竜は二度と奪わなかった
討たれ石と化し、黄金の鱗を纏ったまま鐘楼に据えられた竜像。渡りに遅れたつばめとの出会いが、生前の強欲を悔いる竜に最後の贖いをもたらす――幸福な王子を翻案した自己犠牲の物語。
一 見せしめの塔
谷間の町アーレンは、灰岩山という切り立った山の裾に抱かれるように広がっていた。山肌はいつも薄い霧をまとい、朝には谷全体が乳白色の底に沈む。町の中心には、石造りの鐘楼が一本、その霧を突き抜けるようにそびえていた。時を告げる鐘の下、塔の頂には奇妙な像が据えられている。全身に黄金の鱗をまとい、両の目に大粒の宝石を嵌め込んだ、翼を持つ獣の像――かつてこの山に棲み、谷を支配していた竜の成れの果てだった。
伝承によれば、竜はかつて灰岩山の洞に巣くい、毎年秋の実りの季節になると町へ舞い降りては、金銀と穀物を貢がせていたという。逆らう者は焼かれ、村は瘦せ、金だけが山の洞の奥に積み上がっていった。老人たちは、祖父のそのまた祖父の代から続いた飢饉の話を、囲炉裏端で子や孫に語り聞かせた。竜がどれほどの財を抱えていたか、生きていた頃を知る者はもう誰もいない。ただ、ある年の秋、灰色の外套をまとった一人の旅の聖女が谷を訪れ、竜と三日三晩戦った末にこれを討ち、「その身に纏った黄金を、未来永劫この谷に見せしめとして晒すがいい」と口にしたことだけが、今も語り継がれていた。竜は死ぬことを許されず、鱗と骨のあわいで石と化し、奪った黄金をその身に張りつけたまま、鐘楼の頂に運び上げられたのだった。
以来、アーレンの子供たちは、悪いことをすると「灰岩山の竜に連れていかれるよ」と脅されて育つ。像を見上げて肝試しをする若者もいれば、豊作の年には感謝の気持ちからか、そっと麓に果物を置いていく年寄りもいた。憎まれながらも、いつしか町の一部になってしまった、そんな不思議な存在だった。町の広場からは、日暮れどきになると、金箔をまとった像の輪郭が夕陽を浴びて赤く燃え、まるで今にも動き出しそうに見えることがあった。それを見た旅人が悲鳴をあげて逃げ出したという話も、居酒屋の定番の笑い話になっていた。
鐘楼守見習いのダンは、その像のすぐ足元、鐘楼の最上階近くの小部屋で暮らしていた。両親を早くに流行り病で亡くし、身寄りのなかったダンを拾い上げたのは、当時すでに老いていた鐘楼守ギデオンだった。以来五年、ダンは鐘を撞き、滑車に油を差し、風に軋む風見鶏を直すことを覚えた。像を見上げるたび、ダンは不思議な心地になった。恐ろしいはずの竜の顔は、どこか遠くを見つめる人間のような、静かな翳りを湛えていたからだ。
「あの目、いつも何かを探しているみたいだ」
ある夕暮れ、鐘を撞き終えたダンがそう漏らすと、ギデオンは煙草の煙をくゆらせながら笑って取り合わなかった。
「ただの石だよ、ダン。宝石が西日を照り返しているだけさ。長くこの仕事をしていれば、そのうち慣れる」
だが、ダンは慣れなかった。夜、風のない晩に鐘楼の窓から見上げると、像の目の奥に、燃え尽きる寸前の炭火のような、かすかな光が揺れている気がしてならなかったのだ。誰にもそれを口にしたことはなかった。
その年の秋は、渡り鳥の姿が例年より少なかった。北の空は早くから鉛色に沈み、初雪の便りが山向こうから届いていた。そんな遅い夕暮れ、一羽のつばめが鐘楼の周りを心もとなく旋回していた。仲間の群れに遅れ、独り取り残されたつばめだった。数日前、川辺で葦の茎に足を絡めてしまい、逃れるまでに貴重な半日を失ったのが命取りだった。追いつこうにも群れはとうに南の海の向こうへ去り、寒さだけが日に日に厳しくなっていく。凍える夜露をしのぐ場所を探し、疲れ果てた末にようやく舞い降りたのが、竜像の黄金の肩だった。
冷たい鱗に脚をかけた瞬間、つばめは総毛立った。鱗の下から、かすかな温もりのようなものが伝わってきた気がしたのだ。石の像に体温などあるはずがない。まさか、と思う間もなく、頭上でしわがれた、けれど地の底から響くような声がした。
「そこは寝心地が悪かろう。もう少し、翼のつけ根に近いところに来るといい。風がしのげる」
つばめは驚きのあまり飛び立ちかけたが、翼はすでに冷え切り、思うように動かなかった。像の宝石の目が、月明かりを吸い込むように、かすかに揺らいで見えた。何かが――たしかに、この黄金の身の内に、まだ息づいていた。
二 灯りを運ぶつばめ
「怖がらせてすまない。私はただ、久しぶりに誰かと言葉を交わせたことが、嬉しいだけなのだ」
竜の声は低く、けれど不思議と穏やかだった。つばめは震える声で問うた。
「あなたは……本当に、あの竜なのですか。村を焼き、金を奪ったという」
「そうだ。私は生きていた頃、この谷から奪えるだけのものを奪った。金も、穀物も、人の暮らしも顧みず、洞の奥に積み上げることだけを喜びとしていた。お前が怖がるのも当然だ」
竜の声に、恥じらいにも似た翳りが差した。
「討たれ、石にされたとき、私は罰を受けたのだと思っていた。動くことも、飛ぶことも、洞に戻ることも許されず、ただこの塔の上で朽ちていくのだと。だが、思いがけず、これは罰であると同時に、初めて与えられた眼だったのだよ」
「眼、ですか」
「生きていたときの私は、洞の暗がりに引きこもり、貢ぎ物を受け取るだけで、この谷がどうなっているかなど、一度も見ようとしなかった。金と穀物さえ積み上がれば、それで満ち足りていた。だが、こうして石にされ、鐘楼の頂に据えられてからというもの、来る日も来る日も、否応なく谷のすべてが見渡せる。雨の日も、日照りの日も、私はここから動けず、ただ見下ろし続けるしかなかった。今になって、私はようやく気づいたのだ。あの家の、あの窓明かりの下に、何が起きているのかを」
竜が視線で示した先、坂の下の小さな家の窓に、震える灯りが一つ灯っていた。仕立て屋の未亡人メーラの家だった。夫を鉱山の事故で亡くしてから五年、メーラは町の裕福な家々の衣を仕立てて日銭を稼いできた。夜なべをして針を動かす彼女の傍らでは、息子のヨナが熱に浮かされ、浅い息を繰り返していた。薬を買う金もなく、焚く薪すら乏しい。メーラは自分の外套をヨナの上に重ねて掛けながら、明日の朝までにこの一着を仕上げなければ、次の仕事が回ってこないと、震える指先で針を動かし続けていた。
「私が生きていた頃、貢ぎ物として奪った金の何割かは、あの家の祖から搾り取ったものかもしれない。今さら償えるとは思わぬが……頼まれてくれないか。私の肩の鱗を一枚、剥がして、あの窓辺に届けてほしい」
つばめは戸惑った。渡りの時期はとうに過ぎている。翼を休め、体力を蓄えねば、この先の旅はますます厳しくなるだろう。だが、竜の声にこもった切実さが、翼を動かすことをためらわせなかった。嘴で鱗の縁をこじ開けると、思いのほかたやすく、黄金の鱗は一枚外れた。それを咥え、夜風を切って坂を下り、メーラの家の窓の隙間から、そっと差し入れる。
朝、メーラは針箱の上に見知らぬ黄金の欠片を見つけ、声にならない声を上げた。震える手でそれを何度も確かめ、やがて力の抜けたように椅子に座り込んだ。それが薬代と、幾日分かの薪に変わったことを、つばめは知る由もなかったが、鐘楼へ戻ると、竜の声は心なしか和らいでいた。
「ありがとう。もう行くがいい、渡りに遅れる。これ以上、お前を引き留めるつもりはなかった」
「今夜だけは、ここに泊めてください。翼を休めたら、また考えます」
つばめはそう答えていた。自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。ただ、暗闇の中に一人取り残された竜の孤独が、他人事とは思えなかったのだ。
三 消える鱗
「もう一晩だけ」は、幾晩も重ねられた。屋根裏部屋で凍えながら戯曲を書き上げようとしている若い劇作家エリクのことを竜が語れば、つばめは鱗を運んだ。エリクは芝居小屋の座長に「冬までに書き上げれば座付き作者に取り立てる」と約束されていたが、蓄えは底をつき、寒さで指がかじかみ、ペンを持つ手すら思うように動かせずにいた。つばめが鱗を届けたその夜、エリクは震える手で薪を買い、久方ぶりに暖まった部屋で、書きかけの台詞にようやく続きを書き足すことができた。窓辺に舞い降りたつばめの姿を、彼は暖炉の炎の残像だと思い込み、翌朝、机の上の金の欠片を見て、初めて夢ではなかったのだと悟った。
花売りの少女リーザが、売れ残った枯れ花を抱えて父に叱られるのを竜が見つければ、つばめは宝石の欠片を運んだ。リーザの父は酒に金を使い果たしては、娘の稼ぎが少ないと声を荒げる男だった。つばめが小さな紅玉を花籠の中に落としたとき、リーザは辺りを見回し、誰もいないことを確かめてから、それを固く握りしめた。父に見つかれば取り上げられると悟ったのか、彼女はその夜だけ、涙も見せずに眠りについた。運ぶたびに、竜の身は少しずつ色を失い、つばめの翼は少しずつ凍えを覚えていった。
「なぜ、そこまでして奪おうとしなかったものを、今は与えようとするのですか」
ある夜、鱗を三枚届け終えて戻ってきたつばめが尋ねた。竜はしばらく黙り、それから、遠い記憶を辿るように語り出した。
「私は生まれてすぐ、母を失った。母は人間の狩人に討たれたのだと、後に年老いた竜から聞かされた。幼い頃、飢えて動けなくなったことがある。誰も助けてはくれず、雪の中で三日、独り丸まっていた。あのとき私は誓ったのだ。二度と飢えまい、二度と奪われまい、と。その誓いが、いつしか奪う側に回ることへの言い訳になっていった。豊かになればなるほど、その誓いを裏切ることが怖くなり、蓄えることをやめられなくなった」
つばめは何も言わず、ただ、黄金の肩に寄り添った。
「私はもう飢えることのない身になった。皮肉なことに、石になってようやくそれがわかった。だが、飢えている者を見て見ぬふりをすることが、これほど胸を締めつけるとは知らなかった。お前がいてくれることで、私はようやく、誓いの続きを果たせる気がするのだ」
だが、鱗が次々に消えていくことに、最初に気づいたのはダンだった。朝、鐘楼の掃除をしていて、金箔の欠片が石段に散っているのを見つけたのだ。最初は気にも留めなかったが、二度、三度と続くうち、ダンは像の肩や胸元が、まだらに色を失っていることに気づいた。夜ごとの見回りで、像の周りに小さな羽根が落ちていることにも気がついた。
「盗人がいるのかもしれません。それか、鳥が悪さをしているのか」
ダンがギデオンに、そして町の財を司る徴税官バロウに報告すると、バロウは顔色を変えた。バロウは長年、この像をいずれ鋳つぶし、その黄金を新しい水道橋の建設費に充てる算段をしていた。彼にとって像は伝承の象徴である以上に、町の貴重な財源だったのだ。
「あの像は、いずれ町の財源として鋳つぶし、公金に充てる予定のものだ。誰かが盗んでいるというなら、由々しき事態だぞ。ダン、お前はこれから毎晩、鐘楼の見回りを増やせ」
その夜から、鐘楼の周りには見張りが立てられた。灯りを提げた男たちが、像を囲むようにして目を光らせる。つばめは危うく網に捕らえられかけ、逃げる途中で片翼を石段に打ちつけた。羽根が数枚、風に舞って消えた。
「もう、およしなさい。あなたの翼が壊れてしまう」
竜が案じても、つばめは首を振った。
「まだ、あなたの目の宝石が残っています。あの子、リーザが、明日また父に叱られる。それを届けたら、私は――」
言い終える前に、つばめは竜の目から慎重に宝石を外し始めた。竜は初めて、抗うように声を震わせた。
「それを渡せば、私はもう何も見えなくなる。この谷の色も、雲の形も、二度と見られなくなるのだぞ」
「大丈夫です。私が、あなたの目の代わりに、この谷のすべてを語って聞かせますから。約束します」
その言葉に、竜は静かに瞼のない目を伏せた――ように、つばめには見えた。宝石は運ばれ、竜は光を失った。それでもなお、竜の声には後悔よりも、どこか安堵に似た響きがあった。
その真夜中、見回りに出ていたダンは、鐘楼の暗がりで、竜像の傍らに寄り添う小さな鳥の影を見た。像の口元から漏れる、ため息にも似た声も、たしかに聞いた。
「――ありがとう。お前がいなければ、私はただ、後悔だけを抱えて朽ちていくところだった」
「そんなことを言わないでください。まだ、できることはあります」
その静かなやり取りに、ダンは声も出せずその場に立ち尽くした。竜が本当に生きていること、そして盗みではなく、施しのために鱗が消えていたことを、ダンはこのとき初めて理解した。だが、それを口にすれば、バロウはますます警戒を強め、見張りを増やすだろう。かといって黙っていれば、自分の最初の報告が、この不思議な絆を引き裂こうとしていることに変わりはない。ダンは足音を忍ばせて自室に戻り、夜具にくるまりながら、朝まで一睡もできなかった。誰かを傷つけるつもりなど、少しもなかったのに。だが、バロウの決定はすでに動き出しており、見習いの身に、それを止める術はなかった。せめて、と思い、ダンはそれからしばらく、見回りの足音をわざと大きく立てるようになった。誰かに知られる前に、つばめが逃げられるように。
四 最後の雪の夜
その冬、いちばん冷え込んだ夜のことだった。バロウは「見せしめの像がこれ以上みすぼらしくなる前に」と、像を近く鋳つぶし、新たな記念碑――竜を討った聖女を象った碑を建てる旨を、町議会で決めていた。竜の身にはもう、剥がせる鱗も宝石も、ほとんど残っていなかった。灰色の地肌が、まだらに覗いていた。
「今夜、最後にもう一度だけ」
つばめは、傷んだ翼で無理に飛び立とうとした。竜が止めても聞かなかった。
「リーザが、明日の朝、父に売り上げがないことを叱られます。せめて、あなたの爪先に残ったこの小さな金箔だけでも」
「頼む、行かないでくれ。お前はもう十分すぎるほど、この谷に与えてくれた」
竜の声は、初めて懇願の響きを帯びていた。だが、つばめの心はすでに決まっていた。
「あなたが最初に教えてくれたんです。見て見ぬふりをする痛みを。今さら、それを忘れることはできません」
雪が降り始めていた。つばめは凍える翼を懸命に動かし、坂を下り、リーザの家の戸口にそれを置いた。窓の隙間からは、父に殴られまいと部屋の隅で身を縮めるリーザの姿がわずかに見えた。つばめはそれ以上何もできぬ自分を歯がゆく思いながら、震える翼で塔へと戻った。だが、戻り着いたときには、翼はもう震えることすらできなくなっていた。
「戻って……こられました」
「よくやった。もう、休むといい」
つばめは像の足元に、力なく体を横たえた。降りしきる雪が、その小さな体をゆっくりと覆い始めていた。
「あなたのそばに、いられて……よかった。渡りの群れからはぐれたことを、初めて悔いずにいられます」
その声を最後に、つばめは静かに動かなくなった。同時に、竜の胸の奥で、長い年月そこに埋め込まれたままだった鉛の心臓が、乾いた音を立てて真っ二つに割れた。奪うことをやめられずにいた竜の魂を、鎖のようにつなぎ止めていたものが、ついに解けた瞬間だった。雪はしんしんと降り積もり、鐘楼の頂を白く覆っていった。町の誰も、その夜、何が起きたかを知らなかった。ただ、その晩を境に、鐘楼から聞こえていたはずの、風にも似た低いうめきのような音が、二度と聞こえなくなった。
五 鉛の心臓
翌朝、鐘を撞きに来たダンは、竜像の足元で凍えて動かないつばめを見つけた。像はすっかり色を失い、灰色の地肌があちこちに覗く、みすぼらしい姿に変わり果てていた。ダンはしばらくその場に立ち尽くし、小さな亡骸を両手ですくい上げると、震える声で何かを呟いた。それが祈りだったのか、詫びだったのか、ダン自身にもわからなかった。
「これでは、見せしめにすらならん」
やってきたバロウは、像を一瞥してそう吐き捨てた。数日後、像は鐘楼から下ろされ、町の広場に建てられた炉にかけられた。溶け残った鉛と、黄金の合金は形を失い、新たな記念碑の材料へと生まれ変わっていく。町の人々は遠巻きにそれを眺め、なかにはメーラのように、理由もわからぬまま、なぜか胸が痛むと呟く者もいた。だが、職人たちは首をかしげた。像の胸の奥にあった小さな鉛の塊――砕けた心臓だけが、どれだけ炉の火を強めても、溶けようとしなかったのだ。
「妙な鉛だ。何度火にくべても、形が崩れんとは」
職人の一人がそう首をひねると、もう一人が面倒くさそうに手を振った。
「役に立たん鉛だ。捨てておけ」
心臓は、凍えて死んだつばめの亡骸とともに、町外れのゴミ捨て場に放り出された。誰も、それに二度と目を留めることはなかった。ダンだけが、こっそりその場所を訪れ、せめて雨風がしのげるようにと、傍らに小さな石を積んで囲った。それが、彼にできるただ一つの償いだった。
その夜、雪のやんだ谷に、灰色の衣をまとった一人の女が静かに降り立った。かつてこの竜を討ち、石の呪いを与えた聖女その人だった。彼女はゴミの山の中から、小さな鉛の心臓と、凍りついたつばめの骸を、両の掌でそっとすくい上げた。
「私はお前に罰を与えたつもりだった。奪った黄金を纏わせ、二度とその重さを忘れぬようにと。だが、罰の果てに、お前は自らの意志で、奪った以上のものを返そうとした。それは、私が与えた呪いの、いちばん望んだ形だったのかもしれない」
聖女の声には、裁く者の厳しさはもう残っていなかった。ただ、長い年月を経て、ようやく報われたものを見届ける者の、静かな安堵だけがあった。
「そなたはもう、二度と奪わなかった。それだけで、十分だ」
聖女はそう呟き、二つを胸に抱いたまま、山の彼方へと姿を消した。谷に語り継がれる話では、その心臓とつばめは、今も山の頂の、決して人の手の届かぬ場所で、寄り添って眠っているという。
それから幾年もの月日が流れた。ダンは老いたギデオンの跡を継ぎ、アーレンの鐘楼守となっていた。新しい見習いの少女に鐘の撞き方を教えたある秋の夕暮れ、少女が北へ帰る渡り鳥の群れを指さして尋ねた。
「どうしてこの町だけ、渡り鳥のために水盤を置いたり、木の実を撒いたりするの。よその町では見たことがないわ」
ダンは鐘楼の頂――今はただの風見鶏だけが立つそこを見上げ、ゆっくりと語り始めた。
「昔、この鐘楼には、竜の像が立っていてね。その竜と、一羽のつばめの話だ。長くなるが、聞くかい」
少女は大きく頷いた。ダンは石段に腰を下ろし、自分がまだこの子と同じ年頃だった冬の記憶を、丁寧にたどりながら語った。奪うことしか知らなかった竜が、高みからようやく谷を見つめ直したこと。渡りに遅れた一羽の鳥が、その孤独に寄り添ったこと。そして、誰にも気づかれぬまま消えていった、二つの小さな命のことを。
語り終える頃には、日はすっかり山の端に沈み、谷にはやわらかな夕闇が満ちていた。少女は黙って、鐘楼の頂に残る古い鉄の輪――かつて像の足を固定していた金具の跡を見つめていた。それが何のためのものかを、彼女はもう知っていた。
「だから、水盤を置くのね。次に迷った鳥が、休めるように」
「そうだ。誰かがそこにいたことを、忘れないためにな」
風が吹き抜け、鐘楼の鐘がかすかに揺れて、低く一つ鳴った。谷の向こうへ帰っていく鳥の群れが、夕焼けの中に小さくなって消えるまで、二人はしばらく、無言でその音の余韻を聞いていた。
あとがき
オスカー・ワイルドの「幸福な王子」は、生前は宮殿の中で民の苦しみを知らずに暮らしていた王子の像が、死後、初めて街の貧しさを目にし、渡りに遅れたつばめに頼んで自らを飾る金銀宝石を貧しい人々に届けさせる物語である。像とつばめはともに命を落とすが、その心臓とつばめの骸だけは、天使によって最も尊いものとして選び取られ、天へと運ばれる。
本作では、像の正体を「幸福な王子」ではなく、かつて谷を支配し貢ぎ物を強奪していた強欲な竜に置き換えた。討たれた竜は、奪った黄金もろとも見せしめとして鐘楼に据えられ、初めて高みから自らが治めていた民の貧しさに気づき、生前の強欲を悔いる。原作の天使にあたる存在は、かつて竜を裁いた聖女自身とし、罰を与えた者が最後にその贖いを見届けて二つを迎えに来るという円環を加えた。また、鐘楼守の少年ダンという人間側の視点を設け、通報が意図せず二人の時間を縮めてしまう小さな悔恨や、せめてもの償いとして遺骸のそばに石を積む行為を織り込むことで、悪意のない者たちの善意がすれ違う切なさを添えている。
なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、登場人物・情景・展開は独自に創作したものである。
本作はオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)著『The Happy Prince and Other Tales』所収「The Happy Prince(幸福な王子)」を参考にした翻案作品です。