竜は値札に嘘をつかなかった
貧しい漁師・惣吉は、落ちぶれた廻船問屋の隠居から、どんな願いも叶える小竜の封じられた瓶を安く買い取る。ただし手放すときは買値より安い正貨で売らねば、竜は持ち主の魂を代わりに引き受けるという。値は下がり続け、ついに最小の貨幣に達したとき、妻お苗は夫に隠れて瓶を買い取ろうとする。
一 汐路の惣吉
汐路(しおじ)は、切り立った崖と崖のあいだに、こじ開けるようにして人家がへばりついた小さな港町だった。沖は魚影が薄く、畑にできる土地もわずかしかない。それでも代々の漁師たちは、朝な夕な小舟を出しては、潮の匂いのする暮らしを繋いできた。
惣吉もまた、そんな漁師の一人だった。三年前に父を海で亡くしてからは、古い小舟一艘で母と、去年迎えたばかりの妻を養っていたが、今年は時化が続き、網には藻ばかりが絡んで、米櫃の底が見える日が続いていた。
「今日も駄目だったか」
浜辺で舟を引き上げる惣吉に、隣家の老船頭・伝八が声をかけた。
「駄目もいいところです。この分では、冬を越せるかどうかも怪しい」
惣吉は苦笑いを浮かべながら、濡れた網を肩に担ぎ直した。伝八は皺だらけの顔をわずかに曇らせ、崖の上に建つ、ひときわ大きいが今は蔀戸を閉ざしたままの屋敷に目をやった。
「あすこの幸兵衛様も、昔はこの町一番の廻船問屋だったのになあ」
「幸兵衛様が、どうかしたんですか」
「知らんのか。近頃じゃあ、屋敷も蔵も人手に渡して、たった一間だけを借りて暮らしておられるそうだ。それも、病でも患ったふうでもないのに、日に日に顔色が悪くなっていくとか」
惣吉は網を担いだまま、崩れかけた練塀の向こうにちらりと見える屋敷の輪郭を眺めた。かつては汐路一の分限者と謳われた男が、今ではなぜか誰も近寄らぬ幽鬼のような噂を背負っている。町の子供たちの間では「幸兵衛様の家には、願いを何でも叶える恐ろしい瓶がある」という話がまことしやかに囁かれていたが、惣吉はそれを、ただの怪談として聞き流していた。
その夜、惣吉が藁を編みながら囲炉裏端に座っていると、母のお常が、いつになく声をひそめて言った。
「お前、幸兵衛様のところの瓶の話は、知っているかい」
「子供らが話しているのは聞きましたが」
「あれはね、ただの作り話じゃないよ」お常は火箸で灰をならしながら続けた。「私が若い時分、幸兵衛様の先代が、南の島から持ち帰ったという瓶があってね。中には親指ほどの小さな竜が封じ込められていて、その竜に願い事をすれば、どんな望みでも叶えてくれるんだと。ただし――」
お常はそこで言葉を切り、火影の中でわずかに眉を寄せた。
「ただし、手放すときには、買った値よりも安い正真の銭で、誰かに正式に売り渡さなければならない。それができないまま持ち主が死んだら、竜はその魂を、代わりに引き受けてしまうんだそうだよ」
惣吉は薪の爆ぜる音を聞きながら、母の話を半ば聞き流していた。貧しい暮らしの中では、そうした因果話も、暇つぶしの一つに過ぎなかったからだ。だが、その夜床に就いてからも、なぜか瓶の話が頭の隅に残った。眠りの浅い夜、崖の上の暗い屋敷に、蒼白い顔をした幸兵衛が一人座っている姿を、夢とも現ともつかぬまま思い描いた。
翌朝、いつものように舟を出そうとした惣吉は、網の破れがひどく、これ以上の繕いも利かないことに気づいた。新しい網を買う銭などどこにもない。妻のお苗は、貝殻を拾い集めて糊口をしのごうと浜に出ていたが、その痩せた肩を見るたび、惣吉の胸には、行き場のない焦りが募っていった。
その日の夕暮れ、惣吉は誰に相談するでもなく、崖の上の屋敷へと続く坂道を上っていた。母の話が本当かどうかを確かめたいという気持ちもあったが、それ以上に、この先の見えない暮らしから逃れる術が、あの屋敷の奥に眠っているのではないかという、抗いがたい予感に押されてのことだった。
二 銭見との契り
屋敷の戸を叩くと、思いのほかすぐに、幸兵衛その人が顔を出した。噂に違わず、頬はこけ、瞳の奥にはどこか虚ろな翳りがあったが、その物腰には、かつての分限者らしい落ち着きがまだ残っていた。
「惣吉といったな。何用だ」
「不躾は承知の上です。幸兵衛様のお持ちの瓶のことを、伺いたく参りました」
幸兵衛は一瞬、探るような目で惣吉を見つめたが、やがて力なく笑った。
「察しがいいな。それとも、噂を真に受けたか。まあいい、入れ」
薄暗い一間の隅、行灯の明かりの届かぬところに、小さな古い瓶が置かれていた。素焼きのような鈍い光沢を持ち、栓には見慣れぬ文字の刻まれた古い封蝋が施されている。幸兵衛はそれを両手で取り上げると、惣吉の前にそっと差し出した。
「この中には、小竜が封じられている。太古、名も知れぬ魔法使いがこの竜を瓶に閉じ込め、以来、これを手にした者の願いを何でも一つ叶える代わりに、一つの掟を課してきた」
「手放すときには、買った値より安い正貨で売らねばならない、と」
「よく知っているな。その通りだ」幸兵衛は瓶を見つめたまま続けた。「私はこれで、この屋敷を建て、廻船問屋として名を成した。だが、いざ手放そうとしたとき、この町では誰もこの瓶の噂を知らぬ者などおらず、まともな値では誰も買おうとしなかった。売れずにいるうちに、月日ばかりが過ぎていった」
「今、なぜ手放そうとなさるのですか」
幸兵衛はふっと目を伏せた。
「私はもう若くない。この先いつ死ぬとも知れぬ身で、この瓶を持ち続けるのが、恐ろしくてならぬのだ。買った値より安く、誰かに正式に売り渡しさえすれば、この呪いから逃れられる。それだけのことだと分かっていても、この瓶の噂を知る者ばかりのこの町では、それすら叶わぬ」
惣吉の胸に、危うい計算が働いた。この瓶さえあれば、当座の窮乏から逃れられる。そして、いざとなれば、自分もまた誰かに安く売り渡せばよいだけのことだ――そう思うと、恐れよりも、貧しさから逃れたいという切実な望みの方が勝った。
「私が買います。おいくらで」
幸兵衛はしばらく惣吉の顔を見つめていたが、やがて懐から古びた木札を取り出した。
「銭六百文。それだけあれば、お前の暮らしを立て直すには十分だろう」
惣吉の全財産をはるかに超える額だったが、幸兵衛は「後払いでよい、瓶が望みを叶えてくれてからでよい」と静かに言った。惣吉はその場で瓶を受け取り、逃げるように屋敷を辞した。
家に戻る道すがら、惣吉は震える手で封蝋を剥がし、栓を抜いた。瓶の口から、白い靄のようなものが立ち昇ったかと思うと、掌に載るほどの小さな竜が、宙にすっと現れた。灰銀色の鱗は月明かりを弾き、瞳は深い緑をたたえて、まっすぐに惣吉を見つめていた。
「私は銭見(ぜにみ)という。お前が、この瓶の新たな持ち主か」
その声は、風鈴の音にも似た涼やかさを持っていた。惣吉は思わず息を呑んだ。
「お前の望みを一つだけ叶えよう。ただし、心得ておくがよい。私はどのような願いも叶えるが、善悪の判断は下さぬ。私が守るのはただ一つ、この瓶にまつわる契約――お前がこの瓶を手放すときは、買った値より安い正貨で、他人に正式に売り渡さねばならぬということだけだ。もしそれが叶わぬまま死を迎えれば、お前の魂は、私が代わりに引き受ける」
「その掟から逃れる術はないのですか」
「ある。買値より安く、正貨で、真に売る。それだけを守れば、お前はいつでもこの契約から自由になれる。私はこれまで、この掟に噓を混ぜたことは一度もない。ただ、お前がそれを守れるかどうかは、お前次第だ」
その澄んだ声には、脅しも誘惑もなかった。ただ、事実だけがそこにあった。惣吉は震える声で望みを口にした。
「立派な家と、丈夫な舟が欲しい。母と妻に、二度と貧しい思いをさせぬだけの暮らしを」
「よかろう」
銭見はそう言うと、瞬く間に瓶の中へ戻っていった。その夜のうちに、惣吉の粗末な小屋は白壁の立派な家へと姿を変え、浜には見たこともないほど頑丈な新しい舟が繋がれていた。
翌日、この出来事を聞きつけた伝八が、青ざめた顔で惣吉の元を訪れた。
「惣吉、まさかお前、幸兵衛様の瓶を買ったのではあるまいな」
惣吉が正直に頷くと、伝八は声を落として続けた。
「若い時分、儂の兄弟分だった男が、あの瓶を持っていたことがある。奴は瓶の力で一財産築いたが、手放す潮時を見誤ってな。安く売ろうにも、誰もが噂を知る小さな漁村では買い手がつかず、ついに手放せぬまま海で命を落とした。それからというもの、あの浜では夜な夜な、正体の知れぬ蒼白い影が彷徨うという話がある」
惣吉の背筋に冷たいものが走った。だが、それを聞いてなお、目の前にある新しい家と舟の温もりを手放す気にはなれなかった。せめて早いうちに、しかるべき相手に安く売り渡してしまえば、恐れることは何もないはずだ――そう自分に言い聞かせながら。
数日後、隣町から流れてきた博打好きの若者が、値打ちも知らずに「面白い瓶だ」と軽口を叩いたのを幸いに、惣吉は買値よりわずかに安い銭五百九十九文で、正式にこれを売り渡した。若者は瓶の力で一時の贅沢を味わったのち、これもまた誰かに売り渡したという噂だけが、風の便りに届いた。惣吉の手からは、瓶は確かに離れていった。
それから三年、惣吉とお苗は、平穏な日々を送っていた。立派な家は畑にも恵まれ、舟は毎年豊かな漁をもたらした。町の人々は、惣吉の身代がにわかに栄えたことを不思議がりはしたが、瓶がすでに彼の手を離れていることもあり、いつしかその噂も薄れていった。惣吉自身、あの瓶のことを、遠い昔の夢のように思い出すだけの日々になっていた。
三 蝕まれゆく魂
異変は、ある晩秋の朝に始まった。
洗面のために水鏡を覗き込んだ惣吉は、自分の瞳の色が、心なしか薄くなっているように感じた。気のせいだと思い直して仕事に出たが、その日を境に、身体の奥底から、何かがゆっくりと削り取られていくような感覚が拭えなくなった。
初めのうちは、誰も気に留めなかった。だが、日を追うごとに、惣吉の顔からは生気が失われ、日向に立っても影が薄く、頼りなく揺れるようになった。夜、行灯の灯りの下で、お苗はふと気づいて声を上げた。
「あなた、影が――影が、透けて見えます」
町の医者を呼んでも、これといった病の兆候は見当たらないと首をかしげるばかりだった。神主に祈祷を頼んでも、効き目はなかった。ただ、惣吉の魂だけが、目に見えぬ何かに、少しずつ蝕まれていくようだった。
「これは、瓶の呪いに違いない」
ある夜、伝八が沈痛な面持ちでそう言った。
「お前は確かに、買値より安く手放した。だが、瓶を一度でも手にした者には、いつかその呪いの影が忍び寄るという言い伝えを、儂は昔、別の年寄りから聞いたことがある。真偽のほどは分からぬが……」
真偽など、もはや問題ではなかった。日々弱っていく夫を前に、お苗は必死で手立てを探した。そしてある夜、行商人から思いがけない話を聞きつけた。
「銭見の瓶なら、確か、隣の郡の網元が持っているという噂だよ。近頃はずいぶんと値が下がって、二十文ほどで買えるとか」
お苗はすぐさま惣吉にその話を伝えた。惣吉は青白い顔で、しかしかすかな希望を浮かべた。
「銭見に、この呪いを解いてもらえるかもしれない。もう一度、あの竜に会わねば」
隣の郡を訪ねると、瓶を持つ網元は、惣吉のやつれた姿を見るなり、足元を見るような笑みを浮かべた。
「噂は本当らしいな。瓶を持つ者は、いずれこうなると聞いたことがある。譲ってやってもいいが――安くはないぞ」
網元が吹っ掛けた額は、惣吉が二十文で買えるはずのものを、五百文にまで釣り上げたものだった。だが、買うことに関しては掟の縛りはない。惣吉は家財の一部を売り払い、なけなしの銭をかき集めて、その法外な値を支払った。
瓶を受け取り、栓を抜くと、銭見が静かに姿を現した。
「久しいな、惣吉」
「銭見、頼む。この魂を蝕む呪いを、解いてくれ」
「よかろう。それがお前の望みか」
「そうだ。ただ、教えてくれ。なぜ私は、あの掟を守ったはずなのに、このような目に遭った」
銭見はしばし惣吉を見つめてから、静かに答えた。
「私は、一度でも私を所有した者の魂に、消えぬ翳りを残す。それは呪いというより、この身に刻まれた性質のようなものだ。多くの持ち主は、それに気づかぬまま生涯を終える。だが、時に、その翳りが表に出てしまう者がいる。なぜそうなるのかは、私にも分からぬ。ただ、これだけは違えぬと誓おう――私はお前を騙してはおらぬ。お前が私に一つだけ望むならば、その翳りを消すことも、私にはできる」
惣吉は迷わず、その一つの願いを口にした。銭見はそれを叶え、蝕まれていた魂は、瞬く間に元の輝きを取り戻した。
だが、惣吉の手元には、五百文で買った瓶が残された。網元がつけた高値のせいで、これを手放すには、五百文よりさらに安い正貨で売らねばならない。惣吉は焦る心を抑えながら、あちこちの町を巡り、ようやく四百九十文で瓶を買い取るという物好きな旅商人を見つけた。惣吉はほとんど拝むようにしてその男に瓶を売り渡し、命拾いをした安堵とともに、家路についた。
四 半文銭の決意
それから半年ほどが過ぎた、ある雨の晩のことだった。びしょ濡れになった若い漁師が一人、惣吉の家の戸を叩いた。名を清太といい、隣村から流れてきた男だった。
「惣吉さん、お助けください」
清太が震える手で差し出したのは、あの見覚えのある瓶だった。
「この瓶を、旅商人から一文で買ってしまったんです。銭見という竜がいるのも、掟のことも、後になって知りました。一文銭は、この国で鋳造されている最も小さな正貨です。これより安く売ることなど、どうやってもできません……このままでは、私はいずれ」
清太の顔は、恐怖と絶望に歪んでいた。惣吉は、かつて自分自身が味わった恐れを思い出し、放っておくことができなかった。
「私が引き取ろう」
「し、しかし、それでは惣吉さんが」
「案じるな。私には、以前これを手放した縁がある。何とかなるだろう」
惣吉はそう言って清太を安心させたが、内心では、自分の言葉の空しさをよく分かっていた。すでに瓶の値は、この国で流通する最も小さな正貨、一文にまで下がりきっている。これより安く売ることは、もはや誰にもできない。清太から瓶を受け取った瞬間、惣吉は、自らの魂を銭見に委ねる定めを、静かに引き受けたのだった。
その晩から、惣吉は口数少なく、笑うことも少なくなった。お苗は夫の様子がおかしいことにすぐ気づいたが、惣吉は「案じることはない」と繰り返すばかりで、多くを語ろうとしなかった。だが、ある日、家の裏手の納屋を片付けていたお苗は、古びた布にくるまれたあの瓶を見つけてしまった。
「あなた、これは……」
隠しきれぬと悟った惣吉は、ついにすべてを語った。かつての契約のこと、蝕まれた魂のこと、清太を救うために自ら瓶を引き取ったこと。そして、これ以上安く売ることはもはや叶わず、自分の魂は、いずれ銭見に引き受けられる定めにあることを。
お苗は、しばらくの間、言葉を失っていた。だが、涙をこぼしながらも、その瞳には、絶望ではなく、静かな決意の色が宿っていった。
「あなたは、清太さんを助けるために、自分の魂を懸けたのですね」
「他にどうしようもなかった」
「私にも、他にどうしようもないことがあります」
その夜、お苗は誰にも告げず、一艘の小舟を借りて、生まれ故郷の小蔦島へと向かった。潮の流れの荒いその小島には、幼い頃に世話になった祖母が、今もひっそりと暮らしていた。
「お苗、こんな夜更けにどうしたのだい」
「お祖母様、昔、島に伝わっていた半文銭のことを、覚えていらっしゃいますか」
祖母は驚いた顔をしたが、やがて奥の間から、古い漆塗りの小箱を取り出した。中には、今はどこにも鋳造されていない、一文銭よりさらに小さな、半文銭と呼ばれる古銭が幾枚か納められていた。
「これは、遠い先祖の代から、島の御守りとして受け継がれてきたものだ。今の世では通用せぬと思う者も多いが、古い触れによれば、これも紛れもない正貨だと聞いている。ただし、もう鋳造されておらぬ古銭ゆえ、値は銭ごとの姿の残り具合で変わるそうだ。丸みの崩れておらぬ銭ほど値が高く、欠けや磨り減りの進んだ銭ほど、値は低いという定めだと聞いている。お苗、これを何に使うつもりだい」
お苗は、事の次第をすべて祖母に語った。祖母は、しばらく目を閉じて黙り込んでいたが、やがて静かにその小箱をお苗の手に握らせた。
「お前の覚悟が、それほどのものならば、私に止める権利はない。ただ、これだけは覚えておおき。この銭で買ったものを、お前がまた誰かに安く売り渡せねば、今度はお前自身がその定めを負うことになる」
「分かっています」
お苗は小箱の中から、姿の崩れていない一枚を選んで懐に収め、夜が明けきらぬうちに汐路へと戻った。惣吉が漁に出ている隙をついて、お苗は瓶を持ち出し、誰もいない浜辺で、そっと栓を抜いた。
「銭見よ、私はこの瓶を、半文銭で買い取ります」
姿を現した銭見は、しばしお苗を見つめた。
「お前の夫は、この瓶を一文で手にしている。お前が半文で買い取れば、掟の上では、お前がこの瓶の持ち主となる。それでよいのか」
「よいのです。夫を、この呪いから解き放ってください」
「承知した。私は、この契約に噓は混ぜぬ」
銭見はそう言うと、瓶とお苗との間に、新たな契りを結んだ。惣吉が漁から戻ったとき、彼の魂を蝕んでいたはずの翳りは、跡形もなく消えていた。だが、その代わりに、お苗の瞳の奥に、かすかな翳りが宿り始めていた。
五 酔いどれ水夫と銭見の行方
惣吉は、自分の身に何が起きたのかを、すぐに悟った。お苗の懐から半文銭の小箱が転がり落ちるのを見た瞬間、彼はすべてを察し、青ざめた。
「お苗、まさかお前――」
「あなたを、あの定めから解き放ちたかっただけです」
惣吉は、これまで感じたことのない恐怖に襲われた。自分の身に降りかかる呪いよりも、愛する者がそれを肩代わりしたという事実の方が、はるかに耐え難かった。
「なぜ、私に一言も相談してくれなかった」
「相談すれば、あなたは止めたでしょう。でも、私はどうしても、あなたを死なせたくなかった」
惣吉はお苗を強く抱きしめながら、涙をこぼした。だが、悲しみに暮れている暇はなかった。半文銭より安い正貨など、この国のどこを探しても存在しない。誰かが半文銭でこの瓶を買い取らぬ限り、お苗の魂は、いずれ銭見に引き受けられてしまう。
二人は連れ立って、港の酒場という酒場を巡り歩いた。誰彼構わず瓶の由来を隠さずに語り、半文銭で買い取ってくれる者を探し求めた。だが、噂を聞いた者たちは、皆一様に青ざめ、逃げるように酒場を後にした。呪いを厭わぬ者など、そう都合よく見つかるはずもなかった。
日暮れ間近、二人が最後にたどり着いたのは、港の外れにある、最も荒くれた水夫たちの集う酒場だった。そこで、安酒を浴びるように飲んでいる、赤ら顔の大男がいた。町の者たちからは「地獄の熊」と渾名される、素性の知れぬ流れ者の水夫だった。
「なんだ、その瓶の由来とやらを、俺に聞かせてくれるってのか」
熊吉は、惣吉とお苗の話を、げらげらと笑いながら聞き終えた。
「魂を持っていかれる、だと? 生憎だが、俺の魂なんぞ、とうの昔に地獄の帳面に載っちまってる。若い時分にやらかしたことを数え上げりゃあ、今さら小竜一匹に取られたところで、大した違いもねえさ」
「本当に、よろしいのですか」
お苗が念を押すと、熊吉は歯を見せて笑った。
「構うもんか。それより、半文銭とは珍しい。今の世じゃあ、もうどこにも流通しちゃいねえ代物だ。物好きの俺には、ちょうどいい酒の肴になる」
熊吉は懐をまさぐると、縁が欠けて丸みも失われた、古い半文銭を一枚ひねり出した。
「これで手を打とうや。見ての通り、えらく欠けた銭だ。同じ半文でも、お前さんの懐にあるやつより、なんぼか値は低かろうよ」
お苗が受け取ったその銭は、確かに姿の崩れ具合が激しく、目方も明らかに軽かった。祖母から聞いた「欠けたものほど値は低い」という定めに照らせば、これは紛れもなく、お苗が支払った半文銭よりも安い正貨だった。熊吉はそれをお苗の手に握らせると、代わりに瓶を無造作に受け取った。その瞬間、お苗の瞳から翳りがすっと消え、頬に血の色が戻るのを、惣吉ははっきりと見た。
「熊吉さん、本当に、感謝の言葉もありません」
「礼はいらねえよ。それより、さっさと行きな。俺が気を変えねえうちにな」
熊吉はそう言って、けたたましく笑いながら、瓶を懐にねじ込んだ。惣吉とお苗は、幾度も頭を下げながら、酒場を後にした。
その後、熊吉がどうなったのかを、二人は知らない。ただ、彼が汐路の港から船出していった日を境に、彼の姿を町で見た者は誰もいなかった。地獄に落ちる定めをすでに受け入れていた男が、望むと望まざるとに関わらず一つの願いを叶えられたのか、それとも、望みなど一度も口にしないまま、瓶を海の底にでも放り込んでしまったのか。それを知る者は、もう誰もいない。
惣吉とお苗は、それからも汐路で慎ましく暮らし続けた。裕福ではなかったが、二人の間には、金では贖えない確かな絆が残った。ある夜、浜辺を歩きながら、お苗がふと呟いた。
「銭見は、今頃どこにいるのでしょうね」
「さあな。だが、あの竜は、誰を恨むでも、誰を憐れむでもなかった。ただ、契約という値札に、噓をつかなかっただけだ」
惣吉の言葉に、お苗は静かに頷いた。海の向こうでは、今日も名も知らぬ誰かが、あの瓶の栓を抜き、銭見と新たな契りを結んでいるのかもしれない。竜は、これからも、善悪のいずれにも属さぬまま、ただ淡々とその役目を果たし続けるのだろう。惣吉とお苗は、そのことを恐れるでも憎むでもなく、ただ静かに受け止めながら、寄り添って夜道を歩いていった。
あとがき
ロバート・ルイス・スティーヴンソンの短編「The Bottle Imp(瓶の中の小鬼)」は、どんな願いも叶えるが持ち主に地獄行きの呪いをかける小瓶を巡る物語である。呪いを解く唯一の方法は、購入額より安い金額かつ正規の硬貨で他人に売り渡すことであり、値は転売を重ねるごとに下がり続け、ついには極小の硬貨にまで達してしまう。主人公キアヴェとその妻コクアは、愛と自己犠牲、強欲と良心の狭間で揺れ動きながらも、酒に酔い呪いを意に介さない船員によって、最終的に救われる。
本作では、瓶の中の小鬼を、古の魔法使いに封じられた小竜「銭見」に置き換えた。銭見は人間のような善悪の意志を一切持たず、ただ契約――値札――に忠実であり続けるだけの存在として描いた。原作の核である「取引そのものは終始誠実に履行され、値が下がり続けるという構造そのものが登場人物を追い詰めていく」という骨格をそのまま生かしつつ、原作の「不治の病(ハンセン病)」については、現実の疾病描写を避けるため、本作独自の「魂を蝕む呪い」という超自然的な設定に置き換えた。また、原作の「アメリカの硬貨とフランスのサンチーム硬貨」という貨幣単位の違いによる窮余の一策は、本作では「最小の正貨である一文銭」と「もはや流通していないが正貨として認められている半文銭」という、劇中独自の貨幣設定に翻案した。
登場人物の名前、地名、貨幣制度、竜の性質や語り口はすべて独自に創作したものであり、原文からの翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。
本作はロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)著「The Bottle Imp(瓶の中の小鬼)」を参考にした翻案作品です。