竜は牙を振るわなかった
狼に育てられた少年が、忘れられた廃都で出会ったのは、もはや炎さえ吐けぬ老いた竜だった。少年が持ち去った宝玉の鉤棒は人から人へと渡り歩き、血の連鎖を呼ぶ。牙を一度も振るわぬ竜の沈黙が映すのは、人間自身の強欲だった。
一 灰の群れの子
雨季が明けたばかりの森は、緑の匂いでむせかえりそうだった。丈高い羊歯の葉先から滴る水の音、遠くで鳴く鳥の声、湿った土を踏む獣たちの足音――そのすべてが、アーロにとっては人間の言葉よりもよほど雄弁な世界のことばだった。
アーロは、まだ歩くこともおぼつかない頃に、灰色の毛並みを持つ狼の群れに拾われた子だった。母狼のラーシャは、捨てられていた赤子を我が子と分け隔てなく育て、群れの仲間たちも、二本の脚で立つこの奇妙な仔を、いつしか「灰の群れ」の一員として受け入れていた。十二の季節を越えた今、アーロは狼たちと並んで駆け、木々の間を風のように渡り、爪のかわりに小刀ひとつで獲物を仕留める少年に育っていた。
「今日はお前に、群れの外のことを教えよう」
夕暮れの岩場で、年老いた狼の尾白(おじろ)が、皺の寄った鼻面をアーロに向けて言った。尾白は群れの中でもっとも歳を重ね、もっとも多くの季節を見てきた狼だった。
「森の外のこと?」
「西の涸れ谷を越えた先に、人間さえ忘れた都の跡がある。石の壁が崩れ、蔦に飲まれた、静まりかえった都だ。わしらはあそこを『沈黙の廃都』と呼んでいる」
アーロは耳をぴくりと動かした。群れの狩り場の外側には、まだ知らない世界がいくらでも広がっている。それを知るたびに、胸の奥がざわめくのを、アーロは抑えられなかった。
「そこに何があるの」
「金銀財宝が、山のように積まれているという。だが誰も近づかん。番人がいるからだ」
「番人?」
尾白は喉の奥で低く唸るような声を出した。それは笑い声にも、警戒の声にも聞こえた。
「竜だ。もう炎を吐く力さえ失った、年老いた竜がひとり、あの都の地下で眠っている。人間どもは、竜の牙よりも恐ろしいものを、あの財宝に見出すのだそうだ」
「牙よりも恐ろしいもの?」
「己の欲だよ、アーロ。人間は、光るものを見ると理性を失う生き物だ。仲間を裏切り、友を殺してでも、それを我が物にしようとする。わしらが決して真似のできない、恐ろしい業だ」
アーロには、まだその言葉の重みがよく分からなかった。群れの中では、獲物は分け合うものであり、奪い合うものではなかった。誰かの取り分を横から掠め取れば、たちまち群れの信頼を失う。それだけの単純な掟で、アーロの世界は十分に回っていた。
「群れには群れの掟があり、人間には人間の掟がある。だが人間の掟は、光るものの前ではいとも容易く砕け散る。わしはそれを、若い頃に一度だけ見たことがある」
尾白は珍しく、遠い目をして続けた。
「谷向こうの村で、二人の兄弟が、河原で拾った一粒の宝石をめぐって殺し合った。血を分けた兄弟がだ。わしらの掟では考えられぬことだが、人間にとっては、さして珍しい話でもないらしい」
アーロは黙って、月明かりに照らされた尾白の横顔を見つめていた。狼の掟の外側に広がる世界の、底の見えない暗さに触れた気がして、背筋がわずかに冷えた。
その晩、群れが川辺で水を飲んでいると、下流のほうから弱々しい呻き声が聞こえてきた。倒れていたのは、行商人らしい身なりの初老の男だった。荷はとうに獣に奪われたのか、革の袋ひとつを胸に抱きしめたまま、朦朧とした様子で虚空に向かって呟いていた。
「……あの都さえ見つかれば……鉤棒ひとつでいい、鉤棒ひとつあれば、わしはもう一生……」
熱に浮かされたその譫言(うわごと)を、アーロは物陰から黙って聞いていた。男は水辺まで這い寄ろうとして力尽き、そのまま気を失った。ラーシャが低く唸ってアーロを制した。人間には深入りするな、というのが群れの掟だった。それでもアーロは、翌朝、男が消えた水辺の跡と、そこに落ちていた小さな金の飾り玉を、しばらくのあいだ見つめ続けていた。あの譫言の中にあった「鉤棒」という言葉が、棘のようにアーロの耳に残っていた。
二 灰白の老竜
その好奇心が、アーロの足を西へ向かわせるまでに、そう時間はかからなかった。
涸れ谷を越え、蔦の絡んだ石段を登った先に、確かにそれはあった。崩れた城壁、倒れた石柱、蔦に飲まれた広間――かつて栄えたであろう都の亡骸が、緑の沈黙の中に横たわっていた。鳥の声さえ届かないその静けさに、アーロは思わず息を潜めた。
地下へと続く階段を降りると、空気が変わった。ひんやりとした石の匂いに、かすかな硫黄のような匂いが混じっている。広間の奥、山と積まれた金貨と宝石の丘の頂に、それはいた。
灰白の鱗に覆われた、途方もなく巨きな竜だった。だが尾白の言った通り、その姿には若さの精悍さはなく、鱗のところどころは罅割れ、翼は畳まれたまま力なく垂れていた。長い首をもたげ、竜はゆっくりとアーロを見下ろした。その双眸には、獲物を狙う光はなく、ただ深い疲労だけがあった。
「久しいな、二本脚の子よ」
低く、しわがれた声だった。炎はもう出ないと聞いていたが、声だけはまだ、この竜が竜であることを物語っていた。
「お前は、宝物を守ってるの?」
「守っている、というよりは……見届けている、と言うほうが近いかもしれん」
竜はゆっくりと首を巡らせ、金貨の丘を見渡した。
「わしはかつて、この都を治めた王に据えられた。彼は死に、王朝も潰え、跡形もなく歴史に埋もれた。それでもわしはここに残り、誰も取りに来ぬ宝の番をし続けている。もっとも、今のわしにできることといえば、こうして問う者に、ひとこと告げることぐらいだ」
「なにを?」
竜の双眸が、初めてわずかに光を帯びた。
「この山のどれか一片を目にするためだけに、人間は喜んで己の命を差し出すだろう、ということだ」
その言葉の意味を、アーロはまだ十分には理解できなかった。金貨の輝きも、宝石の色彩も、アーロの目にはただの石ころ以上のものには映らなかった。それよりもアーロの視線を捉えたのは、山の中腹に突き立てられた、一本の鉤棒だった。象牙にも似た白い柄に、赤や青の宝玉が幾つも埋め込まれ、先端は鋭く曲がった鉤になっている。
「これは?」
「王が象を操るために使っていた道具だ。象使いの鉤棒――アンクスと呼ばれるものよ」
アーロはそれを軽々と引き抜いた。狩りの道具としては重すぎたが、その曲がった刃先は、蔦を払うにも、木の実をもぎ取るにも、使い勝手が良さそうに思えた。
「これ、もらっていく」
竜は答えなかった。ただ、深い疲労の滲んだ目で、少年をじっと見つめるだけだった。かつての竜であれば、侵入者を炎で焼き払うことも、鋭い爪で切り裂くこともできただろう。だが今の竜には、その力はもうない。それに、力があったとしても、竜はこの子を傷つけたいとは思わなかった。ただ、伝えねばならないことだけを、伝えたかった。
「持っていくがいい。だが忘れるな、二本脚の子よ。それは象を御すための道具にすぎぬ。それ以上でも、それ以下でもない。人間だけが、そこに命よりも重い価値を見出す」
アーロは首を傾げた。狼の群れにとって、価値のあるものといえば、獲物と、仲間の信頼と、寝床の暖かさだけだった。石にどんな価値があるというのか、アーロにはまだ分からなかった。
「あんたは、怖くないの? 誰かに盗まれるかもしれないのに」
竜は長い沈黙のあと、静かに答えた。
「もう長いこと、怖いとも、惜しいとも思わなくなった。わしはただ、ここにあったことを、あったままに見届けているだけだ。お前がそれを持って出ていくなら、それもまた、見届けるべきことのひとつだろう」
その言葉の底に流れる寂しさのようなものを、アーロはうまく言葉にできなかった。ただ、この竜が自分を騙そうとしているのではないことだけは、皮膚の感覚で分かった。狼の群れで培った、相手の本心を嗅ぎ分ける勘が、そう告げていた。
「あんたには、名前はないの?」
竜はわずかに首を傾け、記憶の底を探るような間を置いた。
「かつては王がつけた名があった。だが、その名を呼ぶ者はもう、この世のどこにもいない。名を失うというのは、思っていたより静かなものだ。痛みも、寂しさも、慣れてしまえばただの日常になる」
その言い方には、恨みがましさも、悲愴さもなかった。ただ、長い歳月をひとりで抱えてきた者だけが持つ、乾いた諦観があった。アーロは何と返してよいか分からず、ただ黙って竜の横顔を見上げていた。
「ありがとう。また来る」
竜はそれに応えず、ただゆっくりと瞼を閉じた。アーロは鉤棒を担ぎ、来た道を戻っていった。
三 谷の里への道
鉤棒は、思っていたよりずっと重かった。木々の間を身軽に駆け抜けることに慣れたアーロの体には、その重みが次第に負担になっていった。それでも、初めて手にした「人間の道具」への興味から、アーロはしばらくそれを担ぎ続けた。
数日後、アーロは森の外れ、人間たちの暮らす谷の里の近くまで足を伸ばした。狼の姿では近づけない場所でも、二本脚で歩くアーロなら、木立の陰から人間たちの暮らしを覗き見ることができた。
畑を耕す者、井戸端で笑い合う女たち、市場で声を張り上げる商人たち――人間たちの営みは、狼の群れの静かな掟とはまるで違う、騒がしくも活気に満ちたものだった。アーロはその賑わいを、木の上からしばらく眺めていた。
里の入り口近くで、一人の老いた行商人が、荷車を引きながら独り言のように呟いているのが聞こえた。
「今年こそ、何か掘り出し物がなくちゃ、借金はとても返せやしない……」
その声の響きに、アーロは川辺で見た男の譫言を思い出した。人間たちは皆、何かに追われるようにして生きているらしかった。担いでいた鉤棒の重みが、急に無意味なものに感じられた。象を御する道具など、象を飼ってもいないアーロには、何の役にも立たない。宝玉の輝きも、狼の目には夜露の輝きと大差なかった。
里の外れ、道が三つに分かれる辻に、古い石の道祖神が立っていた。アーロはその足元に鉤棒を立てかけ、そのまま踵を返した。深い意味などなかった。ただ、重い荷物を、これ以上運ぶ理由がなかっただけだった。
森へ戻る途中、アーロはもう一度、沈黙の廃都に立ち寄った。竜は同じ場所に、同じ姿勢でうずくまっていた。
「鉤棒は、辻に置いてきた。もう使い道がなかったから」
竜は目を開け、少年を見た。その眼差しには、驚きも、咎める色もなかった。
「そうか」
「怒らないの? せっかく守ってたのに、勝手に持ち出して、勝手に捨てて」
竜は長い首をわずかに傾け、皮肉でも慈しみでもない、ただ静かな声で言った。
「わしはずっと、こう思ってきた。宝そのものに罪はない。罪があるとすれば、それを欲する心のほうだ。お前はそれを欲しがらなかった。だから、わしに怒る理由はない」
「じゃあ、あの鉤棒は、もうただの石ころなんだね」
「さて、な」
竜の声に、わずかな翳りが差した。
「石ころのままでいてくれれば良いのだが。人間の手に渡れば、話は変わる」
その言葉の意味を、アーロはこのときもまだ、深くは考えなかった。ただ、竜の声の底に沈んだ翳りだけが、いつまでも耳に残った。
四 血を吸う鉤
季節がふたつ巡った頃、アーロは久しぶりに谷の里の近くまで足を運んだ。市場のざわめきの中に、いつもとは違う、緊張した空気が混じっているのに気づいたのは、木立の陰に身を潜めてすぐのことだった。
「また一人、死んだそうだ」
「今度は誰だ」
「東の宿場の主人だよ。深夜、喉を裂かれて。枕元にあったはずの宝玉の鉤棒が消えていたそうだ」
その言葉に、アーロの背筋が凍りついた。
耳をそばだてて聞き集めた噂は、次のようなものだった。三つ辻の道祖神の足元に置かれていた鉤棒を、最初に見つけたのは年老いた行商人だった。「これで借金が返せる」と喜んだのも束の間、その晩、彼は野盗の一団に襲われ、鉤棒を奪われた挙句に命を落とした。鉤棒を手にした野盗の頭目は、しかし仲間の一人にその価値を妬まれ、寝込みを別の仲間に刺し殺された。刺した男もまた、宿場町で酒に酔い、鉤棒を誇らしげに見せびらかしたことが仇となり、その輝きに目を眩ませた宿場の主人に、酒に眠り薬を盛られて命を奪われた。そして今度は、その宿場の主人自身が、何者かに喉を裂かれて死んだのだという。
数日のうちに、四人の男が、同じひとつの鉤棒をめぐって命を落としていた。市場の人々は、恐れと好奇の入り混じった顔で噂を語り合いながらも、誰一人としてその鉤棒を探し出そうとはしなかった。呪われた品だと囁く者もいれば、まだどこかに眠っているならば自分が拾ってやろうと、声を潜めて笑う者もいた。人間たちの声の端々に滲むその貪欲さに、アーロは吐き気に似たものを覚えた。
アーロは足元が崩れていくような感覚に襲われた。あの重い鉤棒を、ただ担ぐのに飽きたからという理由だけで、道端に放り出したのは自分だった。誰かを傷つけるつもりなど、微塵もなかった。それなのに、あの小さな判断ひとつが、これほどの血を呼び寄せていた。
「五人目が出る前に、止めなければ」
アーロは噂を辿り、鉤棒の行方を追った。最後にそれを手にしたのは、宿場の主人を手にかけた、若い旅の男だという。里外れの廃屋に潜んでいるとの噂を頼りに、アーロは夜の闇に紛れてそこへ向かった。
廃屋の中では、痩せこけた男が、震える手で鉤棒を抱きしめながら、うつろな目で虚空を睨んでいた。男の周りには、まるで誰かに追われているかのように、割れた酒瓶と、食い散らかした干し肉の骨が散乱していた。
「誰だ」
男はアーロの気配に気づき、鉤棒を振りかざして身構えた。狼と違い、人間の動きは鈍く、隙だらけだった。アーロは易々とその手首を捉え、鉤棒を捥ぎ取った。男はその場にくずおれ、堰を切ったように喚き始めた。
「返してくれ……! それはもう、俺のものだ……! 俺はもう、後戻りできないところまで来てしまった……!」
その声には、憎しみよりも、恐怖と後悔が滲んでいた。宝玉の輝きに魅入られた末に、四人もの人間の血を、直接、間接に浴びてきた男の、行き着く果ての姿だった。アーロは何も言わず、ただ男を見下ろした。憐れみとも、怒りともつかない感情が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いていた。
「これは、お前のものじゃない。誰のものでもない」
アーロはそれだけを告げ、鉤棒を抱えて廃屋を後にした。振り返ると、男はその場にくずおれたまま、声を殺して泣いていた。里の者たちが、遠く松明を掲げてこちらへ向かってくる気配がした。あとは人間たちの掟に委ねるしかない、とアーロは思った。
森へ戻る道すがら、アーロの頭の中では、尾白の言葉と、老竜の言葉が、幾度も交差していた。人間は光るものを見ると理性を失う生き物だ。人間はそれを一目見るためだけに、命さえ差し出すだろう。あの日は、まだ他人事のように聞いていたその言葉が、今はずっしりとした重みを持って、アーロの胸に沈んでいた。
恐ろしいのは、あの老いた竜ではなかった。竜は一度も、誰かを傷つけてなどいなかった。牙を振るったことすら、一度もなかった。恐ろしかったのは、あの鉤棒でも、金貨の輝きでもなく――それを手にした人間たちの、抑えの利かない欲そのものだった。
夜明け前の森は、まだ濃い闇に沈んでいた。木々の梢がざわめき、遠くで梟が鳴いている。いつもならその音に安らぎを覚えるはずのアーロだったが、今夜ばかりは、抱えた鉤棒の重みが、五人分の骨の重さのように感じられてならなかった。走っても走っても、廃屋で泣き崩れていた男の声が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
五 竜が受けた誓い
沈黙の廃都に辿り着いた頃には、夜が明けかけていた。地下の広間に降りると、老いた竜は、いつもと変わらぬ姿でそこにいた。アーロは鉤棒を、そっと金貨の丘の上に置いた。
「戻したのか」
「うん。でも、それだけじゃ足りない」
アーロは、里で見聞きしたことのすべてを、訥々と語った。道端に置き去りにした鉤棒が、四人もの人間の命を吸い上げていったこと。最後に鉤棒を抱えていた男の、恐怖に濁った目のこと。そのすべてを聞き終えた竜は、長い沈黙のあと、静かに言った。
「わしが恐れていたのは、まさにそれだ」
「あんたは、知ってたんだね。こうなることを」
「知っていた、というよりは……幾度となく、見てきた、というほうが正しい。宝はただそこにあるだけで、何もしない。だが人間はそれを目にした瞬間から、互いを疑い、奪い合い、殺し合う。わしはその繰り返しを、ここで、ただ見届け続けてきた」
竜の声には、怒りも、諦めも、勝ち誇るような響きも、微塵もなかった。ただ、幾世代もの人間の業を見つめ続けてきた者だけが持つ、深い静けさがあった。
「あんたの牙で、みんなを脅して、近づけないようにすることはできなかったの?」
竜はゆっくりと首を振った。
「牙で脅して遠ざけたところで、欲そのものは消えぬ。むしろ、恐怖と憎しみが、新たな欲を呼び込むだけだ。わしは長い年月をかけて、それを学んだ。だからわしは、もう長いこと、誰に対しても牙を振るわないと決めている」
アーロはしばらく黙り込んだあと、意を決したように顔を上げた。
「なら、これからは、守り方を変えてほしい」
「どういう意味だ」
「これまでは、この宝物を人間から守るための番人だったんでしょう。でも、そうじゃなくて――人間を、人間自身から守るための番人になってほしい。誰かがまた、あの鉤棒みたいなものを持ち出して、誰かを傷つけようとしたら。そのときは、あんたが、そっと止めてやってほしい」
竜は長いあいだ、少年の顔を見つめていた。牙を持たぬ番人に、人間の欲を止める力などあるのか――そう問い返すこともできたはずだった。だが竜は、そうしなかった。ただ、静かに目を細め、深く長い息を吐いた。それは、何百年ぶりかに感じる、小さな温もりに似た息だった。
「よかろう。お前の願いを、わしは受けよう」
竜はそう言うと、金貨の丘に置かれた鉤棒に、そっと視線を落とした。宝玉の輝きは、地下の薄闇の中で、相変わらず妖しく光っていた。だがその光は、もう誰の手にも渡ることなく、ただそこにあり続けるだろう。竜が、そう望む限りは。
「ありがとう」
アーロは頭を下げ、踵を返した。振り返ると、竜は既に瞼を閉じ、深い眠りに戻ろうとしていた。だがその寝顔には、これまで見たどの瞬間よりも、穏やかな気配が漂っているように、アーロには思えた。
廃都を出ると、朝の光が森の梢を金色に染め始めていた。灰の群れの狩り場へと駆け戻りながら、アーロは、尾白が語っていた言葉をもう一度、胸の中で反芻した。人間は光るものを見ると理性を失う生き物だ――その言葉は、もう単なる年長者の教訓ではなく、アーロ自身が身をもって知った、確かな真実になっていた。
それから幾つもの季節が巡っても、沈黙の廃都に踏み入る者は現れなかった。里に伝わる噂では、あの都には牙を持たぬ老いた竜が眠っており、欲に取り憑かれて足を踏み入れた者は、なぜか道に迷い、二度と宝には辿り着けずに引き返してくるのだという。竜が本当に何かをしているのか、それとも、ただそこにあり続けているだけなのか、誰にも確かめる術はなかった。
それでもアーロだけは知っていた。あの竜は、これからも誰の血も吸わせぬまま、ただ静かに、牙を振るうことなく、そこにあり続けるのだろうということを。
あとがき
ラドヤード・キプリングの『王のアンカス』(『続ジャングル・ブック』所収)は、狼に育てられた少年が、財宝の番人である白い大蛇に導かれて秘宝の山へたどり着き、宝玉の鉤棒だけを持ち去るが、その鉤棒が転々と人手を渡るたびに持ち主を死に至らしめる連鎖を引き起こし、少年が真の恐ろしさは人間の強欲そのものにあると悟って宝を返す、という寓話である。
本作ではこの構図を保ちながら、財宝の番人である大蛇を、かつて王家に仕え、今は炎を吐く力すら失った老いた竜に置き換えた。竜は物語の中で一度も牙を振るわず、人間を裁くことも、唆すこともなく、ただ人間の業を見届け続ける沈黙の証人として描いている。少年、狼の群れ、廃都、人間たちの名や設定はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
原作の核である「宝を守る牙は既に無力化しているにもかかわらず、その存在自体が人間の強欲を映す鏡として機能する」という構造をそのまま活かしつつ、竜が最後に「人間から人間を守る番人」へと役割を変える結末を通して、力によらない番人のあり方を描くことを試みた。
本作はラドヤード・キプリング(Rudyard Kipling)著『The King’s Ankus』(『続ジャングル・ブック』所収)を参考にした翻案作品です。