竜は虚飾に瞼を開かなかった
断崖に眠る石竜を日々仰いで育った少年・悟。富と武勇と弁舌と詩を誇る者たちが次々に「竜に見込まれた男」を名乗るが、竜は身じろぎ一つしない。老いた堂守となった悟だけが気づかぬまま、竜の瞼がただ一度、静かに開く――大いなる岩の顔を翻案した寓話。
一 谷を見下ろす竜
鏡ヶ谷は、四方を山に囲まれた小さな里だった。田は狭く、冬は雪に閉ざされ、夏でも朝晩は肌寒い。それでも谷を流れる水だけは年じゅう澄みきっており、里人はその水で米を炊き、茶を淹れ、貧しいなりに穏やかな暮らしを営んでいた。旅の商人が滅多に立ち寄らぬほどの辺鄙な土地であったから、里人たちの多くは生涯、隣の郡の景色すら知らずに一生を終えた。それでも誰一人として、この谷の暮らしを不幸だと嘆く者はいなかった。谷の東の外れ、切り立った断崖の中腹には、太古の地の力がそのまま刻んだとしか思えない一つの岩層があった。頭を持ち上げ、長い胴を横たえ、翼を畳んで眠っているとしか見えない、竜の形をした岩――里の者たちはそれを「臥竜」と呼び、崖のふもとに小さな堂を建てて祀っていた。
言い伝えによれば、臥竜はかつてこの谷を治めた本物の竜であったという。力を誇れば谷ひとつを焼き尽くせるほどの竜でありながら、ついに一度もその力を振るわず、日照りの年には雲を呼び、洪水の年には水を退け、ただ静かに谷を見守り続けた。長い年月を経て老いた竜は、ある日、己の肉体を岩に変えて眠りについたのだという。そうして眠りながらも、なお谷を見守り続けているのだと、里の古老たちは語り継いでいた。
「臥竜様はな」――夕暮れに囲炉裏端で子供らを集めては、決まって同じ言葉で締めくくる老婆がいた。「ただ強いだけの者には決して目を開かぬ。富をどれほど積んでも、力をどれほど誇っても、竜の心を持たぬ者には瞼一つ動かしはせぬ。だが、いつかこの谷に、驕らず、衒わず、富にも力にも執着せぬ者が生まれたなら――その者にだけ、竜は瞼を開くと言われておる」
子供らは半信半疑に頷きながらも、その話が終わるころには、崖の岩を本物の竜のように思い描いていた。
悟は、提灯職人の子として、この谷で生まれた。父は寡黙な男で、来る日も来る日も竹ひごを削り、和紙を貼っていた。母は行灯の紙を貼りながら、幼い悟に幾度もこの言い伝えを語って聞かせた。悟は物心つく前から、家の裏手の畑の畦から、遠く霞む臥竜の岩肌を眺めるのが好きだった。夕陽が崖を朱に染めるころ、竜の横顔はことのほか穏やかに見えた。誰に教えられたわけでもないのに、悟はいつしか、その竜の寝顔を裏切らぬ人間でありたいと、ぼんやり願うようになっていた。
「あの竜は、何も言わないね」
ある日、悟は堂守の老僧・円乗にそう漏らした。円乗は臥竜堂に一人で暮らし、朝な夕なに岩へ向かって経を唱える人だった。悟は幼いころから、父の使いで堂へ油や蝋燭を届けるたび、円乗の傍らでその読経を聞くのを楽しみにしていた。
「言わぬのが竜の答えだ」円乗は皺だらけの顔をやわらげて言った。「口で語る徳など、しょせん軽い。竜が見ているのは、お前が誰にも見られていない時に、どう生きるかだけだ」
悟はその言葉の意味を、まだ十分には解さなかった。けれど、畑仕事を手伝うときも、幼い妹をかばうときも、悟はふと崖のほうを振り返る癖がついた。見られているという意識ではなく、恥じずにいられる自分でありたいという、静かな支えのようなものが、いつからか胸の内に根を張っていた。
十を過ぎたころ、悟は仲間の子供らと崖のふもとまで遠出をしたことがあった。近くで見上げる臥竜の岩肌は、遠目に見るよりもはるかに巨きく、鱗のような岩の筋目の一つひとつまでが、確かに息づいているかのように見えた。友の一人が悪戯半分に、崖に向かって石を投げつけようとした。
「よせ」
悟は思わずその手首を掴んでいた。自分でも驚くほど強い声が出た。
「なんで止めるんだよ。ただの岩だろう」
「わからないけど」悟は口ごもりながらも答えた。「あれは、ずっとこの谷を見てきたんだ。石を投げるようなものじゃない気がする」
友は肩をすくめて石を捨てたが、悟の胸の内には、そのときの妙な確信だけがいつまでも残った。
その年の秋、谷の外から一人の男が姿を見せた。絹の羽織を纏い、供の者を幾人も引き連れた、恰幅のよい商人だった。里人たちは色めき立った。
「あの御方は、遠国で竜の宝珠を拾い、たちまち身代を築いたという噂の銭屋徳兵衛様だ。もしや、竜に見込まれた御方ではあるまいか」
悟はその噂を聞きながら、ただ黙って崖を見上げていた。竜は、いつもと変わらぬ姿で眠り続けていた。
二 化けの皮
銭屋徳兵衛は谷に蔵を建て、里人に金を貸し、恩着せがましくそれを取り立てた。表向きは慈善家を気取り、堂の修繕にわずかな金子を寄進しては、自分こそ竜に選ばれた証だと吹聴した。祭りの日には自ら音頭を取り、「この谷の繁栄はわしと竜あってのものだ」と声高に語る徳兵衛を、里人の多くは最初こそ頼もしく思った。
だが裏では、返済の遅れた百姓から田畑を取り上げ、飢えた子供の目の前で米俵を運び去らせるような真似を平然と行った。悟の家の近くに住む老いた百姓が、不作の年に借りた金を返せずに田を奪われ、涙を流しながら鍬を置く姿を、少年の悟は目の当たりにした。
「あの人は竜に見込まれたんじゃなかったの」
悟が母に尋ねると、母は寂しげに首を振った。
「見込まれたのではない。あの人は、竜の話を自分の商いの看板に使っているだけだよ」
数年のうちに、徳兵衛の強欲は誰の目にも隠しようがなくなり、彼はそそくさと蔵を畳んで谷を去っていった。臥竜の瞼は、その間、一度たりとも動かなかった。
入れ替わるように現れたのは、荒木又十郎と名乗る武将だった。幾つもの合戦を渡り歩き、腕に竜の爪の傷跡があると称して、それを竜の猛々しさを受け継いだ証だと語った。又十郎の武勇は本物だったが、その力は谷を守るためではなく、己の名を高めるためにだけ使われた。酒に酔えば些細な諍いで刀を抜き、家来を打擲することも珍しくなかった。
ある夜、又十郎が酔った勢いで、堂の前まで供を連れて練り歩き、崖に向かって大声で吼えたことがあった。
「この崖の竜など、俺の一喝で目を覚ますに違いない。見ておれ!」
谷にこだまが幾重にも返っただけで、竜は身じろぎ一つしなかった。見物に集まっていた里人たちの間に、白けたような沈黙が広がった。その光景を、堂の陰から見ていた少年の悟は、なぜか少しだけ、竜が気の毒に思えた。
又十郎はほどなく、隣国の争いに加勢するといって谷を出ていき、二度と戻らなかった。
そのころ悟は十五になっていた。円乗のもとで文字と経を学びながら、畑仕事と提灯作りの手伝いを続けていた。円乗は年々足腰が弱り、堂の掃除も悟が引き受けることが多くなっていた。堂の縁側を雑巾で拭きながら、悟は円乗に、これまで見てきた二人の「見込まれた男」のことを話した。
「二人とも、竜の名を借りただけでした」
円乗は静かに頷いた。
「借り物の徳は、いつか必ず綻びる。悟、お前はまだ気づいておらぬかもしれぬが、この谷の者たちが本当に見ているのは、竜そのものではない。竜を鏡にして、己の生き方を映しているのだ」
「わたしも、映されているのですか」
「無論だ。だからこそ、誰も見ていない時の振る舞いが大事になる」
悟はその言葉を、掌の雑巾を握りしめるようにして胸に刻んだ。
「わしが死んだら、堂を頼めるか」
ある日、円乗が唐突にそう尋ねた。悟は驚いたが、迷わず頷いた。
「わたしでよければ」
「お前でなければ困る」円乗は笑った。「お前は、誰に見られていなくとも、掃き掃除の手を抜かぬ。それだけで、わしには十分だ」
その二年後、円乗は雪の朝に静かに息を引き取った。悟は師の遺言どおり、十七の若さで臥竜堂の堂守となった。里人からは十分な扶持を得られず、相変わらず提灯作りで糊口をしのぎながらの堂守暮らしだったが、悟はそれを苦にしなかった。
三 誰も見ていない時間
堂守となってからの悟の日課は、円乗が生きていたころと変わらなかった。朝は堂の埃を払い、崖に向かって経を上げ、昼は畑と提灯作りに汗を流し、夕暮れにはまた崖を見上げて一日を振り返る。竜は答えを返さない。それでも悟は、日々そうして竜と向き合う時間の中で、自分の心の澱を見つめ直す術を、少しずつ身につけていった。
飢饉の年、悟は自分の分の粟を減らしてでも、隣家の年老いた夫婦に分け与えた。里人の間で田の境をめぐる諍いが起きたときには、双方の言い分を辛抱強く聞き、誰の得にもならぬが誰も損をしない落としどころを、幾晩もかけて探した。それらはすべて、誰かに褒められるためにしたことではなかった。ただ、夕暮れに崖を見上げたとき、恥じるところのない自分でいたい――その一心からの振る舞いだった。
「堂守様は、何も持たぬのに、いつも満ち足りたお顔をしておられる」
そう評判になるころには、悟の髪にもわずかに白いものが混じり始めていた。
谷の東端に、佐吉という独り身の年寄りが住んでいた。腰を悪くしてからは満足に田を耕せず、冬になるたび食うものにも困っていた。悟はその様子に気づくと、誰に言うでもなく、毎年初雪の前になると佐吉の家の軒先に薪と粟の袋をそっと置いていくようになった。差出人の名は書かず、佐吉が礼を言おうにも、誰の仕業かはっきりとはわからぬようにしていた。それでも佐吉は、堂の前を通るたびに深々と頭を下げるようになった。
「堂守様、いつもありがとうございます」
「何のことでしょう」
悟はいつもそう惚けて見せたが、佐吉の目には、その素っ気なさこそが何よりの答えのように映っていた。こうした小さな施しは、佐吉一人に限らず、谷のあちこちで密かに続けられていた。誰もそれを大きな声で語ることはなかったが、鏡ヶ谷の暮らしが年々穏やかさを増していったことと、堂守の存在とを、心のどこかで結びつけて考える里人は少なくなかった。
悟が三十を過ぎたころ、谷にはさらに二人の「竜に見込まれた男」が訪れた。一人は桂木文左衛門という、隣の郡から流れてきた弁の立つ男だった。文左衛門は寄合のたびに朗々と弁じ、「竜の知恵はこの舌に宿っている」と豪語して、いつしか谷の取りまとめ役に収まった。なるほど彼の言葉は美しく、聞く者の心を一時は温めた。だが約束はことごとく果たされず、年貢の割り振りひとつをとっても、口約束と実際の裁きはいつも食い違っていた。里人たちは次第に、彼の言葉が彼自身の生き方とまるで噛み合っていないことに気づき始めた。
「文左衛門様の話を聞くと、その場では心が晴れるのですが」ある里人が悟にこぼしたことがあった。「後になって、何も変わっていないことに気づくのです」
悟は黙って頷くだけで、文左衛門を悪く言うことはしなかった。ただ、寄合の場では自分の言葉数を極力減らし、決めたことは小さなことでも必ず果たすよう努めた。
もう一人は、蓮田一葉という若い詩人だった。一葉は諸国を旅する中で臥竜の伝説を聞きつけ、崖を仰いでは幾つもの詩を詠んだ。その詩は評判となり、「竜の気高さをかくも美しく詠める者こそ、竜の心を知る者に違いない」と噂された。一葉自身も、そう信じて疑わなかった。彼は堂に立ち寄っては、堂守の悟に自作の詩を読んで聞かせた。
「堂守殿、この詩をどう思われる」
悟は静かに耳を傾け、やがて言った。
「美しい詩だと思います。ただ――」
「ただ、何か」
「竜の気高さを詠う一葉様ご自身が、その気高さを日々の暮らしの中で本当に生きておられるのかは、わたしにはわかりません」
一葉は一瞬むっとした顔をしたが、悟の眼差しにはいっさいの棘がなかった。ただ静かな問いかけだけがそこにあった。一葉は谷に留まりながらも、その言葉を胸の奥底にしまい込んだまま、しばらくは自分の詩才に頼る暮らしを変えられずにいた。宿に籠もっては新しい詩を練り、寄合では自作をさりげなく披露して喝采を浴びる。そんな日々を、一葉はどこかで心地よく思う一方、堂守の言葉だけが小さな棘のように胸の奥に刺さったままだった。
そのころ、悟の暮らしにはもう一つ変化があった。谷の外れで身寄りを失った少年、千代松を引き取り、堂の手伝いをさせながら育てていたのだ。千代松は流行り病で両親を相次いで亡くし、行くあてもなく谷をさまよっていたところを、悟に拾われた。かつて自分が円乗に拾われたわけではなかったが、悟は幼い千代松の心細げな眼差しに、どうしても円乗の面影を重ねずにいられなかった。
「堂守様は、どうしてわたしなんかを拾ってくださったのですか」
ある晩、囲炉裏の火を挟んで、千代松がそう尋ねたことがあった。悟はしばらく黙って火を見つめてから、静かに答えた。
「どうしてと問われても、答えはない。ただ、放っておけなかっただけだ。それに――」
「それに?」
「わたしも、かつて似たようなものだった。師の円乗様がいなければ、今のわたしはいない」
千代松は毎朝、悟とともに堂の掃除をし、崖に向かって経を唱える日課を覚えていった。ときおり、退屈しのぎに崖のほうへ小石を投げようとしては、悟にやんわりと止められた。
「なぜ止めるのですか。ただの岩でしょう」
かつて悟自身が友に投げた問いを、今度は千代松から向けられる形になった。悟は苦笑しながら答えた。
「わたしも昔、同じことを言われた。あれは、ずっとこの谷を見てきた岩だ。石を投げるようなものではないと、わたしは今も思っている」
千代松はその言葉の意味を、まだ十分には解さなかった。けれど、悟の傍らで幾つもの季節を過ごすうちに、誰も見ていない場所でこそ本当の自分が試されるのだという堂守の生き方を、少しずつ体で覚えていった。
四 崩れる崖
その年の夏の終わり、鏡ヶ谷を数日にわたる豪雨が襲った。谷川は瞬く間に濁流となり、田の畦を呑み込み、里の家々の軒先にまで水が迫った。屋根を打つ雨音は絶え間なく、夜も昼も見分けがつかぬほどの暗さが谷を覆っていた。里人たちは家財を高い場所へ運び上げ、幼子を抱いて高台の寺社へと避難を始めていたが、それでも逃げ遅れる者は後を絶たなかった。三日目の夕刻、雨脚がひときわ強まったころ、臥竜堂の裏手にある崖の一部が、地響きとともに崩れ始めた。
崖のすぐ下、川べりの空き地では、雨の合間を縫って遊んでいた里の子供たちが数人、逃げ遅れて取り残されていた。増水した流れが子供たちの足元に迫り、崩れかけた崖からは土砂と岩が転がり落ち始めていた。悲鳴が上がった。
「危ない、堂の裏へ回れ!」
真っ先に濁流に踏み込んだのは、五十に近い体を押した悟だった。傍らにいた千代松も、恐怖に震える足を叱咤して後に続こうとしたが、悟は振り返らずに鋭く言った。
「千代松、お前は堂に残り、灯りを絶やすな。濡れた者たちが必ず戻ってくる」
その一言で、千代松は自分の役目を悟った。泣きそうになるのを堪え、堂へ駆け戻ると、震える手で火を熾し、濡れた体で運ばれてくる子供たちを一人ずつ受け止めては、乾いた布で包んでいった。
濁流の中では、悟が恐怖で動けなくなっている子供たちを一人ずつ抱え上げては、崖の陰の安全な場所へと運んでいた。一人、二人、三人――駆けつけた里人たちも次々に加勢し、子供らを高台へと引き上げていった。だが最後の一人、泥にまみれて足を挫き、動けなくなっていた幼子だけが、なお濁流の際に取り残されていた。
悟は迷わずその子を背負い上げた。まさにその瞬間、頭上でひときわ大きな地響きが轟き、崖の縁から巨岩が滑り落ちてきた。逃げる間などなかった。悟はただ、背負った幼子を庇うように体を丸め、その場に踏みとどまった。岩は悟のすぐ脇をかすめて転げ落ち、川面に大きな水柱を上げた。
「堂守様!」
駆け寄った里人が悟の名を呼んだ。悟は泥にまみれ、肩と背に幾筋もの擦り傷を負いながらも、幼子をしっかりと抱いたまま、荒い息で立ち上がった。
「わたしは大事ない。この子を先に、乾いた場所へ」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた一葉は、濁流の中、老いた体で子供を庇いながら微動だにしなかった悟の姿を、遠くからただ呆然と見つめていた。称賛を求める素振りも、誰かに見せつける様子も、悟にはまるでなかった。ただ目の前の命を守ることだけに、全身全霊を注いでいた。その姿には、これまで一葉が言葉を尽くして詠んできた「竜の気高さ」の、どんな詩句よりも確かな重みがあった。
雨がようやく上がったころ、一葉は濡れた着物のまま、崖の下に一人立ち尽くしていた。自分がこれまで幾つもの美しい詩に詠んできたものの正体を、彼はその日初めて、本当の姿で目にした気がしていた。
五 夕暮れの法話
その年の秋、谷では豪雨の被害を悼み、また命を落とさずに済んだことを祝う小さな祭りが催されることになった。堂守の悟が、崖の前で夕暮れの法話を務めることになった。
一葉はその夜、群衆の後ろに立って耳を傾けていた。文左衛門もまた、いつもの雄弁を鳴りを潜め、静かに悟の言葉を聞いていた。悟は特別なことは何一つ語らなかった。飢えの年に分け合った粟のこと、円乗から受け継いだ掃除の心得のこと、そしてあの豪雨の夜、無我夢中で子供を抱えたときのこと。誇るでもなく、悔いるでもなく、ただありのままに、訥々と語るだけだった。
「わたしは竜のように高潔な生き方などできてはおりません。ただ、亡き師が申された通り、誰にも見られていない時にどう生きるかだけを、大事にしてまいったつもりです。それだけです」
法話が終わり、夕陽が崖を朱に染めていくその一瞬、一葉は自分の目を疑った。幾百年もの間、固く閉じられたままだったはずの臥竜の瞼が、ほんのわずかに――瞬きにも満たぬ、ごく短い間だけ――開いたのだ。竜の眼は、群衆のどこにも留まらず、ただ真っ直ぐに、法話を終えたばかりの悟の姿だけを見つめていた。そうして瞼は、何事もなかったかのように、再びゆっくりと閉じていった。
一葉は思わず声を上げそうになったが、辺りを見回すと、誰一人としてそれに気づいた様子はなかった。当の悟自身も、崖のほうを一度も振り返らぬまま、里人たちに軽く会釈をして、いつものように静かに家路についていた。
一葉は駆け寄って、悟の背に声をかけようとした。だが、悟の穏やかな後ろ姿を見ているうちに、その言葉はいつしか喉の奥に留まった。もしここで「竜が瞼を開いた」と告げたところで、悟はきっと驚き、戸惑い、そしてこう答えるに違いない――それは自分ではなく、いつか自分よりも優れた者が現れたときのための徴なのだろう、と。
一葉はただ、その背中に向かって静かに頭を垂れた。そうして、これまで自分が詠んできたどの詩よりも確かな真実を、胸の内にそっと刻みつけた。
その日を境に、一葉は自分の詩から、竜の気高さを気取って語る言葉を消していった。かわりに、名も知らぬ里人たちの日々の労苦を、飾らぬ言葉で詠むようになった。文左衛門もまた、以前より口数を減らし、約束したことだけを静かに果たす男へと、少しずつ変わっていった。
悟自身は、生涯そのことに気づかなかった。年老いてなお、朝な夕なに崖へ向かって手を合わせ、いつか自分よりも竜の心にふさわしい者がこの谷に現れることを、変わらず静かに願い続けた。悟が息を引き取ったのは、それからさらに幾年か後の、雪の朝のことだった。堂を継いだのは、あの千代松である。
千代松は堂守となってのち、決して悟の秘密を語らなかった一葉の胸の内までは知る由もなかったが、幼いころ共に過ごした日々の中で、師の生き方だけは誰よりもよく覚えていた。誰も見ていない場所で手を抜かぬこと、称賛を求めずに動くこと――それらを己の日課として引き継ぎながら、千代松は年老いてなお、夕暮れに崖を仰ぐ子供らへ、かつて悟から聞いたままの言い伝えを語り聞かせるようになった。
臥竜の岩は、それからも長い眠りについたまま、谷を見下ろし続けている。今も鏡ヶ谷の里人たちは、夕暮れに崖を仰ぐたびに、こう語り継いでいるという。
「あの竜が瞼を開くのは、力でも富でも、まして言葉でもない。ただ、誰も見ていない場所での生き方だけを、竜は見ているのだ」と。
あとがき
ナサニエル・ホーソーンの短編「The Great Stone Face(大いなる岩の顔)」は、遠くの断崖に人の顔の形をした岩がある谷を舞台に、その岩に似た「偉大で高潔な人物」がいつか現れるという言い伝えを軸に、富める商人、勇猛な将軍、雄弁な政治家、名高い詩人が次々に「予言の人物」と目されては化けの皮が剥がれ、最後に、日々岩を仰いで謙虚に生きた主人公アーネスト自身が、当人の自覚のないまま、その予言に最もふさわしい人物であったと気づかれる寓話である。
本作では、この「岩の顔」を、かつて力を振るわず谷を見守り続けた末に石と化して眠りについた竜「臥竜」に置き換えた。原作の核である「本物の資格は行動の派手さや富ではなく、生涯を通じた内面の在り方にある」という構図をそのまま活かしつつ、竜自身は生涯にわたり一切言葉を発さず、ただ真に無欲な生き方が現れた一瞬にだけ瞼を開くという、能動性を排した「無言の判定者」として造形した。
原作の四人の候補者(富豪、将軍、政治家、詩人)を踏襲しつつ、本作独自の要素として、豪雨による土砂崩れと子供の救出という具体的な危機の場面を加え、竜の瞼が開く一瞬を、詩人という第三者の視点から目撃させる構成とした。これにより、竜の静かな反応が読者にとって確かな出来事として立ち上がる一方で、主人公自身はその奇跡に気づかぬまま生涯を終えるという、原作の持つ「当人の自覚のなさ」を保つよう努めた。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、舞台・人物名・情景・展開はすべて独自に創作したものである。
本作はナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)著「The Great Stone Face, and Other Tales of the White Mountains」所収「The Great Stone Face(大いなる岩の顔)」を参考にした翻案作品です。