物語雳
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·読了目安 15分悪役

竜は己から逃れられなかった

人々を癒す蘭方医・桐生玄晧は、血に潜む竜性を薬で切り離そうとするうち、夜ごと獰猛な黒竜「叢雲」に変じるようになる。制御は薬なしでも失われはじめ、恩人を手にかけた玄晧は、竜の姿のまま己に刃を向ける。友の手に残された手記だけが、真実を語る。

一 済生の医

都の柊小路(ひいらぎこうじ)に、済生の玄晧先生と呼ばれる蘭方医がいた。桐生玄晧(きりゅうげんこう)、歳は三十四。貧しい長屋の病人からは診料を取らず、夜半に叩き起こされても嫌な顔ひとつ見せぬというので、界隈では観音様の生まれ変わりのように慕われていた。診療所の油障子はいつも早朝から開き、順番を待つ者たちの咳や赤子の泣き声が絶えなかったが、玄晧はそのひとつひとつに丁寧に耳を傾け、薬礼の払えぬ老爺には黙って薬包を余分に持たせるような男だった。

玄晧の生家は、かつて学問と武を兼ね備えた家として知られた桐生家だったが、彼が物心つく前に没落していた。両親を早くに亡くした玄晧を引き取り、医術と本草の道を仕込んだのは、御殿医を長く務めた白鷺元哲(しらさぎげんてつ)という老医師だった。元哲は玄晧を実の子のように慈しみ、寝食を共にしながら薬研の使い方から人としての在り方までを教え込んだ。玄晧もまた、この恩人を父以上の存在として敬い、いつか元哲の名に恥じぬ医者になることだけを支えに、若い日々を過ごしてきた。

だが玄晧には、誰にも明かせぬ恐れがあった。桐生の血には、遠い先祖が竜と契りを交わしたという言い伝えがあり、代々ごく稀に、家の者が突如として獣じみた狂乱に陥ることがあるのだという。玄晧の祖父は、ある夜を境に人が変わったように荒々しくなり、蔵の戸を素手で叩き割り、飼い犬に牙を剥き、ついには着物も纏わぬまま山に分け入ったきり戻らなかった。幼い玄晧はその話を、忌まわしい昔語りとして聞き流そうとしてきたし、元哲もまた、その言い伝えには決して触れようとしなかった。

しかし近頃、玄晧自身の裡にも、その予兆らしきものが兆していた。診療の合間、ふと頭の奥に焼けるような疼きが走り、気づけば刻限がひとつふたつ飛んでいることがある。夜半に目を覚ますと、寝間着の袖が破れ、庭の生垣に爪で引き裂いたような跡が残っていたこともあった。ある朝など、洗面の水鏡に映った己の犬歯が、あり得ぬほど鋭く尖って見えて、玄晧はしばらく水盤の前から動けなかった。それは一瞬のことで、瞬きの後には元の顔に戻っていたが、その記憶だけは焼き付いて消えなかった。

玄晧はそれを誰にも告げず、むしろ学究の徒としての矜持から、ひとつの企てに没頭するようになった――血に潜む竜性を、化学の力で人の理性から切り離し、御しうる形に閉じ込めてしまおうという企てである。診療の合間を縫って異国の文献を読み解き、本草学の師から譲り受けた古い写本を紐解き、深夜まで薬研の音を響かせる日々が続いた。

「先生、また夜なべですか」

下男の多助(たすけ)が、書斎の灯りを気にかけて声をかける。実直で口数の少ないこの若者は、玄晧が幼い頃からこの家に仕える一家の生き残りで、誰よりも玄晧の身を案じていた。多助の父は桐生家が没落する前からの奉公人で、その忠義は代替わりしても変わらなかった。

「案ずるな、多助。これは私自身の病を治すための研究だ」

玄晧はそう答えるにとどめた。友人の蒲生啓次郎(がもうけいじろう)――幼馴染で、今は公事宿で証文と訴えの取次を生業とする実直な男――にも、詳細は伏せていた。啓次郎は時折、玄晧の屋敷を訪れては、根を詰めすぎる友を軽口で窘めるのが常だった。

「玄晧、お前は人を治す前に、まず己を休ませることを覚えるべきだ。顔色が青竹のようだぞ」

「もう少しの辛抱だ、啓次郎。この研究が実を結べば、私は誰よりも自由になれる」

その言葉の真意を、啓次郎はまだ知らなかった。ただ、玄晧の目の奥にある切迫した光だけは見て取っていて、それがどうにも胸に引っかかっていた。

診療所の帳場に立つ玄晧の姿を見て、竜性の血脈のことなど誰も知る由がなかった。だが玄晧自身は、患者の脈を診るたびに、己の脈がふと獣めいた速さで打つ瞬間があることに気づいていた。ある雨の晩、酔って暴れる大男を取り押さえた拍子に、玄晧はその男の腕を思いのほか強い力で捻り上げてしまい、後になって己の膂力の変わりように青ざめたことがあった。そうした小さな徴が積み重なるたび、玄晧は「これは病だ、ならば医の道で治せぬはずがない」と自らに言い聞かせ、研究への没頭をいっそう深めていった。

幾月もの試行の果て、玄晧はついに、古い異国の文献と本草の知識を組み合わせた一服の薬液を完成させた。琥珀色に濁ったその薬は、竜性を人格から丁寧に剥がし、器に注ぐように一時だけ肉体を明け渡す――そういう仕組みのはずだった。人としての己を保ったまま、獣の衝動だけを外に逃がしてやれば、もう祖父のような破滅は訪れまい。玄晧はそう信じて、誰もいない深夜、書斎の奥にある密室で、震える手にその杯を掲げた。

窓の外では、秋の虫がまだ細く鳴いていた。玄晧はひとつ深く息を吸い、薬液を一息に呷った。喉を灼くような苦みが胸の底まで落ちていくのを感じながら、彼は自分がこれから何を招き入れようとしているのか、まだ本当の意味では分かっていなかった。

二 黒い牙

薬を飲み干した瞬間、玄晧の骨という骨が軋み、皮膚の下で何かが沸き立った。激痛に呻きながら床に崩れ落ちたとき、彼の輪郭はすでに人のものではなくなっていた。小柄ながら黒曜のごとき鱗に覆われた竜――手足は短く、翼は不格好に折れ畳まれていたが、その双眸には隠しようのない獰猛な光が宿っていた。

姿見に映る己の異形を前に、玄晧は恐怖よりも先に、めまいのような解放感を覚えた。医としての体面も、恩人への恥じらいも、この身にはない。あるのはただ、夜気を貪る肺と、駆け出したいという剥き出しの欲求だけだった。玄晧は――いや、もはや玄晧という名の届かぬこの身は――割れた窓から夜の底へ滑り出た。

屋根から屋根へ、路地から堀端へ。誰の目にも留まらず駆け巡るその感覚を、玄晧は密かに「叢雲(むらくも)」と名付けた。かき集めた雲のように定まらぬ、己でありながら己でないもの。夜露に濡れた瓦を蹴り、堀端の柳の枝を掠め、犬の遠吠えにさえ応じるように喉を鳴らしながら、叢雲は都の闇を我が物顔で駆け抜けた。翌朝、書斎で人の姿に戻った玄晧は、疲労困憊しながらも、ある種の充足を覚えている自分に気づき、慄然とした。手足の節々が痛み、爪の間には土と血の匂いがこびりついていたが、それすらも、どこか懐かしい心地よさを伴っていた。

「昨夜はよく眠れなかったのですか、先生」

多助にそう問われても、玄晧は曖昧に笑って誤魔化した。二度目、三度目と夜歩きを重ねるうち、叢雲としての時間は、玄晧にとって密やかな愉悦になっていった。人としての己が背負う責務――貧しい患者の枕元での長い夜、元哲への遠慮、啓次郎への義理――そのすべてから解き放たれる時間。玄晧は次第に、その甘美さに逆らえなくなっていった。診療所の帳場に立つ昼の玄晧は相変わらず穏やかで丁寧だったが、その裡では、夜を待ちわびる焦燥が日に日に募っていた。

叢雲の夜歩きは、次第に単なる徘徊にとどまらなくなった。物陰から不意に飛び出す野良猫を蹴散らし、閉め忘れられた酒屋の樽を叩き割り、通りすがりの酔漢に低く唸り声を上げて追い立てる――そうした小さな凶行の一つひとつに、叢雲は昏い愉悦を覚えるようになっていた。玄晧の理性は、朝が来るたびにそれらの記憶をぼんやりとしか思い出せず、まるで他人が見た夢の断片のようにしか感じられなかった。それが却って、罪の重さを鈍らせていた。

だが、ある夜のことだった。行き交う提灯すら疎らな裏路地で、叢雲は物陰から不意に飛び出した幼い童女――貧しい下駄職人の娘、おふさ――に苛立ちのままぶつかり、その細い体を路上に薙ぎ倒した。童女の悲鳴と骨の軋む音に、叢雲は一瞬たじろいだが、すぐに興味を失ったように闇へ走り去った。振り返ることも、助け起こすこともしなかった。

翌朝、人に戻った玄晧の脳裏に、その光景が生々しく焼き付いていた。自分の裡にいるものが、無辜の童女を傷つけた。診療所に担ぎ込まれてきたのが他ならぬそのおふさだと知ったとき、玄晧は震える手で彼女の折れた腕を診た。腫れ上がった小さな手を握りながら、玄晧は込み上げる涙を必死に堪えた。おふさの父は、夜道に潜む正体不明の獣の仕業だと、拳を震わせて憤った。玄晧はその怒りを、誰よりも痛切な思いで聞いた。

玄晧は名を伏せたまま、下駄職人の家に多額の見舞い金を届けさせた。それで償えるはずもないと知りながら、他にできることがなかった。

「もう二度としない」

そう固く誓いながらも、夜が更けるたびに、玄晧の指先は琥珀色の薬瓶へと伸びていった。誓いは、渇きの前ではあまりに脆かった。幾晩か薬瓶に手を触れずに耐えた末、玄晧は自らの手足が小刻みに震え、頭の奥で焼けるような疼きが増していくのを感じた。まるで長らく水を絶たれた植物のように、人としての彼自身が、竜としての解放を求めて悲鳴を上げているかのようだった。

三 抑えられぬ渇き

秋が深まる頃、玄晧の誓いは既に幾度も破られていた。それだけでなく、恐ろしい兆候が現れ始めていた。ある朝、寝床で目を覚ますと、掛布団の下から覗く己の手は、まぎれもなく叢雲の黒い鉤爪だった。薬を飲んでいないにもかかわらず、眠っている間に、竜性が勝手に人の形を押しのけていたのである。

玄晧は震える手で、竜性を鎮めるために調合していたもうひとつの薬――希少な霜蘭根(そうらんこん)という薬草を主とする抑えの薬――を口に含み、辛うじて人の姿を取り戻した。この抑えの薬なしには、もはや日中の診療すら覚束ない。玄晧はそのことに、誰よりも自分自身が恐怖していた。診療所に立つ間も、常に懐に薬包を忍ばせ、指先の痺れや視界の翳りを感じるたびに、人目を盗んでそれを口に含む日々が始まった。

夜、独りきりの書斎で、玄晧は己の裡に巣食う叢雲の気配と向き合うようになっていた。声にならぬ声が、頭の奥で嗤う。

――お前はいつまで、あの重い義理を背負い続けるつもりだ。童女の一人や二人、この長い生に比べればものの数ではあるまい。夜こそが、お前の本当の生であろう。

玄晧はその囁きを振り払いながらも、日を追うごとに、それが単なる幻聴ではなく、もうひとつの己の確かな意志であることを認めざるを得なかった。時に玄晧は、独り言のように叢雲へ語りかけることさえあった。「お前を生んだのは私だ。ならば、私の言うことを聞け」と。だが返ってくるのは、嘲笑うような沈黙だけだった。まるで、生んだはずの子に、いつの間にか主従が逆転しているかのようだった。

皮肉なことに、玄晧が人として患者に注ぐ優しさは変わらなかった。熱に浮かされた子の額を撫で、老いた患者の手を握って励ます、その手つきに嘘はなかった。診療所を訪れる者たちは、相変わらず玄晧先生の変わらぬ優しさに救われていた。だが夜ごと、その同じ手が黒い鉤爪に変わり、闇の中で何を為しているか、玄晧自身にも定かではない夜が増えていった。都の噂話には、正体の知れぬ黒い獣が夜市の屋台を襲った、木戸番の提灯を叩き落として消えたという話が、日を追うごとに増えていった。

啓次郎は、痩せ衰えていく友の姿に気づかぬはずがなかった。

「玄晧、近頃のお前はまるで別人のようだ。研究とやらを、少し休んではどうだ。それに、お前の屋敷の周りで、妙な物音がすると近所でも噂になっている」

「別人、か……」

玄晧は乾いた笑いを漏らすだけで、答えなかった。その言葉の的中ぶりに、内心では総毛立っていた。啓次郎はそれ以上問い詰めることはせず、ただ古馴染みとしての心配を言葉少なに残して帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、玄晧は、いつか自分がこの友を深く傷つける日が来るのではないかという、言いようのない予感に襲われた。

それでも玄晧は、患者の前ではぎりぎりまで平静を装った。ある日、長年通ってくる老婆が「先生、近頃お痩せになりましたね。無理はいけませんよ」と、皺だらけの手で玄晧の手を包み込むように握った。その温かさに、玄晧は不意に涙腺が緩みそうになり、慌てて顔を伏せた。人として生きてきたこの手が、夜には人ならぬものの手に変わる――そのことを、この優しい老婆にだけは、決して知られたくないと思った。診療を終えた後、玄晧は誰もいない診療所の板の間に一人座り込み、長いこと立ち上がれずにいた。

一方、元哲もまた、養子同然の玄晧の変貌を見過ごせずにいた。診療所の帳面には、見慣れぬ薬種問屋からの高額な仕入れが並び、都の外れでは「黒い牙竜」と呼ばれる怪物が、夜な夜な人を襲うという噂が広まっていた。元哲は昔語りに聞いた桐生の家の因縁を思い出し、まさかという疑念を拭えずにいた。祖父の代の言い伝えを知る数少ない生き証人として、元哲の胸には、誰にも打ち明けられぬ不安が澱のように溜まっていった。

ある夜、元哲は誰にも告げず、玄晧の屋敷を訪ねる決意を固めた。恩人としての情と、老いた医師としての責務が、彼の足を柊小路へと向かわせた。

四 元哲の最期

その夜、元哲は勝手知ったる裏木戸から屋敷に入り、灯りの漏れる書斎へと向かった。廊下には人の気配がなく、多助もすでに寝所に下がった後だった。扉越しに聞こえてきたのは、獣じみた低い唸り声だった。元哲は逡巡の後、意を決して扉を開けた。

そこにいたのは、変わり果てた黒い竜の姿――叢雲だった。人の言葉を失いつつあるその双眸に、しかし元哲は、かつて育てた息子の面影を見て取った。書斎に散乱した薬研や写本、割れた薬瓶の破片を目にして、元哲はすべてを悟った。

「玄晧……お前なのか。長年案じていた桐生の血が、とうとうお前にも」

元哲の声は震えながらも、憐憫に満ちていた。彼は懐から古い祈祷書を取り出し、叢雲に向かって歩み寄った。

「化学などに頼るな。それは血を鎮める道具ではない、獣を招き入れる門だ。今すぐその研究を捨て、共に別の道を探そう。お前を、あの子の頃のように取り戻したい。私はまだ、諦めておらぬぞ」

その言葉は、書斎の隅で息を殺していた玄晧の理性にも、確かに届いていた。恩人の声が、長らく忘れていた温かさで胸の奥を打った。だが同時に、暴かれ、封じられることへの叢雲の激しい恐怖と怒りが、抑えの利かぬ奔流となって噴き出した。玄晧が制止しようと伸ばした手は、既に人のものではなくなっていた。

「元哲様、お逃げください……!」

その叫びは、獣の喉から漏れる唸り声に呑み込まれて、言葉にならなかった。元哲は驚きに目を見開きながらも、逃げようとはしなかった。最後まで、教え子を見捨てる気にはなれなかったのだろう。

一瞬の静寂の後、書斎に元哲の悲鳴が響いた。

我に返ったとき、玄晧は人の姿で、血に染まった床にへたり込んでいた。目の前には、動かなくなった元哲の姿があった。玄晧は声もなく、ただ恩人の名を呼び続けた。指先は震え、涙も出ないほどの衝撃が、彼の全身を凍りつかせていた。

その夜のうちに、玄晧は震える手で亡骸を密かに裏庭へ運び、何者かによる押し込みの仕業と見せかけて役人に届け出た。都では、恩ある老医師までもが「黒い牙竜」の凶行に斃れたという報せが駆け巡り、木戸番は夜回りを増やし、寺という寺で厄除けの護摩が焚かれた。玄晧は誰よりも憔悴した顔でその葬儀に立ち、誰よりも深く、己の罪を知る者として項垂れた。参列した啓次郎は、友の憔悴ぶりを深い悲しみのゆえと信じて疑わず、その肩をそっと支えた。玄晧はその手の温もりに、かえって胸を掻きむしられるような思いがした。

その日を境に、玄晧は研究の一切を封じ、二度と薬に手を出すまいと固く誓った。書斎の薬研を叩き割り、写本を火にくべ、二度とこの手を血で汚さぬと、灰の前に膝をついて誓った。だが、その誓いを守り抜けるだけの力は、もはや彼自身の裡には残されていなかった。

五 最後の変身

元哲の死から幾日も経たぬうちに、玄晧は往診を一切断り、屋敷に籠るようになった。多助にも会おうとせず、用向きはすべて扉の下から差し込む書付で伝えられたが、その筆跡は日を追うごとに乱れ、時に見知らぬ荒々しい字が混じるようになっていった。診療所の油障子は閉ざされたまま埃を被り、順番を待っていた患者たちは、口々に先生の身を案じながら、他の医者を頼るほかなくなっていった。

玄晧は密かに、抑えの薬に頼って日中だけでも人の姿を保とうとしていたが、事態は悪化の一途を辿った。最初に効いた霜蘭根は、ある行商が偶然持ち込んだ一度きりの品で、以来どれほど同じ薬種問屋に頼み、同じ処方で煎じ直しても、二度とあの効き目を得ることができなかった。玄晧は都中の薬種問屋を人づてに巡らせ、山深い里からも根を取り寄せさせたが、どの霜蘭根も、あの一度だけの品とは何かが決定的に違うようだった。抑えの薬は日に日に効かなくなり、玄晧が人でいられる時間は、砂時計の砂のように目減りしていった。

手記の中で、玄晧はその恐怖をこう記している。

「今や私は、人であるよりも竜である時のほうが長い。鏡に映る自分の顔を、いつまで我が物と呼べるか分からぬ。叢雲はもはや影ではなく、私こそが叢雲の見る夢なのかもしれぬ。多助よ、啓次郎よ、もし此度のことを知る日が来たなら、どうか私を、化け物としてではなく、化け物になることを恐れながら最後まで人であろうとした一人の医者として、覚えていてほしい」

その筆致は、書き進めるにつれて次第に乱れ、最後の数行はほとんど爪で引っ掻いたような跡になっていた。

啓次郎は、友の異様な沈黙を訝しみ続けていた。数日にわたり返事のない書付、屋敷の窓から漏れる獣の唸り声に似た物音、締め切られたままの雨戸――ついに啓次郎は多助と共に、玄晧の書斎へ押し入る決意をした。二人は肩を寄せ合うようにして裏木戸を抜け、固く閉ざされた書斎の扉に体当たりを繰り返した。木の軋む音の向こうから、途切れ途切れの咆哮のようなものが聞こえた気がして、多助は思わず足を止めかけたが、啓次郎はその手を強く握り、扉を押し続けた。

戸を打ち破った二人が見たのは、力なく横たわる黒い竜の亡骸だった。その胸には、玄晧が日頃愛用していた小刀が深々と突き立てられていた。人であることを守り切れず、竜のまま誰かを傷つける前に、玄晧は最後に残ったわずかな自我で、己の手で己に刃を向けたのだ。月明かりに照らされたその姿は、もはや恐ろしい怪物というよりも、力尽きて眠りについた獣のように見えた。閉ざされていた雨戸の隙間から差し込む一筋の光が、静かに横たわる鱗の背を、まるで弔いの灯明のように照らしていた。

部屋の隅には、割れた薬瓶の欠片と、書き損じた処方の反古紙が幾重にも散らばっていた。多助はその惨状を目にして絶句し、しばらくは声を出すこともできなかった。啓次郎は震える足で亡骸の傍らに膝をつき、かつて共に学問所へ通った日々を思い返しながら、静かにその冷たい鱗に手を触れた。

亡骸の傍らには、封をした分厚い手記が置かれていた。啓次郎はその夜、誰もいない書斎で独り、震える手で封を切り、夜明けまでかけてそのすべてを読み終えた。友の胸に長く巣食っていた恐れと孤独、そして最後の刹那に人であろうとした矜持を知り、啓次郎は声を殺して泣いた。多助もまた、部屋の隅で肩を震わせながら、幼い頃から仕えた主の名を、幾度も小さく呼び続けていた。

あとがき

啓次郎は、手記の中で危険な処方に触れた部分だけを焼き、桐生玄晧という医師が急な病でこの世を去ったとだけ、界隈に伝えた。「黒い牙竜」の噂は、やがて薄れゆく都市伝説として人々の記憶に沈んでいった。おふさは、あの夜に自分を傷つけたものの正体を知らぬまま健やかに育ち、済生の玄晧先生という名だけを、遠い恩人のように覚えていたという。啓次郎は玄晧の墓に、毎年秋になると一度だけ足を運び、誰にも語らぬまま、しばらく墓石の前に立ち尽くすのを習いとした。手記そのものは、誰の目にも触れぬよう、彼の手箱の底に長く仕舞われることになった。

ロバート・ルイス・スティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」は、高潔な医師ジキルが善悪の二重人格を薬で分離しようと試み、悪の人格ハイドとして夜な夜な凶行を重ねるうち、薬なしでも人格の反転が進行し、ついには恩人である紳士を撲殺し、追い詰められた末にハイドの姿のまま自死し、友人アターソンが手記から真相を知るという物語である。本作では、ジキルとハイドの二重人格構造を、蘭方医・桐生玄晧が血に潜む竜性を薬で切り離そうとするうちに制御を失っていく「竜への変身」として再構成した。恩人殺し、薬なしでの変身の進行、抑えの薬の効き目が再現できなくなる展開、竜のまま自死し友人が手記で真相を知る結末まで、原作の骨格を移植しつつ、人物名・地名・薬の設定・因縁の物語はすべて独自に創作した。原作の展開やプロットは参考にしたが、文章表現や逐語的な引用は行っていない。


本作はロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)著『The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde(ジキル博士とハイド氏)』を参考にした翻案作品です。

本作はロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)の『The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde(ジキル博士とハイド氏)』を参考にした作品です。原典