物語雳
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·読了目安 14分脇役

竜は時を数えなかった

妻の小言から逃れて山をさまよう怠け者の男は、二十年に一度だけ竜の一族が開く無言の宴に迷い込み、盗み飲んだ一杯の酒とともに深い眠りに落ちる。目覚めたとき、彼だけが取り残されていたのは酒でも竜の悪意でもなく、現実の二十年という歳月だった。

一 灰色岳のふもとで

グリンモアの村は、灰色岳という名のとおり、いつも灰色の霧を頭上に巻いた峰の裾に張りついていた。畑は痩せ、川は細く、そのくせ村を治めるヴォルムズ男爵の徴税吏だけは季節を問わずよく肥えていた。麦の穂が実る前から税の割り当てが決まり、鶏が卵を産む前から鶏税の帳面がめくられる。村人たちはそんな暮らしにも、ぼやきながら慣れてしまっていた。

その村で誰よりも暮らし向きが軽やかなのが、オズウィン・ハルロウだった。軽やかというのは、財布の中身の話ではない。彼は誰かの屋根の修理を頼まれれば喜んで手を貸すが、自分の家の垣根が傾いていることには気づかない性分で、隣人の子どもに釣りの糸の結び方を教えるのは得意でも、自分の畑の畝を真っ直ぐに切ることは苦手だった。人が良く、手先も器用で、村の誰からも好かれていたが、ただひとつ、働いて銭を稼ぐという段になると、とたんに指の間から時間がこぼれ落ちてしまうのだった。

そんな夫を持ったのが、妻のマーサである。マーサは働き者で、口を開けば小言がこぼれた。「薪はどこ」「今日という今日は垣根を直すと言ったはずだよ」「あんたが釣りに費やした半日があれば、税の分くらい稼げただろうに」――マーサの声は、朝は鶏を起こし、夜は梟を黙らせるほどよく響いた。オズウィンはその声から逃れるすべを、ただひとつだけ知っていた。老いた猟犬のブランドを連れて、灰色岳へ分け入ることである。

山は貧しい村にはもったいないほど豊かだった。栗鼠が跳ね、山鳩が鳴き、渓流には岩魚が背を光らせている。オズウィンは火打石銃を肩に担いではいたが、獲物よりも、誰にも急かされない時間を狩ることのほうが多かった。息子のトビンはまだ十にもならぬ歳で、父の背を追って山の入り口までついてくることもあったが、そこから先へは母に禁じられていた。

酒場でオズウィンが好んで語るのは山の話ばかりで、税の取り立ての愚痴も、隣人の悩みごとも、彼が耳を傾ければ半刻もしないうちに笑い話へと変わってしまう。困りごとを抱えた村人は、まずオズウィンのところへ来て、ひとしきり話を聞いてもらってから、それでも解決しない分だけ本当に困りごとに戻っていくのが常だった。もっとも、そうやって人助けに費やす時間の分だけ、自分の畑仕事は後回しになるのだったが。

村の古老アンセルは、居酒屋の隅で若い衆をつかまえては、決まってこの山の噂を語った。

「灰色岳のいただきに、二十年に一度だけ、妙な光が灯る晩がある。わしの祖父がまだ若かった時分に見たそうだ。光の晩のあとは、村から何かが消えているものだと、祖父はそう言っていた」

「何が消えるんだ、アンセル爺」

「さあてなあ。祖父も、それだけは思い出せなんだそうだ」

若い衆は笑って聞き流したが、オズウィンだけは、その話が妙に胸に残った。何を失うのかも分からぬまま、それでも確かに何かを差し出す宴。そんな理屈に合わない話が、彼の怠け癖にどこか似ている気がしたからかもしれない。

「アンセル爺、光が灯る年は、いつ来るか分かるものなのか」

「分かるものか。ただ、その年の秋は、いつもと違う静けさがあるのだと、祖父は言っておったよ。獣が急に鳴かなくなる。風の匂いが変わる。そういう年が来たら、山にはあまり深く入らぬほうがいい、とな」

オズウィンは曖昧に頷いたが、正直なところ、山に深く入らずにいられるほど、家の中は居心地の良いものではなかった。

その年の秋、男爵の徴税吏が例年より重い割り当てを携えてやってきた。畑の実りを検分もせずに帳面へ数字を書きつけていく吏員の姿に、村の男たちは苦い顔で顔を見合わせるばかりだった。マーサの小言は日ごとに鋭さを増し、家の中の空気はどんどん重くなっていった。

「あんたがぼんやり山を歩いている間に、税の取り立ては待ってくれやしないんだよ。トビンに恥ずかしい思いをさせたくないなら、少しは畑に精を出しておくれ」

「分かっている、分かっているとも、マーサ」

「分かっているなら、垣根の一本くらい真っ直ぐに立ててごらんよ」

そう言われるたびに、オズウィンは肩をすくめ、翌朝にはまた猟犬のブランドを連れて山へ向かうのだった。村を出るとき、決まって背中にマーサの声を浴びた。

「今日という今日は、日が暮れる前に戻っておいで!」

オズウィンは振り返らずに片手を挙げ、ブランドを伴って灰色の霧の中へ消えていった。その朝、いつもより獣の声が静かなことにも、風の匂いがどこか湿った金気を帯びていることにも、彼は気づかなかった。まだ誰も知らなかった。その年の秋こそが、アンセルの語る「光の晩」の年であることを。

二 刻解け酒の夜

その日、オズウィンはいつもより深く山に分け入っていた。マーサの小言があまりに長く尾を引いた朝だったせいもある。ブランドは途中で野兎の匂いを追って藪へ消え、いくら口笛を吹いても戻ってこなかった。日も傾きかけた頃、岩の多い斜面で、オズウィンは奇妙な人影ならぬ影に呼び止められた。

「そこの男。手を貸してくれないか」

声の主は、人の背丈ほどしかない小さな竜だった。翼を几帳面に畳んで背に沿わせ、二本の足でとことこと歩く姿は、人のようでいて人ではない、妙に律儀な佇まいをしていた。鱗は灰みがかった青で、夕闇に溶け込みそうな色合いだった。

「わ、私に、ですか」

「見ての通り、この樽が重くてね」

小さな竜――のちにオズウィンが心の中でクルルと呼ぶようになるその竜は、自分の背丈の倍はありそうな大樽を、岩の隙間に引っかけて往生していた。断るという発想が、オズウィンの頭には最初から浮かばなかった。彼は肩を貸し、二人で――一人と一頭で――樽を転がしながら、獣道とも呼べぬ斜面をひたすら登り続けた。

「これは、何の酒なんです」

「刻解け酒。今夜だけ醸される酒だ。人には向かない酒だから、口にしないほうがいい」

「ずいぶん親切に教えてくれるんですね。この樽だって、放っておいてもよさそうなものを」

「困っている者を放っておくほど、私は暇ではない。それだけのことだ」

クルルはそう言うと、少しだけ歩調を緩め、オズウィンに並んで歩いた。

「あなたは、村の男か」

「ええ。グリンモアという村の者です。あなたは……失礼ですが、竜、ですよね」

「そうだ。名は要らない。この山では、名を呼び合う習わしがない」

「それは寂しくないですか」

クルルは足を止め、初めてオズウィンのほうへ首を巡らせた。灰みがかった青い瞳には、感情らしきものはほとんど映っていなかった。

「寂しいという感覚が、私たちにあるのかどうか、私自身にも分からない。人間は、よくその言葉を使うようだが」

それきり、クルルはまた押し黙って歩き続けた。何を尋ねても、それ以上の言葉は返ってこなかった。オズウィンも次第に口数が減り、ただ樽を押す作業に没頭した。木の樽は岩に擦れるたびに軋み、こぼれた酒が斜面にわずかな甘い匂いを残した。息が上がり、汗が背を伝う頃、二人はようやく山の奥深く、すり鉢状に窪んだ広場へとたどり着いた。

そこには、途方もない光景が広がっていた。

窪地の四方に、クルルよりも遥かに巨大な竜たちが、輪になって座していた。ある者は青銅のような鱗を、ある者は夜空そのものを写したような漆黒の鱗をまとい、みな一様に押し黙ったまま、大きな石球を転がし合っていた。石球が地を離れて相手の元へ渡るたび、竜たちは喉の奥から低い息を吐き出し、その息が触れた岩がびりびりと震え、遠雷のような音を谷いっぱいに響かせた。誰ひとり声を上げず、誰ひとり笑わず、ただ淡々と、幾百年も繰り返してきたに違いない儀式めいた遊戯に興じていた。

オズウィンが藪の陰から覗いていることに、竜たちはとうに気づいているようだった。しかし誰も咎めなかった。追い払おうともせず、歓迎するでもなく、まるで蟻が一匹迷い込んだのを見るように、彼らはただ石球を転がし続けた。その徹底した無関心さが、かえってオズウィンの膝を震わせた。恐ろしいのに、目が離せない。

「あれは、何をしているんです」オズウィンは声を潜めてクルルに尋ねた。

「刻均しの宴。二十年に一度、こうして石を転がし、息を吐き、時の澱みを均す。それだけのことだ」

「時の澱み、ですか」

「山にも、里にも、時は等しく流れているようでいて、実際にはあちこちで淀み、よじれる。それを均さねば、いずれ竜の眠りにまで障りが出る。人間には関わりのないことだ」

「関わりが、ないんですか」

「ないはずだった」

クルルはそれだけ言うと、輪の中へと歩み去り、自分より遥かに巨大な同胞たちの間に混じって、押し黙ったまま石球を受け取った。もう誰も、オズウィンのほうを気にかける様子はなかった。彼はいつしか、その静かな輪の端に、誘われるように腰を下ろしていた。

窪地の中央には、彼らが運んだ樽が据えられ、竜の一頭が無造作に木栓を抜いた。甘く、それでいてどこか焦げたような香りが漂う。竜たちは酒を求めるでもなく、ただ儀式の一部としてそれを傍らに置いているだけのようだった。オズウィンの喉が、渇きを訴えた。誰も見ていないようで、誰もが見ている。彼は震える手で欠けた杯を拾い、樽から一杯だけ注ぎ、口に含んだ。

甘露のような味だった。喉を過ぎるとき、時間そのものがゆっくりと溶けていくような感覚があった。もう一杯。誰も止めない。誰も気にかけない。三杯目を飲み干す頃には、オズウィンの瞼はひどく重くなっていた。

「……もう一杯、いいですかな」

答える者はいなかった。石球が転がる音と、遠雷にも似た竜たちの息だけが、次第に遠のいていく。オズウィンは窪地の端に体を横たえ、深い眠りへと落ちていった。夢とも現ともつかぬまま、竜たちの輪はいつまでも回り続けているように思われた。

眠りに落ちる間際、クルルの声が一度だけ聞こえた気がした。

「人には向かない酒だと、言ったのに」

咎める響きも、憐れむ響きも、そこにはなかった。ただ事実を告げるだけの、静かな声だった。

三 二十年の後

目を覚ましたとき、オズウィンは岩の上で体を丸めていた。骨の節々が軋み、口の中は乾き切っていた。膝の上に置いたはずの火打石銃は、木の柄が朽ち、鉄の部分は赤茶けた錆に覆われていた。手足を伸ばそうとすると、関節という関節が悲鳴を上げた。頬に触れると、覚えのない長さの髭が指に絡んだ。着ていた上着は色褪せ、袖口はすでにぼろぼろに擦り切れている。まるで一晩ではなく、幾つもの冬を野ざらしで越したかのような有様だった。

「ブランド……」

呼んでも、老犬の返事はなかった。あたりを見回しても、竜の一族の姿も、大樽も、すり鉢状の窪地さえも見当たらない。ただの、何の変哲もない山の斜面が広がっているだけだった。

不安に急かされるまま、オズウィンは覚束ない足取りで山を下った。見慣れた道のはずが、木々の茂り方がどこか違う。ようやく村の輪郭が見えてきたとき、彼は自分の目を疑った。

村外れにあったはずの徴税所は、屋根が落ち、蔦に覆われた廃墟と化していた。ヴォルムズ男爵の紋章が掲げられていたはずの門柱には、見覚えのない別の紋章が刻まれている。石畳の道は昔より広く均され、見知らぬ顔の子どもたちが、見たこともない形の凧を揚げて笑い転げていた。

「お、おい。ここは、グリンモアの村じゃないのか」

道行く男に声をかけると、相手はぎょっとしたようにオズウィンの伸びた髭とぼろぼろの上着を見て、一歩後ずさった。

「グリンモアはグリンモアだが……あんた、どこから来た。その髭は、いったい何年山にこもってたんだ」

「私は、オズウィン・ハルロウという者だ。この村に、妻のマーサと、息子のトビンと暮らしている」

その名を聞いた途端、周りに集まりかけていた人々の間に、ざわめきが走った。年配の女がひとり、驚いたように口元を押さえた。

「ハルロウの旦那……? まさか、そんな。オズウィンさんは、もう二十年も前に山へ入ったきり、行方知れずだと聞いているよ」

「二十年……そんな馬鹿な。私は昨日、山へ入ったばかりだ」

誰も彼の言葉を信じなかった。それどころか、見慣れぬ風体の老人が村の失踪者の名を騙っていると疑われ、詰め所へ連れていかれそうになった。若い自警団の男が二人がかりで腕を取り、オズウィンは引きずられるように石畳を歩かされた。

「放してくれ、私はこの村の人間だ。オズウィン・ハルロウだと言っているだろう」

「その名を騙る余所者は、ここ数年で三人目だ。ハルロウの家の畑が空き地同然になっているのを知って、居座ろうという魂胆だろう」

「畑が空き地……?」

その言葉に、オズウィンの背筋が冷えた。もし本当に自分の家の畑が荒れているのなら、それはマーサが病でも患っているということではないか。焦りに任せて声を張り上げれば張り上げるほど、自警団の男たちの目はますます険しくなった。オズウィンは声を荒げて抗い、村の顔役に会わせろと詰め寄った。ようやく呼ばれた壮年の男が、彼の顔をまじまじと見つめた。

「……その眉の傷は」

幼い頃、木から落ちて負った傷が、オズウィンの右眉には今も薄く残っている。壮年の男は、震える声で続けた。

「父上。母上が、いつも仰っていました。父上の右眉には、木登りで作った傷があると」

その声を聞いた瞬間、オズウィンの膝から力が抜けた。目の前に立つ壮年の男は、あの幼かったトビンだった。

長い沈黙のあと、トビンはぽつりぽつりと二十年の空白を語り始めた。ヴォルムズ男爵は重税の果てに村人たちの怒りを買い、隣村と結んだ一揆によって数年前に領地を追われたこと。母マーサは夫の失踪を十年待ち続けたのち、静かに病で世を去ったこと。トビンは母の遺した畑を継ぎ、妻を娶り、今では自分にも幼い子がいること。

「母上は、最後まで父上を悪くは仰いませんでした。ただ、山へ入ったきり戻らなかった、とだけ」

「私を、恨んでは、いなかったのか」

「恨み言を口にされたのは、最初の一年か二年だけでした。それから先は、垣根の修理も畑仕事も、母上おひとりでこなしておいででした。父上の話をなさるときは、いつも少し困ったような、それでいて懐かしそうな顔をなさっていました」

トビンの妻が、幼い子を連れて奥から顔を覗かせた。子どもはオズウィンの伸びた髭を見て、怖がるどころか興味深そうに近づいてきた。トビンはその子の頭にそっと手を置いた。

「この子に、祖父様のことを話して聞かせても、誰も信じてくれないだろうと思っておりました。まさか、こうしてご本人がお戻りになるとは」

オズウィンは何も言えなかった。あの窪地でのたった一夜のつもりが、村では二十年という重みを持って過ぎ去っていたのだ。竜たちは彼を騙したわけでも、罰したわけでもない。ただ、誰も彼の存在を気にかけず、誰も彼を眠りから引き戻そうとしなかっただけだ。その無関心の宴の中で、オズウィンひとりだけが、現実の時間をまるごと置き去りにしてしまったのだった。

「私は、どうすればいい」

問いかけに答える者は、村にはいなかった。ただ、失われた二十年の重さだけが、彼の肩にのしかかっていた。その晩、オズウィンはトビンの家の片隅に寝床を借りたが、天井の木目を眺めながら、一睡もできなかった。マーサの声が、もう二度とこの耳に届かないという事実だけが、繰り返し胸を刺した。

四 語り部の余生

最初のうち、村人はオズウィンを胡乱な目で見ていた。二十年も姿を消しておきながら、髭を伸ばした老人となって舞い戻り、竜の宴だの刻解け酒だのと、突拍子もない話をするのだから無理もない。居酒屋では、彼が席に着くたびに、それとなく話題を変える者もいた。中には、正気を疑って医者を呼ぶべきだと言い出す者さえいた。だがトビンだけは、父の話を頭ごなしに笑わなかった。

「アンセル爺さんの話を、父上もご存じでしたね。二十年に一度、山の頂に光が灯ると」

「ああ、覚えている」

「アンセル爺さんは、もう亡くなりましたが……その話をする人は、今も村にちらほらいます。父上の話は、爺さんの言い伝えと、驚くほど符合するんですよ」

その一言が、村の空気を少しずつ変えていった。訝しむ声が消えたわけではなかったが、酒場では次第に、オズウィンの話を面白がって聞きたがる者が増えていった。特に子どもたちは、「灰色岳で竜たちと酒を飲んで二十年眠った男」の話を、何度でもせがんだ。

「爺ちゃん、その竜、怖くなかったの?」

「怖かったとも。だが、あいつらは私を怒りもしなければ、助けもしなかった。ただ、石球を転がして遊んでいるだけだった。あれほど恐ろしくて、あれほど退屈しない光景を、私はほかに知らない」

「クルルって竜は、もう会えないの?」

「さあ、な」

オズウィンはそう答えるたび、少しだけ目を細めるのだった。話を聞き終えた子どもたちが「怖くなかったの」「悔しくないの」と口々に尋ねても、オズウィンは決まって同じことを言った。

「悔しいと思った時期もあったさ。だがな、あいつらを恨んだところで、二十年は戻ってきやしない。それに、あの窪地で見た光景を思い出すと、恨みよりも先に、なんだか妙な懐かしさのほうが込み上げてくるんだ」

村の若い衆の中には、話半分に聞きながらも、灰色岳の頂を見上げるとき、以前とは違う畏れを覚えるようになった者もいた。アンセルの語っていた「光の晩」の言い伝えは、こうしてオズウィンひとりの体験によって、村人たちの間に確かな輪郭を持つようになっていった。

ある年の秋、税の重みから解放された村に穏やかな実りの季節が訪れた頃、オズウィンはひとり、老いた足を引きずって灰色岳の中腹まで登った。もう若い日のように山奥までは分け入れなかったが、それでも遠く霧の切れ間に、灰みがかった青い鱗を一瞬だけ見た気がした。

声をかけようとして、オズウィンは思い直した。あの一族に、人の言葉で語りかけたところで、意味はないのかもしれない。ただ小さく片手を挙げると、霧の奥で、何かがほんのわずかに頭を垂れたように見えた。返事とも呼べぬ、ただそれだけの仕草だった。それで十分だと、オズウィンは思った。

村へ戻ったオズウィンは、それからも変わらず気楽な男として、居酒屋の隅で新しい客をつかまえては、二十年の眠りの話を語り続けた。話は少しずつ尾ひれをつけて広まり、やがて隣村にまで伝わっていった。孫が生まれ、ひ孫が生まれても、彼は同じ話を、飽きもせず語った。

竜たちが再びあの窪地に集うのは、また二十年後のことだろう。そのときこの村に、あるいはこの世に、何が失われているのか。それを知る者は、おそらく誰もいない。竜たち自身にすら、興味のないことなのだから。

あとがき

ワシントン・アーヴィングの『リップ・ヴァン・ウィンクル』は、口うるさい妻から逃れて山をさまよう怠け者の男が、奇妙な一団の宴に紛れ込んで一夜の酒に酔い、目覚めれば二十年の歳月が過ぎ去っていたという、時間と忘却をめぐる民話的な物語である。本作では、山中の一団を、二十年に一度だけ人知れず秘密の宴を開く竜の一族に置き換え、彼らが人間に対して抱く徹底した無関心そのものを、時間を狂わせる力として描いた。

原作の骨格――口うるさい妻と怠け者の男、山中で出会う寡黙な同行者、大樽を運ぶ手伝い、無言の一団による奇妙な遊戯、盗み飲んだ酒による眠り、目覚めた後に判明する二十年の空白、圧政者の失脚と近親者の死、誰にも信じてもらえない苦悩、やがて村の語り部として受け入れられる結末――は保ちながら、人物名・地名・竜の一族の造形と、酒の名を「刻解け酒」、竜の遊戯を石球を用いた無言の儀式とする点などはすべて独自に創作したものである。竜は本作において善悪の意図も教訓も持たず、ただ人間の時間の流れそのものに無頓着なまま関わってしまう異界の存在として位置づけた。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はワシントン・アーヴィング(Washington Irving)著『Rip Van Winkle(リップ・ヴァン・ウィンクル)』(『スケッチ・ブック』所収)を参考にした翻案作品です。

本作はワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の『Rip Van Winkle(リップ・ヴァン・ウィンクル、『スケッチ・ブック』所収)』を参考にした作品です。原典