった。母鹿を仕留めた後、逃げずにその場に佇んでいた仔鹿までも、面白半分に撃ち抜いたのを、荒木はよく覚えていた。誰にも話したことのないその話を、なぜこの店が知っているのか。

「桐生、お前が誰かに話したのか」

「い、いえ、そんな……私は何も」

香油に濡れた手が、震えて言うことを聞かない。荒木は壁に手をついて体を支えようとしたが、指先が触れた壁紙には、細かな鱗のような模様が浮き出ていることに、このとき初めて気がついた。それは装飾の凹凸などではなく、まるで生きた皮膚のように、かすかに脈打っている。慌てて手を離すと、模様はすぐに何事もなかったかのように静まった。

もう一枚、扉が続いていた。

『では、崖から追い立てられ、逃げ場を失って落ちていった狐の群れのことは、いかがでしょうか。あれもまた、見事な狩りの記録として、写真におさめられたはずです』

桐生の膝が、がくりと崩れかけた。それは荒木が仲間内で語って聞かせた、狩猟会でも指折りの武勇伝だった。崖際に追い詰められた狐の群れが、逃げ場を失い次々と身を投げていく様を、荒木は仲間たちと笑いながら眺めていた。あの時、桐生自身もその場に立ち会い、共に笑っていたことを、今更のように思い出していた。

『山にはただ一つの理がございます。生きるために獲るものは許され、命を弄ぶために獲るものは、いずれその代償を払う。お客様方は、これまでどれほどの命を、娯楽のためだけに散らしてこられましたか』

荒木はようやく、自分たちがここまで導かれてきた道筋の意味を悟りはじめた。額に脂汗が浮かび、喉がひどく渇いている。だが後ろを振り返ると、これまで通ってきた扉のはずの場所には、いつのまにか継ぎ目のない壁が続くばかりだった。

「戻れ……戻れないのか」

桐生が震える声で呟いた瞬間、廊下の奥から、地の底を這うような低い唸り声が響いてきた。それは獣のものとも、風のものともつかない、しかし紛れもなく意志を持った声だった。

「よくぞここまで来た。都の狩人たちよ」

四 山の主の宴

声は、姿を持たなかった。

廊下のどこにも、それを発する主の輪郭は見当たらない。だが天井から、壁から、床から、まるで建物そのものが喉を持っているかのように、声は四方から二人を包み込んだ。

「私は名乗るほどの者ではない。ただ、この山に生きる獣たちの怨念を、長い年月をかけて束ねてきた者だ。人はそれを山の主と呼ぶ」

荒木は震える手で壁を探ったが、指先に触れるのは冷たい石の感触ばかりで、逃げ場を示すものは何一つなかった。

「お前たちは、獲物を食うためではなく、己の腕前を誇るためだけに、幾つの命を奪ってきた。剥製にされた親子の鹿。トロフィーのためだけに撃たれた熊。娯楽のために追い立てられ、崖から落ちて死んだ狐の群れ。それらすべてが、この山の記憶に刻まれている。お前たちにとっては武勇伝でも、奪われた側にとっては、ただ理不尽に断ち切られた生の全てだ」

「や、やめてくれ。あれは、ただの狩りだ。誰でもやっていることだ」

荒木が絞り出すように言うと、声はわずかに温度を変えた。それは怒りというより、深い哀れみを孕んだ響きだった。

「そうだ。誰もがやっていることだ。だからこそ、私はお前たちを選んだ。生きるために獲る者にまで牙を剥くつもりはない。だがお前たちのように、命を娯楽の道具としか見ぬ者には、いずれこの山が答えを返さねばならぬ。この山影亭は、私が幻術によって編み上げた宴の席。お前たちが最後にくぐる扉の向こうで、これまでお前たちが弄んできた命の分だけ、お前たち自身が饗宴の膳に上ることになる」

廊下の奥、最後の扉がひとりでに開いた。その先には、暗く広い厨房のような空間が広がっており、中央には巨大な岩のような影が、ゆっくりと蟠っていた。その輪郭は闇に溶けて定かではなかったが、時折、鈍く光る鱗の照り返しと、燃えるような双眸の残光だけが、それが並みの獣でないことを物語っていた。厨房の隅には、白磁の大皿と、研ぎ澄まされた刃物が幾つも整然と並べられている。

「私は姿を見せぬ。人はいつも、姿かたちのあるものにしか恐れを抱かぬからだ。この店を訪れた獲物が本当に恐れるべきは、私の爪や牙ではなく、自らが積み重ねてきた行いそのものだと知ってほしい。だが恐れずともよい。これから起こることは、お前たち自身が積み重ねてきた理の、当然の帰結に過ぎぬ」

荒木の膝が、がくりと折れた。桐生はその場にへたり込み、もはや声を上げることすらできなかった。闇の奥の影が、じわりと二人の方へにじり寄る。冷たい風のような気配が足元から這い上り、二人の体を芯から凍えさせた。壁の絵に描かれていた獣たちの目が、一斉にこちらを見つめているように感じられた。

「頼む、頼む……許してくれ……」

荒木は床に額をこすりつけながら、これまで一度も口にしたことのない言葉を絞り出した。だが山の主は答えなかった。ただ静かに、影をひとまわり大きくしていくばかりだった。

「私を許すかどうかを、私に問うな。山に問うがいい。お前たちが積み上げてきた骸の山に問うがいい」

荒木の脳裏に、これまで撃ってきた獣たちの姿が、次々と浮かんでは消えていった。剥製にされ、客間の壁で永遠に微笑まされている熊。写真に収められただけで、名前も持たずに忘れられていった無数の鳥や獣。今の今まで、それらはただの戦利品としてしか思い出せなかったのに、この期に及んで初めて、それぞれに確かな重みを持った命であったことを、荒木は思い知らされていた。

そのときである。

厨房の奥、幻術によって塗り固められていたはずの壁が、内側からではなく外側から、めりめりと音を立てて破られた。飛び込んできたのは、深山の入り口で倒れたはずのシロとクロだった。二頭は牙をむき出しにして唸り、闇の中の影に向かって真っ直ぐに突進していく。その体には、あの香油とは違う、山そのものの土の匂いが強く染みついていた。

「シロ! クロ!」

荒木が叫んだ瞬間、山の主の気配がわずかに揺らいだ。

「……これは、山の外から来た理か」

低い呟きとともに、幻術の壁が音を立てて崩れはじめた。厨房も、廊下も、瀟洒な洋館の姿も、まるで水に落ちた墨のようににじみ、溶け、闇の中に消えていく。荒木と桐生は、何が起きたのかを理解する間もなく、二頭の犬に引きずられるようにして、崩れゆく幻影の外へと転がり出た。

気がつけば、二人は元の深山の斜面に、泥にまみれて倒れ込んでいた。あたりにはただ、いつもの木々と、薄れゆく霧があるばかりで、山影亭の影も形もどこにもなかった。

五 紙のような貌

シロとクロは、何事もなかったかのように、荒木と桐生の顔を舐めまわしていた。二頭がなぜ突然目を覚まし、なぜあの場に現れることができたのか、二人にはついぞわからなかった。ただ、犬たちの牙にはうっすらと、焦げたような匂いが残っていた。

麓へ転げるようにして戻った二人を、茶屋の前で待っていたのは、あの老猟師の甚八だった。彼は二人の顔を見るなり、表情をこわばらせた。

「旦那方、その貌は……」

言われて荒木が己の顔に触れると、指先に触れたのは、これまでの己の顔とは思えぬほど、こわばりきった皮膚の感触だった。桐生の顔もまた、恐怖に歪んだまま固まってしまっており、どれほど揉みほぐしても、その歪みは元に戻らなかった。まるで一度くしゃくしゃに丸められた紙が、二度と滑らかな面を取り戻せないように。

「山の主に、会われましたな」

甚八は静かにそう言ったきり、それ以上は多くを語らなかった。ただ、二人を村の宿へ送り届けると、深々と頭を下げ、足早に立ち去っていった。宿の女将が驚いて理由を尋ねても、甚八は「山で見てはならぬものを見た旦那方だ」とだけ答え、それ以上は口を噤んだ。

その後、荒木忠一が二度と鉄砲を手に取ることはなかった。歪んだ貌のまま都会へ戻った彼を、かつての狩猟仲間たちは奇異の目で見た。誰も、彼が何に遭ったのかを尋ねようとはしなかった。ただ、狩猟会の名簿から、いつのまにか彼の名前は消えていた。桐生もまた、荒木のもとを去り、二度と山へ入ることはなかったという。ある者は、二人があの日以来、人前で笑うことすら少なくなったと噂した。

深山の奥、山影亭のあった場所には、今も霧が立ちこめるという。だが、そこを通りかかる猟師たちは皆、供物のひとつも置いてから、静かに頭を垂れて先を急ぐ。娯楽のためだけに命を弄ぶ者だけが、あの扉の向こうへ迷い込む。そしてその扉をくぐった者の貌だけが、二度と元には戻らない。

甚八は、その年の冬、囲炉裏端で若い猟師たちにこう語ったという。「山の主は、獲物を殺めはせん。ただ、迷い込んだ者に、己の積み上げてきた行いを見せるだけだ。恐ろしいのは竜ではない。竜の見せる鏡に映った、己自身の貌よ」。若い猟師たちは半信半疑でその話を聞いたが、それからというもの、この村で娯楽のためだけに獣を撃つ者は、ぱたりといなくなったという。

山の主は、今日もその姿を、誰にも見せることはない。

あとがき

宮沢賢治『注文の多い料理店』は、山猫たちが仕掛ける奇妙な料理店の連続する「注文」を通じて、二人の紳士が自らの傲慢さと恐怖を味わい尽くす構造そのものが読みどころとなっている作品である。本作では、その仕掛け人である山猫を、姿を見せぬまま声と張り紙だけで二人を追い詰める「山の主」――娯楽のためだけに命を奪われてきた獣たちの怨念を束ねる竜――に置き換えることを試みた。

原作の山猫が二人の紳士をやや滑稽に翻弄するのに対し、本作の竜は最後まで姿を現さず、二人の過去の狩りを一つずつ突きつけていく、より内省的な脅威として描いた。姿を見せないことこそが、狩る側だった者たちに「己の行いこそが恐怖の正体である」と悟らせるための、竜なりの流儀だからである。原作が踏襲する「猟犬による土壇場の介入」と「恐怖に歪んだまま戻らない顔」という結末の骨格はそのまま残しつつ、乱獲という主題をより明確に前景化させることで、因果応報の物語としての手触りを新たにしたいと考えた。


本作は宮沢賢治『注文の多い料理店』を参考にした翻案作品です。

本作は宮沢賢治の『注文の多い料理店』を参考にした作品です。原典